平成20年5月24日

大和川今池遺跡:
遂に姿を現した幻の古代官道・難波大道(なにわだいどう)

大和川今池遺跡の発掘調査地付近
大和川今池遺跡の発掘調査地付近(*)

古代の国道の謎、現代の高速道路にも匹敵する幅広の直線道路

難波大道復元ルート(*)
難波大道復元ルート(*)
全ての道はローマに通ず」 。フランスの詩人、ラ・フォンテーヌの有名な言葉である。ローマ帝国の全盛期、世界中のすべての道はローマに通じていた。そのことから、物事が中心に向かって集まることを比喩した言葉だそうだ。ローマを例に出すまでもなく、道路が国家にとって必要不可欠なインフラであることは今も昔も変わりはない。

が国の古代国家も例外ではない。国を維持して行くためには、費用がかかる。その費用は租税として集められた。貨幣経済が発達する以前、租税は現物で徴収し、それを地方の役所から中央の役所まで運搬させられた。そのためには地方から都に通じる道路網の整備が不可欠である。毎年、日本の各地から何万という人々が租税として納められる米や庸布など各種の調を担って、整備された道路を往復したにちがいない。

方、国家は他国から侵略されたり、地方で反乱が起きると、これを鎮定しなければならない。そのためには、軍隊が通れる道が整備されていなければならない。時には何万という兵力を短期間で派遣することもあっただろう。そのためには、道路はそれなりの幅をもった軍用道路としても機能しなければならなかったはずだ。

和の古道には、自然の地形に沿って築かれた山の辺の道のような自然道ももちろん存在した。自然の地形を利用して真っ直ぐに作られた斜向道路もあった。だが、驚くべきは、自然の地形に関係なく、奈良盆地を東西南北に走る直線道が築かれていたことだ。南北に縦走する直線道には上ツ道、中ツ道、下ツ道があった。東西に横断する直線道には横大路があった。

かも、これらの直線道路は半端な広さではない。例えば、下ツ道は奈良盆地の南端から北端まだ約25kmの間を真一文字に結ぶ直線道路であり、その幅員は約23mと推定されている。場所によっては40m以上もあったという。藤原宮の北を東西に走る横大路も35mと広かった。上ツ道の道路の規模は不明っだが、藤原京跡で見つかった中ツ道は溝を含めた全体幅は約30m、路面幅は25mもあった。

古代官道と宮都(*)
古代官道と宮都(*)
良盆地を走るこれらの直線道路にはさまざまな疑問がある。まず、現代の高速道路にも匹敵する幅広の道路が、しかも自然の地形を無視して直線道路として建設された理由が分からない。路面幅23〜25mの道路と言えば、小型ジェット機が離着できる滑走路幅にも匹敵する道路である。

時の都が置かれていたのは、奈良盆地南端の飛鳥。やがて下ツ道と中ツ道は藤原京建設計画の基本線となっていくが、これらの道路が築かれた頃、まだ藤原京など影も形もなかった。地方からの年貢を都に運ぶ交通路と考えても、大量の兵隊を移動させる軍用道路と考えても、あまりに巨大である。

の疑問は、これらの官道の建設時期である。下ツ道・中ツ道・上ツ道の3本の官道を築くのは大変な土木事業だった。日本の各地から何万という人民が徴発されたはずだが、『日本書紀』には関係する記述は見あたらない。

日本書紀』の記述から、壬申の乱(672年)の際に、大海人皇子(おおあまのみこ)方の将軍・大伴吹負(おおとものふけい)が上・中・下の3道に軍を配し、自らは中ツ道に陣したことが、良く知られている。したがって、壬申の乱以前に建設されたことは確実だ。

平成15年6月に藤原京跡で発見された中ツ道
平成15年6月に藤原京跡で発見された中ツ道
が、いつ頃までさかのぼれるのかと聞かれると、専門家でも7世紀初め頃と漠然とした推測を述べるにとどまっている。『日本書紀』には、推古天皇21年(613)に「難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く」との記述がある。しかし、この大道は難波津から竹内街道を経て横大路につながる東西幹線道路のことだ。この記述がヒントになって、南北幹線道路の建設を7世紀初め頃と推測しているのであろうが、確固たる根拠にはなり得ない。

日本書紀』にはもう一カ所、孝徳紀白雉4年(653)6月に「百済・新羅、使いを遣わして貢ぎ物を献上す。処処(ところどころ)の大道(おほち)を修治(つく)る」と記している。処処(ところどころ)の大道とは具体的に何処を指すのか明らかでないが、この記述を根拠として下・中・上ツ道が7世紀半ばに築かれていたのは確実だとする説もある。

