平成20年4月29日

丁未の変(ていびのへん)」で敗死した物部守屋(もののべのもりや)の霊を祀る四天王寺

西門からみた四天王寺の中心伽藍
西門からみた四天王寺の中心伽藍

四天王寺の境内の片隅にある守屋祠

阪市の天王寺区にある四天王寺は、好きな寺院の一つだ。何時訪れても、庶民的な匂いを漂わせている。JR天王寺駅前から北へ延びる谷町筋の幾分上り勾配のアーケード街をゆっくり歩いて行くと、15分ほどで「四天王寺前」交差点に着く。その交差点を直角に右に曲がれば石の鳥居があり、その先に西大門が見える。

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発心門とも呼ばれている石の鳥居
天王寺から生国魂神社に至る上町台地は、その西側が急な傾斜の崖になっている。今でこそ市街地が広がって昔の景観は想像すべくもないが、かっては海が入り込み、眼前に淡路島はもちろん、須磨明石あたりまで遠望できた。

天王寺の西大門は極楽門という。極楽門の手前に、日本三鳥居の一つとされる石の鳥居が立っている。四天王寺を訪れるたびに、寺院になぜ鳥居があるのか何時も不思議でならない。一般に、鳥居とは神社の神域と人間が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すものだ。それはともかく、この石の鳥居は発心門とも呼ばれ、もとは木造だった。永仁2年(1294)、忍性が勅を奉じて石造りに改めたとされている。

極楽門の扁額
極楽門の扁額
居の中央に「釈迦如来宝輪を転じ給ふところ、極楽の東門の中心に当たる」という意味の文字が浮き彫りにされた扁額が掲げられている。春秋の彼岸の中日には、太陽がちょうど鳥居の中心にかかって西の海に沈む。


六時堂前の石舞台 (2007/04/22 撮影)
六時堂前の石舞台 (2007/04/22 撮影)
年も4月22日が巡ってきた。四天王寺では4月22日を聖徳太子の命日とさだめ、毎年この日に太子の霊を慰めるため、法要と舞楽が一体となった舞楽大法要を開催している。聖霊会(しょうりょうえ)と呼ばれるこの舞楽大法要は、言ってみれば、六時堂前の石舞台で行われる四天王寺最大のイベントだ。

を言うと、今まで聖霊会を見学したことがない。そこで昨年の4月22日わざわざ四天王寺まで出かけたが、舞楽法要が始まる前から雨になった。舞台は石舞台から六時堂の中に移され、残念ながら華麗な舞楽を見学できなかった。

霊会の舞は見学できなかったが、四天王寺の境内で思いがけないものを見つけた。太子殿の後ろに流造り(ながれつくり) の朱塗りの立派な社殿が建っているのだ。近寄ってみると守屋祠と表示されていた。守屋とは西暦587年に勃発した蘇我・物部戦争で敗死した物部本宗家の総帥・物部弓削大連守屋(もののべのゆげのおおむらじ・もりや)その人である。

守屋祠
朱塗りの社殿・守屋祠
日本書紀』によれば、西暦587年、当時の政界を二分した蘇我氏と物部氏が戦火を交えた。587年は干支年で丁未(ひのとひつじ)に当たるため、この蘇我・物部戦争を丁未の変(ていびのへん)という。

時14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ、後の聖徳太子)も蘇我軍に参戦し、軍の後方に従っていた。物部の軍勢は強く、蘇我軍が3度も退却を余儀なくされたのを見て、皇子は、
「このままでは敗れるかもしれない。誓願しなければ、成功はおぼつかない」
と言われた。そして、白膠木(ぬりで)を切り取ってすばやく四天王の像を作り、頂髪(たきふさ)に安置して誓願を発すると、
「今もし自分を敵に勝たして下さったら、必ず護世四王のために寺塔を建てましょう」
と言われたという。

天王とは仏法を帰依する人々を守護する護法神である。古代のインドでは、世界の中心は帝釈天の住む須弥山とされていた。四天王はその山の中腹の東西南北に配され(東−持国天、南−増長天、西−広目天、北ー多聞天あるいは毘沙門天)、仏法を帰依する人々を守護した。だが、四天王は軍神ではない。厩戸皇子がなぜ四天王の加護を誓願したのかよくわからないが、結果として、蘇我軍が勝利することができた。そこで、皇子は四天王の加護に感謝して、摂津国に四天王寺を建立したという。

