2008/05/28
鞆の浦(とものうら): 瀬戸内海の地乗り航海時代に栄えた潮待ち港


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鞆の浦の常夜燈 (撮影 2008/05/28)

 道路整備計画で揺れている、古い町並みや江戸時代の港湾遺構がよく残る港町

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鞆の浦へのアクセスマップ
■ いつの日か鞆(とも)の浦を訪れてみたいと思っていた。『万葉集』に載っている大伴旅人の歌に触発されたのか、それとも朝鮮通信使が鞆の浦を日本第一の景勝と賞賛したと聞いたためか、今では定かではない。あるいは、「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした瀬戸内の海上交通が主流だった古代、鞆の浦が「潮待ちの港」だったことを知ったためだったかもしれない。

■ 瀬戸内海の潮流には興味深い特徴がある。満潮時、豊後水道と紀伊水道から潮が瀬戸内海に流れ込み、瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかる。一方、干潮時には鞆の浦沖を境にして潮が東西に分かれて流れ出して行く。つまり、潮の流れは鞆の浦を境にして反転するわけで、風と潮の流れを読んで瀬戸内海を航行する当時の船は、鞆の浦で潮流の変わるのを待たなければならなかった。

市街地の石畳の狭い道路
市街地の石畳の狭い道路
同上
同上
■ そんなわけで、遣隋使や遣唐使はもちろん、大和と西国を行き来する古代の旅人を乗せた船は、かならず鞆の浦の入り江に停泊して潮待ちをしたはずである。彼らが当時目にしたであろう景観を追体験してみたいと願う筆者にとっては、鞆の浦は是非訪れてみたい場所の一つだった。だが、なかなかその機会がなかった。

■ 鞆の浦は、広島県の沼隈半島の先端に位置する港町である。沿岸部と沖の島々は「鞆公園」として国の名勝に指定されているが、最寄りのJR福山駅からは南に14kmと離れている。鞆鉄バスを利用しても、駅から30分はかかる。奈良にいても、そう簡単に行ける場所ではない。

■ ところが、古い町並みがよく残り、江戸時代の港湾遺構が今に残る港町が、道路整備計画で今揺れている。古い町並みのせいで鞆の浦の市街地の道幅は狭く、対向車がすれ違うのもままならない。そこで、港湾遺構の先を埋め立てて架橋し、バイパスで車の流れを円滑にしようとする計画が持ち上がった。しかし、この計画が実行されれば、歴史的景観を完全に破壊されることになる。

■ 地元では大多数がこの計画を支持しているようだが、住民以外の有識者団体などに支援された一部住民は歴史的景観の破壊を理由に反対している。昨年4月に彼らは港湾の埋立免許の差し止め訴訟を広島地裁に起こした。一方、行政側は翌月に免許願書の申請を行なった。

あちこちに張られている埋立架橋反対の幕
あちこちに張られている埋立架橋反対の幕
■ 今年の2月、一部住民から出されていた埋立免許の仮差し止めの申し立てが却下された。それを受けてのことだと思うが、今朝のインターネット考古学ニュースは、日本考古学協会が、福山市鞆町の鞆港埋め立て・架橋計画の撤回を求める声明文を事業主体の県と市、さらに埋め立てを認可する国土交通省に送ったと報道していた。架橋計画は、常夜灯や波止などの港湾遺構が残る歴史的景観を損ね、埋蔵文化財の喪失につながる恐れがあるというのがその理由である。

■ 架橋計画が実施されれば、遣隋使の小野妹子たちや太宰府に赴いた万葉歌人たちが目にした景観を目にすることはできなくなる。今朝の考古学ニュースは、そうした不安をかき立てた。幸い、朝起きたとき、橿原の空は明るく晴れていた。その空を仰いだ瞬間、今日一日のスケジュールは変わった。朝の散歩で畝傍山に登る変わりに、リュックサックを担いで、近鉄の電車に飛び乗った。

 出発、午前6時半。現地到着、午後1時

■ 最寄りの「畝傍御陵前」駅から近鉄電車に乗ったのは午前6時29分である。大和八木駅、鶴橋駅と電車に乗り継いで、JR大阪駅に着いたのは7時49分。7分後に「網干」行きの新快速に乗ったまでが良かったが、そこから山陽本線の「福山」駅に到着するには4時間以上かかった。到着時間を確認すると午後12時8分だった。駅前から12時半にでる鞆鉄バスに乗り、30分かかってようやく、午後1時に鞆の浦に着いた。

■ 大阪駅からは、網干、相生、岡山、倉敷と在来線を4回も乗り継いで福山まで来た。新幹線を利用すれば1時間で来れる距離を4時間もかかったことになる。別に特急料金が惜しかったわけではない。新幹線だと、車内でコーヒーを一杯飲み終わる時間で目的地に到着してしまう。その現代の効率の良さが厭だったのである。

在来線の車内
乗客が少ない在来線の車内
■ 歴史探訪の旅は、古代へのタイムトリップだと筆者は心得ている。「Back to the Future」の映画ではないが、瞬時に過去に遡ってしまえば、過去へ旅する楽しみが失われる。進行方向に向かって左側のシートに腰掛けて、車窓を流れ去る風景を眺めていると古い記憶が次々の蘇ってくる。明石海峡にかかる大橋を眺めたときは、娘と一緒に「発心の道場」阿波の国二十三寺を巡った日々が蘇った。加古川では鶴林寺を、網干では斑鳩寺を訪れた日を思い出した。列車が山間部に入り「有年(うね)」駅を過ぎた時は、3年前に橿考研友史会で田中遺跡を訪れた日のことを思い出した。

