平成20年5月13日

あどけない人物埴輪の背後にある長い歴史

春期特別展の案内

その原始的な造形美と神秘さ故に多くの人に愛されてきた埴輪人

輪(はにわ)と聞くと、まず素焼きの人物埴輪を思い描く。切れ長や杏仁型の両目とわずかなに開いたおちょぼ口。まことにあどけない表情だが、その表情は時には神秘的であり、時には癒しを与えてくれる。博物館などで周囲に人影がなければ、筆者などはそっと頬に触れてみたい衝動にすらかられる。ザラついた素焼きの肌でも、ヒョッとしたら古代人のぬくもりが感じられるかもしれない。

物埴輪の表情に、現代の我々は原始的な造形美を感じるが、しかし、古代人が意図的にこうした表情を作り上げたわけではない。あの涼しげな目元も口元も、実は埴輪制作の必要に応じて開けられている。古墳時代、埴輪は野焼きの施設や登り窯で焼かれた。内部にしっかりと火が通るためには、空気の抜け穴がどうしても必要だ。そのため、埴土を成形した段階で、両目と口を竹のヘラなどでスパッと切り取ったのであろう。その切れ味は実に鋭い。

博物館前の春期特別展の案内
博物館前の春期特別展の案内
在、橿原考古学研究所の付属博物館では「はにわ人と動物たち」と題する春期特別展が開催されている。この特別展のサブタイトルは「大和の埴輪 大集合」となっている。サブタイトルの通り、大和の各地から出土した主要な埴輪を一堂に会して展示している。久しぶりに癒しの表情を浮かべる人形埴輪に対面したくなって、博物館を訪れた。



埴輪制作の歴史を追う

春季特別展のポスター
春季特別展のポスター
期特別展では、奈良県内の約70遺跡で出土した約220点の埴輪を展示し、古墳被葬者の鎮魂や死後の世界を表現した埴輪の世界を興味深く紹介している。古代人が残してくれた人形埴輪の原始的な造形美に会いたいと思って訪れた春期展示展だが、埴輪の歴史に関して実に多くのことを学ぶことになった。

うまでもなく、埴輪は日本の古墳時代に特有の素焼きの焼き物である。古墳の墳丘上に並び立てられた埴輪は、首長の墓を荘厳に見せるための単なる飾りではない。首長の葬送祭祀や墓前で行なう儀式と深く結びついて配置されていたことが、近年の研究で立証されてきている。

輪はその形態から円筒埴輪と形象埴輪に大別される。円筒埴輪の祖形は、弥生時代後期に吉備地方で造られていた特殊器台形土器と特殊壺形土器に求められ、器台のみを表した円筒埴輪と、器台の上に壺を載せた状態を表す朝顔形埴輪がある。これらの円筒埴輪は古墳の周りや中段を取り囲むように列をなして出土するここから、墳丘の崩れを防ぎつつ、古墳という西域を区画する目的で配置されたと考えられている。

方、形象埴輪は、家をかたどった家形埴輪、盾や甲冑などをかたどった器財埴輪(盾形埴輪、甲冑形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、囲形埴輪)、様々な動物をかたどった動物埴輪、それに巫女や武人をかたどった人物埴輪などに分類される。

物館では、これらの埴輪が同時に陳列されていることが多い。そのため、古墳は様々な埴輪で飾られていたと錯覚しがちだが、実は違う。たとえば、奈良県では形象埴輪は古墳時代前期後半になるまで出現しない。人物埴輪や動物埴輪の出現時期はさらにおそい。各形態の埴輪は、それぞれの目的に応じて、歴史的変遷の中で登場して来ているのだ。しかも、全ての古墳に埴輪が並べ立てられていたわけではない。埴輪が樹立されたのは、初期の頃は首長墓とされる帆立貝式古墳や前方後円墳に限られていた。

保渡田八幡塚古墳a
築造当時をイメージさせる復元古墳
(群馬県の保渡田八幡塚古墳)
輪の発生については、『日本書紀』に有名な伝承がある。”垂仁天皇28年冬10月5日、天皇の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなり、翌月にその亡骸を身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂)に葬った。その際、それまでの風習で近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。