守屋祠の所在地
守屋祠の所在地
屋祠は、今では参詣者が足を踏み入れない寺域の片隅にあり、物部守屋弓削小連中臣勝海(なかとみのかつみ)の三座を祀っている。つまり、この祠(ほこら)では蘇我氏や聖徳太子の怨敵であり、しかも恨みをのんで死んでいった物部守屋とその一味を祀っているのだ。

摂津名所図絵』の四天王寺の項にも守屋祠のことが記されていて、参詣に来た人たちが守屋の名を憎んで礫を投げて祠を破壊したので、寺僧がこれを傷(いた)んで熊野権現の立て札を立てたという。祠のそばには、元禄7年の銘がある石灯籠が寄進されている。これらのことから、四天王寺が守屋祠を決しておろそかに扱ってこなかったことがわかる。

れにしても、丁未の変で敗死させた物部守屋やその一味が、なぜ四天王寺の境内で祀られているのか。その謎に興味を抱いて、少し調べてみた。すると、四天王寺にはその他にもさまざまな謎があるのがわかってきた。その第一は、創建の謎である。



四天王寺は当初、現在の玉造の地に造営され、後に荒陵に移された?!

四天王寺の金堂
四天王寺の金堂

天王寺は、『日本書紀』の記述を引用して、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立されたとしている。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折、聖徳太子は四天王に自軍の勝利を誓願され、戦いに勝利した後その報恩に感謝してこの寺を建立された、という。

が、四天王寺の創建時期は一筋縄ではいかないようだ。まず、『日本書紀』の中に、四天王寺の造立に関する記事が二カ所に出ている。一つは用明天皇2年に相当する崇峻天皇即位前紀で、7月の条に丁未(ていび)の変のことを記したのち「乱を平めて後に、摂津国に四天王寺を造る」とある。もう一つは、推古天皇元年9月の条に、「この年、初めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る」とある。

四天王寺の五重塔
四天王寺の五重塔
明2年は西暦587年、推古元年は593年である。つまり、『日本書紀』は6年の間隔を置いて2つの創建伝承を伝えていることになる。難波の荒陵という地名は、現在の四天王寺の近くに大規模な古墳があったことに由来し、四天王寺も荒陵山(こうりょうざん)を山号としている。付近は当時、古墳が築かれるほど清浄な地と認識されていたようだ。593年に荒陵に建立された寺が現在の四天王寺ならば、587年に摂津国に造営された四天王寺は何か、が当然問題になる。

白いことに、聖徳太子に関する多くの古書は、587年に四天王寺が造営された場所として、現在の大阪城付近の玉造辺りを指している。玉造は大阪市中央区の東南部から天王寺区の東北部にかけての地名であり、付近は上町台地の東縁部に相当する。かっては河内湖の入り江に面した小さな港などがあった交通の要衝だった。

造と聞いて、ハタと思い当たる記述が『日本書紀』の中にあった。丁未の変が勃発する直前に、物部守屋は資人(つかいびと、近侍者)の一人である捕鳥万(ととりべのよろず)という武将に百人の兵を与えて、難波の邸宅の防衛に赴かせている。当時の守屋は大和川の水利権を掌握していて、大和川が流れ込む河内湖の湖岸にも邸宅を構えていた。その場所は玉造付近がもっともふさわしい。

四天王寺の中門
四天王寺の中門
四天王寺の講堂
四天王寺の講堂
日本書紀』や聖徳太子の最も古い伝記とされる『上宮聖徳法王帝説』には、玉造の記事は出てこない。しかしその後に作られた『上宮聖徳太子伝補闕記』や『聖徳太子伝暦』、『荒陵寺御手印縁起』、『古今目録抄』などでは、四天王寺は玉造あたりにあったと記している。

荒陵寺御手印縁起』は平安時代後期(寛弘4年、1007年)に作成されたとされる四天王寺の縁起資財帳だが、その中に、「丁未歳をもって初めて玉造岸上に建て・・・癸丑歳壊して荒陵の東に移す」とある。丁未(ひのとひつじ)は587年、癸丑(みずのとうし)は593年にあたる。

