平成20年5月6日

藤ノ木古墳(ふじのきこふん)
2001年4月以来7年ぶりに石室内部を特別公開

aaaa
整備事業が完了し、コグマササで墳丘が覆われた藤ノ木古墳 (撮影2008/05/06)

藤ノ木フィーバーの再来に抗しがたく・・・・

6時。いつもなら朝の散歩で畝傍山の山頂を目指す足が、今朝は近鉄の畝傍御陵前駅のホームに向かった。昨日の雨が夜のうちに上がって、見上げる空は雲一つなく晴れ渡っている。この時期、日の出は早い。大和平野を南北に走る近鉄電車のシートに身を沈めると、山の稜線を離れた太陽のまぶしい光線を正面から受ける形になる。

整備前の藤ノ木古墳
整備前の藤ノ木古墳
んなに早い時間に電車に乗ったのは久しぶりだ。行き先は、法隆寺の西400mほどのところにある藤ノ木古墳。平成18年度から2カ年計画で進められてきた古墳の整備事業が今年の3月に完成した。それを記念して、5月2日から5日間、石室内部が特別公開されている。もっとも2日の日は、完工記念式典の後、招待者と町民約1100人だけに公開され、一般を対象にした特別公開は3日からの4日間だけである。

によって、新聞やテレビのマスメディアが今回の石室特別公開を大々的に報道した。そのため、発掘時の藤ノ木フィーバーが再び呼び起こされたようだ。主催者側は先着順に一日1000人程度の見学を予定していたそうだ。しかし、それを上回る見学者が訪れ、4日間で5800人にも達した。一応、1時間単位の整理券を配布し、1グループ10人ほどが順に石室に入るようにしている。したがって、時間帯によっては2時間近く待つことを余儀なくされる場合もあるという。

aaaaa
うした状況を新聞などで知って、ここ3日間ずいぶん思い悩んだ。他の用事もあった。昨晩までは、今回は見送って秋の特別公開まで待とうと思った。だが、朝の澄み切った青空をベランダから仰いだ瞬間、気持ちが変わった。ゴールデンウイーク最後の一日を狭いアパートで過ごせるほど、まだ人間が枯れてはいない。

筒井」駅で電車を降り、バスで法隆寺へ向かった。藤ノ木古墳は「法隆寺前」のバス停から徒歩で10分ほどの所にある。午前7時ちょうどに古墳に着いた。当然のことながら、まだ関係者の姿は見えない。斑鳩町会のテントや救護用のテントもまだ畳んだままだった。だが、すでに10人ほど先客が並んでいた。

藤ノ木古墳近くの石仏たち テントが畳まれたままの見学会場
藤ノ木古墳近くの石仏たち テントが畳まれたままの見学会場

頭に並んだ見学者が石室に招き入れられるまでには、まだ2時間もある。待たされることに慣れた見学者は携帯用の小さな椅子を持ってきて、ちゃっかりそれに腰掛けて新聞に目を通している。2時間も手持ちぶさたで立って待つのは億劫だと思った。だが、意外とそうでもないことに気づいた。前後に並んでいる人たちも手持ち無沙汰のようで、何時とはなしにお互いに当たり障りのない世間話で時間を潰すようになる。

頭に並んでいたのは、驚いたことに腰の曲がった小柄な老婦人だった。歩行もままならないのか、手押し車を押してきている。「何時に来ました?」と聞いてみると、朝の6時だという。すでに80歳は越えていそうだ。失礼だが、これほどの老人でも古墳に興味があるのだろうか。さりげなく、彼女の話を聞いていると、住まいは近所で、2日の町民優先の見学の際に石室をすでに見ているそうだ。あまりにすばらしい物が町内にできたので、孫にも見せてやりたくて順番取りのため並んでいるのだという。

順番を待つ長蛇の列 入口でも前の組が出てくるまで待たされる
順番を待つ長蛇の列 入口でも前の組が出てくるまで待たされる

前8時ごろになって関係者がやってくると、テントの設営に取りかかった。まもなく先頭集団がテントの中に招き入れられ4列縦隊に並ばされた。8時半に整理券を渡され、本日は最後の見学日で大勢押し寄せると思われ、9時からの見学を15分繰り上げるという。振り返って後方を見ると、テントをはみ出して見学者の列が長々と続いている。目算ですでに150人には達しているようだ。

