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2008/05/09
閑散としたキトラ古墳十二支像の特別公開の初日
またまた巡ってきたキトラ古墳壁画の特別公開の季節
■奈良文化財研究所の飛鳥資料館は、平成20年度春期特別展「キトラ古墳壁画十二支−子・丑・虎−」を現在開催している。それに加えて、本日から今月25日までの期間限定で、キトラ古墳から剥ぎ取った十二支の獣頭人身像のうち、子(ね)・丑(うし)・虎(とら)の壁画を一般向けに特別公開することになった。
■キトラ古墳の石室から剥ぎ取って応急保存処理を終えた壁画が、ここ数年飛鳥資料館で特別公開されており、一昨年の5月には「白虎」が、昨年の5月には「玄武」がそれぞれ公開された。いずれの場合も大勢の見学者が訪れ、明日香は時ならぬキトラー・フィーバーに襲われた。
■そして、今年は本日から上記の3壁画が一般向けに特別公開される。今朝の新聞によれば、大勢の見学者の来館を予想して、奈良交通は最寄りの橿原神宮前駅から平日は1時間おきに、土・日曜は30分おきに臨時バスを運行するそうだ。一方、一般向け公開に先立って、一昨日は村民や招待者対象の見学会が開かれ、昨日は小中学生を招待する初の「子供デー」が開かれて1800人が来場したという。
■剥離された壁画の破片をわずか1分ほど見るために、一昨年も昨年も長蛇の列に並んだ。石室に描かれた壁画の図柄は、テレビや雑誌、写真集などで何度も見ていて特に新鮮みはない。だが、人間の心理とは妙なものだ。1300年も昔に描かれた絵画なら、己の目で現物を見ておきたい、この機会を逃すと何時見れるか分からない、という願望と不安に襲われる。また、マスコミはあらゆる機会を捉えて、そうした心理を煽っているようだ。
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何事もないかのように静まりかえった受付 (本日の午後2時撮影) |
■本日は特別公開の初日である。大勢の見学者が飛鳥資料館を訪れて、館内で長蛇の列を作っている様子が目に浮かぶ。しかし、今回は公開期間が長いため慌てて馳せ参じなくてもよい。後半にでもゆっくり出かけるつもりでいた。ところが、昼過ぎに橿考研の付属博物館を訪れたとき、情報コーナーで耳よりな話を聞いた。見学から戻ってきた人物の話では、9時前に並んだときは100人ほどの列が続いていたが、見学を終わって出てきたときは、列はなくなっていたと・・・。
■おそらく本日は平日であり、また過去の経験から長蛇の列を避けようとする一般心理が働いて、出足が鈍っているのだろう。それならばと、愛用の自転車を駆って飛鳥資料館に出向いた。驚いたことに、資料館前の道路には交通整理の係員の姿ばかりが目立ち、館内に設けられた臨時の受付には人影はなかった。
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| 朝日新聞社が持ち込んだ「出前Asahi」号 |
朝日新聞社の出前号外の案内 |
■今回の特別公開も朝日新聞社が後援している。「出前Asahi」と大書した新聞づくり移動教室の大型車まで繰り出して、出前号外を印刷して来館者に配布している。手渡された紙面には、9時の開館までにできた約100人の行列や、十二支像を熱心に見入る考古学ファンの姿が写真で報じられていた。しかし、号外を配布している職員は、予想外に少ない見学者の出足に戸惑いを感じている表情を浮かべていた。
6体見つかっている十二支像のうち、今回は子・丑・虎の3体を展示
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| 復元された山田寺の東回廊 |
■飛鳥資料館の展示室には、昭和57年(1982)に発見された山田寺の東回廊が再現されている。山田寺は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の発願で「大化改新」前に創建が始まったが、完成したのは発願から44年後の天武天皇14年(685)とされている。それからわずか10年後か20年後にキトラ古墳が築かれたことになる。
■山田寺の東回廊は、最も保存状態のよかった回廊の部材を使用して、当時の建築の規模がわかるかたちで組立てられている。壁画が展示されている特別展示室に到達するまでに、昨年も一昨年もこの回廊を取り囲むように長々と並ばされた。だが、今年は回廊の横を足早に通り過ぎて、特別展示室の入口に到達することができた。
■前回も前々回も、この入口で足止めされた。壁画といっても、せいぜい一辺が30センチ前後の額縁に納められた漆喰のかけらにすぎない。一度に大勢の見学者を室内に入れても、混雑するだけで間近で見ることができない。そのための人数制限だが、今回は制止されることもなく室内に入れた。
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| 出前号外のトップに載せられた写真 |
■部屋の中央に置かれた硝子ケースに中に、子・丑・虎の十二支像が並べられ、別の硝子ケースには、古墳の床から出土した遺品をもとに復元された銀装大刀が展示されていた。周りの壁を見ると、石室の四面の壁の写真が実物大に拡大して張ってある。
