平成20年4月20日

東日本で初めて色彩壁画が発見された虎塚古墳(とらづかこふん)

しっかりした保存・管理体制で防げたはずの極彩色壁画の劣化

もなく初夏を迎える明日香が、また賑やかになりそうだ。キトラ古墳から剥ぎ取られた壁画の「子(ね)」「丑(うし)」「寅(とら)」が、5月9日から25日まで飛鳥資料館で特別公開される。4月16日、3枚の壁画は厳重に木箱に梱包(こんぽう)され、美術品専用のトラックで飛鳥資料館に運ばれた。

高松塚古墳の飛鳥美人
目尻に黒い涙。劣化した
高松塚古墳の飛鳥美人
キトラ古墳の寅
キトラ古墳の寅
じ4月16日、宮内庁は高松塚古墳から剥ぎ取られた極彩色壁画を、5月31日から6月8日まで明日香村内の修理施設で一般公開すると発表した。1日500人程度という制限はあるが、往復はがきで申し込めば、修理施設内の作業室に並べられている壁画を見学用通路からガラス越しに見学できるそうだ。


えてみれば、高松塚古墳の被葬者の霊は哀れだ。同様に、キトラ古墳の被葬者の霊も可哀想だ。1300年前、被葬者たちは奥津城で永久(とわ)の眠りについたはずだが、20世紀になって無理矢理に石室がこじ開けられ、霊は長い眠りから突然覚まされてしまった。高松塚古墳の被葬者は一層哀れである。奥津城そのものが白日のもとに曝され破壊されてしまったのだから。

葬者たちにとって、石室の壁に描かれた極彩色の絵は、漆黒の闇の中でおのれ一人が独占できる唯一のものだったにちがいない。その壁画全体が、監督官庁の保存・管理の不手際によってカビで汚染されてしまった。挙げ句の果てに、保存・修理という身勝手な名目で、壁から剥ぎ取られ持ち去られてしまった。

存修理を終えた壁画はいずれ元の位置にもどされるだろう。だが、それは被葬者の霊が漆黒の闇の中で眺めてきた、1300年という歳月の流れが上積みされた壁画そのものではない。壁画はカビがきれいに洗い落とされ、かすんでしまった線や色が修復されて戻ってくるだろう。しかし、後世の人間の手垢のついた壁画など、霊たちにとっては何の意味も価値もないにちがいない。


直言って、両古墳の壁画を剥がして修理する状況に追い込まれたのは、まさに人災そのものである。発掘調査そのものが、壁画の劣化をもたらしたとも言える。調査発掘で古墳内の空気が変わったことでカビが繁殖し壁画の劣化を促したことは明らかだ。だが、発掘調査を行っても、その後に壁画の保存・管理をしっかりした体勢で行っていれば、劣化の進行を抑えられたはずだ。その見事な証(あかし)が、実は茨城県ひたちなか市にある。他ならぬ虎塚古墳である。

虎塚古墳
国の史跡に指定されている前方後円墳の虎塚古墳(2008/04/20 撮影)

ずかしながら、虎塚古墳のことを知ったのはつい最近のことだ。明治大学名誉教授の大塚初重(おおつかはつしげ)氏がお書きにあった著書でその名を知った。大塚教授は、高松塚古墳の発掘者である故網干善教氏とともに、カビ発生の原因究明がなされぬまま高松塚古墳の石室を解体するのは無謀であると反対した考古学者として、小生は記憶している。ある新聞社のインタビューに答えて、「残念ながら、壁画はもう死に体である。これ以上触らずに、古墳を元の形に戻して、それを21世紀の失敗として残せばよい」とコメントしておられた。

塚古墳は、茨城県ひたちなか市(旧勝田市)にある全長約57mの前方後円墳で、築造時期は7世紀前半頃と推定されている。7世紀前半と言えば、中央の大和では、聖徳太子が政治を主導した頃であり、やがて蘇我本宗家がその専横が災いして645年の乙巳(いっし)の変で葬り去られるころである。

の古墳の石室に描かれていたのは、極彩色壁画ではない。しかし、華麗な幾何学的文様が描かれていて、その見事な色彩に発掘調査隊は驚いたという。そして、その発掘調査を陣頭指揮されたのが、実は明治大学の大塚教授その人だった。

