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| 西門からみた四天王寺の中心伽藍 |
四天王寺は当初、現在の玉造の地に造営され、後に荒陵に移された?!
四天王寺は、『日本書紀』の記述を引用して、推古天皇元年(593)に聖徳太子によって建立されたとしている。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折、聖徳太子は四天王に自軍の勝利を誓願され、戦いに勝利した後その報恩に感謝してこの寺を建立された、という。 だが、四天王寺の創建時期は一筋縄ではいかないようだ。まず、『日本書紀』の中に、四天王寺の造立に関する記事が二カ所に出ている。一つは用明天皇2年に相当する崇峻天皇即位前紀で、7月の条に丁未(ていび)の変のことを記したのち「乱を平めて後に、摂津国に四天王寺を造る」とある。もう一つは、推古天皇元年9月の条に、「この年、初めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造る」とある。
面白いことに、聖徳太子に関する多くの古書は、587年に四天王寺が造営された場所として、現在の大阪城付近の玉造辺りを指している。玉造は大阪市中央区の東南部から天王寺区の東北部にかけての地名であり、付近は上町台地の東縁部に相当する。かっては河内湖の入り江に面した小さな港などがあった交通の要衝だった。 玉造と聞いて、ハタと思い当たる記述が『日本書紀』の中にあった。丁未の変が勃発する直前に、物部守屋は資人(つかいびと、近侍者)の一人である捕鳥万(ととりべのよろず)という武将に百人の兵を与えて、難波の邸宅の防衛に赴かせている。当時の守屋は大和川の水利権を掌握していて、大和川が流れ込む河内湖の湖岸にも邸宅を構えていた。その場所は玉造付近がもっともふさわしい。
『荒陵寺御手印縁起』は平安時代後期(寛弘4年、1007年)に作成されたとされる四天王寺の縁起資財帳だが、その中に、「丁未歳をもって初めて玉造岸上に建て・・・癸丑歳壊して荒陵の東に移す」とある。丁未(ひのとひつじ)は587年、癸丑(みずのとうし)は593年にあたる。 『古今目録抄』は鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が法隆寺の記録や聖徳太子伝の秘伝を集大成したもので、『聖徳太子伝私記』とも『太子伝暦』とも呼ばれている。その中で、顕真は、「守屋を誅殺した直後の用明2年7月3日、玉造の地に柱を立てた。そして、守屋の死から49日目にあたる8月20日に、四天王像を安置し供養した。これが太子発願の四天王寺である」と記している。 顕真の甥で法隆寺の僧・俊厳は、弘長2年(1262)ごろ『顕真得業口決抄』を著している。その中には、「守屋の頸(くび)ならびに頸切太刀、着せし所の衣服とを悉く玉造の寺の仏壇の下に埋めて堂を造り、供養せしめ給ひ畢んぬ」とある。49日にあたる8月20日にこれらの品を仏壇の底に埋め供養したものと推察されている。 つまり、これらの諸書が伝えるところによれば、丁未の変の直後に、敗死した物部の守屋の霊の成仏を祈るために、彼の邸宅があった玉造に簡単な草葺きか茅葺きの草堂を造り、6年後に荒陵の地に移されて本格的な伽藍建築が造営されたとみるのが自然なようである。
『日本書紀』の崇峻即位前紀には、”乱をしずめて後に、摂津国にして四天王寺を造る。大連(おおむらじ、=守屋)の奴の半ばと宅(いえ)とを分けて、大寺の奴・田荘となす」とある。上記の古書の記述に従うならば、守屋の乱を平定した後に四天王寺を造営した場所は摂津国の玉造であり、その際、守屋の奴婢の半分と家宅を分けて、四天王寺の所有する奴隷と耕地とした、ということになる。 興味深いのは、玉造に最初の四天王寺が建てられたとする諸書は、いずれも創建の目的を物部守屋の菩提を弔うためとしている点だ。おそらく、『日本書紀』に記された四天王の加護に謝恩するという目的は後世の付会であろう。当時14歳だった聖徳太子に仏教寺院を建立するほど財力があったとはとても思えない。守屋の霊の鎮魂を必要とした人物が、寺の創立者であったと考えた方がよさそうだ。それが、ヤマト王権で勢力を二分した蘇我馬子だったか、あるいは両者が戦うことを陰で演出した人物だったかにちがいない。 玉造から荒陵に移建されたのはいつ頃であろうか。『日本書紀』は推古天皇元年(593)に初めて四天王寺を難波の荒陵(あらはか)に造ると記すが、果たして信用できるだろうか。考古学的知見によると、四天王寺から出土する瓦は、斑鳩の法隆寺の若草伽藍で使用されていた瓦と同じ範(形)で焼かれたものらしい。そこで、和田萃(あつむ)教授はその著書『飛鳥-歴史と風土を歩く』の中で、四天王寺の建立時期は若草伽藍とほぼ同じ時期の7世紀初めか、やや遅れて造営されたものと推定しておられる。 一方、発掘調査の結果、四天王寺の金堂、塔、中門と講堂、南門、回廊に造営年次に差があることに着目された田村円澄氏は、創建時の四天王寺は難波を本貫とする難波吉士(なにわのきし)氏の氏寺であったとする説を立てておられる。645年(大化元)年12月に孝徳政府が難波に遷ってきた時点では、寺の金堂や塔、中門などは竣工していたが、講堂、南門、回廊などは未完成であったという。