■ こうした記憶の糸を一つ一つつないで時間を遡ることで、探訪する場所の過去の歴史の中にいつしか我が身を置くことができる。そのためには、落ち穂拾いのように田舎の小さな駅を一つ一つ停車していく在来線の旅が一番よい。それに加えて、車内はほとんど一人で独占していると思えるほどガラガラである。乗客が居ても、地方言葉で大声で話し合っている世間話を聞けるのも楽しみの一つだ。


県道福山鞆線を走る鞆鉄バス
県道福山鞆線を走る鞆鉄バス
鞆軽便鉄道時代のラッキョ汽車
鞆軽便鉄道時代のラッキョ汽車
■ 一般には「鞆の浦」と呼ばれているが、これは「鞆にある入江」という意味であって正式な町名ではない。正式な呼称は「鞆」(とも)である。鞆の入江にある港の名称も、正式には「鞆港」という。鞆とは、弓の弦にあたるのを防ぐため左手に結ぶ武具の名称だ。地名の由来については、神功皇后が西国へ下向の際、当地に立ち寄って渡し守の神に弓の武具「高鞆」を奉納した事によるとする説など諸説がある。

■ 江戸時代の学者、新井白石(1657 - 1725)は邪馬台国大和説を支持し『古史通或問』(こしつうわくもん)の中で『魏志倭人伝』の旅行記事に出てくる国々を西日本一帯の地名に当てはめた。その中で、地名の音から投馬国には備後の鞆の浦や播磨の須磨をあてている。しかし、白石は晩年邪馬台国九州説に鞍替えしている。

■ 福山駅からこの鞆港行きのバスは、駅南口にあるバスターミナルの11番乗り場から15分ごとに運行している。このバスを運行しているのは鞆鉄バスという会社だが、その前身は鞆軽便鉄道と言った。大正2年(1913)に現在の野上町〜鞆間で開通し、昭和6年(1931)には現在のJR福山駅までつながり、福山〜鞆間の約12.5kmを45分で結んでいたという。

■ 鞆軽便鉄道で列車を牽引していたのは、ドイツ製の小型蒸気機関車である。煙突部分がラッキョに似ているところから、「ラッキョ汽車」の愛称で親しまれていたという。鞆軽便鉄道の開通で陸上交通の利便性はましたが、鞆は半島の先端に位置して孤立しており、また開発可能な平野部も少ない。そのため、鞆の町は近代化から取り残されていった。自動車の発達によって、鉄道の利用者も減少し、昭和29年(1954)3月には廃業に追い込まれた。

■ 廃線となった鉄道は県道22号線(福山鞆線)に改修され、現在は鞆軽便鉄道を引き継いだ鞆鉄バスが機関車に代わってバスを運行している。福山の市街地を抜けたバスは、芦田川を渡って右岸を走る。やがて田尻海岸に出ると、そのまま海岸線に沿って南下して終着駅の「鞆港」まで向かう。海岸線に出たところで、左手前方に大きな島影が姿を現す。仙酔島(せんすいじま)という。仙人が酔うほどに美しい五色岩が太古の姿そのままで残っていて、昭和9年(1934)に我が国最初の国立公園に指定されたとのことだ。

「鞆の浦」バス停と観光情報センター バス停前の鞆の浦
「鞆の浦」バス停と観光情報センター バス停前の鞆の浦

■ 鞆港の一つ手前の「鞆の浦」というバス停で下車した。バス停の近くに観光情報センターがある。鞆の浦観光マップを貰い、観光の見所を聞いた後、瀬戸内の海原を眺めた。波は静かだったが、空は重い雨雲に覆われ、海面が鉛色に光っていた。予報では、本日の天気は西から低気圧が接近してくるので、西から雨になるという。どうやら、本日も予報は的中しそうだ。

 潮待ち、風待ちの港として栄えた鞆の浦の歴史民族資料館

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鞆の浦観光地図
(出典:http://www.fukuyama-events.jp)
■ 散策の出発点として最初に選んだのは、市街地の中央に聳える小高い丘の上にある鞆の浦民俗資料館である。小高い丘に見えたのは昔の鞆城本丸の跡だった。毛利氏が築いた城を慶長5年(1600)、安芸・備後の領主となった福島正則を修築したとされている。慶長12年(1607)に来朝した朝鮮通信使の日誌には、「岸上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが、未完成である」と記されているという。その当時は、まだ建設中だったようだ。

■ 元和元年(1615)に一国一城令が出されたが、それに先だって鞆城は廃城となった(政則が築こうとした鞆城が市街地を取り囲む大規模なものだったので、徳川家康の逆鱗に触れて工事が中止されたという説がある)。政則の後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以後は、江戸時代を通して町奉行所が置かれていたとのことだ(以上、案内板の解説より)。

復元された鞆城の石垣 さまざまな印が刻まれた城石
復元された鞆城の石垣 さまざまな印が刻まれた城石

■ 資料館建設の際に本丸東南隅とそれに連なる石垣の一部が復元されている。興味深いのは、印を刻んだ石がところどころに積まれていることだ。石工の印だとか採石地の印だとか、あるいは呪符などといった説があるが、定説はないようだ。


■ 鞆の浦は古代より潮待ち、風待ちの港として知られる土地柄だが、古代における土地の様子を記した文献はほとんどない。わずかに大伴旅人や遣新羅使らが鞆を読んだ歌が『万葉集』に8首残っているにすぎない。

