国号「日本」は大宝律令で正式な名称として採用された???
日本固有の国名だったヤマトは、もともと何処にもある地名である。地形から来るヤマトは、山都、山門、山戸、山処、山跡など現在でも日本のあちこちに散在している。国号につながる倭語のヤマトも、もとは奈良盆地内の三輪山の山麓付近の狭い範囲を表す地名だった。 現在の纒向地域で発生したヤマト王権は、周辺の豪族との抗争や婚姻を通じて、次第にその支配地を拡大していった。それにつれて、ヤマトの範囲も拡大していったとされている。やがて奈良盆地全体を指すようになり、さらに拡大して畿内を、そしてやがてはヤマト王権が及ぶ全地域を表す国名になっていったようだ。すなわち、神武天皇が王業を定めた地である大和をもって国号とした。
倭の五王(讃、珍、済、興、武)は、4世紀後期ごろから5世紀末頃にかけて東晋など南朝へ断続的に朝貢使節を送ったが、彼等が倭王と自称していたことは、中国の史書に詳しい。 7世紀になると、中国本土を統一した隋およびその後の唐に対して、我が国は盛んに遣隋使や遣唐使を派遣して大陸の文化の導入に熱心だった。隋の文帝の開皇20年(600)、我が国から最初の遣隋使が派遣された。その折、文帝が我が国の風俗を尋ねたとき、遣隋使は「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。云々」と答えたという。7世紀初頭においても、我が国の国号は倭であった証である。 607年に派遣された小野妹子を大使とする遣隋使は、隋の煬帝宛ての国書を持参していた。 その冒頭は「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書をいたす。つつがなきや」で始まっている。ここでは自国のことを日出ずる国と称しているが、しかし、これが日本国を表わしていたわけではない。 歴史学者の東野治之氏によれば、「日出づる処」や「日没する処」といった対句は、「大智度論」という仏典からの借用であり、単に方角を別の形で表したにすぎない。「大智度論」巻十には”日出づる処は是れ東方、日没する処は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方なり”とある。
粟田真人が執節使を拝命した第7次遣唐使は、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍と戦って破れ、669年に謝罪使を派遣して以来、実に33年ぶりに派遣した遣唐使である。「執節使」とは天皇から国家権威のシンボルとして授けられた「節刀」を所持する人物で、使節団の最高責任者として、その地位は大使よりも上だった。 1年前の大宝元年(701)8月3日、大宝律令が完成した。刑部親王・藤原不比等・粟田眞人・下毛野古麻呂らが中心になって選定を進めてきた事業である。その完成は、白村江の敗戦以来、積み重ねられてきた古代国家建設事業が一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件とされている。そのため、大宝律令において初めて日本の国号が定められたとする説が一般的である。 ちなみに、粟田真人はときの女帝・則天武后に好感をもって迎えられ、麟徳殿の盛宴に招かれたのみならず、司膳卿という名誉職まで授けられたそうだ。則天武后が粟田真人を評した言葉として「属文を解し、容止は温雅である」と伝えられている。このときの遣唐使に応対した唐側の興味深い記録が945年に編纂された『旧唐書』の倭国・日本伝にも、1060年に編纂された『新唐書』日本伝にも、それぞれ残されている。
ほぼ同文なので、『旧唐書』から引用しておこう。
この記述には矛盾がある。日出ずる所に近いからとか、優雅な呼称でないからと言った理由で、倭国が勝手に国号を日本に変えたような書き方をしている。しかし、これは間違いである。当時の東アジアは、唐を中心とする冊封体勢という一種の世界秩序を形成していた。この世界秩序の中では、周辺諸国が国号を勝手に変えられるものではない。 我が国は、唐の冊封を受けてはいなかったが、それでも国名を日本に変更するには、必ず当時の周の女帝・即天武后の承認を必要としたはずだ。おそらく粟田真人はあらかじめ国名変更の許可を申し出ていたのだろう。唐の張守節が開元24年(736)に撰した『史記正義』という書がある。その中に「武后、倭国を改めて日本国と為す」とある。改称はあくまで唐側が主体となって行われたことを示す一文である。 |
大宝律令以前に「日本」という国号は成立していた701年に完成した大宝律令は、古代律令国家の完成、すなわち古代天皇制の成立と表裏一体をなすものと一般に解されている。その大宝律令の中に天皇が発する詔書の書式を規定した公式令(きしきりょう)詔書式があった。そこには「明神御宇日本天皇(あきつみかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこと)」を対外的な詔書に用い、「明神御宇大八州天皇」を国内的な詔書に用いることを規定している。そこで、日本文学研究者の神野志隆光(こうのし たかみつ)教授などは、大宝律令で国号も「日本」とすることが正式に決められたとする説を出しておられる(「日本」とは何か 国号の意味と歴史(講談社現代新書、2005)。
