平成20年4月16日

百済の王興寺(ワンフンサ)は飛鳥寺(=法興寺)の原型か?

天下の朝日新聞が伝える時期遅れの考古学ニュース

朝の朝日新聞を見て驚いた。一面のトップ記事の下に、「飛鳥寺の原型 百済の寺院か」という見出しをつけた囲み記事が載っている。何事かと読んでみると、韓国の扶余にある王興寺(ワンフンサ)の址から昨年10月に出土した舎利容器から、この寺は百済王の発願で577年2月に創建された寺であることが判明した、と伝えている。

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王興寺遺跡の構造・出土品の類似から、
飛鳥寺の原型と伝える今朝の朝日新聞
らに、記事の後半は、王興寺の造営に着手した577年という年に着目して、その年に百済王が我が国に送った造寺技術者によって飛鳥寺の造営が行われたとし、今回の舎利容器出土で二つの寺を結ぶ関連が浮かび上がってきたとしている。つまり、両方の寺に同じ系統の技術者が関わった可能性が大であり、王興寺が飛鳥寺の原型だったような書きぶりである。

の記事を読んで、実に奇妙な印象を受けた。先ず、舎利容器出土の情報は、すでに半年も前の昨年10月に、発掘調査を行っている国立扶余文化財研究所が公表している。何も今更天下の朝日新聞が一面のトップ記事に準じて扱うほどのニュースバリューはない。

に、577年に百済から寺院建立技術者が我が国に派遣されたことは、『日本書紀』に記載されているが、彼等が派遣されてきたのは、飛鳥寺造営のためではない。蘇我馬子の要請を受けて、百済の威徳王が寺工や鑪盤博士、瓦博士、画工などの技術者を派遣してきたのは崇峻元年、すなわち588年であって577年ではない。したがって、朝日の記事は、読者に誤解を与える内容になっている。

なみに、このニュースを報じたのは朝日新聞だけのようだ。考古学関連の発表であれば、とかくセンセーショナルに報道しがちな我が国のメディアとしては珍しいことである。しかも、記事の内容も紛らわしい。”国立扶余文化財研究所の調査で昨年10月、金・銀・青銅の舎利容器が出土、そこに刻まれた文字から百済王の発願で577年2月に創建されたことが判明した”とある。

れでは、昨年10月が”出土”にかかるのか、それとも”判明した”にかかるのか判然としない。本来なら、”昨年10月に出土した舎利容器に刻まれた文字から、577年2月に創建されたことが○月○日判明した”とすべきであろう。したがって、判明した時期が意図的に伏せてあると言われても仕方がない。伏せなければならなかった理由は簡単だ。発掘した時点で容器に書かれていた内容が判明していたからである。

たがって見えてくる意図も明白だ。一面に予定していた記事がなにかの理由で没になり、その穴埋めに利用されたか、それとも24面の文化覧に掲載された関連記事への前宣伝かのいずれかである。5W1Hの大原則を欠いた新聞報道を、天下の朝日新聞まで堂々とやってくれるとは、恐れいった。



昨年10月に報道された国立扶余文化財研究所の記者発表

参考までに、半年も前の昨年10月25日に、朝鮮日報のインターネット版に掲載された記事を引用しておこう。


1430年前の韓国最古の「舍利荘厳具」出土(上) 専門家ら「武寧王陵以来、百済最高の発掘」

出土した舎利容器
出土した舎利容器(中央日報インターネット版より転写)
国で最も古い椀(わん)型の「舍利荘厳具」(仏舍利を入れた容器)が1430年ぶりに発掘された。国立扶餘文化財研究所(キム・ヨンミン所長)は24日、「扶餘・王興寺跡の木塔基礎(心礎石)部分から西暦577年(威徳王24年)に製作され納められた舍利荘厳具と、各種の装飾品などをが発掘された。完全な姿で百済の舍利荘厳具が発見されたのは初めてのこと」と発表した。アン・フィジュン文化財委員長ら専門家たちは「武寧王陵以来、百済最高の発掘」と興奮を抑えきれない様子だ。