■ 平安時代、最澄は806年、この地に静観寺(じょうかんじ)を建立し、空海も826年に医王寺を建立している。瀬戸内海海上交通の要衝の地である点に着目し、山陽地方における布教の拠点としたものと思われる。しかし、南北朝時代には北朝と南朝の間で鞆でも幾度も戦闘があり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われてしまった。

■ 足利時代の幕開けとなる建武3年(1336)、多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏は京に上る途中、この地で新田義貞追討の院宣を受けた。室町時代15代将軍・足利義昭は織田信長に京から追放され、毛利氏を頼ってこの地に落ち延びてきた。そして、静観寺に居住し密かに信長打倒を画策したため、「鞆幕府」とも呼ばれた。そのため、頼山陽は、足利幕府は鞆に興り鞆で滅びたと譬えたという。

福山市鞆の浦歴史民俗資料館 鞆の浦を描いた西国名所図 開催中の企画展「鞆軽便鉄道」
福山市鞆の浦歴史民俗資料館 鞆の浦の西国名所図 開催中の企画展

■ こうした歴史的背景を一応頭にたたみ込んで歴史民俗資料館を訪れた。たまたま、本日から企画展「鞆軽便鉄道」が始まっていて、上記のラッキョ汽車の写真や模型など関連資料が大々的に展示されていた。その特別展示にスペースを譲ったのか、常設展示の「瀬戸内のふるさと鞆−その歴史とくらし−」では、鞆の伝統漁法である「鯛しばり網」の模型や、江戸時代初期より醸造された薬酒の保命酒(ほうめいしゅ)の展示程度が興味を引いた。

 鞆の浦の海をイメージして作曲された箏曲「春の海」

宮城道の銅像
宮城道雄の銅像
■ 日本のメロディを代表する箏曲「春の海」は、盲目の天才音楽家・宮城道雄(みやぎみちお、1894-1956)が、昭和4年(1929年)に発表した作品である。フランス人女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメーとの競演で、世界的な評価を博した作品として世に知られている。神戸市に生まれた宮城道雄は8歳のとき失明した。失明する以前は、父の故郷である鞆の浦で祖父母に育てられた。

■ 「春の海」が作られた背景には、少年の日に目に焼き付けた鞆の浦のイメージがあったという。箏と尺八の競演で表現される「春の海」は、鞆の浦の潮の香りや潮騒の音を見事に伝えているようである。歴史民俗資料館の庭には、宮城道雄の威徳と功績を称えるために平成2年(1990)に立てられた銅像が置かれている。

 歴史民俗資料館の庭に置かれた大伴旅人の万葉歌碑

■ 『万葉集』の編纂に関わった歌人として大伴家持(おおとものやかもち)の名が知られている。大伴家はもともと武門の出でありながら、家持の父・大伴旅人(おおとものたびと、665-731)もまた有名な万葉歌人だった。旅人は神亀4年(727)、大宰帥(だざいのそち)として大宰府に赴任したとされている。そのとき旅人はすでに66歳、同行した妻の大伴郎女も相応の年であっただろう。二人を乗せた船は潮待ちのため鞆の浦に入港し、旅人は妻を伴って下船すると、二人で鞆の浦の磯を散策した。その磯には数本のむろの木がそびえていた。

■ 任務を果たして平城の都に帰任するとき、また二人でこの磯を歩きたい。その時まで健康に気を付けて互いに長生きしよう。老いた妻をいたわるように、旅人は言ったにちがいない。だが、太宰府滞在中に、旅人は最愛の妻を失った。おそらく病死だったのだろう。天平2年(730)12月、旅人は大納言を拝命して帰任する途中、また鞆の浦の浜辺に降り立った。帰任の途次彼が詠んだ歌5首が『万葉集』に記載されているが、その中の次の3首は亡妻挽歌として鞆の浦を過ぎる日作った歌であると詞書きが添えられている。

万葉歌碑 むろの木
万葉歌碑 むろの木

我妹子(わぎもこ)が 見し鞆の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき (巻3-0446)
(大意)我妹子が見た鞆の浦のむろの木は、今も相変わらずあるが、これを見た我妹子は今はない)
鞆の浦の 礒(いそ)のむろの木 見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも(巻3-0447)
(大意)鞆の浦の磯にはえているむろ木を将来見るならそのときはいつも、一緒に見た我妹子を忘れることはできないだろう
礒の上に 根這(は)ふむろの木 見し人を いづらと問はば 語り告げむか(巻3-0448)
(大意)磯の上に根のはっているむろの木よ。お前が見たあの人は何処にいるかときいたならば、おしえてくれるだろうか

■ 歴史民俗資料館の正面玄関近くに、巻3-0447の歌を刻んだ万葉歌碑が置かれている。その場所からは鞆の浦が一望に見渡すことができ、碑の横には、むろの木が植えてあった。

歴史民俗資料館前から見下ろした鞆の浦
歴史民俗資料館前から見下ろした鞆の浦

 七卿落ちの公家たちが投宿した保命酒(ほうめいしゅ)の造り酒屋・太田家住宅

■ 歴史民俗資料館から正面の坂道を下って古い町並みの中を歩いてみると、主な街角には必ず観光用道路マップを張った石柱が置かれている。その道路マップにしたがって、江戸時代の港湾遺構の一つである常夜燈がある鞆港に向かった。港に出る手前の街角に、国の重要文化財に指定されている旧「保命酒屋」の太田家住宅がある。

