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| 大和川今池遺跡の発掘調査地付近(*) |
大和川今池遺跡で古代の官道「難波大道」の遺構の一部が出土
迷った末に、天気予報が外れることに期待して、やはり出かけることにした。難波大道が現在の地形のどの辺りに築かれていたのか興味があった。現場事務所に電話して最寄りの駅を確認すると、近鉄南大阪線の「河内天美」駅だという。しかも、現場は駅から徒歩で25分はかかるとのことだった。大和川左岸の堤防の脇で発掘調査が行われており、交通の便は余り良くない。 電車が「河内天美」駅に到着する少し前から、雨のしぶきが窓に吹きかけるようになった。当たって欲しくない天気予報が、皮肉にも本日はピタリと当たった。駅の改札を出ると、現説会場までの案内の標識を胸にかざし傘をさした係員が、アクセスマップを渡してくれた。
しばらく電車の線路沿いに進んで、突き当たりを左に折れて、府道26号線の「天美西5丁目」交差点まで進んでください、と係員は説明してくれた。後は、大和川に架かる行基大橋のたもとまで進み、大和川左岸の堤を川下に向かって歩いていけば、発掘現場に出ます、という。 雨はまだ小降りだったが、風が出てきた。横殴りの雨を傘で防ぎながら、雨に濡れた歩道を歩いた。途中の何カ所かに道案内の係員が立っていた。「見学者の出足はどうですか」、と聞いてみたが、「この天気ですから」との返事が一様に返ってきた。交通の便が悪い上に、雨模様の天気である。どうやら見学者はそう多くはないらしい。
現地説明会の会場には午後12時45分に着いた。受付で資料を受けとって前方を見ると、説明板の前と発掘現場の二カ所ですでに説明会が始まっていた。天候が心配なので、予定を少し早めて第一回目の説明会を始めたという。 受付を済ませて坂道を下っていくと、途中にテントがあった。テントの中では、発掘調査中に出土した須恵器と土師器の破片が展示されていた。難波大道の両側の側溝から出土した土器片である。ほとんどは細かく砕かれている。展示しているのは出土品の一部だけだろうと思ったが、聞いてみるとこれで全部だという。意外に少ない。天下の官道沿いには民家はなかったのだろうか。
難波大道の復元ルート図などを貼りだしたボードの前で、大和川今池遺跡の発掘を担当している○○さんが、実に歯切れの良い声で、発掘経緯などを説明してくれた。彼女の説明を要約すると次のようになる。
難波宮と大津道あるいは丹比道を結んだこの幹線道路は、実はその敷設時期も名称も古代文献に伝わっていない。そこで、敷設時期は新しく遷都した難波宮とそれまで王権が存在した飛鳥地方をむすぶために、前期難波宮(645〜686年)の造営工事と一体となって敷設されたのではないか、と推定されている。しかし、道路の名称も本来の場所も、長い年月の中で忘れさられ、現代に伝わっていない。 大阪市の天王寺区には現在も「大道」という地名が残っている。こうした事実を根拠に、この官道の存在を推定したのは京都大学教授の岸俊男氏と足利健亮氏である。1975年(昭和40年)のことだった。両氏の推論を裏付ける道路の側溝跡が、1978年度から1979年度に行われた大和川今池遺跡の発掘調査で出土した。特に1979年度の調査では、約18mの間隔で平行する2本の溝が見つかり、溝に挟まれた部分が人為的に整地されていた。その中心線を北に延長すると、難波宮の中軸線と一致することがわかった。そこで、『日本書紀』の推古天皇21年(613)11月条に記された「難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く」との記述から、この南北道を「難波大道」と命名された、
上述のように両側の側溝から少量の土器片が出土している。これらの土器の年代から推して、難波大道は飛鳥時代以降に建設されたが、平安時代頃には廃絶されたようだ。廃絶後は条里制に基づいた地割りが行われて大道の中央に南北方向に大畦畔が作られ、付近一帯は耕作地に変わってしまったという。しかし、大畦畔部分に難波大道当時の盛土が残っていた。
見学通路には鉄板が敷かれていた。見学者の靴底に着いた粘土質の土が鉄板の表面を覆い、滑りやすくなっていた。足元に注意しながら発掘現場に向かい、発掘場所の説明を受けた。出土した遺構は3種類のテープで表示されていた。一番古いのは白いテープで囲った難波大道の溝である。赤のテープは、難波大道が崩れて浸食された部分を示している。そして青いテープは難波大道が削り取られて耕作地に変わった後の畦畔(けいはん)を示しているとのことだ。
約17mの道幅は、古代の東山道・山陽道の9〜12mより格段に広く、現在の道路の4車線分に相当する。大和の下ツ道や山田道、あるいは藤原京の朱雀大路に匹敵する規模である。畿内中枢の官道であったことは、そのことからも容易に推定できるという。 難波大道の遺構のほぼ中央に大畦畔の跡が示されていた。平安時代にこの官道が廃絶になった後、付近一帯は条里制に基づいた地割りを行なって耕作地に変えられた。その時の大道の中心が畦畔として残され、大道当時の盛土がそのまま残っているという。 難波大道の復元ルートを地図上に引いてみると、興味深いことが分かるという。古くはこの官道は摂津と河内の国境になっていた。現在でも大阪市の住吉区と東住吉区、および堺市と松原市の境界になっているとのことだ。
さらに、このルートの幹線道路はもっと以前から築かれていたことを予想させる記述が『日本書紀』にある。仁徳天皇14年の条に、「大道を京中に作る。南門より直に指して丹比邑に至る」とある。これが「大道」という呼称の初出である。仁徳天皇の宮居は難波高津宮(なにわのたかつのみや)に置いたとされている。現在の大阪市中央区のどこかとされている。その宮の南門を出て、まっすぐ南に進めば丹比邑(たじひむら)に達するという。丹比村の近くには何があったか。仁徳天皇が生前に築造を命じた舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)、すなわち仁徳天皇陵である。
もとより、その道が17m幅であった必要はない。細々とした道として7世紀の初めまで存続していたとすれば、推古天皇は613年にその道を拡張整備することを命じたことであろう。それまで外国使節を都に招くにも大和川の水運を利用するのが主だった。だが、大和川には亀の瀬という難所がある。難波津から陸路で飛鳥に到着できれば、これに超したことはない。天皇は隋から帰国した小野妹子らから、隋の完備した道路網の話を聞いていたであろう。対外的には王権の権威の象徴として官道の整備を目指したとしても当然である。
飛鳥と難波を結ぶ交通路を重視したのは、おそらく壬申の乱に勝利した天武天皇であろう。彼は王都を滋賀の大津から飛鳥に戻し飛鳥浄御原宮を王都とした。そして、難波の地を重用視して難波宮を副都とする詔を683年に出している。その詔を受けて難波と飛鳥を結ぶ官道の整備が行われたものと思われる。難波大道はこうした歴史の紆余曲折を経て、最終的には幅17mの幹線道路として整備されたのではなかろうか。 |