石室の入口 石室の内部
石室の入口 石室の内部(*)

い、最初の10人のグループの一人として石室に入ることができた。石室の内部など空っぽだから、いくらでも写真撮影ができるだろうと思っていたら、入口に石室内撮影禁止の張り紙がしてある。理由を聞いてみると、何のことはない、見学者がそれぞれカメラで撮影していたら先に進まないからだという。その代わり、整備事業完了を記念して図録を作成してあり、1部500円で販売しているから、そちらを見てくれとのことだ。

石室の見取り図(*)
石室の見取り図(*)
ノ木古墳の整備事業の特徴の一つは、石室の蒼ケが高かったため見学者用の通路を設置できたことだ。しかも通路はバリアフリーを前提に作られていて、身体障害者用の車椅子でも見学できる。また鉄の透かし板を床に用いているため、通路下の閉塞石の一部や礫床を見ることができる。この古墳の石室は南東方向に入口を持ち、全長は13.95mである。そのうち蒼ケの長さは8.23mと結構長い。6世紀後半の石室としては最大級の規模だそうだ。

道の幅は約2.08mだが、朱塗りの刳抜式(くりぬきしき)家型石棺を納めた玄室の幅は2.67mと、蒼ケの両脇より広い。こうした形式の横穴式石室を両袖式という。蒼ケを進んで玄室の入口まで来たとき、最初に受けた印象は天上がずいぶん高く見えたことだ。資料で確認すると、玄室の高さは4.41mとある。しかし、蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や2月に現地見学会が行われた真弓鑵子塚(まゆみかんすづか)古墳の玄室の高さは4.7mで、それに比べると低い。

発掘調査時の玄室内部(*)
発掘調査時の玄室内部(*)
舞台古墳の場合、封土が無くなって天上石の隙間から光りが漏れてくるので、それほど高さを感じない。藤ノ木古墳ではしっかりと封土が積まれていて、密閉された空間だから一層高く感じられるのだろうか。積まれた石の大きさも大小さまざまで、巨岩もあるが概して不揃いである。石舞台古墳のように圧倒される大きさという訳ではない。

室内に説明員がいて簡単な説明をしてくれた。家型石棺の朱の色が写真などで見るより幾分薄く感じられるのは、石室に雨水などが流れ込むのを防止するため、防水処理を施したため室内がすこし乾燥しているためだそうだ。

明員の話によると、この古墳の築造時期は横穴式石室の構造や玄室に置かれていた須恵器の編年から6世紀後半とされているが、研究者の説には570年代から580年代までばらつきがあるという。石棺の背後から出土した馬具などに着目すれば600年頃とする説もあるそうだ。

閉塞石を取り除いた後の石室
閉塞石を取り除いた後の蒼ケ(*)
ころで、玄室の奥に置かれた石棺の配置が気になった。横向きに置かれているため、左右の空間は人間が通れないほど狭く感じる。理由を尋ねると、横向きに置いた方が正面から見て棺が大きく見え、権威を示すのに都合がよかったのでは・・・という返事が返ってきた。



石棺の開棺調査からちょうど20年で完了した整備事業

ノ木古墳は斑鳩町の法隆寺から西へ約400mに所在する直径約48m、高さ約9mの円墳だ。ただし、墳丘の直径は整備段階でもう少し大きかったことが判明し、現在は直径50mとされている。築造時期は一応6世紀後半とされているが、専門家によっては少しばらつきがある。内部に全長13.95mの横穴式石室が築かれ、その中に長さ2.35mの朱塗りの刳抜式(くりぬきしき)家形石棺置かれていた。幸いなことに、石棺は未盗掘のままだった。

金銅製透鞍金具
金銅製透鞍金具・後輪(*)
考までに、ここで今までの発掘調査と整備事業の概略を振り返っておこう。藤ノ木古墳はこれまでに昭和60年から平成16年度にかけて合計6回の発掘調査が実施されてきた。