■以前に見学した白虎や玄武は壁面の汚れなどが落とされて、写真で見るより鮮やかだった。だが、今回の十二支像は写真報道されているものより不鮮明な印象を受けた。聞いてみると、写真は特殊カメラで撮影したもので、実物より鮮明に写っているとのことだ。
■十二支像を古墳や石塔、あるいは石室内に配置する場合、北面の中央に「子(ね)」の像を配し、その像を起点に時計の針の動きと同じ方向に、子・丑・寅・・・の順に3体ずつ配置するのが規則である。キトラ古墳の場合もこの規則通りに、北壁の中央に「子」、その右隣に「丑」、東壁の奥に「寅」が描かれていた。
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| 子・丑・虎が描かれた石室(*) |
日本画家・烏頭尾精氏の復元イメージ(*) |
■資料館の入口で朝日新聞が無料で配布している「キトラbook2008」には、十二支像が描かれた場所を写真入り説明し、ご丁寧に明日香村在住の日本画家・烏頭尾精(うとう・せい)氏の復元予想図まで載せてくれていて、非常に分かりやすかった。
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| 北壁に描かれた「子」(**) |
北壁に描かれた「丑」(** |
東壁に描かれた「寅」(**) |
■だが、保存のための応急処理が施された現物のうち「寅」の像以外に2点は、着衣の襟の朱と手に持つ武具の朱だけが目立っただけで、像の輪郭がほとんど分からなかった。そのため、特殊カメラで撮影したヘラ描きの跡が残る小さな写真が手元に展示されていた。それによって、ようやく十二支像のイメージを捉えることができた。
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| 南壁の土壁に転写された「午」(**) |
■キトラ古墳に描かれた十二支像が発見されたのは、平成13年(2001)の第4次石室内部調査の時だった。そのとき「寅」の壁画が確認された。その後、調査が進むにつれて次々と十二支像が見つかったが、漆喰層の剥落などで消失したものも多い。一部でもその存在が確認されたのは、当初は上記の子・丑・虎と西壁の戌(いぬ)、北壁の亥(い)の5体だけである。
■発掘調査が終了し、壁画の取り外しの段階で平成17年(2005)6月、南壁の朱雀の下部を覆っていた泥を取り除いた。すると、南壁に描かれた午(うま)が保存状態が良い状態で見つかった。だが、この像は漆喰の上に描かれたものではない。盗掘の際南壁に穴が開けられ、そこから流れ込んだ土砂の壁に転写されて奇跡的に残ったものだそうだ。
■キトラ古墳の壁画に関しては、十二支像も含めて今後どのような形で保存するのか気になっていた。ガラスケースの傍にいた奈文研の青年に聞いてみたが、よく分からないのか奥から別の職員を連れてきた。彼の話だと、剥ぎ取られた壁画は再び石室内に戻すのではなく、外部で保存することが決まっているそうだ。だが、具体的な方法まではまだ決まっていないようだ。剥ぎ取られ修復された壁画を博物館の陳列室に並べただけでは、意味をなさない。古墳の壁画は石室内に描かれた場所に置かれてこそその存在意義を発揮する。石室と一体となって初めて古墳壁画と言える。
■十二支像についても、幾つか聞きたいことがあった。まず、薬師如来の眷属とされる十二神将は甲冑をつけた憤怒の相の武人として描かれるが、十二支像はワンピースに似た長袍(ちょうほう)と呼ばれる服を着た文官の姿をしている。それなのに手に武器を所持しているのはなぜか。韓国の慶州にある王陵などでは、十二支像が墓の外護石に彫られているが、キトラ古墳ではなぜ石室内に描かれているのか、etc.etc. しかし、春期特別展の「キトラ古墳壁画十二支」が地下一階で開催されているので、詳しいことはそちらを見てくださいと、うまく逃げられた。
獣頭人身の十二支像の歴史を要領よく解説した出色の春期特別展
■十二支とは、漢字で子(シ)、丑(チュウ)、寅(イン)、卯(ボウ)、辰(シン)、巳(シ)、午(ゴ)、未(ビ)、申(シン)、酉(ユウ)、戌(ジュツ)、亥(ガイ)と表記し、鼠(ね)、牛(うし)、虎(とら)、兎(う)、竜(たつ)、蛇(み)、馬(うま)、羊(ひつじ)、猿(さる)、鶏(とり)、犬(いぬ)、猪(い)という動物で表されることぐらい誰でも知っている。
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十二支図 (出典:http://taiqi.net/jianzhi/) |
■だが、元々は十二年で天を一周する木星の年ごとの位置を示すために、十二分した天を表す古代中国の天文学での数詞だった。その起源は古く、中国の秦の時代(BC221 - BC205)の墓から出土した歴書によく似た記述があるという。後漢(25 - 220)の時代に王充(27 - 97)が著した『論衡』には現在と同じ十二支が記載されている。当初は時間や方位の単位として用いられた。
■飛鳥資料館の春期特別展示は、その十二支がいつ頃から獣頭人身像で表現されるようになり、東アジア世界の中でどのように伝搬していったかを、写真パネルや拓本に解説を加えて要領よく説明していた。
■その解説によると、十二支が人の生まれた年や年令を表したり、またそれを象徴する動物(すなわち、えと)が用いられるようになったのは、南北朝(439 - 589)の頃のようだ。北斉時代(550 - 577)の貴族を葬った墓の天井には、十二支の動物が描かれている。これが現在のところ最古の十二支壁画だそうだ。
