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| 春期特別展のポスター |
■ 現在、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)の附属博物館では、「はにわ人と動物たち」と題する春期特別展が開催されている。特別展の開催期間中、橿考研は聴講無料の研究講座を一階講堂で適宜開設する。
■ 本日は研究講座二日目で、橿考研の鈴木裕明氏の「威儀具を形象した埴輪と木製品」と題する講座と、専修大学・前橋国際大学講師の右島和夫氏「埴輪から見た畿内と東国」と題する講座が予定されていた。
■ 以前、上州名物の空っ風が吹きすさぶ日に、埴輪で知られる群馬県の古墳を幾つか探訪したことがある。畿内と東国の埴輪にどのような違いがあるのか興味があったので、午後からの研究講座を聴講した。
6世紀になって関東地方の地域的特徴を示す前方後円墳と埴輪群像
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| 講演される右島和夫氏 |
■ 東国古墳時代研究の第一人者である右島和夫氏は、講演の冒頭で興味深い指摘をされた。古墳時代に現在の関東地方が地域的なまとまりを明確に示すようになるのが、6世紀とりわけその後半で、地域的特殊性を顕著に示す遺物は、前方後円墳とその墳丘を飾った埴輪であるという。
■ 畿内では赤坂天王山古墳や牧野(ばくや)古墳の例に見られるように、6世紀の第四半期になると、畿内の有力な古墳は前方後円墳から大型の方墳または円墳に変わり、前方後円墳の築造の終焉を迎えるようになる。ところが、関東地方では、この時期になると前方後円墳築造の最大のピークを迎えるという。
■ 3世紀の後半にヤマト王権が畿内に成立するとともに、その墓制として前方後円墳を採用したというのが一般の理解である。したがって、前方後円墳を築くことができたのは、大王をはじめとする王族やヤマト王権を支える中央豪族の首長、あるいはヤマト王権に服属した地方豪族の首長に限定されていた。だが、関東地方では事情が違う。
■ そのことを証明するために、右島氏は白石太一郎氏の研究成果を例にひかれた。白石氏によれば、6世紀に築かれた墳丘長50m以上の前方後円墳の数は次の通りである。
| 近畿地方 | 大和:20 | 河内:12 | 和泉:0 | 摂津:2 | 山城:5 | |
| 関東地方 | 上野:97 | 下野:16 | 常陸:38 | 下総:11 | 上総:28 | 武蔵26 |
■ この表を見る限りでも、6世紀当時、関東地方で活発に前方後円墳が築かれていた様子が分かる。右島氏はさらに、全長が50m未満の前方後円墳まで含めた数値を上げられた。それによると、下野地域で224基、上総・下総地域でも730基のもあるとのことだ。
■ このことは何を意味するか。近畿では王権の権威の象徴とされてきた前方後円墳がその終焉を迎えた頃、東国では主要豪族だけでなく弱小の中小豪族たちも、中央の許可無しであこがれの墓制を模倣することが可能になったようだ。右島氏の言葉を借りれば、”前方後円墳の築造対象が確実に下位の階層にまで及んでいた”ことになる。
■ こうした古墳は装身具や武器、武具、金属容器などを含む豪華で豊富な副葬品を伴う。おそらく畿内から関東からもたらされたものであり、その背景に関東地方の諸勢力がヤマト政権の軍事的基礎を担うようになったことがあるようだ。
■ 例えば、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)という人物が『日本書紀』の継体紀に登場する。継体21年(527)、彼は新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく6万の兵士を授けられ任那への赴任を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。
■ 近江の豪族として毛野氏がいたという話は聞かない。現在の群馬県・栃木県に当たる毛野(けぬ)国にいた上毛野(かみつけぬ)氏の一派が近江に移り住んで、近江毛野氏を称したのではないかと考えられる。上毛野氏の人々は神功紀・応神紀・仁徳紀の中で何度も朝鮮半島に渡って外交交渉や軍事行動に当たっているので、近江毛野臣の半島派遣もその延長線上のものと考えることが出来る。このように関東地方の豪族が、当時の大和政権の軍事を支えており、戦争で功をあげるたびに大和政権から様々な文物を下賜されたのであろう。それが副葬品として古墳に埋納された。
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| 保渡田八幡塚古墳 |
■ 6世紀後半における前方後円墳の盛行とともに、この時期の東国を特徴づけている遺物が埴輪だそうだ。右島氏によれば、関東地方の埴輪の地域性の起点とあったのは、5世紀後半における人物埴輪や動物埴輪の登場だそうだ。その代表的な古墳として、群馬県群馬郡にある保渡田(ほとだ)古墳群の中にある八幡塚古墳を上げられた。この古墳は全長85mの5世紀末から6世紀前半に築造されたと推定されている前方後円墳である。
■ 八幡塚古墳は、昭和4年(1929)に最初の調査が行われた。そのとき中堤の上で円筒埴輪を並べた区画(約11m×5m)が見つかり、54体近くの武人・鷹匠・巫女・農夫・馬などの人物埴輪や動物埴輪が一定の順序で配置されていた。そのことが八幡塚古墳を一躍有名にした。その後、出土した埴輪の約半分は失われてしまった。現在復元されている埴輪群は、現存資料や記録類、新たな出土資料を検討した上で、想定復元したものである。