1次調査は昭和60年に実施され、南東方向に開口する両袖式の横穴式石室に納められた朱塗りの刳抜式家形石棺の存在が確認された。このとき、石室の奥壁と石棺の間の空間から「金銅製透鞍金具(すかしくらかなぐ)」に代表される装飾性豊かな馬具が出土した。

2次調査は昭和63年度に実施された。この調査では墳丘周辺と石室前面を調査するとともに、ファイバースコープを使って未盗掘の石棺内部の確認を行なった。そして、同年度に実施した第3次調査で石棺の蓋が開けられ、2体の被葬者の骨を確認するとともに、ほとんど埋葬時のまま残されていたおびただしい数の副葬品が取り出された。

開かれた石棺(*)
開かれた石棺(*)
葬品には、金銅製の冠や履(くつ)、筒形品などの金属製品、玉纏大刀(たままきのたち)や剣などの刀剣類、銅鏡、金メッキを施した銀製の空玉(うつろだま)やガラス玉などがある。この豪華な副葬品は、藤ノ木古墳の名を一躍全国に知らしめることになり、いわゆる「藤ノ木フィーバー」なるものを生じさせた。

成3年11月16日付けで藤ノ木古墳は国の史跡に指定された。翌平成4年になると、墳丘周辺の史跡地の公有化事業に着手した(この事業は平成13年度まで続けられた)。また、平成11年には石室動態調査が開始された(この調査は平成20年3月まで続けられた)。それと平行して、平成12年には第4次調査として、石室の閉塞部の調査が行われた。さらに平成15年には墳丘とその周辺に関する第5次調査が、また、平成16年には墳丘と墳丘の麓にあったとされる宝積寺に関する第6次調査が行われた。

金銅製の履(*)
金銅製の履(*)
れらの調査結果を生かした整備工事が2年計画で平成18年9月に着手し、今年の3月に完成した。その完成を祝う記念式典が去る5月2日に実施され、町関係者や招待者約1100人に古墳内部が公開された。この日は地元の障害者施設の通所者も招待され、古墳内部で朱が塗られた石棺と対面したという。 今年は昭和63年に石棺が開かれてちょうど20年目の節目の年である。



江戸時代までは崇峻天皇陵と考えられていた古墳

者が藤ノ木古墳に関心を抱くのは、その被葬者論争である。第3次調査で石棺の蓋を開けたとき、二体の被葬者の骨が見つかっている。だが、その後の調査でも彼らが何者だったかを特定するにいたっていない。現在までに判明している点と言えば、北側に埋葬されていた被葬者は、99.45%の確率で男性だそうだ。二〇歳前後の、豪奢な体格の持ち主であり、血液型がB型だったことも分かっている。しかし、南側の被葬者は骨の残り具合が悪かったせいで、成人男性であること、血液型がB型であることくらいしか判明していない。

古学者は、墓誌でも出なければ、古墳の被葬者を特定することはしない。考古学の本分は、遺跡の出土品からその時代の文化の諸相を推理することであるという。一方、文献史学者はあらゆる古文献を駆使して、なんとか被葬者を特定しようとする。藤ノ木古墳の被葬者も例外ではない。その結果、皇族、膳氏、蘇我氏、物部氏などのさまざまな人物が候補としてあげられている。

法隆寺西院伽藍
法隆寺西院伽藍

えてみれば、藤ノ木古墳は2つの理由で幸せな墓だったと言えるかもしれない。一つは法隆寺の近くに築かれていたことだ。おそらく永年にわたって法隆寺の寺領として管理・維持されてきたことだろう。今一つの理由は、中世には「陵山(みささぎやま)」と呼ばれ、江戸時代には法隆寺が崇峻天皇陵と見なしていたように、古くから天皇陵として扱われてきたことだ。そのため、墓荒らしもこの古墳までは手をつけなかったようだ。石室までは侵入したかもしれないが、石棺まで開くことはなかった。