■獣頭人身の十二支像が出現するのは中国大陸を統一した隋(581 -618)になってからである。その背景には南北朝から隋代にかけてお十二支信仰の高まりがあるという。そして、その原因として仏教の薬師信仰で説かれる十二神将が、中国の伝統的な十二支と結びつき神格化を進めたとされている。
■しかも興味深いのは、獣頭人身の十二支像は隋代の文化の中心である長安や洛陽ではなくて、長江の中流域でまず出現したという。いずれの十二支像も焼き物の人形として作られ、墓室の壁に彫り込まれた棚や棺の周辺の床に、棺を見守るように置かれた。
■この獣頭人身の十二支像を墓に副葬する風習は、唐代(618 - 907)に入ると、長江沿いにその上流域と下流域に広がっていく。当時作られた十二支像はいずれも正座した座像で、この地域を支配した南朝の漢人たちの伝統的な座り方を踏襲していたとされている。
■長江流域についで獣頭人身の十二支像を用いる風習が現れるのは、現在の北京から遼寧省西部にかけての中国北部地域で、時代で言うと、唐の高宗から周の即天武后の頃(649-705)である。この時代の特徴は、十二支像が立像として表現されるようになり、座像から立像への変化は7世紀中葉に生じたと推測されている。しかも筒袖の足先まである長袍(ちょうほう)を着てベルトを締め、拱手したり笏(しゃく)を持つなど静的な形の文官の姿で表されている。
■唐の都城があった長安や洛陽、太原などで十二支像が出現するのは8世紀に入ってからである。開元24年(736)に造られた西安市の孫承嗣の墓から出土した陶俑が最も古い例とされている。
■キトラ古墳に描かれた十二支像は長袍をまとった文人姿であること、立像であることから、中国北部地方で流行した十二支像の流れを汲むものと見なすことができる。だが、決定的な違いがある。キトラ古墳の十二支像はそれぞれ手に武具を持つが、中国のものは武具を持たない。
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| 元聖王の掛陵 |
外護石に浮き彫りされた寅(とら) |
■東アジア世界で獣頭人身の十二支像が発達するのは統一新羅の時代である。統一新羅の時代、王都の慶州近辺で造られた王陵の外護石や寺院の仏塔などに盛んに十二支像が彫られた。聖徳王(在位702-737)の陵には丸彫りの十二支像が配置され、元聖王(785-798)の陵とされる掛陵には、外護列石に十二支像が浮き彫りされている。いずれも武人の姿で手に武具を携えている。しかし、いずれもキトラ古墳より時代的に新しく、キトラの十二支像が新羅の影響を受けたとは考えにくい。
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| 金庚信の墓(**) |
金庚信墓の外護石−午(うま)(**) |
■新羅の獣頭人身の十二支像としてよく見かけるのは、金庚信(キム・ユシン)将軍(595-673)の墓の周りに埋納されていた十二支像の石版の拓本である。今回の特別展示でも12枚の拓本が展示されていた。将軍の没年を考えれば、その墓の築造はキトラ古墳を先行するが、外護列石の十二支像は、金庚信を興武王と追贈した興徳王(826-836)時代のものとする意見が出されている。
■特別展示の解説によれば、中国の十二支像と統一新羅の十二支像では、それが墓に飾られた目的が違うという。十二支信仰から発展したことを考えれば、十二支像に避邪(へきじゃ)すなわち魔よけの意味が持たされていたことは間違いない。だが、中国の場合は、天井の星宿図や壁面上方の四神とともに十二支像は一つの宇宙を構成しているとされ、被葬者の棺が模擬世界の中心に置かれていることを表現しているという。つまり、被葬者が安らかに眠ってもらうように、鎮魂を目的としたものだとされている。
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| 新羅時代に建立された遠願寺址の西塔 |
成基壇に刻まれた十二支像 |
■一方、新羅の場合、獣頭人身像は8世紀中葉に出現し、8世紀後半から9世紀にかけて流行するが、王陵や仏塔を護る守護神的性格が鮮明なようだ。十二支像が石室の副葬されている例はまれで、多くの場合、外敵に備えるように墓や仏塔を外向きに取り巻いている。もう一つの特徴は、仏教と密接な関係が見いだされることだ。甲冑を身に着けた姿は薬師如来の眷属である十二神将と非常に似ている。手に宝珠や独鈷など仏具を持つ像も現れてくる。おそらく仏教的な要素が十二支像に取り込まれていったものと推察されている。
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| 朝日新聞に掲載された早川和子さんのイラスト |
■キトラ古墳の寅が手にしているのは、赤い半円形の飾りがついた矛槍と推測されている。一方、子や丑が手にしている武具は弓のようにも見える。しかし、故網干義教氏に考察によって、古代中国の武器である鉤(こう)または「鉤じょう」と呼ばれる武具だったことが明らかにされた。5月5日の朝日新聞には、イラストレータの早川和子さんが描いたこれらの武具を持つ十二支像のイメージが掲載されている。
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