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| 中堤の上に配置された埴輪群 |
男性に酒を捧げる巫女 |
■ 古墳の中堤上に配された人物・動物埴輪の群像は、その配列に意味があり、被葬者が生前に行なった様々な儀礼の様子を、いくつかの場面で表しているそうだ。右島氏は特に言及はされなかったが、このように祭政や儀礼の場面を埴輪群像で復元して故人の遺徳を忍ぶ様子は、畿内でも行われていた。有名なものに、継体天皇の陵墓とされる今城塚古墳の内堤で見つかった埴輪祭祀場がある。
■ 継体天皇の没年は531年であるから、今城塚古墳の築造は6世紀前半の築造である。継体天皇の後を継いだ欽明天皇の墓には、埴輪で飾った形跡はなく、継体天皇陵は埴輪が並べられた最後の王陵ということになる。こうした風習は継体以前に畿内で行われていたであろう。八幡塚古墳の被葬者は、己の墓を飾るためにこうした埴輪による儀礼場面を取り入れたことになる。
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| 水鳥たち |
飾り馬 |
■ こうした関東地方における6世紀の古墳の特徴について、右島氏は面白い比喩を示された。明治の文明開化で日本はさまざまな西洋文化を取り入れたが、何でもかんでもそのまま取り入れた訳ではない。自分たちの従来の文化や風習に同化できそうなものを取捨選択して取り入れた。それと同じように、古墳時代の東国人は中央の畿内の文物として前方後円墳や埴輪装飾を、己たちの裁量で選択して取り入れたにちがいない、とのことだ。
塚廻り4号墳に見る上野形埴輪の組成と配置形態
■ 群馬県太田市龍舞町には田園の中に塚廻り古墳群があり、現在その4号墳が復元されている。帆立貝式の全長22.5mにすぎない小さな古墳で、築造時期は6世紀中頃と推定されている。この古墳の墳丘部から円筒、朝顔形円筒、家形、器財、人物、馬など合計304体の埴輪が出土している。
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| 後円部に並べられた太刀形埴輪 |
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| 前方部に配置された人物埴輪群 |
■ 現在、この古墳には発掘調査によって明らかになった埴輪を忠実に復元製作し、当時の姿に再現されている。円筒埴輪で囲まれた後円部には、太刀形埴輪や盾形埴輪が一定間隔で並べられ、死者の霊を護っている。前方部は円筒埴輪で囲まれた空間に人物埴輪や馬の埴輪が配置されている。これらの埴輪群は、葬送の祭り、すなわち死者の魂を鎮め、死者の生前の権威を継承する世代交代の儀式を表しているという。
■ 前方部の埴輪は、三つの場面を表現していると考えられている。祭りを仕切る巫女(みこ)と宴席を盛り上げる女子たちを表した場面、誄(しのびごと)を奏上しながら、ひざまづく男子とその後ろにひかえる男子たちによる祭式を表した場面、そして、2体の馬と2体の男子からみられる馬飼いという職業集団を表した場面だそうだ。
■ このように、埴輪群の配列の様子が明らかにできる例は、非常に珍しい。当時の葬送儀礼の様子や生活風習などを良く伺い知ることができ、6世紀中頃の小古墳の埴輪祭祀の考える上で、好個の資料を提供している。 右島氏は、この塚廻り4号墳の埴輪を上野(こうずけ)形埴輪の組合せと形態が成立した時期と捉えておられる。
6世紀後半に大ピークを迎えた時期を代表する綿貫観音山古墳の埴輪
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| 綿貫観音山古墳 |
■ 高崎市綿貫町にある観音山古墳は、烏川と井野川の合流点から井野川を2キロメートルさかのぼった右岸台地に築かれた全長97.2mの前方後円墳である。築造時期は6世紀末と推定されている。1967年に古墳がある一帯を桑園化する計画が起こったため、明治大学の協力を得て、県教委が緊急に発掘調査し、未盗掘の横穴式石室から膨大な遺物が発見された。
■ 埴輪は中段平坦面と墳頂部に配置されていた。人物埴輪は主に石室入口側の中段平坦面に配置されていた。石室入口部に靫負、三人童女、巫女、楽人などのグループ、くびれ部に貴人、武人などの人物群が配列されていた。
■ 前方部では側部に盾と円筒列が並び、両コーナーには馬、中央には農夫の埴輪が置かれていた。東側は円筒列がめぐらされていたが、形象埴輪の存在は明らかではない。また前方部の頂部には家、後円部頂部には家、器財、鶏形埴輪があった。周堀は盾形で2重にめぐらされていた。
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| 綿貫観音山古墳出土の首長の姿 |
■ これらの埴輪群は、関東地方で埴輪祭式が最も発達した時期のものを表しているとされている。6世紀末といえば、中央では蘇我馬子が飛鳥寺の建立を開始しており、聖徳太子が推古天皇の摂政として登場してくる時期である。前方後円墳とともに登場した埴輪は、畿内ではその役割を終えていた。しかし、関東地方では6世紀の後半になってそのピークを迎えている。
■ その様相は、例えは悪いが、周回遅れで競技場に入ってきたマラソンランナーのようだ。観客はやっと地元に根付いた文化を称えるように、周回遅れのランナーに惜しみない拍手を送っていたにちがいない。
2008/05/19作成 by pancho_de_ohsei
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