明日香村埋蔵文化財展示室で開催中の高松塚古墳記録写真展現在、飛鳥資料館では平成20年度春期特別展「キトラ古墳壁画十二支−子・丑・虎−」を開催している。特に5月9日から25日までの期間限定で、キトラ古墳の十二支の獣頭人身像のうち子(ね)・丑(うし)・虎(とら)の壁画を一般向けに特別公開している。それを記念して、同じ明日香村にある万葉文化館で記念講演会が行われるというので出かけてきた。
午前11時に飛鳥資料館に到着すると、驚いたことに「90分待ち」の表示が出ている。9日の初日に訪れた時は閑散としていた資料館が、まるで嘘のような盛況だった。T.Y君を見ると、盛んに手を横に振っている。90分も並んで待つのはまっぴらだという仕草だった。
それぞれのボードに6枚ずつ貼られた写真は、カビの発生原因を調査するため封土を剥いでから以降の古墳の様子を映し出していた。2005年2月27日に現地説明会が行われ、封土を剥いだ状態の高松塚古墳が一般に公開された。まるで髪を切られ頭皮を剥がされて惨めな姿に変わってしまった高松塚古墳の様子は、「橿原日記」でもレポートしたことがある。 高松塚古墳の壁画を劣化させた原因の一端は、その保管を委託された文化庁の情報非公開の体質にあった。そのことに対して文化庁は世論から非難の集中砲火を浴びた。「羮に懲りて膾をふく」の例えではないが、文化庁はその後どうでもよい情報まで含めてさまざまな情報を公開するようになった。 そうした姿勢をここでも見ることができる。文化庁としては、これらの写真を公開することで、発掘調査を真剣に取り組んできたことを一般に開示しているつもりかもしれない。1973年4月、前年に発見されたばかりの高松塚古墳を文化庁は特別史跡に指定した。さらに翌年の1974年4月には、その中の壁画4面を国宝に指定した。見方を変えれば、自らが特別史跡や国宝に指摘した国の文化財を、文化庁自身が自らの手で破壊した証拠写真でもある。
ボードの裏側に回ると、そこには石室解体前に撮影したと思われる壁画の写真も展示されていた。すでに輪郭すら見えなくなった白虎の哀れな壁画の写真があった。白虎と同じ西壁に描かれながら、カビで目尻の下に黒いシミができた飛鳥美人の姿もあった。この写真を新聞で見たとき、「ああ、飛鳥美人が泣いている」と、壁画の劣化に驚かされたものだ。 |
奈文研の調査でキトラ古墳内にあった棺は朱塗りだったことが判明
キトラ古墳は鎌倉時代に盗掘されている。棺は破壊され、副葬品もほとんどが持ち出されていた。盗掘孔は南壁にあたる閉塞石の西側に穿たれていた。盗掘後にその孔から流入した土砂が堆積しており、奥の方でも3cmほど積もっていたという。
漆塗の木棺は、木質部が腐食していたが、表面に漆が塗られた細かい断片として1万点近く床面の堆積層の中に埋まっていた。几帳面に採集したこれらの断片を奈文研が1年をかけて精査したところ、漆片には木材の表面に布を張り漆を塗った漆膜と、漆を直接塗った木製品の二種類があることが判明した。しかも、漆膜は黒と朱のほぼ同数であることも分かった。さらに、棺の側面に打ち付けた釘隠(くぎかくし)の裏側や、棺の縁付近の塗膜片などにも朱が付着していた。 これらの調査結果を総合すると、木製品は黒漆を直接塗ったものと、布張りをしてその上に朱の漆を塗ったものが存在していたと思われ、奈文研は前者が棺を載せる棺台、後者が朱塗りの棺だったと推定した。しかも、釘隠(くぎかくし)の裏側などに朱色が残っていたことから、棺は内部だけでなく外側も水銀朱が塗られた棺だったことが判明した。 キトラ古墳が築かれた頃の漆塗り棺は、外側が黒色、内側が朱色というのが一般的な理解である。内外面とも朱塗りとは異例と言わざると得ない。しかし、前例がないわけではない。天武・持統合葬陵は文暦2年(1235)3月20日に盗掘されたが、その時の盗掘犯の調書が残されている。「阿不幾乃山陵記(あぶきのさんりょうき)」という。
キトラ古墳の木棺が朱塗りだったことは、被葬者を特定する手がかりになるものと思われる。朱は古代から、被葬者を邪悪なものから守る色として、木棺や石棺に塗られていた。 キトラ古墳の被葬者については、さまざまな説が出されてきた。猪熊兼勝氏は、天武天皇の皇子の高市皇子説を唱えておられる。一方、白石太一郎氏や直木孝次郎氏は、右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと主張している。さらに、千田稔氏は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げておられる。 石室に堆積した土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を見つかっていた。2005年2月に頭がい骨の破片や歯の擦り減り具合を専門家が鑑定した結果、被葬者は40〜50歳代の男性で、50代の可能性が最も高く、あごの出た骨太で大柄の男性だったようだ。 したがって、キトラ古墳の築造時期である7世紀末から8世紀の初めに死亡した50歳代の男性の皇族または豪族に被葬者が絞られてくる。右大臣の阿倍御主人は大宝3年(703)閏4月に死亡したが、その時の年令は69歳であり、被葬者候補から除外される。 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は、天武天皇と同じ朱色の棺だったことから、キトラの被葬者は、皇太子と同等の高位にいた高市皇子の可能性が高まったとコメントしておられる。朱塗りの木棺は自説を補強する好材料だというわけである。確かに、高市皇子は696年に没していて、その点ではキトラ古墳の築造時期の範囲にある。しかし、皇子の没年は42〜43歳と言われており、遺骨の鑑定を重視するなら、やはり候補者から除外されるべきであろう。 |