重要文化財「太田家住宅 太田家住宅の入り口
重要文化財「太田家住宅」 太田家住宅の入り口

薬味酒の保命酒
薬味酒の保命酒
■ 保命酒とは、焼酎と餅米を主な原料にした甘口の原酒に、地黄、甘草など16種類の漢方の薬味を漬けこんで製造した薬味酒だ。製造元は、明暦元年(1655)に大阪の生国魂神社近くから当地に移り住んだ仲村家である。仲村家の当主は4年後の万治2年(1659)、家伝の薬法で焼酎製銘酒を造ることを福山藩主水野家の鞆町奉行に願い出た。そして許可を得ると「十六味地黄保命酒」と名付けて薬味酒を売り出した。これが保命酒の始まりとされている。

■ 貞享2年(1685)には仲村家は藩の御用名酒屋となり、薬酒の独占製造権を得た。そして、鞆の名産保命酒をはじめとする各種の酒造を行って繁栄した。仲村家の住宅は、江戸時代中期から明治時代初期にかけて繁栄した商家の構えを、ほぼ完全な姿で今に伝えている。明治になると、福山藩から得ていた特許権が無くなり、仲村家で働いていた杜氏(とうじ)たちが独立して保命酒を造るようになり、仲村家は明治30年頃に衰退する。その頃両替商などで財をなした太田家が仲村家の住宅をすべて買い取り今日に至っているため、現在は「太田家住宅」と呼ばれている。

太田家住宅間取り図
太田家住宅間取り図
■ 太田家住宅は、当地に移り住んだ保命酒屋仲村家の住宅と土蔵群からなる。これらの建物は同時期の建物ではなく、江戸中期から後期にかけて家屋敷を購入しながら拡張・増築されて現在の規模になった。主屋は18世紀中頃建てられた入母屋造りの二階家で、商品を販売した店廻りと、家人の私的な居室空間、接客用の座敷棟からなっている。その北側の床上部に店の間があり、上手(かみて)には後に設けられた茶室があって、商談用に利用された。主屋の北側には座敷棟があり、その西側にも茶室が付属している。

■ 東・西・南・北の酒蔵は、18世紀の後期から末にかけて順次造られ、保命酒などの各種酒類の製造のための施設や貯蔵のための保存施設として利用された。窯屋や北土蔵、新蔵は19世紀前期の建物である。主屋の向かいには、別宅の朝宗亭(ちょうそうてい)があり、宿泊所として利用されたとのことだ。

座敷棟の上の間 座敷棟の大広間
座敷棟の上の間 座敷棟の大広間

■ これら一連の建物は、歴史的遺産「鞆七卿落遺跡」として、昭和15年(1940)に広島県の史跡指定を受けた。また平成3年(1991)には、屋敷地約416坪とともに主屋の他建物9棟が国の重要文化財に指定された。酒造販売の商家が七卿落遺跡として史跡に指定されているのは、次のような由来による。

■ 明治維新の夜明けも近い文久3年(1963)8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美(さんじょうさねとみ)ら7人の公家が、公武合体派に追われて長州に下るため都落ちしてきた。一行は、途中で鞆港に立ち寄り、保命酒屋に宿泊した。翌元治元年、彼らが長州より再び上京した際にも、保命酒屋に立ち寄り、主屋とその向かいにある別宅の朝宗亭(ちょうそうてい)を宿泊所として利用した。その時三条実美は次の歌を詠んでいる。
世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯(か)くて嘗(な)むるも 珍しの世や
さらに、三条実美は「和気満室」と綴った墨書を残している。この直筆の墨書は現在座敷棟の大広間の入口に扁額として掲げられている。

18世紀中頃に造られた主屋 酒蔵
18世紀中頃に造られた主屋 酒蔵の並び

■ 拝観料を払って太田家住宅の玄関を入ると、ガイドの女性がそれぞれの部屋や酒蔵を丁寧に解説しながら案内してくれた。彼女の口からは、造り酒屋で財をなした商人が目立たない所にまで心配りをして作り上げた建物に対する賛美が述べられた。たとえば、酒造の外壁の角には海鼠壁が美しく模様を描き、軒先下部分はお洒落にも波打ちだたされている。

■ 客間として設計した座敷棟は、家人の居住空間とは異なって白壁を使い、15畳の大広間からは襖を開ければ玄関を通して海が眺められる。全てが絵になるような配置になっている上に、屋久杉や北山杉、備後畳といった第一級の材料をふんだんに使われている。しかし、全てがシンプルにまとめられていて、華美さというものがない。江戸時代の豪商の実力と心意気を感じさせてくれる住居だった。

酒蔵の内部 酒しぼりの様子
酒蔵の内部 酒しぼりの様子

 鞆港のシンボルは、江戸時代に造られた巨大な常夜燈

鞆港のシンボル・常夜燈
鞆港のシンボル・常夜燈
鞆港の雁木
鞆港の雁木
■ 幸か不幸か近代化の波に取り残されたため、鞆の浦には江戸時代からの町並みや江戸時代の港湾遺構がそのまま残っていて、全国的にもその文化的価値が高く評価されている。「太田家住宅」からそのまま南に進めば、すぐの所に鞆の漁港があり、多くの漁船が繋留している。視線を沖の方に向けると、円形の湾を塞ぐように正面に玉津島が浮かび、その手前を防波堤が長々と延びている。

■ 船着き場を見ると、石が階段状に積み上げられている。これを雁木 (がんぎ) という。雁木は干潮時でも満潮時でも荷物の積み下ろしできるように工夫された仕掛けである。その雁木の先に巨大な石の常夜燈が聳えている。寛政3年(1791)に築かれたもので、海中の基礎から頂上の宝珠まで11mもあるという。北前船が往来する時代からの鞆港のシンボル的な存在であり、港の常夜燈としては我が国最大だそうだ。