舎利容器に刻印されていた文字
舎利容器に刻印されていた文字
(中央日報インターネット版より転写)
興寺跡木塔は現在は実在しないが、発掘調査の結果、縦横14メートルにもなる大きな塔だったことが分かった。舍利荘厳具は青銅製の舍利箱(直径7.5センチ、高さ8センチ)の中に銀製の舎利つぼを入れ、さらに金製の舎利つぼを入れた「三重構造」になっていた。このうち青銅製の舍利箱本体には漢字29文字が刻まれていた。それには「丁酉年(577年)2月15日、死去した王子のために百済王・昌(威徳王の生前の名)が寺を建てた。舎利を2枚入れようとしたが、仏様の力で舎利が三つになった」(丁酉年二月十五日 百済王昌為亡王子 立刹 本舍利二枚葬時 神化為三)と書かれている。

済王の名が刻まれた文化財(銘文)が発見されたのは、武寧王陵の出土品(1971年発掘)と、同じく「昌王」の名が書かれた舎利龕(仏舍利を安置した容器・1994年発掘)以来、三つ目だ。

の銘文から▲王興寺跡の舍利荘厳具は新羅・百済・高句麗の三国最古▲王興寺は三国史記の記録にあるように西暦600年ではなく577年に創建された▲威徳王には日本書紀に書かれている「阿佐太子」のほかにも、577年ごろに死亡した別の王子がいた、ということが新たに分かった。

武寧王の誌石の1面 百済昌王銘石造舎利龕
武寧王陵から出土した誌石の1面 陵山里寺址出土の昌王銘石造舎利龕



扶余の王興寺とは

済時代の王興寺は、王都泗沘(しひ)城の山城のある扶蘇山から見て錦江(=白馬江)を隔てた対岸の蔚城山(ウルソンサン、131m)の山麓に築かれていた。『三国史記』は、王興寺創建のいきさつを次のように伝えている。すなわち、武王2年(600)正月条に「王興寺を創す」とあり、武王35年(634)春2月に「王興寺成る。その寺は水に臨み、彩飾壮麗。王は常に船にのって寺に入り行香する」とある。

扶余の王興寺遺跡 扶餘周辺の百済寺院遺跡
扶余の王興寺遺跡 扶餘周辺の百済寺院遺跡

934年に「王興」銘のある瓦が出土して、現在の位置が比定された。1946年には高麗時代の石仏坐像も発見されている。2000年から毎年発掘調査が行われていて、すでに百済時代の創建伽藍の東西回廊址と寺域南辺の石垣、木塔址と推定される建物址の一部が確認されている。

陵山里寺址の復元図
陵山里寺址の復元図
うした発掘成果をもとに伽藍配置を推定すると、寺域の規模は東西回廊の最大幅は58.7m、南北長は80と思われ、陵山里寺址と規模や形態が類似している。王興寺址の南辺では石築とともに、その下に低湿地が確認された。この場所が船着き場だったのではと推測されている。つまり、王興寺は錦江の川岸に位置し、百済の第30代・武王(在位:600 - 641)はしばしば船に乗って王興寺を訪れ、その南辺に船をつけたものと思われる。

005年と2006年の調査では、寺域の東側で百済時代の窯跡が10余基発見された。ここの窯で王興寺の瓦が焼かれたと推定されている。

年10月に出土した舎利容器に刻まれた29文字は、『三国史記』の記述を否定したことで重要である。金富軾(キム・ブシク)らが高麗王の命を奉じて執筆した『三国史記』が完成したのは1145年、何に依拠して王興寺址創建の記事を書いたのか不明だが、百済の第28代・威徳王(余昌、554-598)が死去した王子のために丁酉年(577年)2月15日に寺を建立したと示す舎利容器が出土したからには、こちらが史実と信ずるほかあるまい。



扶余の王興寺は本当に飛鳥寺のモデルだったのか?