古今目録抄』は鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝を集大成したもので、『聖徳太子伝私記』とも『太子伝暦』とも呼ばれている。その中で、顕真は、「守屋を誅殺した直後の用明2年7月3日、玉造の地に柱を立てた。そして、守屋の死から49日目にあたる8月20日に、四天王像を安置し供養した。これが太子発願の四天王寺である」と記している。

真の甥で法隆寺の僧・俊厳は、弘長2年(1262)ごろ『顕真得業口決抄』を著している。その中には、「守屋の頸(くび)ならびに頸切太刀、着せし所の衣服とを悉く玉造の寺の仏壇の下に埋めて堂を造り、供養せしめ給ひ畢んぬ」とある。49日にあたる8月20日にこれらの品を仏壇の底に埋め供養したものと推察されている。

まり、これらの諸書が伝えるところによれば、丁未の変の直後に、敗死した物部の守屋の霊の成仏を祈るために、彼の邸宅があった玉造に簡単な草葺きか茅葺きの草堂を造り、6年後に荒陵の地に移されて本格的な伽藍建築が造営されたとみるのが自然なようである。

鵲森宮
森之宮中央一丁目にある鵲森宮(=森之宮神社)
は、元四天王寺とでも称すべき玉造の寺はどこにあったか。大阪樟蔭女子大教授だった今井啓一氏(1905-1975)は、大阪環状線の『森ノ宮」駅の駅前にある鵲杜宮(かささぎのもりのみや)に注目された。主祭神として用明天皇、穴穂部間人皇后、聖徳太子を祀る神社である。この場所は、推古6年(598)4月、難波吉士磐金(なにわのきしのいわかね)が新羅から持ち帰った鵲二隻を飼わせたところである。もともと難波の守屋の宅があったところ、すなわち「守屋の宮」が「森の宮」に変わったのでは・・・と推測されている。

日本書紀』の崇峻即位前紀には、”乱をしずめて後に、摂津国にして四天王寺を造る。大連(おおむらじ、=守屋)の奴の半ばと宅(いえ)とを分けて、大寺の奴・田荘となす」とある。上記の古書の記述に従うならば、守屋の乱を平定した後に四天王寺を造営した場所は摂津国の玉造であり、その際、守屋の奴婢の半分と家宅を分けて、四天王寺の所有する奴隷と耕地とした、ということになる。

味深いのは、玉造に最初の四天王寺が建てられたとする諸書は、いずれも創建の目的を物部守屋の菩提を弔うためとしている点だ。おそらく、『日本書紀』に記された四天王の加護に謝恩するという目的は後世の付会であろう。当時14歳だった聖徳太子に仏教寺院を建立するほど財力があったとはとても思えない。守屋の霊の鎮魂を必要とした人物が、寺の創立者であったと考えた方がよさそうだ。それが、ヤマト王権で勢力を二分した蘇我馬子だったか、あるいは両者が戦うことを陰で演出した人物だったかにちがいない。

造から荒陵に移建されたのはいつ頃であろうか。『日本書紀』は推古天皇元年(593)に初めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造ると記すが、果たして信用できるだろうか。考古学的知見によると、四天王寺から出土する瓦は、斑鳩の法隆寺の若草伽藍で使用されていた瓦と同じ範(形)で焼かれたものらしい。そこで、和田萃(あつむ)教授はその著書『飛鳥-歴史と風土を歩く』の中で、四天王寺の建立時期は若草伽藍とほぼ同じ時期の7世紀初めか、やや遅れて造営されたものと推定しておられる。

方、発掘調査の結果、四天王寺の金堂、塔、中門と講堂、南門、回廊に造営年次に差があることに着目された田村円澄氏は、創建時の四天王寺は難波を本貫とする難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であったとする説を立てておられる。645年(大化元)年12月に孝徳政府が難波に遷ってきた時点では、寺の金堂や塔、中門などは竣工していたが、講堂、南門、回廊などは未完成であったという。