■ こうした雁木や常夜燈、あるいは船番所・たで場といった江戸時代の港湾施設がそのまま残っている場所は全国的にも珍しく、現在では年間100万人以上の観光客が訪れる観光地となっている。だが、古い町並みの中の道路は狭く、そのうえ観光客のマイカーが路上にあふれ、散策する観光客ばかりか、地元住民の生活の安全もままならない状態になってきた。

■ そのため、上記のように鞆湾の一部を埋め立てて架橋し、バイパスで車の流れを円滑にしようとする計画が持ち上がった。しかし、この計画が実行されれば、歴史的景観を完全に破壊されることになる。 当然の事ながら、地元住民は計画の実施に賛成する派と反対する派に分かれて対立している。反対派は下のようなイメージ写真まで作成して、いかに現在の景観が損なわれるかを訴えている。

現在の景観 バイパスができたら・・・
現在の景観 バイパスができたら・・・

■ 2005年11月、ユネスコの諮問機関で世界遺産の調査・評価を担当する国際記念物遺跡会議(イコモス)のメンバーが、福山市役所と県庁を訪れ、鞆の国際的評価は高まっていて世界遺産指定の可能性を示唆した上で、鞆港の埋め立て・架橋事業の再考を要望した。しかし、福山市長は議論は尽くされたと、着工に向けて取り組む姿勢を崩さなかったという。

■ 鞆の浦は遺跡とは違う。現在も古い町並みの不便さに耐えながら、大勢の住民が住んでいる。町中のほとんどの道路は対向車がすれ違えないほど狭い。この状態では、火災や人身事故があっても消防車や救急車が通り抜けられない。したがって、住民の9割は鞆港の埋め立て・架橋による道路整備に賛成だそうだ。反対派は住民の中ではごく一部で、大部分は現住所を移して景観保存を訴える著名人などで占められているとのことだ。

 沈没した「いろは丸」の引き上げ品を展示する「いろは丸展示館」

「いろは丸」沈没現場
「いろは丸」沈没地点
■ 1867年4月19日、伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)所有の西洋式蒸気船「いろは丸」(160トン)が、処女航海のため長崎港を出航した。「いろは丸」は大洲藩がオランダ商人から購入し、幕末の志士・坂本龍馬に貸与したものだ。龍馬はこの船で物資(鉄砲)を大阪に運ぶため、彼が率いる土佐海援隊とともに乗り込んでいた。

■ 4日後の4月23日午後11時頃、「いろは丸」は備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市)で紀州藩の明光丸(887トン)と衝突して大破した。明光丸は近くの鞆港に曳航しようとしたが、「いろは丸」は浸水のため宇治島沖で積荷もろとも沈んでしまった。我が国最初の蒸気船どうしの衝突事故だった。坂本龍馬と海援隊は鞆に上陸し、龍馬は升屋清右衛門宅に宿泊したという。

いろは丸展示館のチラシ
いろは丸展示館のチラシ
■ その後、鞆では「唐人船が沈没した」という噂が流れ、現在まで伝承されてきた。唐人船とは「いろは丸」のことである。120年後の1987年になって、海底20mに沈んでいる「いろは丸」引き上げ計画が持ち上がった。翌年の1988年から1989年にかけて4回の本格潜水調査が実施され、鉄や石炭、古伊万里茶碗、硯など引き上げられた。

■ 鞆港の常夜燈の近くに、江戸時代の土蔵を利用した「いろは丸展示館」がある。中にはいると、衝突事件がどのように起きたかをビデオ映像で紹介している。館内の大部分のスペースを使って沈没状況をパノラマで再現しており、壁際には海底から引き上げられた「いろは丸」のパーツや様々な遺品が展示されている。

■ 余談だが、衝突事故の賠償交渉は難航したようだ。当初は海援隊と紀州藩との談判が繰り返された。しかし、状況はいっこうに進展せず、事は土佐藩と紀州藩の事件に発展した。最終的には、薩摩藩の五代才助の周旋で、紀州藩が賠償金7万両の支払いに同意したという。

沈没状況を再現したパノラマ 海底から引き上げられた船のパーツ
沈没状況を再現したパノラマ 海底から引き上げられた船のパーツ

再現された龍馬の隠れ部屋
再現された龍馬の隠れ部屋
■ 1988年6月、坂本龍馬が宿泊した升屋清右衛門宅で、龍馬の隠れ部屋が発見された。展示館の2階には、発見された隠れ部屋がそっくり再現されている。部屋の中央には、腰掛けて書籍に目を通す龍馬の人形が置かれている。






座敷からの海の眺めが素晴らしい福禅寺・対潮楼(ふくぜんじ・たいちょうろう)

対潮楼からの「日東第一形勝」の眺め
対潮楼からの「日東第一形勝」の眺め

■ 鞆港の東側の崖の上に建つ海岸山千住院福禅寺は、真言宗の仏教寺院である。創建は平安時代の天暦年間(947〜957)と伝えられている。本尊として千手観音(鎌倉時代、市指定重要文化財)を安置している。その山号が示す通り、福禅寺は海岸の崖の上に建つ寺院だったが、現在は崖の下を自動車道が通っている。