虎塚古墳の所在地
虎塚古墳の所在地
塚古墳の発掘調査は昭和48年(1973)9月、すなわち明日香村で高松塚古墳が発掘された翌年に実施された。しかも、この発掘調査では、驚くべきことが行われた。石室の扉を開いて内部を調査する前に、室内の状態に関する科学調査(温度や湿度、微生物など)が世界で初めて実施された。それは前年発見された高松塚古墳の壁画保存の参考にするためだったという。

調査後、虎塚古墳の石室はだたちに封鎖された。石室の前に築かれた監察室は、上記の科学調査で得られた重要な記録をもとに設計・施工され、石室内の気温は年間を通じて約15度、湿度は90%以上に保たれている。そのため、色彩壁画の保存状態は現在も良好である。だが、せっかく得られた科学調査のデータも、高松塚古墳の石室の保存・管理には十分には生かされなかったようだ。大塚教授の言葉を借りれば、”高松塚古墳の壁画も保存・管理体制に問題がなければ、これほど早く命を縮めることはなかった”ことになる。



ひたちなか市の虎塚古墳を訪れる

虎塚古墳の全駅
虎塚古墳の全景


松塚で問題になったカビが、虎塚古墳では見られないという。その原因はアミンの存在にあるようだ。未開口石室の科学調査でもアミンの存在が確認された。アミンは遺骸のタンパク質が加水分解してアミノ酸となり、それが分解して生成されたものである。アミンはさらに分解して分子の小さい小アミンに変化するが、この小アミンは殺菌力があり、石室内のカビの防菌作用をしているという。

監察室の位置
虎塚古墳後円部の監察室の位置
好に保存されている色彩壁画は、外気温と石室内部の温度差が少ない春と秋の2回、一般公開されている。見学者は監察室の分厚いガラス越しに石室内の状態を見学することができる。ガラス越しでも見学できるなら、是非見てみたいと思った。だが、今年の春季公開は3月27日(木)から30日(日)と4月3日(木)から6日(日)までで、残念ながらすでに終了している。それでも、どんな場所に築かれている古墳か気になって、思い切って出かけてみることにした。

言って、自宅のある川口市から虎塚古墳のあるひたちなか市までは簡単に行ける訳ではない。8時10分に武蔵野線の「東浦和」駅で電車に乗ったが、途中で3回電車を乗り換えなければならなかった。ひたちなか海浜鉄道の「中根」駅には11時32分に到着した。

たちなか海浜線は、茨城交通湊線を引き継ついで今月の1日から第三セクターとして開業したばかりのホヤホヤの鉄道だ。JR常磐線の「勝田」駅と「阿字ケ浦」駅の間にある7つの駅を、一両のワンマン列車がおよそ26分をかけて結んでいる。途中の駅は、駅員のいない無人駅である。

ああああ ああああ
JR勝田駅の片隅で出発を待つひたちなか海浜線の電車 人気のない、寒風にされされた「中根」駅

勝田」駅を11時24分に出発したワンマン列車は、しばらく住宅地の間を走ると、やがて丘陵の雑木林を抜けて田園地帯に出た。田植えの時期を控えて荒田おこしの済んだ田には、それぞれ水が張られている。その殺風景な風景を助長するように、上空を厚い雲が被っていた。丘陵の裾を這うように走っていた列車が、3つ目の駅でとまった。そこが「中根」駅だった。時計を見ると11時32分、わずかに8分の乗車時間だった。

虎塚古墳への道
虎塚古墳への道
道路脇の標識
道路脇の標識
ームに降りて周囲を見回したとき、古い記憶が蘇った。田園の中に古ぼけた駅舎がポツンと立っている景色は、高校時代に通学で利用していた最寄りの駅に似ていた。駅の近くに中丸川が流れ、岸辺に咲く菜の花が時折吹き荒れる北風に煽られて激しく揺れている。視線を川の向こうに投げると丘陵が長々と横たわっていた。虎塚古墳はどうやらその丘陵の中に築かれているようだ。