難波宮の大極殿址
難波宮の大極殿址
波遷都に先だって、孝徳政府は僧尼の教導に当たらせるために十師を任命していた。遷都によって、これら十師を住まわせる寺が難波で必要になった。そこで目につけたのが、工事が中断されていた難波吉士氏の寺である。難波吉士氏と交渉して、その寺を孝徳政府の「官寺」に転用することを承諾させた。そして、十師を住まわせるとともに、講堂や回廊などの造営工事を再開したという。

波吉士氏の氏寺を「官寺」とすることに重要な役割を果たしたのが、左大臣の阿倍内麻呂だった。『日本書紀』によれば、648年(大化4)年2月8日、阿倍内麻呂は四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)を四天王寺に招き、大和飛鳥の反政府勢力からの孝徳政府の擁護を四天王に仰ぐべく、四天王像を塔内に安置したと伝える。このときをもって、寺号を正式に四天王寺と定め、四天王寺の造営が完成したという。



丁未の変の背後に何があったのか

87年7月に勃発した蘇我・物部戦争、すなわち丁未(ていび)の変は、百済から伝来した仏教を国として導入すべきかどうかを巡る宗教論争の最後の政治的決着として語られることが多い。諸豪族や諸皇子を糾合した崇仏派の蘇我氏が、排仏派の大連・物部守屋の別業があった現在の八尾市渋川を攻め、守屋を敗死させたと伝えられている。だが、実態は違うようだ。

物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺
物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺
和10年(1935)頃、現在のJR大和路線の八尾駅から約400m西北西の場所に、操車場が建設された。そのとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦や塔の心礎が建設現場から出土した。守屋の別業からは目と鼻の距離にあり、排仏派とされる物部氏も邸宅の近くに氏寺を建立していたことが判明した。その寺址は現在「渋川廃寺」と呼ばれている。

教の受け入れに反対していたのは、おそらく天皇家の祭祀を一手につかさどっていた中臣氏であろう。物部氏も石上神宮の祭祀を司っていたが、石上神宮は祭神として「布都御魂(ふつのみたま)」と呼ばれる剣を祀る神社である。崇仏/排仏には関係ない。おそらく守屋は一族の権威の象徴として氏寺を建立したにちがいない。しかも、彼の生前に造営を開始していたと思われ、その時期は蘇我氏の飛鳥寺よりも早い。

に、蘇我氏と物部氏の確執は、用明天皇崩御後の次期後継者指名争いに起因するとする説がある。しかし、この説にも疑問がある。

八尾市の渋川天神社に建つ渋川廃寺址
八尾市の渋川天神社に建つ渋川廃寺址
時皇位継承候補者として次の4名の名が上がっていたとされている。筆頭は、敏達天皇の第一皇子の押坂彦人大兄皇子 (おしさかのひこひとのおおえのみこ)。生母が地方豪族・息長真手(おきながまて)の娘・広姫だったため、中央政界の主要豪族からの支援はあまり得られなかった。次に、欽明天皇の皇子で、蘇我稲目(そがのいなめ)の娘 ・小姉君(おあねぎみ)を母に持つ穴穂部皇子 (あなほべのみこ)。用明天皇の皇后・穴穂部間人皇女(あなほべはしひとのひめみこ)の同母弟である。

の他に、用明天皇の第一皇子で穴穂部間人皇女を母に持つ厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)や、用明天皇の同母妹・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)を母に持つ敏達天皇の遺児・竹田皇子(たけだのみこ)がいた。

時の皇位継承勝者は、前の天皇の皇子だからと言って簡単に登極できる訳ではない。大和朝廷の主要豪族たちの合議で推挙された者だけが、次の天皇位を継ぐことができる。年齢的には押坂彦人大兄皇子が筆頭候補だったが、残念なことに彼を推挙する豪族は居なかったようだ。物部守屋や中臣勝海は穴穂部皇子を推した。蘇我馬子は厩戸皇子あるいは竹田皇子を推挙したかったのかもしれないが、いずれの皇子もまだ年令が若すぎた。そのため、蘇我馬子は誰を推挙しようか決めかねていたようだ。