海岸山千住院福禅寺の本堂 文字通り海岸の崖の上に建つ福禅寺
海岸山千住院福禅寺の本堂 文字通り海岸の崖の上に建つ福禅寺

■ 鞆の浦は江戸時代の朝鮮通信使が必ず停泊した港である。江戸時代を通じて福禅寺は通信使の正使、副使などの宿舎に当てられた。本堂に隣接する単層入母屋造りの客殿(対潮楼)は、江戸時代の1690年頃に建立された。ここからの瀬戸内の眺めはすばらしく、朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの文化交流の場だった。

■ 正徳元年(1711)に通信使節の従事官として来朝した李邦彦は客殿からの眺望を「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝地)」と賞賛し、その書を残した。福山藩の命で李邦彦の書を板に彫ったものが、現在木額として客殿に掲げられている。また、延享5年(1748)には、正使の洪啓禧は帰途の際に客殿を「対潮楼」と命名し、息子の洪景海がそれを書にしたためた。こうしたことから、福禅寺の境内は、「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。

本堂に隣接する対潮楼 「日東第一形勝」の書
本堂に隣接する対潮楼 「日東第一形勝」の書

■ 朝鮮通信使とは、信(よしみ)を通わす使者として李氏朝鮮から日本へ派遣された国使のことである。もともとは、室町時代に将軍から李氏朝鮮に送られた使節と国書に対する返礼として、永和元年(1375)に通信使が派遣されてきたのが、その始まりとされている。15世紀半ばからしばらく途絶え、文禄・慶長の役によって中断されたが、江戸時代になって再開された。そのため、一般には江戸時代の朝鮮通信使を指す場合が多い。

朝鮮通信使の航路
朝鮮通信使がたどった瀬戸内海航路
■ 対馬藩の仲介と努力によって、慶長12年(1607)6月に江戸時代の最初の通信使が派遣されてきて家康と謁見した。その後は将軍の代替わりや世継ぎの誕生に際して、祝賀使節として朝鮮側から通信使が派遣されるようになった。江戸時代を通して、朝鮮通信使の来朝は合計で12回を数えた。

■ 朝鮮通信使は正使、副使、従事官をはじめ学者、文化人などが含まれ、総勢は400〜500人の大使節団だった。これに、案内役の対馬藩の送使の一行約300人が加わり、対馬藩が用意した小舟数百隻と共に大船団を組んで瀬戸内を航行したという。鞆の浦ではこれらの一行が陣屋や商家、組小屋などに分宿した。そのため、藩の接待役を含め人口が1000人から1500人ほど増加し、町はごった返したとのことだ。


対潮楼の正面に浮かぶ弁天島
対潮楼の正面に浮かぶ弁天島
■ 今回の鞆の浦探訪の最大の目的は、朝鮮通信使が絶賛した対潮楼からの眺めを体験してみることだった。対潮楼に敷かれた緋色の絨毯に座り、開け放された窓を通して鞆の浦を眺めると、正面に弁天島が浮かびその背後に仙酔島がどっしりと構える景観は、まさに窓枠に切り取られた一幅の絵だった。

■ その景観を楽しんだのは朝鮮通信使だけではない。古代、遣隋使や遣唐使として大陸に派遣された多くの使節たちも目にした景色である。もちろん遣隋使が派遣された頃、この場所にはまだ福禅寺は存在しなかった。それでも潮待ちのため鞆の浦の湾内に錨を降ろした船から下りた使節団の一行は、必ずやこの崖の上の一等地から眼下の景観を楽しんだはずである。

■ 607年に遣隋大使として隋に赴いた小野妹子(おののいもこ)は、翌年帰国するとき送迎使として来朝する裴世清(はいせいせい)らを伴っていた。一行が筑紫に戻ってきたのは旧暦の4月のことである。大和朝廷は難波吉士雄成(なにわのきしのおなり)をわざわざ筑紫に派遣して、一行を難波まで迎え入れた。彼らが難波津に到着したのは6月15日と記録されている。

■ したがって、一行が潮待ちのため鞆の浦に立ち寄ったのは6月の初めの頃である。小野妹子は裴世清と一緒に崖の上のこの地に立って、眼下に広がる眺望を楽しんだはずだ。夏の暑い盛りだった。それだけに燦々と降り注ぐ太陽の下で、瀬戸の海はあくまで青く、島は深い緑の木々に覆われていたにちがいない。

■ 残念ながら、本日の空は重い雲に覆われて、いつの間にか雨になっていた。対潮楼の絨毯に座って降り出した雨音を聞いていると、まるで背後に小野妹子と裴世清が立っていて、互いに目の前の景色を褒める対話が聞こえてくるような気がしてきた。

 弘法大師が開基と伝えられる医王寺(いおうじ)

医王寺の境内から鞆の浦を望む
医王寺の境内から鞆の浦を望む

■ あいにくの雨である。福禅寺本堂の濡れ縁に腰掛けて、地図を見ながら次に何処を訪れようかと思案していると、寺のガイドが後ろから声をかけてきた。
「医王寺は行かれましたか。医王寺の境内から俯瞰する鞆港の景色も素晴らしい。是非訪れてみなはれ]
医王寺は鞆の浦の西に聳える山の中腹にある。常夜燈のある港から福禅寺まで歩いてきた道をまた戻ることになるが、彼のお薦めに従って、医王寺に向かうことにした。

■ 古い町並みの間を縫って続く道は石畳の道である。雨に濡れた石畳の狭い道が緩やかな登り勾配にかかり、しばらくすると医王寺の境内に到着する。かなりの高みまで登ってきたと思われ、門前で青葉を茂らせた多くの桜の木の間から、瀬戸内海の走島や仙酔島を背景に鞆港が一望のもとに俯瞰できる。晴れた日なら、遠く四国の石鎚連峰が見えるという。

