平成20年5月17日

キトラ古墳の被葬者は朱塗りの木棺に納められていた!?

明日香村埋蔵文化財展示室で開催中の高松塚古墳記録写真展

在、飛鳥資料館では平成20年度春期特別展「キトラ古墳壁画十二支−子・丑・虎−」を開催している。特に5月9日から25日までの期間限定で、キトラ古墳の十二支の獣頭人身像のうち子(ね)・丑(うし)・虎(とら)の壁画を一般向けに特別公開している。それを記念して、同じ明日香村にある万葉文化館で記念講演会が行われるというので出かけてきた。

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明日香村埋蔵文化財展示室に
置かれているキトラ古墳石室の模型
念講演会の聴講は予約制だったので事前に葉書で申し込んでおいた。幸い聴講券が送られてきて、一枚で2名まで聴講できるとのことだった。知人のT.Y君に声を掛けると、まだ壁画を見ていないとのことだったので、午前中に壁画を見て、午後から万葉文化館へ回ることで出かけた。

前11時に飛鳥資料館に到着すると、驚いたことに「90分待ち」の表示が出ている。9日の初日に訪れた時は閑散としていた資料館が、まるで嘘のような盛況だった。T.Y君を見ると、盛んに手を横に振っている。90分も並んで待つのはまっぴらだという仕草だった。


高松塚の発掘の変遷をたどる記録写真展
高松塚の発掘の変遷をたどる記録写真展
い二人とも自転車で出かけてきたので、万葉文化館に行く前に明日香村埋蔵文化財展示室に立ち寄った。展示室の一画で、高松塚古墳の発掘調査の成果をたどる記録写真展が開かれると聞いていた。発掘前の墳丘の姿から、石室すべてが解体されるまでの変遷を約40点の写真で示していた。

れぞれのボードに6枚ずつ貼られた写真は、カビの発生原因を調査するため封土を剥いでから以降の古墳の様子を映し出していた。2005年2月27日に現地説明会が行われ、封土を剥いだ状態の高松塚古墳が一般に公開された。まるで髪を切られ頭皮を剥がされて惨めな姿に変わってしまった高松塚古墳の様子は、「橿原日記」でもレポートしたことがある。

松塚古墳の壁画を劣化させた原因の一端は、その保管を委託された文化庁の情報非公開の体質にあった。そのことに対して文化庁は世論から非難の集中砲火を浴びた。「羮に懲りて膾をふく」の例えではないが、文化庁はその後どうでもよい情報まで含めてさまざまな情報を公開するようになった。

うした姿勢をここでも見ることができる。文化庁としては、これらの写真を公開することで、発掘調査を真剣に取り組んできたことを一般に開示しているつもりかもしれない。1973年4月、前年に発見されたばかりの高松塚古墳を文化庁は特別史跡に指定した。さらに翌年の1974年4月には、その中の壁画4面を国宝に指定した。見方を変えれば、自らが特別史跡や国宝に指摘した国の文化財を、文化庁自身が自らの手で破壊した証拠写真でもある。

輪郭すら見えなくなった西壁の白虎 黒い涙を流す西壁の飛鳥美人
輪郭すら見えなくなった西壁の白虎 黒い涙を流す西壁の飛鳥美人

ードの裏側に回ると、そこには石室解体前に撮影したと思われる壁画の写真も展示されていた。すでに輪郭すら見えなくなった白虎の哀れな壁画の写真があった。白虎と同じ西壁に描かれながら、カビで目尻の下に黒いシミができた飛鳥美人の姿もあった。この写真を新聞で見たとき、「ああ、飛鳥美人が泣いている」と、壁画の劣化に驚かされたものだ。



万葉文化館で行われた「キトラ古墳壁画十二支 子・丑・寅記念講演会

化庁主催の記念講演会は、万葉文化館の企画展示室で午後2時から開催される。講師は明日香村教育委員会文化財課主事の相原嘉之氏と東京文化財研究所保存修復科学センター副センター長の川野邊渉氏である。相原氏は「キトラ古墳の発掘調査」と題して、キトラ古墳の発掘調査開始から壁画剥ぎ取りまでの調査の歴史を概説される。川野邊氏は「キトラこの一年」ど題して、壁画剥ぎ取りの苦労を話されるとのことだ。

付開始の午後1時半まではまだ時間があったので、資料館の庭に設けられた野外ステージに腰掛けて昼食を取った。途中のスーパーで買ってきた握り飯である。風薫るこの時期、初夏の陽射しが降り注ぐ庭園を渡る風が肌に心地よい。木々の間に張られたロープに二匹の鯉のぼりが吊されていて、風を受けるたびに、ゆっくりと胴体を膨らませながら尻尾を持ち上げる。野外ステージの横に植えられたヤマボウシが白い花をつけていた。

