世界最高の鋳造技術で製作された薬師三尊像
予想した通り、平成館の二階にある第一会場は大変な混雑だった。展示品を一つ一つ見るために列に並んでも、いっこうに進まない。仕方がないので、主な展示品を見学者の肩越しに覗き込むことにした。
薬師寺の鎮守・休ケ岡八幡宮に鎮座する八幡三神座像(国宝)
最初のブースで興味を持ったのは、薬師寺の鎮守・休ケ岡八幡宮に祀られている国宝の八幡三神座像である。これらの三神は寛平年間(889〜898)に大分県宇佐から現在地に勧請された神々で、会場には左から仲津姫命(なかつひめのみこと)、僧形の八幡神、神功皇后が並んで展示されていた。
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| 八幡三神坐像(国宝)(*) |
大分の宇佐八幡宮に祀られている八幡神は、東大寺の大仏建立に協力した神として知られ、もっとも早い時期の神仏習合神である。天応元年(781)には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられ、これにより、全国の寺の守護神として八幡神が勧請されるようになった。
八幡神は応神天皇であるとされているが、多くの場合僧形で表される。他の二神のうち仲津姫命は応神天皇の后、神功皇后は応神天皇の母である。これらの神を表す坐像は、9世紀終わり頃の制作とされている。当時の彩色がよく残っている上に気品があり、名品とされている。
東院堂の本尊・聖観音菩薩立像
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| 薬師寺の東院堂(*) |
次のブースに廻ると、ここでのハイライトは国宝の聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)だ。この仏像は、薬師寺東院堂の本尊として祀られている。東院堂は、吉備内親王が元明天皇の冥福を祈って養老年間(717 - 724)に建立した東禅院の後身である。薬師寺は天禄4年(973)の火災と享禄元年(1528)の筒井順興の兵火で多くの建物を失ったが、東院堂はこれらの災害を免れ、薬師寺では東塔についで古い建物とされている。
聖観音菩薩立像は東院堂の厨子の中に安置されているため、普段はその側面や背面を見ることはできない。だが、今回の展示ではフロア上に置かれ、あらゆる角度から観賞することができる。そのため、そのすばらしい側面や背面を見るために、仏像の回りに何重もの人垣ができていた。
物の本によると、心の目で見ることを「観[かん]」という。色なき色を見、音なき音を聴く、これが「観」である。この観の働きをもって衆生の悩みや苦しみや悶えを救ってくれる有り難い仏が観音菩薩だ。
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| 聖観音菩薩立像(*) |
観音像には十一面観音、千手観音、如意輪観音など多面多臂(たひ)の変化(へんげ)観音像と、こうした超人間的な姿ではない1面2臂の観音像とがあり、後者を指して「聖観音」または「正観音」という。頭上の頭髪部の正面に化仏(けぶつ)と称する阿弥陀如来の小像を置くのが特徴である。
薬師寺の聖観音菩薩立像の製作年代は白鳳時代または奈良時代の作とされているが、正確な年代は不明である。しかし、後で見る日光・月光菩薩立像よりは古いとされている。日光・月光菩薩立像と同様に、黒色のブロンズの体躯は実にみずみずしく堂々としている。薄くて軽い衣の自然な流れも見事に表現されていて、日本の古代彫刻を代表する名宝である。
ただし、日光・月光菩薩立像とは異なり、腰を捻(ひね)らず直立不動の姿勢で立っている。像容は左右対称の均整がとれて美しく、禁欲的な静謐を漂わさせている。右手を下げ、左手を上げた姿は、正面感が強調されているようだが、横から見ても堂々とした体躯をしていて、188.9cmの像高より大きく見える。背後にまわると、肩に薄い衣をショールのように羽織っているのに初めて気が付いた、背中に垂れ下がった飾りも見事である。
仏像は、照明のあて方によって、その表情がずいぶん変わるようだ。端正な面差しは青年のように凛々しい。しかし、照明が照らし出す頬がゆったりとふくらんでいて、尊顔全体が女性的で優しげである。観音は女性的な顔立ちの像容が多いことから、俗に女性と見る向きが多い。しかし、本来は男性であったという。観音経では女性には女性に変身して説法する仏として描かれ、次第に性別は無いものとして捉えられるようになった。後代になって観音を女性と見る傾向が多くなったのは、中国で民俗信仰や道教などの女神と結びついたためと考えられている。
薬師如来座像の脇侍仏:日光・月光両菩薩立像 (国宝)
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| 薬師寺金堂の薬師三尊像 |
享禄元年(1528)の兵火による火災により金堂が焼失して以来400年、薬師三尊像は仮金堂に安置されたままだった。450年の歳月を経て、悲願の金堂が昭和51年(1976)に完成し、薬師三尊像は本尊として再び元の場所に安置された。これらの仏像は、火事で塗金が剥がれて黒色のブロンズ像に変わり果てたが、いずれもたった一度の一鋳で製作されていて、専門家の間でもその鋳造技術は当時の世界最高と評価が高い。