医王寺の参道 医王寺の本堂
石畳が続く医王寺の参道 医王寺の本堂

■ 医王寺は真言宗の寺院で、正式には桃林山慈眼院医王寺(とうりんざんじげんいんいおうじ)と言う。平安時代の天長3年(826)に弘法大師が創建したと伝えられ、本尊に木造薬師如来像(県の重要文化財)を祀る。永禄3年(1560)に火災で焼失したが、慶長年間の福島正則の時代(1600〜1619)、鞆城代だった大崎玄蕃長行の発願により再興された。

■ 境内には雨に濡れて小さな本堂と鐘楼が建っていた。鐘楼は寛永20年(1642)、福山藩主水野勝成によって寄進されたものである。本堂は、少し遅れて貞享2年(1685)に四代目藩主水野勝種が再興したものだそうだ。いずれにしても、江戸時代は福山藩主の手厚い保護が加えられていたようだ。だが、雨が降りしきる中、この寺を訪れる参詣者は誰もいない。

海を見下ろす場所に建つ鐘楼 境内から鞆港を見下ろす
海を見下ろす場所に建つ鐘楼 境内から鞆港を見下ろす

■ 医王寺の境内から更に15分ほど小径伝いに山を登ると、太子殿が建っていて、そこからの展望が素晴らしいとのことだ。残念ながら雨の山道は敬遠した。仁王門をくぐって正面の参道を降りると、途中の右手に平賀源内の生祠があった。

 山中鹿之助の首塚とささやき橋伝説

■ 医王寺から降りて石畳の道を北へ進めば寺町に出る。この一画は小さな町なのに阿弥陀寺、南禅坊、法宣寺、静観寺、妙蓮寺、顕政寺と多くの寺が並んでいる。その中の静観寺は806年に最澄によって建立された鞆で最古の寺と聞いていたが、南北朝時代や江戸時代に度々火災にあって五重塔をはじめ、多くの文化財が失われた。現在は臨済宗となり、安国寺の末寺になっている。

山中鹿之助の首塚
山中鹿之助の首塚
■ 静観寺の山門の前に、山中鹿之助の首塚があった。鹿之助は出雲の尼子氏の家臣だった。本名を山中鹿介幸盛というが、講談などで鹿之助とされたため、一般には山中鹿之介と誤った表記で知られる人物である。永禄9年(1566)主家の尼子氏が毛利氏に滅ぼされた後、主家を再興すべく前後3回に渡って再興運動を繰り広げたという。

■ 鹿之助が主家再興のため「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話は、講談などでよく知られる。最後となった戦いでは、天正5年(1577)の羽柴秀吉の中国遠征で、その先鋒として最前線の上月城を任され、毛利の大軍相手に篭城戦を展開して尼子氏の再興を目指した。しかし、毛利軍の包囲攻撃の前に、主君とあおぐ尼子勝久は自害し、鹿之助も捕らえられた。

■ 毛利輝元の下へ護送される途中、天正6年(1578)岡山県の高梁川(たかはしがわ)にある阿井の渡しで殺された。鹿之助の首級は、鞆の浦にいた室町幕府15代将軍足利義昭と毛利輝元の元に送られ、静観寺で首実検が行われた。その後地元の人たちによって手厚く葬られた、その場所が現在も残る首塚である。


ささやき橋
ささやき橋
■ 首塚のすぐ近くに、見逃してしまうほど小さい「ささやき橋」がある。この橋については、悲しい伝説が今に伝えられている。

■ 時は応神天皇の時代、鞆の浦は今のような陸地ではなく七島(ななしま)とよばれる中州で構成された地形で,それぞれの中洲は橋でつながっていたという。鞆の浦で潮待ちをするため停泊する百済使節を接待するために、武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)が大和朝廷から接待役として派遣されて来ていた。その彼が旅の一行を音楽や踊りでなぐさめる官妓(かんぎ)の江の浦(えのうら)と恋に落ちた。

■ 二人は役目を忘れて毎夜橋のたもとで会って語り合っていた。やがて、このことが噂になり、上官は二人に別れるよう命令じた。しかし、二人はその後も毎夜のように橋のたもとで待ち合わせ,逢瀬を繰り返した。そこで、上官は二人を捕らえ、二度と抱き合えぬよう後手に縛ったまま石のおもりを付けて海にしずめることにした。上官は“別れれば縄をといてやろう”と言ったが、二人は聞き入れなかった。

■ 外国使節の手前もあって、結局二人は海に沈められた。しかし、その後も人々は毎夜,橋のたもとで二人のささやき合う声を聞いたという。地元の住民は二人を哀れみ,この橋を“ささやき橋”と呼ぶようになったとのことだ。

 京都八坂神社の元社で、鞆の祇園さんと呼ばれている沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)

沼名前神社の参道
沼名前神社の参道
石段の先に建つ本堂<
石段の先に建つ本堂
■ ささやき橋を過ぎて町中の道をさらに北へ向かうと、地元では鞆の祇園さんと親しまれている沼名前神社の参道にぶつかる。左手に延びる緩やかな勾配の参道を進めば神門あり、その先に続く石の階段の上に立派な社殿が聳えている。