かし、『隋書』倭国伝には推古16年(607)4月に倭王が隋使・裴世清(はいせいせい)と相見(あいまみえ)た時の喜び言葉を載せているが、その中で「今故らに道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と言っている。つまり、隋の大使を迎えるにあたって迎賓館があった海柘榴市(つばいち)から小墾田宮までの道を清め、迎賓館を飾って大使の到着をお待ちしていましたというのである。

古代の官道を往く古代人たち
古代の官道を往く古代人たちのイメージ
うした『隋書』の内容を考慮すれば、白雉4年の記述も百済と新羅の遣使を迎えるにあたって、難波津にあった百済館や新羅館から難波宮までの道を修理して飾ったという意味にとれなくもない。そもそも孝徳天皇の宮は難波にあった。飛鳥の地は大化の改新で捨て去った王都だった。その王都に連なる3道を作ったとしたら、その目的が不明である。

・中・上ツ道の3道が建設された可能性がある時期は、孝徳天皇の死後、655年に再び皇位に就いた斉明天皇の時代かもしれない。『日本書紀』によれば、この女帝はあちこちに宮と大規模な石造庭園や運河を建設、民衆を苦しめたことで知られている。あるいは飛鳥を石の都に作り替えたかったのかもしれない。そのためには、修羅(しゅら)で各地から巨大な岩を運んでこなければならない。その運搬には広い直線道路がまず必要だったのかもしれない。

メデイアに公表された写真
メデイアに公表された「難波大道」の写真
のように、下・中・上ツ道はその建設目的も建設時期も筆者にとっては謎のままである。そこで、古代の道路についてすこし勉強してみたいと思っていた矢先に、思いがけないニュースが飛び込んできた。去る20日、大阪府文化財センターは、堺市と松原市にまたがる大和川今池遺跡で古代の官道「難波大道(なにわだいどう)」の遺構の一部を新たに見つけたと発表した。道幅は約17mあり、7世紀中ごろに造られた可能性が高いという。メデイアに公表された写真では、道路幅を示すために9人の作業員が両手を広げて並んでいた。

聞の報道によると、難波大道は、大阪市中央区にあった前期難波宮(645〜686年)の中心から、真南に直線的に伸びる古代のいわゆる国道である。専門家は、645年の大化改新後の遷都に伴い、主要な交通網として整備された官道とみているようだ。その現地説明会が本日午後1時から行われるというので、悪天候の中を出かけてきた。



大和川今池遺跡で古代の官道「難波大道」の遺構の一部が出土

駅前で配布してくれた現場までのアクセス道路
駅前で配布してくれた現場までのアクセスマップ
年の梅雨入りは例年に比べて遅い。それでも沖縄地方はようやく昨日あたりから梅雨入りしたそうだ。本日は梅雨前線の影響で近畿地方の天気は午前中は曇り、正午ごろから雨になるとの予報がでていた。大和川今池遺跡での現地説明会は午後1時から予定されている。雨の日にぬかるんだ足場の悪い発掘現場で傘をさしながら説明を聞くのは、楽しいことではない。行くべきか、止めるべきかずいぶん迷った。

った末に、天気予報が外れることに期待して、やはり出かけることにした。難波大道が現在の地形のどの辺りに築かれていたのか興味があった。現場事務所に電話して最寄りの駅を確認すると、近鉄南大阪線の「河内天美」駅だという。しかも、現場は駅から徒歩で25分はかかるとのことだった。大和川左岸の堤防の脇で発掘調査が行われており、交通の便は余り良くない。

車が「河内天美」駅に到着する少し前から、雨のしぶきが窓に吹きかけるようになった。当たって欲しくない天気予報が、皮肉にも本日はピタリと当たった。駅の改札を出ると、現説会場までの案内の標識を胸にかざし傘をさした係員が、アクセスマップを渡してくれた。

大和川に架かる行基大橋 現地説明会会場の入
大和川に架かる府道26号線の行基大橋 現地説明会会場の入口

ばらく電車の線路沿いに進んで、突き当たりを左に折れて、府道26号線の「天美西5丁目」交差点まで進んでください、と係員は説明してくれた。後は、大和川に架かる行基大橋のたもとまで進み、大和川左岸の堤を川下に向かって歩いていけば、発掘現場に出ます、という。