今回の展覧会では、薬師如来座像は出品されていないが、脇侍の日光菩薩立像と月光菩薩立像が初めて揃って薬師寺を出て展示されている。しかも、普段は光背を背負っているため見ることができない背中の部分まで拝観できるという。こうした機会が今後そうあるようにも思えない。どうやらその辺りに今回の展覧会の人気の秘密があるようだ。
聖観音菩薩立像を観賞してから次の日光・月光両菩薩立像のブースへ移動するのに、今回の展覧会会場には、乙な仕掛けがしてあった。聖観音菩薩立像の横に築かれた緩やかなスロープを登ると一段高い特設ステージがあり、そこから見学者が日光・月光両菩薩と対峙できるようになっている。薬師寺金堂では足元から見上げることしかできない両菩薩の大きな顔が、このステージからは自分の目線の高さにある。毛筋を丁寧に刻んだ頭髪まで見ることができるのだ。正面から見ると、右が日光菩薩立像、左が月光菩薩立像である。
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| 日光菩薩像(*) |
その後スロープを降りてフロアに置かれた両菩薩像の周囲を巡りながら、あらゆる角度から尊像をじっくりと観賞した。まず驚かされたのは、その大きさである。日光菩薩の像高は317.3cm、、月光菩薩立像が少し小さくて315.3cmとされている。いずれも3mを越える巨像だが、足元に立ってみると、そのスケールの大きさにはただただ圧倒されるばかりである。
それに加えて、黒光りする立像の表面の仕上げのなめらかさにも、目を見張らせるものがある。一度の一鋳で仕上げられた銅像の厚さは均一だそうだ。手が触れるほど近くから見ることで、当時の鋳造技術の高さが実感できる。その場を去りがたく、三回も四回も二つの像の回りを巡った。造仏工の名前が伝わっていないのが残念である。彼または彼らは、おそらく法隆寺の釈迦三尊像を製作した飛鳥時代の止利仏師を超える技術を習得していたにちがいない。
正面からみると、日光菩薩も月光菩薩も、腰を一方にひねり、ひねった側の足に重心を載せて、もう一方の足をやや曲げて遊ばせている。いわゆる三曲法の造形であるが、一見したところ腰のひねり方が逆方向であり、二つの仏像は左右対称のように見える。しかし、よく観察すると、頭部や天衣(てんね)、飾りなどに微妙な違いがある。
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| 月光菩薩像(*) |
いずれの菩薩像も下半身に巻いた裳(も)を通して、太腿から肘すねにかけての輪郭が見える。これは4〜6世紀にかけてインドのグプタ地方で作られた仏像の影響だそうだ。7世紀に玄奘三蔵(602〜664)によってその造形がインドから中国に伝えられ、それが日本にもたらされたようだ。
いずれの菩薩像も肉付きが豊かで、横から見ても太めの体型である。人間のふくよかな身体を再現しているようで、作者は豊満な女性をイメージしながらこの造形を作り上げたような気がしてならない。軽く曲げた指先まで女性の手のように写実的である。
背後にまわると、初めて見る菩薩像の背面が驚くほど入念に作られている。柔らかい襞の天衣が両肩を覆い、肉付きの良い背中の中央が美しく窪んでいる。目線をさらに下げると、女性のスカートを見るように、下半身を覆った裳(も)が美しい襞(ひだ)の折り返しを見せている。これらの菩薩像は、当初から背面観賞をも想定して作られたように思えて仕方がない。
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| 吉祥天像(*) |
薬師寺は法相宗の大本山である。日本の法相宗では、法相宗の根本経典である『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』を中国にもたらし漢訳した玄奘三蔵を法相宗の始祖とし、重要な経典に関する論や注釈書を多数著わしその興隆に努めた玄奘三蔵の弟子の慈恩大師(632〜682)を法相宗の宗祖としている。
今回の展覧会では、平安時代に描かれた慈恩大師像(国宝)や、盛唐絵画のさまざまな要素が凝縮して描かれている吉祥天像(国宝)なども展示されていた。しかし、聖観音菩薩立像と日光・月光両菩薩立像から受けた感銘に酔ってなんだか疲れてしまった。そのため、これらの国宝の前を素通りするように博物館を出た。
上野公園の木々の間を抜けてくる風を頬に受けながら、ふと今見てきた3体の仏像が製作された当時の姿を脳裏に描いてみた。度重なる火事なので、すっかり地のブロンズ像になってしまったが、製作された当時は塗金され黄金に輝いていたはずである。現在、金堂の薬師三尊像の光背は塗金されている。仏像も塗金されたら、金堂は文字通り黄金に輝く東方浄瑠璃世界をこの世に再現するかもしれない。
そう思いながら視線をあげると、国立西洋美術館の庭に置かれたロダンの「考える人」のレプリカが、目の前で黒々としたブロンズの肉体を太陽に照らしていた。その傍で季節の花のアジサイが彩りを添えていた。
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| ロダンの「考える人」 |
「考える人」のそばに咲くアジサイ |
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