特別記念講演会の会場
特別記念講演会の会場
後2時に予定通り特別記念講演会が始まった。広い特別展示室も開始直前にはほぼ満席になっていた。最初に演壇に立たれた相沢氏は、スライドを使ってキトラ古墳発掘調査の歴史を概括された。

トラ古墳は下段が直径13.8m、上段が直径9.4m、高さが3.3mの2段築成の円墳である。1978年頃にはその存在が知られるようになったが、すでに平安時代末から鎌倉時代に盗掘されていた。最初に行われた内部調査で壁画の存在が確認されたが、漆喰が剥がれそうになっていることが判明した。そのため、調査は時間をかけて慎重に行われてきた。1983年にはファイバースコープで、1998年には超小型カメラで、そして2001年にはデジタルカメラで石槨の内部撮影が行われた。

剥離された玄武 剥離された白虎
剥離された玄武 剥離された白虎

の結果、玄武、青竜、白虎、朱雀が描かれ、さらに、星に金ぱくを張り付けて星宿図が天井に描かれていることを確認された。2002年1月になると、十二支の寅とみられる獣頭人身像が描かれているのが確認された。いずれの発見も、その都度マスコミの話題を誘った。飛鳥地方では高松塚古墳に続く2例目の彩色壁画古墳として、まだ発掘調査が実施される前の2000年に、はやばやと専門家からなる「キトラ古墳周辺地区基本計画委員会」を設置された。そして、施設計画や管理運営計画などについて検討が加えられている。

トラ古墳の壁画は、漆喰が石材から剥離した部分があり、今にも崩落しそうに見えた。そのため、専門家による慎重な検討の結果を踏まえ、平成2004年9月に、壁画を剥ぎ取った上で別の場所で修復しミュージアムで保管管理し公開する方針を決定した。その決定にしたがって、2004年から四神図や十二神図、天体図などの壁画を剥ぎ取り作業が進めてられてきた。

説明される相原氏 解説される川野邊氏
スライドで壁画発見時の様子を
説明される相原氏
スライドで壁画剥ぎ取りの苦労を
解説される川野邊氏

野邊氏は、過去1年間に実施された壁画剥ぎ取り作業の実際をスライドを介して説明された。石室の石面に塗られた漆喰が遊離して、漆喰が崩落してしまえば貴重な壁画が失われてしまう。そうした危惧のために早々と壁画の剥ぎ取りを決定したが、実際には漆喰が固着していて手作業で剥ぎ取れない箇所も多い。

室に残る天文図の「月像」(直径5・5センチ)は、漆喰が厚くはぎ取りは困難だった。そこで文化庁は対策を検討した結果、新開発の特殊機器「ダイヤモンド・ディスク」を使って「月像」を剥ぎ取ることにしたという。「ダイヤモンド・ディスク」とは、ダイヤモンド粒子を付着させたステンレス製の円盤を高速で回転させて漆喰を切断する特殊装置である。

新開発の特殊機器「ダイヤモンド・ディスク」
新開発の特殊機器「ダイヤモンド・ディスク」
際には、月像を含む一辺約9センチの漆喰片と石材の間にダイヤモンド・ディスクで切り込みを入れた後、ヘラではぎ取りに着手した。しかし、予想以上に漆喰が固かったため、ピアノ線を漆喰と石材の間に何本も差し込んですき間を広げ、壁画「朱雀」のはぎ取りで威力を発揮したダイヤモンドワイヤソー(直径0・3ミリ)を糸のこぎりのように手で動かして、下地の漆喰ごと剥がしたとのことだ。

の後は、石室天井に残る天文図の剥ぎ取りに着手し、4月半ば現在、7カ所で剥ぎ取りに成功し、天文図全体の約4分の1の剥ぎ取りが終わったとのことだ。現在も作業は続行している。一人だけでも狭い石室に二人の作業員が入り、一辺が10cmに満たない石膏片を天井石から剥がして行く作業は、側壁での作業以上に困難を伴うことは次々と映し出されるスライドからも容易に想像できる。繊細な注意が要求される作業に従事しているのは、おそらく若い女性であろう。すらりと伸びた品のよい指先で天井の石膏を押さえる作業員の手が印象的だった。