難波吉士氏の氏寺を「官寺」とすることに重要な役割を果たしたのが、左大臣の阿倍内麻呂だった。『日本書紀』によれば、648年(大化4)年2月8日、阿倍内麻呂は四衆(比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷)を四天王寺に招き、大和飛鳥の反政府勢力からの孝徳政府の擁護を四天王に仰ぐべく、四天王像を塔内に安置したと伝える。このときをもって、寺号を正式に四天王寺と定め、四天王寺の造営が完成したという。 |
丁未の変の背後に何があったのか587年7月に勃発した蘇我・物部戦争、すなわち丁未(ていび)の変は、百済から伝来した仏教を国として導入すべきかどうかを巡る宗教論争の最後の政治的決着として語られることが多い。諸豪族や諸皇子を糾合した崇仏派の蘇我氏が、排仏派の大連・物部守屋の別業があった現在の八尾市渋川を攻め、守屋を敗死させたと伝えられている。だが、実態は違うようだ。
仏教の受け入れに反対していたのは、おそらく天皇家の祭祀を一手につかさどっていた中臣氏であろう。物部氏も石上神宮の祭祀を司っていたが、石上神宮は祭神として「布都御魂(ふつのみたま)」と呼ばれる剣を祀る神社である。崇仏/排仏には関係ない。おそらく守屋は一族の権威の象徴として氏寺を建立したにちがいない。しかも、彼の生前に造営を開始していたと思われ、その時期は蘇我氏の飛鳥寺よりも早い。 次に、蘇我氏と物部氏の確執は、用明天皇崩御後の次期後継者指名争いに起因するとする説がある。しかし、この説にも疑問がある。
その他に、用明天皇の第一皇子で穴穂部間人皇女を母に持つ厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)や、用明天皇の同母妹・額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、後の推古天皇)を母に持つ敏達天皇の遺児・竹田皇子(たけだのみこ)がいた。 当時の皇位継承勝者は、前の天皇の皇子だからと言って簡単に登極できる訳ではない。大和朝廷の主要豪族たちの合議で推挙された者だけが、次の天皇位を継ぐことができる。年齢的には押坂彦人大兄皇子が筆頭候補だったが、残念なことに彼を推挙する豪族は居なかったようだ。物部守屋や中臣勝海は穴穂部皇子を推した。蘇我馬子は厩戸皇子あるいは竹田皇子を推挙したかったのかもしれないが、いずれの皇子もまだ年令が若すぎた。そのため、蘇我馬子は誰を推挙しようか決めかねていたようだ。
ところが、用明天皇元年(586)5月、穴穂部皇子はとんでもない事件を起こしている。額田部皇女を犯そうとして、崩御した敏達天皇の殯宮(もがりのみや)に押し入ったというのだ。実際は、敏達崩御の後の後継者選びで、前皇后を支援を得ようと訪れたのだろう。しかし、敏達天皇の寵臣だった三輪逆(みわのさこう)によって、皇子の殯宮侵入は阻止された。そこで、この三輪逆の態度が無礼であるとして、彼を罰することを穴穂部皇子は馬子と守屋に相談し、二人の同意を得たという。 穴穂部皇子は三輪逆を誅殺するため守屋と共に兵を動かした。守屋は兵を率いて磐余に向かい三輪逆を斬った。怒りがおさまらないのは、夫の寵臣でありまた彼女に忠実に仕えていた逆を殺された額田部皇女である。殯宮に侵入して己を犯そうとした上に、寵臣の殺害を命じた穴穂部皇子を許すわけにはいかない。翌587年の6月、彼女は叔父の馬子に命じて穴穂部皇子を殺害させた。それでも、彼女の気持ちは収まらなかったのか、さらに物部守屋の討伐を馬子に命じた。