日本国号の成立を孝徳天皇の時代まで遡らせるのは無理としても、唐との関係に収斂する大宝律令成立説に疑問を投げかける専門家もいる。そうした専門家が、大宝律令以前の成立を証明する文献としてよく引き合いに出すのが『三国史記』である。『三国史記』の新羅本紀、孝昭王7年3月の記述には、「日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す」とある。孝昭王7年は西暦698年、文武天皇の2年に当たり、大宝3年の中国への日本号使用以前に、すでに対新羅外交で「日本」という国号が使用されていたと見る。 そもそも「日本」という国号は、それ以前の「倭」とは違って受動的な国号ではない。主体的に新しい国家体制の国号として宣言されたもので、神野志隆光氏も「”日本”という国号の本質は、朝鮮を 服属させる帝国としての自らを表象することにあった”としている。つまり、我が国に「小中華思想」が芽生え、676年に唐軍を半島から追い出して半島を統一した新羅を蕃国と位置づける風潮が高まったとき、朝貢国である新羅に先ず「日本」という国号を示したというのである。 こうした説では、「倭」という称号を「日本」に改変した時期を、我が国最初の律令である飛鳥浄御原令の施行時期においている。浄御原律令は、天武10年(681)2月に飛鳥浄御原宮において編纂事業が開始され、持統3年(698)6月に令二十二巻が完成し施行されたものである。したがって、天武10年以後のある段階で新羅に対して正式な国号として「日本」が用いられた可能性が高い。その時期は698年より以前、おそらくは持統朝であろうと考えられている。 |
日本という名の由来「日本」という国号の由来に対して関心を抱いている矢先に、東アジアの古代文化を考える会の今月の例会で、大東文化大学の小林敏男教授が「日本という国号について」という題する講演をされるという話を聞いた。それで、去る4月19日、池袋にある豊島区生活産業プラザまで出かけてきた。
中国大陸では、次から次へと新しい王朝が生まれ、そして消えて行った。各王朝が国の内外にその存在を示すためには、国号を制定することが不可欠だった。我が国では、奈良時代の初め頃までには、既に万世一系の天皇家が国土を支配するとする歴史観が確立していた。したがって、中国を真似た小中華思想が芽生えてくるまで、自主的な国号を制定する必要もなかったのであろう。 では、日本という国号は何を意味するのか。”日”が太陽を意味するのは誰でも理解できる。だが”本”とは何か。”本”は元来、木の根本のことをいう。この点に関して、中国では古来、日本の別称として「扶桑国」と呼んでいたことに絡めて、小林教授は次のように説明された。 扶桑という木は東海の海中にあり、両幹同根、つまり一つの根から二本の幹が別れて出ていて、太陽はその扶桑樹の下から昇ってくると、古代中国では考えられていた。当時の人々にとって、太陽が昇ってくる扶桑樹の下、あるいはその場所にある国というのが、扶桑国のイメージだった。すなわち、古代中国の世界観の中の東の果ての日出ずる地という認識が基盤にあって、「日本」の名が生まれた。「日本」という国号のルーツをたどれば、その始源は中国ということになるとのことだ。
たとえば『日本書紀』の元となった資料の一つに『日本世記』がある。高句麗の僧・道顕が書いたもので、天武朝の末頃に撰述されたと推定されている。通常、歴史家が別の書籍を参照する場合、そのタイトルまで変更するようなことはしない。すでに、天武朝の頃には日本という国号が定着していた証ではないのか。 また、伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)が記した『伊吉博徳書』が斉明紀に何カ所か引用されている。伊吉連博徳は斉明5年(659)に遣唐使の一員として唐へ渡り、たまたま我が国と唐とが戦争状態に入ったため一時抑留されるが、無事帰国した人物である。『伊吉博徳書』では、斉明5年7月30日、遣唐使は洛陽で唐の天子に引見したときの様子を伝えている。その時の天子の言葉を「日本の天皇、平安にますや否や」とのたまふ、と記している。 さらに、『日本書紀』の継体紀や欽明紀に引用されている『百済本紀』には、「日本」とか「日本天皇」といった表記が散見する。『百済本紀』は『百済記』、『百済新撰』とあわせて百済三書と呼ばれているもので、歴史学者の加藤謙吉氏によれば、これらの史書は、百済本国で撰述された原記録をもとに、7世紀末に亡命百済人が大幅に手を加えて『書紀』の編纂に資する目的で上進されたものであるという。 これらの史書に「倭」と書かれたものも「日本」に書き換えたとされているが、かならずしもそうとは言い切れない。たとえば『百済記』や『百済新撰』には「大倭」とか「倭」が使用されていて、なぜ『日本書紀』の編者が『百済本紀』だけ国名の書き換えを行ったのか理由が不明である。そこで、小林教授は、日本という名称は中国を始源としているが、百済で我が国を呼ぶ表記として成立し、国号として正式に採用される以前から、私的な形でヤマトに日本を当てる書物が存在し、流行していたのではないかと推測されている。傾聴すべき意見だった。 |