奈文研の調査でキトラ古墳内にあった棺は朱塗りだったことが判明

白虎
回の講演で、注意を払って拝聴した箇所は相原氏の講演の中で、石室の床面に堆積した土砂を採集した作業のやりかただった。というのは、キトラ古墳の被葬者が納められていた木棺が内外とも異例の朱塗りだったことが、奈良文化財研究所(以下、奈文研)の調査で明らかになった、と昨日の新聞各紙が報じていた。その根拠となったのが、4年前の発掘調査で石室床面から見つかった約1万点におよぶ細かな漆片だった、と聞いていた。

トラ古墳は鎌倉時代に盗掘されている。棺は破壊され、副葬品もほとんどが持ち出されていた。盗掘孔は南壁にあたる閉塞石の西側に穿たれていた。盗掘後にその孔から流入した土砂が堆積しており、奥の方でも3cmほど積もっていたという。

銅製の釘隠しと琥珀玉
銅製の釘隠と琥珀玉
棺の鐶座金具
棺の鐶座金具
室内の調査は、壁面を傷つけないように先ずフレームを組み立てることから始まった。フレームが完成した後、床面を幾つかの区画に区切って、床に堆積した土砂が取り除かれた。数ミリの粘土層と除去すると、その下に漆塗り木棺の断片が2〜5cmの層をなして堆積した。さらに、その下の粘土層が堆積していて、そこからは棺金具、刀装具、金銅製品、琥珀玉、ガラス玉、人骨などが出土したという。

塗の木棺は、木質部が腐食していたが、表面に漆が塗られた細かい断片として1万点近く床面の堆積層の中に埋まっていた。几帳面に採集したこれらの断片を奈文研が1年をかけて精査したところ、漆片には木材の表面に布を張り漆を塗った漆膜と、漆を直接塗った木製品の二種類があることが判明した。しかも、漆膜は黒と朱のほぼ同数であることも分かった。さらに、棺の側面に打ち付けた釘隠(くぎかくし)の裏側や、棺の縁付近の塗膜片などにも朱が付着していた。

  れらの調査結果を総合すると、木製品は黒漆を直接塗ったものと、布張りをしてその上に朱の漆を塗ったものが存在していたと思われ、奈文研は前者が棺を載せる棺台、後者が朱塗りの棺だったと推定した。しかも、釘隠(くぎかくし)の裏側などに朱色が残っていたことから、棺は内部だけでなく外側も水銀朱が塗られた棺だったことが判明した。


トラ古墳が築かれた頃の漆塗り棺は、外側が黒色、内側が朱色というのが一般的な理解である。内外面とも朱塗りとは異例と言わざると得ない。しかし、前例がないわけではない。天武・持統合葬陵は文暦2年(1235)3月20日に盗掘されたが、その時の盗掘犯の調書が残されている。「阿不幾乃山陵記(あぶきのさんりょうき)」という。

天武・持統合葬
雪の日の天武・持統合葬
の中に”御棺は張物なり。布以て張る。角を入るるなり。朱塗にして長さ七尺、広さ二尺五寸許り、深さ二尺五寸許りなり。御棺の蓋は木なり。朱塗なり”とある。この記述によって、天武天皇のものと考えられる棺は布と漆を重ね合わせた朱塗りの夾紵棺(きょうちょかん)だったことが分かる。

トラ古墳の木棺が朱塗りだったことは、被葬者を特定する手がかりになるものと思われる。朱は古代から、被葬者を邪悪なものから守る色として、木棺や石棺に塗られていた。

トラ古墳の被葬者については、さまざまな説が出されてきた。猪熊兼勝氏は、天武天皇の皇子の高市皇子説を唱えておられる。一方、白石太一郎氏や直木孝次郎氏は、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと主張している。さらに、千田稔氏は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げておられる。

室に堆積した土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を見つかっていた。2005年2月に頭がい骨の破片や歯の擦り減り具合を専門家が鑑定した結果、被葬者は40〜50歳代の男性で、50代の可能性が最も高く、あごの出た骨太で大柄の男性だったようだ。

たがって、キトラ古墳の築造時期である7世紀末から8世紀の初めに死亡した50歳代の男性の皇族または豪族に被葬者が絞られてくる。右大臣の阿倍御主人は大宝3年(703)閏4月に死亡したが、その時の年令は69歳であり、被葬者候補から除外される。

熊兼勝・京都橘大名誉教授は、天武天皇と同じ朱色の棺だったことから、キトラの被葬者は、皇太子と同等の高位にいた高市皇子の可能性が高まったとコメントしておられる。朱塗りの木棺は自説を補強する好材料だというわけである。確かに、高市皇子は696年に没していて、その点ではキトラ古墳の築造時期の範囲にある。しかし、皇子の没年は42〜43歳と言われており、遺骨の鑑定を重視するなら、やはり候補者から除外されるべきであろう。




2008/05/18作成 by pancho_de_ohsei return