かし、数日たっても彼らは死なず、昼夜泣き呻めいた。天皇はその呻き声を聞いて心を痛め、以後殉死を禁じた。その後皇后の日葉酢媛(ひばすひめのみこと)が亡くなった時に、野見宿禰(のみのすくね)の進言をいれて、殉死する従者の代わりに埴輪を墓の周りに立てさせたという。”

日葉酢媛の墓に比定されている佐紀陵山古墳
日葉酢媛の墓に比定されている佐紀陵山古墳
が、この埴輪起源伝承は埴輪を制作した氏族である土師(はじ)氏の功績を称える作り話であり、考古学的には否定されている。日葉酢媛の墓は、宮内庁によって奈良市山陵町にある佐紀陵山(さきみささぎやま)古墳に比定されているが、この全長207mの大型前方後円墳の築造時期は、4世紀後半から5世紀前半頃である。その上に、ここから出土している埴輪は、殉死者の身代わりとされる人形埴輪ではなく、巨大な蓋(きぬがさ)形、盾、家形、鰭付円筒型などの埴輪である。

和王権は、3世紀後半に奈良盆地の桜井市纒向地方に出現したとされている。大和王権は当初から前方後円墳という独自の墳形を首長墓に採用し、その墳丘に埴輪を立てた。だが、『日本書紀』が示すように、埴輪は野見宿禰の発案で大和地方ではじまったのではない。弥生時代後期の吉備地方で特殊器台形土器や特殊壺形土器で首長墓を飾っていた風習を取り入れただけである。人物埴輪が登場するまでには、その頃から200年を待たなければならない。

れでは、参考までに特別展の図録に記載された解説を参照しながら、人物埴輪出現までの歴史を要約しておこう。

 埴輪のルーツは弥生時代に吉備地方に出現した特殊壺・特殊器台

良盆地に大和王権が誕生する以前の弥生時代の後期、吉備地方には埴輪の祖形とされる特殊壺とそれを載せる特殊器台が出現していた。これらの土器は、首長墓とされる周溝墓の頂上に埋葬された遺体の場所を囲むように集中的に樹立されていた。そのため、埋葬施設を中心とした特定の空間を区画するため配置され、墳丘上で何らかの祭祀が行われたと思われる。

者は、橿考研の「友史会」の例会で「有年原・田中遺跡と赤穂市北部の遺跡」巡りに参加したとき、有年原・田中遺跡公園に復元された1号周溝墓の墳頂で、特殊壺形土器を並べて祭祀の様子を再現しているのを見たことがある。また、岡山大学考古資料展示室では、楯築(たてつき)遺跡から出土した特殊器台形土器を見た。

特殊器台型土器と特殊壺型土器 ああああ
特殊器台型土器と特殊壺型土器 赤穂市の有年原・田中遺跡に
復元されている1号周溝墓

 3世紀中葉〜後葉には円筒埴輪列しか見られなかった

最古級の前方後円墳である箸墓古墳
最古級の前方後円墳である箸墓古墳
墓(はしはか)古墳は、奈良県桜井市の三輪山山麓に広がる纏向古墳群の盟主であり、我が国の最古級の前方後円墳とされている。築造時期は、古墳の周濠から布留0式土器が見つかっていることから、3世紀の後半、おそらくは西暦280〜300年ごろに造られたと推定されている。宮内庁が陵墓として管理しているため発掘調査は行われていないが、宮内庁職員によって特殊器台形土器や特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪、壺形埴輪などが墳丘上で採集されている。

殊器台形埴輪は、吉備地方で墳丘上に立てられた特殊器台型土器の形態を受け継いだものである。特殊壺形埴輪も、吉備地方の特殊壺形土器の形態を引き継ぎながら、畿内の葬送祭祀に用いられていたと考えられる二重口縁壺に置き換わったものである。大和王権が、吉備地方で墳丘上に立てられた特殊器台型土器と特殊壺型土器を、その墓制に採用した経緯は明らかではない。

理市の中山町には、「衾田陵(ふすまだりょう)」の名で知られている全長220mの西殿塚古墳がある。4世紀前半に築造されたと考えられている古墳時代前期の前方後円墳である。この古墳も、箸墓古墳と同様に墳頂部を特殊器台や特殊壺で方形列に飾っていたことが判明している。

