![]() |
| 整備事業が完了し、コグマササで墳丘が覆われた藤ノ木古墳 (撮影2008/05/06) |
石棺の開棺調査からちょうど20年で完了した整備事業藤ノ木古墳は斑鳩町の法隆寺から西へ約400mに所在する直径約48m、高さ約9mの円墳だ。ただし、墳丘の直径は整備段階でもう少し大きかったことが判明し、現在は直径50mとされている。築造時期は一応6世紀後半とされているが、専門家によっては少しばらつきがある。内部に全長13.95mの横穴式石室が築かれ、その中に長さ2.35mの朱塗りの刳抜式(くりぬきしき)家形石棺置かれていた。幸いなことに、石棺は未盗掘のままだった。
第1次調査は昭和60年に実施され、南東方向に開口する両袖式の横穴式石室に納められた朱塗りの刳抜式家形石棺の存在が確認された。このとき、石室の奥壁と石棺の間の空間から「金銅製透鞍金具(すかしくらかなぐ)」に代表される装飾性豊かな馬具が出土した。 第2次調査は昭和63年度に実施された。この調査では墳丘周辺と石室前面を調査するとともに、ファイバースコープを使って未盗掘の石棺内部の確認を行なった。そして、同年度に実施した第3次調査で石棺の蓋が開けられ、2体の被葬者の骨を確認するとともに、ほとんど埋葬時のまま残されていたおびただしい数の副葬品が取り出された。
平成3年11月16日付けで藤ノ木古墳は国の史跡に指定された。翌平成4年になると、墳丘周辺の史跡地の公有化事業に着手した(この事業は平成13年度まで続けられた)。また、平成11年には石室動態調査が開始された(この調査は平成20年3月まで続けられた)。それと平行して、平成12年には第4次調査として、石室の閉塞部の調査が行われた。さらに平成15年には墳丘とその周辺に関する第5次調査が、また、平成16年には墳丘と墳丘の麓にあったとされる宝積寺に関する第6次調査が行われた。
|
江戸時代までは崇峻天皇陵と考えられていた古墳
筆者が藤ノ木古墳に関心を抱くのは、その被葬者論争である。第3次調査で石棺の蓋を開けたとき、二体の被葬者の骨が見つかっている。だが、その後の調査でも彼らが何者だったかを特定するにいたっていない。現在までに判明している点と言えば、北側に埋葬されていた被葬者は、99.45%の確率で男性だそうだ。二〇歳前後の、豪奢な体格の持ち主であり、血液型がB型だったことも分かっている。しかし、南側の被葬者は骨の残り具合が悪かったせいで、成人男性であること、血液型がB型であることくらいしか判明していない。 考古学者は、墓誌でも出なければ、古墳の被葬者を特定することはしない。考古学の本分は、遺跡の出土品からその時代の文化の諸相を推理することであるという。一方、文献史学者はあらゆる古文献を駆使して、なんとか被葬者を特定しようとする。藤ノ木古墳の被葬者も例外ではない。その結果、皇族、膳氏、蘇我氏、物部氏などのさまざまな人物が候補としてあげられている。
考えてみれば、藤ノ木古墳は2つの理由で幸せな墓だったと言えるかもしれない。一つは法隆寺の近くに築かれていたことだ。おそらく永年にわたって法隆寺の寺領として管理・維持されてきたことだろう。今一つの理由は、中世には「陵山(みささぎやま)」と呼ばれ、江戸時代には法隆寺が崇峻天皇陵と見なしていたように、古くから天皇陵として扱われてきたことだ。そのため、墓荒らしもこの古墳までは手をつけなかったようだ。石室までは侵入したかもしれないが、石棺まで開くことはなかった。 被葬者が身に纏っていた装身具の豪華さから判断しても、二人とも当時の皇族か王族の誰かだったであろう。筆者には2つの説がそれぞれ魅力的に思える。崇峻天皇説と穴穂部/宅部皇子説である。この2つの説に共通するのは、いずれも被葬者が当時の権謀術数の政界において敗者であること、そして、いずれもこの地に斑鳩宮と斑鳩寺を築いた厩戸皇子(=聖徳太子)の有縁者だったことだ。
しかも、『日本書紀』は、死亡したその日のうちに亡骸を葬ったと伝えている。従って、天皇陵の陵地や陵戸を記した『延喜式』には、陵地・陵戸の記載がない。現在、桜井市倉橋の倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた場所に、崇峻天皇陵がある。しかし、この陵地は明治22年(1889)になって新たに比定されたものである。 実は、崇峻天皇陵と推測されている古墳がもう一つ、同じ倉橋にある赤坂天王山古墳群の中にある。一辺が45mという大きな方形の墳丘をもち、全長17mの横穴式石室を備えた1号墳だ。筆者も一度石室に潜り込んだことがあるが、その玄室には、身の部分だけでも長さ約2.4m、幅約1.7m、高さ約1.2mを測る巨大な刳抜き式の家型石棺が置かれていた。副葬品については不明だが、石室や石棺の形式から6世紀末から7世紀初め頃に築造されたと推定されている。
一方、埋葬された人物が2人だったと聞いたとき、即座に脳裏をかすめたのは、西暦587年の蘇我・物部戦争(丁未の変)の直前に二人の皇子が殺害された事件ある。その年の5月、穴穂部皇子は敏達天皇の殯の宮に侵入して、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を犯そうとしたが、寵臣の三輪逆(みわのさこう)に阻止された。そのことをを恨んだ穴穂部皇子は、物部守屋(もののべのもりや)と共に兵を動かし、三輪逆を殺した。 寵臣を殺されて逆上した炊屋姫は6月7日、蘇我馬子(そがのうまこ)らに詔して、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺させた。築造時期からみて、藤ノ木古墳がこれら二人の王族を埋葬した墓であると想定するのも可能であろう。穴穂部皇子は崇峻天皇の実兄であり、厩戸皇子から見れば、彼とも叔父・甥の間柄にある。悲運に倒れた二人の皇子に同情して、聖徳太子が斑鳩寺の近くにその遺骸を改葬して冥福を祈ったかもしれない。
|
(*) 斑鳩町・斑鳩町教育委員会作成「国史跡 藤ノ木古墳 −整備事業完了記念図録」より転記