装がかなり痛んだ道の端を歩いて丘陵を登っていくと、丘陵の上は広い畑が広がっていた。かなり背が伸びた麦畑もあれば、何かの種を撒くためにすでに鍬が入れられている畑もある。この付近の表土もクロっぽく粒子が細かい。昨日・一昨日と関東地方は爆弾低気圧の影響で雨風がすごかった。本日もその余波で北風が吹き荒れている。昨日まで雨が降ってくれたので助かった。これだけ風が吹き荒れると、晴天の後では畑の砂塵が巻き上げられ、おそらく目も開けていられないにちがいない。

陵の上の道をかなり進んだところに、虎塚古墳/十五郎穴横穴群方面への標識が立っていた。右折して残り700mほど進めば良いらしい。道が雑木林にぶつかる手前で左手の畑を見ると、不思議な石像物があった。古墳の石室だけが無惨な形で露出しているのだ。

塚4号墳と呼ばれる古墳で、盛土はすべて取り除かれてしまったが、石室を形作っていた巨石は動かせなかったのか、そのまま畑にに残ったようだ。近寄ってみると天井石が斜めに落ちていて、内部は土が埋まって何も見えない。

畑の中に露出している虎塚4号墳の石室 同左
畑の中に露出している虎塚4号墳の石室 同左

塚4号墳の先は雑木林にぶつかる。T字路を雑木林の縁に沿って右に進むと、路側帯に色とりどりの草花が植えられたところで、道が二股に分かれ、「ひたちなか市埋蔵文化財調査センター」方面への標識が立っている。そこから埋蔵文化財調査センターは近く、すぐに駐車場の前に着いた。途中で道草をくったせいもあり、「中根」駅から30分を要した。

路側帯に植えられた草花 埋蔵文化財調査センター
路側帯に植えられた草花 ひっそりと民家のようにたたずむ埋蔵文化財調査センター

標本展示室の中央に置かれた石室の模型
標本展示室の中央に置かれた石室の模型
蔵文化財調査センターの建物は、木立に囲まれてまるで民家のようにひっそりと建っていた。ちょうど小雨もぱらつきだしたので、雨宿りも兼ねて中を見学していくことにした。このセンターは、ひたちなか市域の埋蔵文化財の発掘調査や出土遺物の整理、保存、公開などを目的に設立された。玄関を入ると、左手に標本展示室があった。その中央に、虎塚古墳の石室の模型が置かれていて、見学者はここで石室内に描かれた色彩壁画をのぞき見ることができる。



下塗りの白色粘土の上にベンガラで描かれた幾何学模様

 虎塚古墳の諸元

幾何学文様が描かれた石室内部
幾何学文様が描かれた石室内部
【所在地】茨城県ひたちなか市中根指渋(さしぶ)3494-1
【墳形】前方部を西に面した前方後円墳。前方部が発達した後期古墳の特徴を持つ
【規模】全長56.5m 、後円部径32.5m 、後円部高さ5.5m 、前方部幅38.5m 、前方部高さ5.0m
【築造時期】7世紀前半
【埋葬設備】横穴式石室。玄室の長さ3.0m、奥壁の幅1.5m、玄門部の幅1.4m、高さ(中央部)1.4m
【彩色壁画】 装飾に赤色のベンガラ(第二酸化鉄)を使用。玄門入口に連続三角文を描く。玄室は全面に白色粘土を下塗した上に、壁上部に連続三角文を、その下に三角文・円文・環状文・渦(うずまき)文などの幾何学文様と武具・装飾品などの文様を描く
【被葬者】成人男子の遺骸が1体
【副葬品】全長約38cmの漆塗小大刀(うるしぬりこたち)、刀子(とうす)、毛抜形鉄製品、やりがんな、鉄鏃など
【アクセス】ひたちなか海浜鉄道の「中根」駅下車、徒歩約25分。北関東自動車道「ひたちなかインター」から車で約5分


虎塚古墳出土の鉄製品
虎塚古墳出土の鉄製品
本展示室には小生以外に見学者がいなかったので、中央に置かれた石室の模型を前にして館員から虎塚古墳の話いろいろ拝聴することができた。まず気になったのは、この古墳の副葬品の少なさである。そこで、盗掘されていたのか聞いてみた。発掘時に盗掘の穴はあったようだが、しかし石室まで届いていなかったとのことだ。