メスリ山古墳墳頂部の埴輪配列復元イメージ
メスリ山古墳墳頂部の埴輪配列復元イメージ
らに、特殊器台形土器から発展したと思われる特殊な円筒埴輪が、墳丘の東側の裾から多数見つかっている。そのため、墳頂部を方形に囲む特殊器台形埴輪の他に、墳丘の周りに埴輪列を並べる風習がこの頃には成立していたと考えられている。

西殿塚古墳に続くメスリ山古墳も、4世紀前半に築かれた前方後円墳である。その後円部の頂きには、埋葬施設を上から取り巻く形で、大型の円筒埴輪や高坏形埴輪などが長方形に配列されていた。このメスリ山古墳で見つかった高坏形埴輪は、特殊壺と同意の器種であり、後述の器財埴輪とは見なされていない。

 4世紀の中葉に出現した器財・家型埴輪

都府相楽郡山城町にある平尾城山古墳は、メスリ山古墳の少し後の4世紀中頃に築かれた古墳だが、墳丘を囲繞(いにょう)する円筒埴輪列とともに、後円部墳頂から家型埴輪や蓋(きぬがさ)形埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が出土している。

かし、メスリ山のような特殊円筒埴輪の大量樹立は見られなかった。その代わりに、墳丘を囲むように並べられた円筒埴輪列に混在する形で蓋形や盾形の形象埴輪が立てられていた。また、古墳の造出(つくりだし)部には、家形埴輪などの形象埴輪が集中配置されていた。そのため、この頃から古墳で行われる祭祀の形態が変化し、それに伴って形象埴輪が登場してきたと推定されている。すなわち、祭祀の対象は墳頂部の埋葬施設だけでなく墳丘全体と考えられるようになった。

鶏形埴輪 家形埴輪 蓋形埴輪
鶏形埴輪(*) 家形埴輪(*) 蓋形埴輪(*)

だし、形象埴輪がもっとも多く樹立されているのは埋葬施設上で、墳頂部は引き続き埴輪祭祀の中心だった。ここに樹立された形象埴輪には、鶏形や蓋形・家形が多い。鶏形埴輪は祭祀儀礼の中で時を告げる役割を表現したもの、蓋(きぬがさ)形埴輪は首長の権威の象徴、家形埴輪は生前または死後の邸宅を表現したものと解釈されている。

の後に新たに加わる形象埴輪として、短甲形・盾形・靱(ゆき)形・鞆(とも)形などがある。これらは明らかに首長の武力を中心にした権力を誇示するための埴輪で、埋葬施設上を囲むように立てられた。

出土した水鳥形埴輪
出土した水鳥形埴輪
良県広陵町にある巣山古墳は、4世紀末から5世紀の初めに築造されたと推定される全長220mの前方後円墳である。平成15年10月、この古墳の西側で周濠に張り出した出島状遺構が見つかった。そこから、死者の魂を運ぶとされる水鳥の埴輪や権威を象徴する蓋(きぬがさ)の埴輪など、34点以上の形象埴輪が出土した。そのため、被葬者が農耕にかかわる水の祭祀をつつがなく行った祭祀場をジオラマのように再現した場所ではないかと推測されている。

良県御所市に所在する室宮山古墳(通称、室大墓古墳)は、5世紀前半に築造された前方後円墳で、葛城襲津彦(そつひこ)の墓の有力な候補といわれている。この古墳の墳頂には、祭壇を模したような長方形区画の真ん中に、複数の大型建物が配置さていた。そして、その周囲を取り巻くように武器・武具形の埴輪が並べられていた。これらの埴輪は、首長の力が武力に裏付けられたものであることを象徴的に表していると解されている。

室宮山古墳出土の靱形埴輪(*) 不退寺裏山古墳の盾形埴輪 葛城市太田7号墳の甲冑埴輪
靱形埴輪(*) 盾形埴輪(*) 甲冑埴輪(*)