はまだ小降りだったが、風が出てきた。横殴りの雨を傘で防ぎながら、雨に濡れた歩道を歩いた。途中の何カ所かに道案内の係員が立っていた。「見学者の出足はどうですか」、と聞いてみたが、「この天気ですから」との返事が一様に返ってきた。交通の便が悪い上に、雨模様の天気である。どうやら見学者はそう多くはないらしい。

現地説明会の会場
現地説明会の会場

地説明会の会場には午後12時45分に着いた。受付で資料を受けとって前方を見ると、説明板の前と発掘現場の二カ所ですでに説明会が始まっていた。天候が心配なので、予定を少し早めて第一回目の説明会を始めたという。


付を済ませて坂道を下っていくと、途中にテントがあった。テントの中では、発掘調査中に出土した須恵器と土師器の破片が展示されていた。難波大道の両側の側溝から出土した土器片である。ほとんどは細かく砕かれている。展示しているのは出土品の一部だけだろうと思ったが、聞いてみるとこれで全部だという。意外に少ない。天下の官道沿いには民家はなかったのだろうか。

下り坂の途中にあるテント 出土した土器片
下り坂の途中にあるテント 出土した土器片

波大道の復元ルート図などを貼りだしたボードの前で、大和川今池遺跡の発掘を担当している○○さんが、実に歯切れの良い声で、発掘経緯などを説明してくれた。彼女の説明を要約すると次のようになる。

パネルで難波大道の経緯を説明する係員 張り出された歴史年表
資料を張り出したボードの前で難波大道の 
経緯を説明する発掘調査担当
張り出された歴史年表

過去の発掘箇所
過去の発掘箇所
波大道とは、大化の改新後に遷都した難波宮から南に直進する古代の官道で、難波宮と現在の堺市北区新金岡町付近を結ぶ長さ約11キロの道路だった。古代、この官道は、河内と大和を東西に結ぶ大津道(おおつみち)につながり、さらにその南2キロで、仁徳天皇陵古墳の北付近から発する丹比道(たじひみち)とつながっていた。その南端がどこまで続いていたかは不明だが、大津道や丹比道から東へ向かえば、大和盆地を東西に横切る横大路に出ることができる。ちなみに大津道は後の長尾街道、丹比道は後の竹内街道の古称である。

波宮と大津道あるいは丹比道を結んだこの幹線道路は、実はその敷設時期も名称も古代文献に伝わっていない。そこで、敷設時期は新しく遷都した難波宮とそれまで王権が存在した飛鳥地方をむすぶために、前期難波宮(645〜686年)の造営工事と一体となって敷設されたのではないか、と推定されている。しかし、道路の名称も本来の場所も、長い年月の中で忘れさられ、現代に伝わっていない。

阪市の天王寺区には現在も「大道」という地名が残っている。こうした事実を根拠に、この官道の存在を推定したのは京都大学教授の岸俊男氏と足利健亮氏である。1975年(昭和40年)のことだった。両氏の推論を裏付ける道路の側溝跡が、1978年度から1979年度に行われた大和川今池遺跡の発掘調査で出土した。特に1979年度の調査では、約18mの間隔で平行する2本の溝が見つかり、溝に挟まれた部分が人為的に整地されていた。その中心線を北に延長すると、難波宮の中軸線と一致することがわかった。そこで、『日本書紀』の推古天皇21年(613)11月条に記された「難波より京に至るまでに大道(おほち)を置く」との記述から、この南北道を「難波大道」と命名された、

今回の発掘現場
今回の発掘現場(*)
溝の一部は、1994年度の発掘調査でも見つかっている。しかし、南北方向46mに渡って難波大道の側溝が検出されたのは、今回の発掘が初めてである。

述のように両側の側溝から少量の土器片が出土している。これらの土器の年代から推して、難波大道は飛鳥時代以降に建設されたが、平安時代頃には廃絶されたようだ。廃絶後は条里制に基づいた地割りが行われて大道の中央に南北方向に大畦畔が作られ、付近一帯は耕作地に変わってしまったという。しかし、大畦畔部分に難波大道当時の盛土が残っていた。






発掘状況を説明する調査員a
発掘状況を説明する調査員

学通路には鉄板が敷かれていた。見学者の靴底に着いた粘土質の土が鉄板の表面を覆い、滑りやすくなっていた。足元に注意しながら発掘現場に向かい、発掘場所の説明を受けた。出土した遺構は3種類のテープで表示されていた。一番古いのは白いテープで囲った難波大道の溝である。赤のテープは、難波大道が崩れて浸食された部分を示している。そして青いテープは難波大道が削り取られて耕作地に変わった後の畦畔(けいはん)を示しているとのことだ。