守屋は大連(おおむらじ)として大和王権の軍事と警察を管掌し、馬子は大臣(おおおみ)として大和王権の財政面を支えてきた。いわば二人は車の両輪の関係にあり、どちらが欠けてもお互いに困るのだ。しかも、馬子と守屋が敵対関係になかったことは『日本書紀』も認めていて、崇峻紀に「蘇我大臣の妻は、これ物部守屋大連の妹なり」と記している。馬子の妻は守屋の妹だったのである。したがって、武力衝突をしても適当なところで手を打って、二人は痛み分けということで事件を収束させようとしていた可能性がある。 だが、『日本書紀』の崇峻紀は、上記の記述に続いて、「大臣、みだりに妻の計を用いて大連を殺せし」と記している。その妻の名は布都姫(ふつひめ)とも太媛(ふとひめ)とも伝えられている。『日本書紀』の記載は、守屋の殺害を裏で計ったのは布都姫であると言っているに等しい。 想像をたくましくしれば、馬子の妻・布都姫はマクベス夫人のような女性だったようにも思えてくる。シェクスピア原作の「マクベス」では、マクベス夫人は夫以上の野心家であり、実行力も兼ね備えていて、夫を叱咤して悪行を重ねさせる。馬子は物部本宗家を滅亡させることまでは当初は考えていなかった。しかし、兄が所有する領地の奪取を企てた妻の陰謀に乗せられて、結局は守屋を敗死させた。そうしたいきさつは100年後の『日本書紀』の編者たちの耳にも達していていて、上のような一文が追加されたのだろう。 皇極2年(643)に、蘇我蝦夷(そがのえみし)が病気で朝廷に出仕できなかったとき、蘇我馬子は大臣(おおおみ)の位を表す紫冠を息子の入鹿(いるか)に与えて大臣の位になずらえた。そこで、世間は入鹿の屋敷を物部大臣の邸宅と呼び、祖母が物部本宗家の守屋の妹だったのに兄の財力を奪い、そのため蘇我家が世に権勢をふるうことができるのだと噂したという。 丁未の変で蘇我馬子は守屋の膨大な奴婢や土地の財産を得た。そのうち、四天王寺造営に関わる分は大和朝廷側が没収し、その残りは馬子の妻が物部氏の相続人ときめてこれを所有させたとされている。その財力によって、蘇我氏の権勢がますます高まったことは容易に想像できる。蘇我本宗家が天皇家を上回る権勢を欲しいままにするのは、実は丁未の変以後のことである。 では、丁未の変の直後に、守屋が難波に構えていた邸宅の跡に、その死霊を供養し、鎮魂するために寺を建てたのは誰であろうか。厩戸皇子が四天王の加護を祈願したため蘇我軍が勝利できたとする伝承が、聖徳太子信仰が高まりを見せた後世の附会だったとすれば、この元四天王寺の創設者の顔も見えてくる。それは蘇我馬子であったにちがいない。守屋の死霊を供養し、その鎮魂のために寺を建てたとする馬子の動機は、世間の人々の理解を十分に得ることができたであろう。 |
啄木鳥(きつつき)となって四天王寺を襲う物部守屋最近読んだ谷川健一氏の著書『四天王寺の鷹』は、冒頭の部分で面白い話を伝えている。四天王寺の金堂東側の緑色の欄間の上に、やはり緑色の冂の形をしたものが置かれている。谷川氏が寺僧に聞いたところでは、鷹の止まり木だそうだ。
江戸中期の1712年ごろ出版された絵入りの百科事典『和漢三才図絵』(わかんさんさいずえ)には、「天王寺は初め玉造の岸の上に建つ。海波岸を壊し、悪禽来たり集まりて仏閣をつつき損ふ。これすなわち守屋の大臣の怨念か。その禽は啄木鳥なり。五年後推古元年にいたりて荒陵山(あらはかやま)の東に移す」とある。守屋の執念がすでに四天王寺が玉造にあったときから問題であったことを伝えている。 『源平盛衰記』の中にも、守屋が啄木鳥になったことを記した一文がり、「太子仏法最初の天王寺を建立し給ひけるに、守屋が怨霊、彼の伽藍を滅ぼさんがために、数千万羽の啄木鳥となりて、堂舎をつつき滅ぼさんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給ひけり」と記されているとのことだ。 だが、鎌倉時代に法隆寺の学僧・顕真が表した『古今目録抄』では、「太子と守屋とは、生々世々の怨敵、生々世々の恩者なり。影の形に随うごとく、すでに五百年を過ぐ。太子守屋ともに大権の菩薩なり」とも言っている。つまり、守屋が啄木鳥になって仏法を妨げ、太子が鷹となって啄木鳥を追い払うという伝承は、聖徳太子と物部守屋が敵対しているようでありながら、むしろ一体となって仏法を弘通しようとした現れであるという。 四天王寺の縁起資財帳である『荒陵寺御手印縁起』にも、「伝に曰ふ。守屋臣も仮には法敵となるといえども、却って太子の興隆を成ぜんが為の方便なり」と記されている。そこで、谷川氏はこうした伝承には守屋の怨霊を慰撫しようとする動機が含まれていると推察されている。 太子信仰の高まりとともに、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりとしてみなされるようになった。そして、いつしか聖徳太子を「救世観音」と称するようになった。天王寺の本尊は救世観音であって四天王ではない。末法思想の時代に入ると、四天王寺を中心に霊場化が進み、救世観音信仰は次第に浄土念仏信仰へと変容していった。鎌倉時代、親鸞らによって救世観音が和讃や講式に取り込まれ、救世観音信仰は西方浄土信仰と同一視されるようになった。その後は、この信仰が長い間引き継がれて行き現在に至っている。 |