 5世紀前葉〜中葉にかけて、人物埴輪や動物埴輪が登場

盾持ち武人
盾持ち武人(*)
象埴輪で墳頂部方形埴輪列を作ることが最盛期を迎えた頃、あらたに巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場してくる。だが、これらの埴輪は、家形埴輪や器財埴輪などの形象埴輪とは出現の背景が異なっているため、墳丘内には樹立されなかったようだ。

性や男性の全身立像が初めて現れたのは5世紀中頃に築造された大阪府の大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)である。しかし、それ以前の5世紀前半にすでに、盾持ち武人が出現していた。盾持ち武人は最初の人物埴輪で、墳丘の裾や外堤などに単独で樹立されている例が多い。そのため、墳丘そのものを守護する役目を担っていたか、あるいは被葬者を邪気から守護する役割を果たしていた人物を表していると考えられている。

畿に出現した人物埴輪の中で特に注目されているのが、袈裟状の衣を身につけた「巫女」だそうだ。この女性埴輪は両手を前に出す共通の仕草をしており、器に盛られた飲食物を供える様子を表している。こうした埴輪の出現の背景には、横穴式石室が古墳に導入されるようになり、黄泉(よみ)の国の思想が一般に普及してきたことを指摘する専門家もいる。つまり、彼女たちは特定の死者へ飲食物を捧げている巫女を表現しているという。

人物埴輪(*) 犬の埴輪 飾り馬の埴輪
人物埴輪(*) 犬の埴輪(*) 飾り馬の埴輪(*)

物埴輪は行列や群像として配列されている場合が多い。そのため、首長が生前に行なった祭政の諸々の行事を再現するために古墳に立てられたとする説もある。人物埴輪は円筒の上に上半身を表現したものが多いが、中には正座したり椅子に腰掛けたりして全身像を表現したものもある。そうした埴輪は首長など社会的地位の高い人物を表したもので、埴輪群像は彼を中心に何かの行事を表しているようだ。

物埴輪の鹿や犬、猪などは鹿狩りや猪狩りの行事を表す場面に配置されたのかもしれない。また、5世紀になると朝鮮半島から馬の文化が伝えられてくる。そのため、5世紀中頃には飾り馬の埴輪が登場するようになる。時には、馬牽き人を伴ってセットで出土することもある。当時の首長層にとって、馬は権威を飾る立派な威信財だった。

物埴輪の表情は、観る者にとってそれぞれ違う印象を与えるだろう。笑っている顔もあれば泣いている顔もあるが、概して悲しげな表情を浮かべている。それは当然の事かもしれない。人物埴輪は葬送儀礼に深く関わっている。それを造る段階において、制作者の感情が移入されて当たり前である。

 6世紀中ごろ、畿内では埴輪の制作も衰退

内では古墳時代後期(6世紀中ごろ)に前方後円墳の築造が衰退する。豪族たちが自らを顕彰しようと巨大古墳を造り続けた時代が終焉を迎えるととともに、埴輪も次第に姿を消していった。前方後円墳とともに登場した埴輪は、さまざまな変遷を経た後にその役割を終えたと言える。6世紀末から78世紀にかけて、時の権力者たちは古墳造りに代わって寺院の建立に精を出すようになる。

墳時代は、同祖意識が思想的背景にあり、人々は歴代の族長を埋葬した施設の前でぬかずいてきた。しかし、仏教の伝来で、釈迦を中心とする仏教の世界観が人々の間に広がってきた。族長たちは己の権威の象徴として、巨大古墳の代わりに先祖を敬う寺院を競って造りだした。その結果、人々は金銅製の仏の前にぬかずくようになった。

物埴輪はあどけなく、もの悲しい表情で古代の人々に接していたが、金色に輝く仏像は慈愛に満ちたまなざしで礼拝者を迎えてくれる。おそらく、畿内に住む人々の多くは、仏像に接して一つの時代の終わりを感じ取ったであろう。だが、関東地方では、まだ前方後円墳を盛んに築造され、埴輪も引き続き盛んに作られ続けた。



(*)特別展図録よりコピー
【参考、引用文献】・橿考研附属博物館特別展図録第69冊 「はにわ人と動物たち」・稲村繁・森昭著「人物はにわの世界」(同成社刊)

2008/05/15作成 by pancho_de_ohsei return