守屋が稲城を築いた付近にある金岡公園
守屋が稲城を築いた付近にある金岡公園
我氏にとって、穴穂部皇子が登極しても問題はなかった。馬子にとって姉の小姉君の所生であり、蘇我の血を引く甥である。姪にあたる額田部皇女から我が子の竹田皇子の推挙を執拗にせがまれていたようだが、馬子の意中の人物は、厩戸皇子だったようだ。しかし、数え年14歳の厩戸皇子はまだ若い。推挙しても、とても他の豪族たちの賛同は得られそうにない。厩戸皇子の登極は次の次でもよいと考えた馬子は、どうやら豪族たちの合議を静観していたようだ。この時点で蘇我馬子と物部守屋との確執は生まれていない。

ころが、用明天皇元年(586)5月、穴穂部皇子はとんでもない事件を起こしている。額田部皇女を犯そうとして、崩御した敏達天皇の殯宮(もがりのみや)に押し入ったというのだ。実際は、敏達崩御の後の後継者選びで、前皇后を支援を得ようと訪れたのだろう。しかし、敏達天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさこう)によって、皇子の殯宮侵入は阻止された。そこで、この三輪逆の態度が無礼であるとして、彼を罰することを穴穂部皇子は馬子と守屋に相談し、二人の同意を得たという。

穂部皇子は三輪逆を誅殺するため守屋と共に兵を動かした。守屋は兵を率いて磐余に向かい三輪逆を斬った。怒りがおさまらないのは、夫の寵臣でありまた彼女に忠実に仕えていた逆を殺された額田部皇女である。殯宮に侵入して己を犯そうとした上に、寵臣の殺害を命じた穴穂部皇子を許すわけにはいかない。翌587年の6月、彼女は叔父の馬子に命じて穴穂部皇子を殺害させた。それでも、彼女の気持ちは収まらなかったのか、さらに物部守屋の討伐を馬子に命じた。

物部守屋の墓
物部守屋の墓
の際、守屋討伐の命令は先の皇后の詔(みことのり)の形で発せられた。詔となれば、馬子もそれに従わなければならない。馬子は諸皇子、諸氏族の大軍を率いて大和から河内に進軍し、激しい戦闘の末守屋を滅ぼした。だが、馬子が当初から本気で物部本宗家を滅亡させようと考えていたかどうかは、疑わしい。

屋は大連(おおむらじ)として大和王権の軍事と警察を管掌し、馬子は大臣(おおおみ)として大和王権の財政面を支えてきた。いわば二人は車の両輪の関係にあり、どちらが欠けてもお互いに困るのだ。しかも、馬子と守屋が敵対関係になかったことは『日本書紀』も認めていて、崇峻紀に「蘇我大臣の妻は、これ物部守屋大連の妹なり」と記している。馬子の妻は守屋の妹だったのである。したがって、武力衝突をしても適当なところで手を打って、二人は痛み分けということで事件を収束させようとしていた可能性がある。

が、『日本書紀』の崇峻紀は、上記の記述に続いて、「大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」と記している。その妻の名は布都姫(ふつひめ)とも太媛(ふとひめ)とも伝えられている。『日本書紀』の記載は、守屋の殺害を裏で計ったのは布都姫であると言っているに等しい。

像をたくましくしれば、馬子の妻・布都姫はマクベス夫人のような女性だったようにも思えてくる。シェクスピア原作の「マクベス」では、マクベス夫人は夫以上の野心家であり、実行力も兼ね備えていて、夫を叱咤して悪行を重ねさせる。馬子は物部本宗家を滅亡させることまでは当初は考えていなかった。しかし、兄が所有する領地の奪取を企てた妻の陰謀に乗せられて、結局は守屋を敗死させた。そうしたいきさつは100年後の『日本書紀』の編者たちの耳にも達していていて、上のような一文が追加されたのだろう。

極2年(643)に、蘇我蝦夷(そがのえみし)が病気で朝廷に出仕できなかったとき、蘇我馬子は大臣(おおおみ)の位を表す紫冠を息子の入鹿(いるか)に与えて大臣の位になずらえた。そこで、世間は入鹿の屋敷を物部大臣の邸宅と呼び、祖母が物部本宗家の守屋の妹だったのに兄の財力を奪い、そのため蘇我家が世に権勢をふるうことができるのだと噂したという。

