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| 叡福寺境内にある聖徳太子廟 |
太子信仰の高まりが生んだ河内三太子巡礼
■ 聖徳太子を日本仏教の祖と仰ぐ傾向は、我が国の仏教の諸宗派に共通して見られる。平安時代に天台宗を開いた最澄は、四天王寺にあった太子廟で記した詞序で、聖徳太子は中国の南岳慧思大師の後身であると述べ、己自身を聖徳太子の玄孫と名乗っている。最澄とともに入唐し、真言宗を開いた空海も、四天王寺に参詣しており、聖徳太子=慧思大師後身説をとっていた。 ■ こうした太子信仰は、片岡飢人伝説や高句麗僧・慧慈(えじ)の死など720年に編纂された『日本書紀』の中でもすでに見られる。奈良時代中期の天平年間には太子信仰が高まりを見せ、平安時代になると、さまざまな太子関係の伝記が執筆されて太子の人格が脚色されていった。 ■ そうした太子信仰の具体的な姿を、「河内三太子」巡礼に見ることができる。河内三太子とは、聖徳太子ゆかりの名刹である叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺に対する俗称である。叡福寺の「上の太子」、野中寺を「中の太子」、大聖勝軍寺の「下の太子」と呼び、四天王寺を振り出しに下・中・上の太子寺に参る巡礼が近世になって盛んに行われた。その巡礼の対象とされた太子ゆかりの寺の概要を以下に整理しておく。
聖徳太子の命日に舞楽大法要が奉納される四天王寺
■ 『日本書紀』によれば、 西暦587年に勃発した「丁未(ていび)の変」で、蘇我側の皇族として参戦した聖徳太子が四天王に戦勝を誓願し、その結果、蘇我軍が戦いに勝利したので、四天王の加護に感謝してこの寺を建立したという。『日本書紀』は、物部守屋との戦いから5年後の推古元年(593)に、”この年、始めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る”と伝えている。四天王寺は、中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺様式の代表的な寺院だった。
■ 聖霊会は、太子の霊を慰めるために、日本三舞台の一つとされる石舞台で披露される法要と舞楽が一体となった舞楽法要である。この舞楽法要は、平安時代以降、宮廷(京都)、南都(奈良)と同じく四天王寺の雅楽の伝承を受け継ぎ守ってきた「天王寺楽所雅亮会(がりょうかい)」の協力によって行われている。
「下の太子」:神妙椋樹山大聖勝軍寺
■ 西暦587年、この地で「丁未(ていび)の変」と呼ばれる蘇我・物部戦争が起こり、古代の有族だった物部本宗家が滅亡に追いやられた。当時数え年で14歳だった聖徳太子は、蘇我軍に加わってこの戦いに参戦していたという。 ■ 味方が苦戦しているのを見て、太子は白膠木(ぬりで)で四天王の像を作り、頂髪に安置して戦勝を誓願した。四天王は仏法を帰依する人々を守護する護法神である。太子の誓願が効いたのか蘇我軍が勝利することができた。
■ 本堂の太子殿には、太子植髪像を安置し、その脇に弓矢を持つ四天王像を祀っている。これは4人の関係者をおのおの四天王になぞらえたもので、右から持国天(蘇我馬子、そがのうまこ)、多聞天(秦河勝、はたのかわかつ)、広目天(迹見赤檮、とみのいちい)、増長天(小野妹子、おののいもこ)の四体となっている。 ■ 今回の展覧会では、大聖勝軍寺の宝物として、聖徳太子絵伝の他に、木造の聖徳太子孝養立像と二皇子立像、四天王立像などが出展されていた。
「中の太子」:青龍山野中寺
■ 寺伝は、聖徳太子の命により蘇我馬子がこの寺を造営したと伝えている。だが、考古学的知見では、境内出土の瓦から創建は7世紀後半とされている。 この付近は渡来氏族の船氏の本拠地であり、野中寺は船氏の氏寺であった可能性が高い。
■ 古代史フアンの間で野中寺の名前を有名にしているのは、白鳳期の金銅弥勒菩薩半跏思惟像が安置されているためであろう。この菩薩像の台座丸框(まるかまち)には61文字の造像銘が刻まれていて、その中に制作年を「丙寅(ひのえとら)」と明記してある。美術史家は、仏像の様式から丙寅は天智天皇5年(666)であるとし、この仏像を白鳳美術の基準作品としてきた。国の重要文化財にも指定されている。 今回の特別展でも、この像が出展されていた。 ■ ところが、この像の制作年代に関する衝撃的な論文が、奈良大学の東野治之氏によって2000年に発表された。氏によれば、この半跏思惟像は後世の贋作であり、しかも制作されたのは1918年(大正7)であるという。まさに青天の霹靂にも似た説であるが、制作年が余りに突飛なせいか、東野説に対する賛成論も反対論も余り話題にならない。
「上の太子」:叡福寺■ 「上の太子」磯長山聖霊院叡福寺は、大阪府南河内郡太子町太子2146に所在する。この地には、古代における最も重要な官道の1つだった竹内街道が通っている。叡福寺は飛鳥と難波を東西に結ぶこの竹内街道沿いに建ち、太子ゆかりの四天王寺と法隆寺の中間に位置する。