に気になっていたのは、未開口の状態で石室内の状態を科学調査した背景である。大塚初重教授もその著書に中で、前年に発見された高松塚古墳の壁画保存の参考にするためだったと書かれている。そうであれば、虎塚古墳の石室内に色彩壁画が描かれていることを事前にどのように知ったのだろうか。

の件に関して、館員は面白い裏話を聞かせてくれた。発掘調査を開始する前に、大塚教授が奈良(?)文化財研究所の知り合いと酒を飲んだ席で、高松塚壁画の保存の参考にするため、石室を開く前に内部の状態を調査して欲しいと非公式に依頼されたそうだ。それで、石壁に小さな穴を開け管を差し込んで、内部の温度や湿度、微生物の状態などについて科学調査が実施された。もちろん、科学調査の段階では、石室内に装飾壁画が存在することなど知る由もなかったという。

れが事実ならば、昭和48年(1973)に発掘調査が行われとき、最初に虎塚古墳の石室の扉を開けて中を覗き込んだ調査員はどのような印象をもったであろうか。なにしろ高松塚古墳の極彩色壁画発見で日本中がフィーバした余韻がまだ残っている頃である。あるいは第二の高松塚発見と驚がくしたかもしれない。

う一つ聞きたいことがあった。高松塚で問題になったカビが、虎塚古墳ではまったく見られないされているが、壁画の劣化は実際発生していないのだろうか。この点に関しても、実に正直に答えていただいた。発掘されて35年を経た石室の内部が発掘当時のままという訳にはいかず、時間の経過による自然劣化は起きている。しかし、カビの発生や人的な損傷による劣化はないとのことだ。

塚古墳の石室内部は、春と秋の二回、監察室のガラス越しに一般公開されている。公開の直前には職員が内部に入り、壁画の状態を綿密にチェックして、公開して問題ないか点検している。公開の直後にも職員が中に入って必要な消毒を行っているという。


石室の展開図
石室の展開図
奥壁の壁画
奥壁の壁画
東壁の壁画
東壁の壁画
西壁の壁画
西壁の壁画
塚古墳の埋葬施設は横穴式石室である。奥壁と東壁は1枚、西壁は2枚、天井は3枚、床は7枚の凝灰岩を組み立てて造られていいる。この石室に成人男子の遺骸が1体埋葬されていた。当時、この地域を治めていた地方豪族の長だったと思われている。石室から黒漆塗り小太刀、刀子(とうす)、やりがんな、鉄鏃(てつぞく)などの鉄製品が副葬品として見つかった。

の古墳の最大の特徴は、なんといっても石室内に描かれた東日本でも珍しい彩色壁画であろう。残念ながら実物は見れないが、標本展示室に置かれた模型を覗き込んだだけでも、そのすばらしさが実感できる。天井石はベンガラ(酸化第二鉄)で全体に赤く彩色され、奥壁と側壁は白色粘土で下塗りした後にさまざまな模様が赤く描かれている。玄室の床面も白色粘土の上にベンガラで彩色が施されている。また玄門入口にもベンガラで連続三角文が赤く描かれているという。

く見ると、玄室の奥壁と側壁の上部には、三角文が連続して描かれている。
・奥壁では、二段に描かれた連続三角文の下に上下に合わせた三角文と大きな目玉のような赤い二つの環状文、さらにその下に15本の槍か鉾、それぞれ2個の靭(ゆき)と鞆(とも)、3本の太刀などの武具か描かれている。
・向かって右側の東壁には、連続三角文の下にS字状の渦巻文、2個の靫、3個の盾が描かれ、その右には、四角い箱のような鞍と一対の鐙(あぶみ)、2本の刀子、勾玉状の首飾り、そして靫と馬に乗る時泥除けになる”あおり”一対が並んでいる。
・向かって右側の西壁には連続三角文の下に9個の円文が並び、その下に舟と馬具らしき図が描かれている。