■ 沼名前神社は「延喜式」に名を連ねる古社である。海の主宰神と考えられる綿津見命(オオワタツミノコト)と学問の神・須佐之男命(スサノオノミコト)を祭神として祀っている。京都市の東山区祇園町に鎮座する八坂神社は、須佐之男命を祭神として祀る全国2300社の総本社であるが、祇園で祀られる前は一時鞆の浦で祀られていたことがあると地元では伝えられている、そのため、地元では沼名前神社を「祇園さん」と呼んでいる。

■ 主祭神の大綿津見命については、次のような伝承が伝えられている。第14代仲哀天皇の2年、神功皇后が西国へ下向した際、この鞆の浦に寄泊した。そのとき、この地に社の無いことを知り、斎場を設けてこの浦の海中より涌出た霊石を神璽として、綿津見命を祀り、海路の安全を祈った。それがこの神社の始まりであるという。

能舞台
国の重要文化財に指定されている能舞台
■ この伝承には、さらに次のような地名起源説話が続いている。神功皇后が大和に帰還する折、再びこの浦に立ち寄って、綿津見命の前に稜威の高鞆(いづのたかとも:弓を射る時に使った武具の一種)を納めて、無事に帰還できたお礼とされた。そのため、この地が鞆と呼ばれるようになったという。

■ 境内の一画に、国の重要文化財に指定されている能舞台がある。日本唯一の組立式能舞台で、豊臣秀吉が愛用したいう。徳川幕府の時代になって、伏見城から福山城へ移築され、さらに1650年代に沼名前神社に再度移築されたものである。近くに寄ってみたが、周囲を板で囲まれていて、何も分からなかった。

 毛利氏の外交僧として活躍した恵瓊(えけい)が住した備後安国寺

■ 最後に訪れたのは、鎌倉時代の文永10年(1273)頃金宝寺として創建され、南北朝時代の暦応2年(1339)、足利尊氏によって安国寺と改称された寺である。というより、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊が天正元年(1572)に京都南禅寺から移り住み再興した寺、と言った方が分かりやすいかもしれない。

釈迦堂
重要文化財に指定されている釈迦堂
本堂跡
大正9年に消失した本堂跡
■ 最盛時には、現在の釈迦堂を中心に海岸にまでのびる境内をもち、寺観を整えていた。だが、江戸時代には衰微し、明治・大正にかけてその極に達した。大正9年には本堂も焼失し、辛うじて残った釈迦堂も荒廃してしまった。釈迦堂は鎌倉時代の禅宗様建築の特徴をよく残し、全国的にみて貴重な遺産である。そのため歴代住職の努力で、釈迦堂が重要文化財に指定され、昭和7年から8年にかけて解体修理された。

■ 釈迦堂には、本像の像内墨書銘により、文永11年(1274)の制作とわかる木造の本尊阿弥陀如来及び両脇待立像(重文)が安置されている。本尊の像高は170cmと等身大の大きさで、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が一つの大きな舟形光背を負う「一光三尊仏」で、通称は「善光寺仏」と呼ばれている。木造の善光寺仏でこれほど大きいのは珍しいそうだ。

■ その他にも法燈国師像(重文)などもあり、できるならこれらの文化財を拝観したいものと訪れた。しかし、釈迦堂は閉じられており、受付の呼び鈴を押しても誰も出てこない。仕方がないので諦めてバス停に向かった。午後5時少し前に福山駅行きのバスに乗った。その頃は雨が止んでいた。午後1時に鞆の浦に到着して、4時間この古い町並みの中を探訪して回ったことになる。



追記:鞆の認可申請にイコモス抗議 '08/6/25

■ 6月25日付けの中国新聞インターネット版によれば、 福山市鞆町の鞆港埋め立て・架橋計画で、広島県が国土交通省に埋め立ての認可を申請したことに対し、国際記念物遺跡会議(イコモス)国内委員会の前野まさる委員長は24日、抗議する声明を出したとのことである。

■ 声明文では、イコモスが2004―06年に3回、事業中止を勧告した点を指摘し、「貴重な歴史的景観を損なう事業を進めようとする福山市と広島県の見識を疑う」と非難。認可審査をする国土交通省には「歴史的に汚点を残さない判断をするよう強く望みたい」とした。

■ 認可申請への抗議、反対声明は、計画反対の全国組織「『鞆の世界遺産実現と活力あるまちづくりをめざす住民の会』を支援する会」の池田武邦代表や西村幸夫東京大大学院教授ら4人も発表した。免許差し止め訴訟の原告団と計画反対の地元組織は連名で出したと伝えている。

鞆の世界遺産めぐり質問状 (2008/07/12)

■ 福山市鞆町の鞆港埋め立て・架橋計画の早期着工を求める地元4団体は、7月10日、国際記念物遺跡会議(イコモス)国内委員会の委員長宛てに、鞆が世界遺産に値するのかなどを問う公開質問状を郵送した。質問状は、県が国に埋め立て認可を申請した際、抗議声明を出したことを遺憾だと強調。(1)鞆が本当に世界遺産に値するのか(2)もし世界遺産に登録されれば、どんなメリットがあるのか―などを尋ねている。

「鞆には世界遺産級の価値」があると回答 (2008/07/29)

■ 国際記念物遺跡会議(イコモス)国内委員会は7月25日、上記の公開質問状への回答を公表した。鞆の歴史的町並みに、高い文化遺産の価値があると強調している。

■ 25日に返送した回答文で同委員会は、架橋計画が実施されないなら、歴史港湾都市としての鞆の建造物群や景観が「世界遺産級の価値がある」と指摘。登録されれば、行政の支援を受けて次世代に伝えることができると説明している。




2008/05/31作成 by pancho_de_ohsei
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