ひたちなか市の虎塚古墳を訪れる
高松塚で問題になったカビが、虎塚古墳では見られないという。その原因はアミンの存在にあるようだ。未開口石室の科学調査でもアミンの存在が確認された。アミンは遺骸のタンパク質が加水分解してアミノ酸となり、それが分解して生成されたものである。アミンはさらに分解して分子の小さい小アミンに変化するが、この小アミンは殺菌力があり、石室内のカビの防菌作用をしているという。
と言って、自宅のある川口市から虎塚古墳のあるひたちなか市までは簡単に行ける訳ではない。8時10分に武蔵野線の「東浦和」駅で電車に乗ったが、途中で3回電車を乗り換えなければならなかった。ひたちなか海浜鉄道の「中根」駅には11時32分に到着した。 ひたちなか海浜線は、茨城交通湊線を引き継ついで今月の1日から第三セクターとして開業したばかりのホヤホヤの鉄道だ。JR常磐線の「勝田」駅と「阿字ケ浦」駅の間にある7つの駅を、一両のワンマン列車がおよそ26分をかけて結んでいる。途中の駅は、駅員のいない無人駅である。
「勝田」駅を11時24分に出発したワンマン列車は、しばらく住宅地の間を走ると、やがて丘陵の雑木林を抜けて田園地帯に出た。田植えの時期を控えて荒田おこしの済んだ田には、それぞれ水が張られている。その殺風景な風景を助長するように、上空を厚い雲が被っていた。丘陵の裾を這うように走っていた列車が、3つ目の駅でとまった。そこが「中根」駅だった。時計を見ると11時32分、わずかに8分の乗車時間だった。
舗装がかなり痛んだ道の端を歩いて丘陵を登っていくと、丘陵の上は広い畑が広がっていた。かなり背が伸びた麦畑もあれば、何かの種を撒くためにすでに鍬が入れられている畑もある。この付近の表土もクロっぽく粒子が細かい。昨日・一昨日と関東地方は爆弾低気圧の影響で雨風がすごかった。本日もその余波で北風が吹き荒れている。昨日まで雨が降ってくれたので助かった。これだけ風が吹き荒れると、晴天の後では畑の砂塵が巻き上げられ、おそらく目も開けていられないにちがいない。 丘陵の上の道をかなり進んだところに、虎塚古墳/十五郎穴横穴群方面への標識が立っていた。右折して残り700mほど進めば良いらしい。道が雑木林にぶつかる手前で左手の畑を見ると、不思議な石像物があった。古墳の石室だけが無惨な形で露出しているのだ。 虎塚4号墳と呼ばれる古墳で、盛土はすべて取り除かれてしまったが、石室を形作っていた巨石は動かせなかったのか、そのまま畑にに残ったようだ。近寄ってみると天井石が斜めに落ちていて、内部は土が埋まって何も見えない。
虎塚4号墳の先は雑木林にぶつかる。T字路を雑木林の縁に沿って右に進むと、路側帯に色とりどりの草花が植えられたところで、道が二股に分かれ、「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」方面への標識が立っている。そこから埋蔵文化財調査センターは近く、すぐに駐車場の前に着いた。途中で道草をくったせいもあり、「中根」駅から30分を要した。
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下塗りの白色粘土の上にベンガラで描かれた幾何学模様
次に気になっていたのは、未開口の状態で石室内の状態を科学調査した背景である。大塚初重教授もその著書に中で、前年に発見された高松塚古墳の壁画保存の参考にするためだったと書かれている。そうであれば、虎塚古墳の石室内に色彩壁画が描かれていることを事前にどのように知ったのだろうか。 この件に関して、館員は面白い裏話を聞かせてくれた。発掘調査を開始する前に、大塚教授が奈良(?)文化財研究所の知り合いと酒を飲んだ席で、高松塚壁画の保存の参考にするため、石室を開く前に内部の状態を調査して欲しいと非公式に依頼されたそうだ。それで、石壁に小さな穴を開け管を差し込んで、内部の温度や湿度、微生物の状態などについて科学調査が実施された。もちろん、科学調査の段階では、石室内に装飾壁画が存在することなど知る由もなかったという。 それが事実ならば、昭和48年(1973)に発掘調査が行われとき、最初に虎塚古墳の石室の扉を開けて中を覗き込んだ調査員はどのような印象をもったであろうか。なにしろ高松塚古墳の極彩色壁画発見で日本中がフィーバした余韻がまだ残っている頃である。あるいは第二の高松塚発見と驚がくしたかもしれない。 もう一つ聞きたいことがあった。高松塚で問題になったカビが、虎塚古墳ではまったく見られないされているが、壁画の劣化は実際発生していないのだろうか。この点に関しても、実に正直に答えていただいた。発掘されて35年を経た石室の内部が発掘当時のままという訳にはいかず、時間の経過による自然劣化は起きている。しかし、カビの発生や人的な損傷による劣化はないとのことだ。 虎塚古墳の石室内部は、春と秋の二回、監察室のガラス越しに一般公開されている。公開の直前には職員が内部に入り、壁画の状態を綿密にチェックして、公開して問題ないか点検している。公開の直後にも職員が中に入って必要な消毒を行っているという。