未の変で蘇我馬子は守屋の膨大な奴婢や土地の財産を得た。そのうち、四天王寺造営に関わる分は大和朝廷側が没収し、その残りは馬子の妻が物部氏の相続人ときめてこれを所有させたとされている。その財力によって、蘇我氏の権勢がますます高まったことは容易に想像できる。蘇我本宗家が天皇家を上回る権勢を欲しいままにするのは、実は丁未の変以後のことである。

は、丁未の変の直後に、守屋が難波に構えていた邸宅の跡に、その死霊を供養し、鎮魂するために寺を建てたのは誰であろうか。厩戸皇子が四天王の加護を祈願したため蘇我軍が勝利できたとする伝承が、聖徳太子信仰が高まりを見せた後世の附会だったとすれば、この元四天王寺の創設者の顔も見えてくる。それは蘇我馬子であったにちがいない。守屋の死霊を供養し、その鎮魂のために寺を建てたとする馬子の動機は、世間の人々の理解を十分に得ることができたであろう。



啄木鳥(きつつき)となって四天王寺を襲う物部守屋

近読んだ谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹』は、冒頭の部分で面白い話を伝えている。四天王寺の金堂東側の緑色の欄間の上に、やはり緑色の冂の形をしたものが置かれている。谷川氏が寺僧に聞いたところでは、鷹の止まり木だそうだ。

四天王寺の金堂
四天王寺の金堂
金堂東面の鷹の止まり木
金堂東面の鷹の止まり木
の鷹の止まり木に関連して、四天王寺には奇怪な伝承が伝えられているとのことだ。四天王寺の堂塔は、合戦で敗死した物部守屋の怨魂が悪禽となって来襲し、そのため多大な損傷を受けるという被害に悩まされた。悪禽とは実は啄木鳥(きつつき)であり、聖徳太子が白い鷹になってこの悪鳥を追い払うことになったという。その白い鷹の止まり木が金堂の二階に現在も取り付けられているというわけだ。

戸中期の1712年ごろ出版された絵入りの百科事典『和漢三才図絵』(わかんさんさいずえ)には、「天王寺は初め玉造の岸の上に建つ。海波岸を壊し、悪禽来たり集まりて仏閣をつつき損ふ。これすなわち守屋の大臣の怨念か。その禽は啄木鳥なり。五年後推古元年にいたりて荒陵山(あらはかやま)の東に移す」とある。守屋の執念がすでに四天王寺が玉造にあったときから問題であったことを伝えている。

源平盛衰記』の中にも、守屋が啄木鳥になったことを記した一文がり、「太子仏法最初の天王寺を建立し給ひけるに、守屋が怨霊、彼の伽藍を滅ぼさんがために、数千万羽の啄木鳥となりて、堂舎をつつき滅ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給ひけり」と記されているとのことだ。

が、鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が表した『古今目録抄』では、「太子と守屋とは、生々世々の怨敵、生々世々の恩者なり。影の形に随うごとく、すでに五百年を過ぐ。太子守屋ともに大権の菩薩なり」とも言っている。つまり、守屋が啄木鳥になって仏法を妨げ、太子が鷹となって啄木鳥を追い払うという伝承は、聖徳太子と物部守屋が敵対しているようでありながら、むしろ一体となって仏法を弘通しようとした現れであるという。

天王寺の縁起資財帳である『荒陵寺御手印縁起』にも、「伝に曰ふ。守屋臣も仮には法敵となるといえども、却って太子の興隆を成ぜんが為の方便なり」と記されている。そこで、谷川氏はこうした伝承には守屋の怨霊を慰撫しようとする動機が含まれていると推察されている。

子信仰の高まりとともに、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりとしてみなされるようになった。そして、いつしか聖徳太子を「救世観音」と称するようになった。天王寺の本尊は救世観音であって四天王ではない。末法思想の時代に入ると、四天王寺を中心に霊場化が進み、救世観音信仰は次第に浄土念仏信仰へと変容していった。鎌倉時代、親鸞らによって救世観音が和讃や講式に取り込まれ、救世観音信仰は西方浄土信仰と同一視されるようになった。その後は、この信仰が長い間引き継がれて行き現在に至っている。




2008/05/02作成 by pancho_de_ohsei return