■ この御廟は、「三骨一廟」と呼ばれてきた。三人の棺がこの御廟に納められているためである。墓所が完成した翌年の推古29年(621)、聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が逝去されたのでこの墓に埋葬した。更に推古30年(622)2月21日、妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)が亡くなり、翌日には、太子も薨去されたので、大后の眠る廟に二人を合葬したとされている。 ■ 寺伝によれば、聖徳太子と妃の膳部大郎女、母の穴穂部間人皇女の三人をこの廟に合葬したとき、推古天皇より方六町の地を賜り、御廟守護のために僧坊十姻(墓守の家10軒)を建てたのが、寺の始まりであるという。そして、聖徳太子の追福のために聖武天皇の勅願によって、724年(神亀元)に伽藍が創建されたと伝える。 ■ だが、聖武天皇が創立に関与したという記録は正史にはない。考古学的にも、境内でこれまで採集されている瓦から判断して、実際の創建は平安後期を遡らないと考えられている。 ■ 日本の古代史に偉大な足跡を残した聖徳太子に対する信仰は、すでに奈良時代から認められる。鎌倉時代にも親鸞、叡尊、日蓮、一遍といった高僧が叡福寺に参詣し、以後叡福寺は四天王寺とともに、大阪における太子信仰の拠点寺院として繁栄してきた。 ■ そのため、叡福寺は貴重な宝物も多数所蔵している。「聖徳太子絵伝」もその一つで、今回の展覧会は太子絵伝の修復の完成を記念して、河内三太子に伝わった宝物約120点を一堂に展観し、地元河内に花開いた太子信仰の精華を紹介している。 |
当初は”三骨一廟”ではなかった太子廟■ 上に述べたように、叡福寺の北側に聖徳太子御廟があり、その石室には、太子の母の穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女の石棺が奥にあり、手前に太子と妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)を夾紵棺(きょうちょかん)が置かれている。そのため、聖徳太子廟はこれら三人を合葬した三骨一廟であると言われてきた。
■ 寺伝によれば、聖徳太子がこの地に廟を造ることに決め、推古28年(620)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母の穴穂部間人皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳郎女(かしわでのいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られたとされている。結果、廟は三骨一廟の陵墓になった。 ■ 『日本書紀』は聖徳太子の薨去を次のように記している。「推古29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去された。(中略)この月、太子を磯長(しなが)陵に葬った」。 しかし、『日本書紀』には生母の穴穂部間人皇后の死去に関する記述はない。 ■ 一方、法隆寺に伝わる伝承は異なる。法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背には、次のような意味の銘文が刻まれている。「推古29年(621)12月に、穴穂部間人王后が崩じ、明年(推古30年、622)正月22日上宮法皇と膳部大郎女が病気となった。そこで、王后・王子と諸臣らが病気回復を祈って釈像尺寸王身を発願したが、2月21日に膳部大郎女が亡くなり、翌日(2月22日)法皇もなくなった。云々」
■ それはともかく、今まで聖徳太子御廟はてっきり三骨一廟だと思いこんでいたのに、「聖徳太子 ゆかりの名宝」を見終わって、帰りがけに購入したこの特別展の出品図録を開いて驚いた。図録の巻頭に、太子町立竹内街道歴史資料館の前館長だった上野勝巳氏の「聖徳太子廟と叡福寺の歴史」と題する論文が掲載されていて、太子廟の”三骨一廟”の実体が解明されている。上野の考察によると、古資料に記された被葬者記録を精査すると、どうも当初は聖徳太子だけが被葬者だったようだ。つまり"三骨一廟"ではなかった。
■ 上野氏によれば、古記録に記された被葬者の数には次に示すように奇妙な差異がある。
■ 太子廟の被葬者が三人ならば、今まで天皇陵治定の根拠とされてきた『日本書紀』や『延喜式』の陵墓記が、『聖徳太子伝私記』にも劣る信憑性が乏しいものとなる。こうした点に疑問を抱かれた上野氏は古記録を丹念に調べられた。 ■ その結果、平安時代から鎌倉時代にかけて太子信仰が隆盛する中で、御廟周辺で各種太子伝によって廟前寺院の建立、参詣者獲得、太子の権威付けなど、廟と寺の発展を意図した操作が次々と行われていたことが分かった。こうした操作は廟内にも及んでいたようだ。 ■ 『聖徳太子伝私記』によれば、正暦5年(994)に忠禅という者が廟内に入って「不可思議な作法」を行ったという。不可思議な作法とは何を指すのか不明だが、その検分に入った法隆寺の僧・康仁は2つの棺があったのを見たという。それまで太子廟の被葬者が太子一人とされていた中で、『伝暦』は太子と妃の二人としている。正暦5年は『聖徳太子伝暦』成立の直後であることを勘案すれば、このころに棺が一つ追加された可能性がある。 ■ さらに、『聖徳太子伝私記』は元久年中(1204 - 06)にも廟前寺院住僧が廟内に侵入したことを記録していて、この頃にも3棺化の操作が行われたことを伺わせている。こうした記録から、遅くとも平安中期以降の太子廟は単なる陵墓ではなく、太子信仰が隆盛する時流の中で”聖地霊場”とされて高僧などが参籠したり寺僧が入廟していた様子を伺うことができる。 ■ 聖徳太子建立と伝えられる寺院の数は、8世紀の『上宮聖徳法王帝説』で7寺、10世紀の『聖徳太子伝暦』で11寺、13世紀の『聖徳太子伝私記』で46寺と激増している。つまり、聖徳太子の神格化は奈良時代から平安時代にかけて加速され、鎌倉時代にその頂点に達している。その太子信仰が隆盛する時流の中で、聖地霊場と化した太子廟でも二棺化、三棺化操作の「不可思議な作法」が行われたようだ。 ■ このことは、聖徳太子薨去から300年間『日本書紀』は『延喜式』などが一貫して示す通り、太子一人を葬る単葬墓だったことを逆に証明している、と上野氏は結論づけておられる。 |