葬者が身に纏っていた装身具の豪華さから判断しても、二人とも当時の皇族か王族の誰かだったであろう。筆者には2つの説がそれぞれ魅力的に思える。崇峻天皇説と穴穂部/宅部皇子説である。この2つの説に共通するのは、いずれも被葬者が当時の権謀術数の政界において敗者であること、そして、いずれもこの地に斑鳩宮と斑鳩寺を築いた厩戸皇子(=聖徳太子)の有縁者だったことだ。

崇峻天皇の倉梯岡陵
崇峻天皇の倉梯岡陵
日本書紀』の記述を信用するならば、崇峻天皇は治世5年目(西暦592年)の11月3日、時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)が放った刺客・東漢直駒(やまとのあたい・こま)によって暗殺された。古来、暗殺されたと思われる天皇は何人かいるが、史書にこれほど明確に記録されているのは、崇峻天皇だけである。

かも、『日本書紀』は、死亡したその日のうちに亡骸を葬ったと伝えている。従って、天皇陵の陵地や陵戸を記した『延喜式』には、陵地・陵戸の記載がない。現在、桜井市倉橋の倉梯柴垣宮の旧地と伝えられてきた場所に、崇峻天皇陵がある。しかし、この陵地は明治22年(1889)になって新たに比定されたものである。

は、崇峻天皇陵と推測されている古墳がもう一つ、同じ倉橋にある赤坂天王山古墳群の中にある。一辺が45mという大きな方形の墳丘をもち、全長17mの横穴式石室を備えた1号墳だ。筆者も一度石室に潜り込んだことがあるが、その玄室には、身の部分だけでも長さ約2.4m、幅約1.7m、高さ約1.2mを測る巨大な刳抜き式の家型石棺が置かれていた。副葬品については不明だが、石室や石棺の形式から6世紀末から7世紀初め頃に築造されたと推定されている。

赤坂天王山古墳
もう一つの崇峻天皇陵候補がある
赤坂天王山古墳群
日本書紀』によれば、厩戸皇子は推古9年(601)斑鳩の地に宮の造営を始め、四年後の完成を待ってこの地に移っている。現在の法隆寺の西400mの所に位置する藤ノ木古墳が考古学的に6世紀後半の築造だったのであれば、厩戸皇子は当然この古墳を知っていたにちがいない。しかし、考古学的知見はともかくとして、憶測が許されるならば、皇子がこの地に移ってきたのを機に、陵墓も築かれないままに倉梯に葬られた崇峻天皇を哀れと思い、斑鳩の地に墓を築いて遺骸を倉梯からこの地に改葬した可能性はないだろうか。なにせ、崇峻天皇は厩戸皇子の母の実弟であり、皇子とは叔父・甥の間柄である。互いに旧知の間柄だった。

方、埋葬された人物が2人だったと聞いたとき、即座に脳裏をかすめたのは、西暦587年の蘇我・物部戦争(丁未の変)の直前に二人の皇子が殺害された事件ある。その年の5月、穴穂部皇子は敏達天皇の殯の宮に侵入して、敏達天皇の皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を犯そうとしたが、寵臣の三輪逆(みわのさこう)に阻止された。そのことをを恨んだ穴穂部皇子は、物部守屋(もののべのもりや)と共に兵を動かし、三輪逆を殺した。

臣を殺されて逆上した炊屋姫は6月7日、蘇我馬子(そがのうまこ)らに詔して、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺させた。築造時期からみて、藤ノ木古墳がこれら二人の王族を埋葬した墓であると想定するのも可能であろう。穴穂部皇子は崇峻天皇の実兄であり、厩戸皇子から見れば、彼とも叔父・甥の間柄にある。悲運に倒れた二人の皇子に同情して、聖徳太子が斑鳩寺の近くにその遺骸を改葬して冥福を祈ったかもしれない。

藤ノ木古墳の近くにある溜め池
藤ノ木古墳の近くにある溜め池



(*) 斑鳩町・斑鳩町教育委員会作成「国史跡 藤ノ木古墳 −整備事業完了記念図録」より転記


2008/05/06作成 by pancho_de_ohsei return