この古墳の最大の特徴は、なんといっても石室内に描かれた東日本でも珍しい彩色壁画であろう。残念ながら実物は見れないが、標本展示室に置かれた模型を覗き込んだだけでも、そのすばらしさが実感できる。天井石はベンガラ(酸化第二鉄)で全体に赤く彩色され、奥壁と側壁は白色粘土で下塗りした後にさまざまな模様が赤く描かれている。玄室の床面も白色粘土の上にベンガラで彩色が施されている。また玄門入口にもベンガラで連続三角文が赤く描かれているという。
よく見ると、玄室の奥壁と側壁の上部には、三角文が連続して描かれている。
赤いベンガラを用いて描かれた三角文・環状文・円文・渦巻文といった幾何学文は、おそらく被葬者を悪霊から護るために、除魔の願いをこめて描かれたものと解釈されている。茨城・福島・宮城県下でも彩色壁画が見つかっているが、虎塚古墳のものは多様さと特異性において他に類例のない貴重なものとされている。 西壁に描かれた9個の円は太陽を表しているという説がある。中国の『淮南子』という書には、興味深い神話が載っている。昔、中国で常に一つずつ上がっていた太陽が一度に10個も出現したため大地が灼熱した。そのため、時の皇帝が弓の名人に、このうちの9個の太陽を射落とさせたという。似たような話が関東にも伝わっている。垂仁天皇の御代、太陽が9つ出現し、武蔵野国入間郡で打ち落としたという。 連続三角文、円文、舟などの図柄は、九州の装飾古墳壁画にも描かれている。直線距離で1000km以上も離れた地域に住む人々が、同じような様式の墓制を採用していた事実は興味深い。同じ集団が作り続けた墓制はそれほど簡単に変わるものではない。おそらく九州に盤踞していた氏族の一部がこの地に移住してきて、その族長のために同じ墓を造ったのであろう。 |
雑木林の中にひっそりと横たわる虎塚古墳
埋蔵文化財センターの前の林に入っていくと、急に視界が開けて、「虎塚古墳史跡公園」と書かれた大きな石碑がたっている。その周囲は一昨日来の嵐で桜の花びらどころか、枯れ枝まで折れて地表に散乱している。その先に、芝生に覆われた美しい姿の前方後円墳があった。全体に修復が施されていて、周壕とその土手の構造もよく分かる虎塚古墳である。この古墳は前方部と後円部がほぼ同じ大きさと高さを持ち、前方部が発達した後期古墳の特徴をよく備えている。 外堤を伝って後円部の方へ回ると、緑の幌の屋根で覆った監察室の入口があった。もう少し早くこの古墳の存在を知ったなら、春の一般公開にはせ参じたものを・・・と、いささか残念だった。
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集団墓地として築かれた十五郎穴横穴群
虎塚古墳から300mほど離れたところに、茨城県の史跡に指定されている「十五郎穴横穴群」がある。ついでだから、立ち寄ってみることにした。標識に従って雑木林の中を進むと、途中に左に入る狭い地道がある。その道を進むと下り坂になり、丘陵の縁に出た。すると、凝灰岩の崖に穿たれた横穴墓が群集しているのが目に入った。
横穴墓とは、台地の崖の所に横から穴を掘って築いた墓のことだ。墓によっては、玄室・羨道・玄門・前庭部などから構成されていることがあり、高塚式古墳の横穴式石室と類似している。しかし、十五郎穴横穴群は、古墳時代の群集墳ではなく、奈良時代に造られたものだそうだ。 教育委員会が立てた案内板によると、十五郎穴横穴墓群は、館出、指渋などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて密集しているようだ。1975年から80年にかけて実施された調査では、虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖で、約120基の横穴墓が発見された。実際の規模は300基を越えるだろうと言われている。このうち館出に群集している三十四基が茨城県の史跡に指定されているとのことだ。 十五郎穴の名称、由来については、この地に十郎・五郎なる人物が住んでいたという伝承から生まれたということだ。これらの横穴墓からは須恵器、直刀、鉄製品など数多くの副葬品が出土している。 筆者の住んでいる埼玉県では、比企郡の吉見百穴が有名である。大阪府柏原市には高井田横穴群や安福寺横穴群がある。 |