西側溝跡 東側溝跡
西側溝跡 東側溝跡

大道中央に作られた大畦畔
大道中央に作られた大畦畔
掘された道路遺構は南北方向に一直線に延びている。道の両側には排水のための側溝が築かれていて、道幅は約17m、両側溝の中心間の幅は18.5mになるという。東側溝の規模は幅2.0〜2.9m、深さ0.1〜0.7m、西側溝は幅1.5〜1.7m、深さ0.3〜0.7mとのことだ、道路が造られた当時の路面は後世の耕作によって削り取られていた。

17mの道幅は、古代の東山道・山陽道の9〜12mより格段に広く、現在の道路の4車線分に相当する。大和の下ツ道や山田道、あるいは藤原京の朱雀大路に匹敵する規模である。畿内中枢の官道であったことは、そのことからも容易に推定できるという。

波大道の遺構のほぼ中央に大畦畔の跡が示されていた。平安時代にこの官道が廃絶になった後、付近一帯は条里制に基づいた地割りを行なって耕作地に変えられた。その時の大道の中心が畦畔として残され、大道当時の盛土がそのまま残っているという。

波大道の復元ルートを地図上に引いてみると、興味深いことが分かるという。古くはこの官道は摂津と河内の国境になっていた。現在でも大阪市の住吉区と東住吉区、および堺市と松原市の境界になっているとのことだ。


りの電車の中で、先ほど見学した難波大道がなぜ築かれたのか、少し考えてみた。専門家は前期難波宮の造営と同じ頃敷設されたと推測するが、その起源はもっと古いに違いないと思われたためだ。推古天皇21年(613)11月に築かれたとされる「難波より京に至る大道(おほち)」が史実ならば、当時の難波津から南下して古道の大津道や丹比道と連結する官道は、まさに「難波大道」だったはずだ。

らに、このルートの幹線道路はもっと以前から築かれていたことを予想させる記述が『日本書紀』にある。仁徳天皇14年の条に、「大道を京中に作る。南門より直に指して丹比邑に至る」とある。これが「大道」という呼称の初出である。仁徳天皇の宮居は難波高津宮(なにわのたかつのみや)に置いたとされている。現在の大阪市中央区のどこかとされている。その宮の南門を出て、まっすぐ南に進めば丹比邑(たじひむら)に達するという。丹比村の近くには何があったか。仁徳天皇が生前に築造を命じた舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)、すなわち仁徳天皇陵である。

世紀後葉に築かれた全長486mを誇る我が国最大の前方後円墳が、仁徳天皇の寿陵であったならば、天皇は生前に何度も輿に載って造営中の墓の視察に出かけたはずである。そのためのルートとして、難波高津宮から一直線に丹比邑に達する道路の建設を墓の築造と同時に命じたと仮定することは可能であろう。

とより、その道が17m幅であった必要はない。細々とした道として7世紀の初めまで存続していたとすれば、推古天皇は613年にその道を拡張整備することを命じたことであろう。それまで外国使節を都に招くにも大和川の水運を利用するのが主だった。だが、大和川には亀の瀬という難所がある。難波津から陸路で飛鳥に到着できれば、これに超したことはない。天皇は隋から帰国した小野妹子らから、隋の完備した道路網の話を聞いていたであろう。対外的には王権の権威の象徴として官道の整備を目指したとしても当然である。

45年6月、乙巳の変で蘇我本宗家を討ち滅ぼした中大兄皇子中臣鎌足らは、軽皇子を孝徳天皇として登極させ、その年の暮れにあわただしく都を難波長柄豊碕に遷した。以来9年間、孝徳天皇が崩御する654年まで難波長柄豊碕宮は王都だった。識者の中には、この期間に難波大道を一層整備したのだろうと推測する向きもあるようだ。しかし、筆者はその説に組みしない。大化改新派にとって、飛鳥は棄てた王城の地である。

鳥と難波を結ぶ交通路を重視したのは、おそらく壬申の乱に勝利した天武天皇であろう。彼は王都を滋賀の大津から飛鳥に戻し飛鳥浄御原宮を王都とした。そして、難波の地を重用視して難波宮を副都とする詔を683年に出している。その詔を受けて難波と飛鳥を結ぶ官道の整備が行われたものと思われる。難波大道はこうした歴史の紆余曲折を経て、最終的には幅17mの幹線道路として整備されたのではなかろうか。



(*) 現地説明会資料より転記

2008/05/26作成 by pancho_de_ohsei return