いベンガラを用いて描かれた三角文・環状文・円文・渦巻文といった幾何学文は、おそらく被葬者を悪霊から護るために、除魔の願いをこめて描かれたものと解釈されている。茨城・福島・宮城県下でも彩色壁画が見つかっているが、虎塚古墳のものは多様さと特異性において他に類例のない貴重なものとされている。

西壁に描かれた9個の円は太陽を表しているという説がある。中国の『淮南子』という書には、興味深い神話が載っている。昔、中国で常に一つずつ上がっていた太陽が一度に10個も出現したため大地が灼熱した。そのため、時の皇帝が弓の名人に、このうちの9個の太陽を射落とさせたという。似たような話が関東にも伝わっている。垂仁天皇の御代、太陽が9つ出現し、武蔵野国入間郡で打ち落としたという。

続三角文、円文、舟などの図柄は、九州の装飾古墳壁画にも描かれている。直線距離で1000km以上も離れた地域に住む人々が、同じような様式の墓制を採用していた事実は興味深い。同じ集団が作り続けた墓制はそれほど簡単に変わるものではない。おそらく九州に盤踞していた氏族の一部がこの地に移住してきて、その族長のために同じ墓を造ったのであろう。



雑木林の中にひっそりと横たわる虎塚古墳

虎塚古墳へのアクセス道路 虎塚古墳史跡公園の石碑
虎塚古墳へのアクセス道路 虎塚古墳史跡公園の石碑

蔵文化財センターの前の林に入っていくと、急に視界が開けて、「虎塚古墳史跡公園」と書かれた大きな石碑がたっている。その周囲は一昨日来の嵐で桜の花びらどころか、枯れ枝まで折れて地表に散乱している。その先に、芝生に覆われた美しい姿の前方後円墳があった。全体に修復が施されていて、周壕とその土手の構造もよく分かる虎塚古墳である。この古墳は前方部と後円部がほぼ同じ大きさと高さを持ち、前方部が発達した後期古墳の特徴をよく備えている。

堤を伝って後円部の方へ回ると、緑の幌の屋根で覆った監察室の入口があった。もう少し早くこの古墳の存在を知ったなら、春の一般公開にはせ参じたものを・・・と、いささか残念だった。

周濠や外堤も復元されている虎塚古墳 今年の秋まで施錠されている監察室の入口
周濠や外堤も復元されている虎塚古墳(手前:前方部) 今年の秋まで施錠されている監察室の入口



集団墓地として築かれた十五郎穴横穴群

aaaa
茨城県の史跡に指定されている「十五郎穴横穴群」(2008/04/20 撮影)

塚古墳から300mほど離れたところに、茨城県の史跡に指定されている「十五郎穴横穴群」がある。ついでだから、立ち寄ってみることにした。標識に従って雑木林の中を進むと、途中に左に入る狭い地道がある。その道を進むと下り坂になり、丘陵の縁に出た。すると、凝灰岩の崖に穿たれた横穴墓が群集しているのが目に入った。

ずらりと並んだ横穴墓 横穴墓の内部
ずらりと並んだ横穴墓 横穴墓の内部

穴墓とは、台地の崖の所に横から穴を掘って築いた墓のことだ。墓によっては、玄室・羨道・玄門・前庭部などから構成されていることがあり、高塚式古墳の横穴式石室と類似している。しかし、十五郎穴横穴群は、古墳時代の群集墳ではなく、奈良時代に造られたものだそうだ。

育委員会が立てた案内板によると、十五郎穴横穴墓群は、館出、指渋などの崖の凝灰岩にいくつかに分かれて密集しているようだ。1975年から80年にかけて実施された調査では、虎塚古墳のある台地(指渋)の南側の崖で、約120基の横穴墓が発見された。実際の規模は300基を越えるだろうと言われている。このうち館出に群集している三十四基が茨城県の史跡に指定されているとのことだ。

五郎穴の名称、由来については、この地に十郎・五郎なる人物が住んでいたという伝承から生まれたということだ。これらの横穴墓からは須恵器、直刀、鉄製品など数多くの副葬品が出土している。

者の住んでいる埼玉県では、比企郡の吉見百穴が有名である。大阪府柏原市には高井田横穴群安福寺横穴群がある。




2008/04/21作成 by pancho_de_ohsei return