西暦538年に建都された百済最後の王都・泗沘城は、660年までのわずか133年の短命な王城だった。その間にさまざまな寺院が建設された。昨年1月13日に枚方市で開催された歴史講演会『百済王氏のルーツを探る−扶餘(ふよ)編−』で、韓国の国立扶餘文化財研究所所長の金容民(キムヨンミン)氏が「扶餘における最近の発掘調査成果について」と題する特別講演をされた。それによれば、133年の間に泗沘城やその周辺でさまざまな寺院が建立されている(平成19年1月13日付け橿原日記参照)

も関わらず、朝日新聞の記事は舎利容器に示された王興寺造営開始年の丁酉年(577年)と、『日本書紀』に敏達天皇6年(577)に百済王が我が国に造仏工や造寺工を送ってきたとする記事を絡ませて、王興寺が我が国最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺のモデルだったと印象づけている。

日本書紀』の記述を良く読めば、この関連づけは不当と言わざるを得ない。『日本書紀』には、次のように記されている。
"敏達天皇6年(577年)冬11月の庚午(かのえうま)の朔に、百済国の王は、帰国する使の大別王(おおわけのきみ)らに付して、経論若干巻、ならびに律師・禅師・比丘尼・呪禁師(じゅごんのはかせ)・造仏工・造寺工の6人を奉った。そこで難波の大別王の寺に安置させた”。

別王がどのような人物だったかは、『日本書紀』の編者にも分からなかったらしく、不明としている。だが、当時の王族の一人だったことは間違いなく、その年の5月に小黒吉士(おぐろのきし)と共に遣百済使に任命されているからには、相当重要な人物だったのだろう。そのことは難波に寺を持っていたことからも想像できる。寺と言っても当時はおそらく草堂の類だったのであろう。僧侶や造仏工・造寺工をその寺に安置したとあるからには、そこに常住させて、大別王寺を本格的な寺に立て直させたものと推測できる。

堂ケ芝廃寺の標識
堂ケ芝廃寺の標識
R大阪環状線の「桃谷」駅のすぐ西側に「豊川稲荷別院」の大きな看板を掲げた曹洞宗観音寺がある。その境内に「堂ケ芝廃寺」の碑が建っている。 堂ケ芝廃寺は「百済寺址」に比定されているが、「大別王寺址」に比定する説もある。

方、『日本書紀』は崇峻天皇元年(588年)、百済が使節と僧の恵総(えそう)ら6人の僧侶を派遣してきて、仏舎利を献上したと記す。さらにこのとき恵総ら6人の僧侶とともに、寺工2人、路盤工1人、瓦博士4人、画工1人も同時に送り込んできた。これは前年に物部守屋を滅ぼし、本格的な寺院建立に取りかかった蘇我馬子からの技術支援要請に、百済王が応えたものと解釈されている。したがって、577年と588年の造寺工派遣記事は、派遣要請者も派遣目的もちがう。

ころが、577年に派遣されてきた造仏工や造寺工が我が国で人材を養成し、10年以上の準備期間を経て飛鳥寺の建設が始まったとする専門家もいるようだ(仏教美術史の大橋一章・早稲田大学教授)。恣意的な解釈に過ぎるのではないだろうか。


門家は王興寺が飛鳥寺の原型だったとする根拠に、たとえば二系統の瓦が使われていることや舎利容器が地下式塔心礎に収めていることを指摘している。

鳥寺の発掘調査の結果、素弁と呼ばれるシンプルな模様の軒丸瓦が創建当時の主要伽藍に葺かれていたことが判明している。しかも、これらの軒丸瓦は蓮弁の形から大まかに「星組」と「花組」とに区別されている。蓮弁の形が綺麗に花びらのようになっているものが「花組」、蓮弁の先端に珠点のあるものが「星組」である。「花組」は、主に塔・金堂等主要伽藍に使用されている事から、「星組」よりも僅かに先行する文様だとされてる。ちなみに、瓦の焼き方の違いにより、赤っぽい瓦は「花組」、灰色の瓦は「星組」で、二系統の異なる窯で焼かれたようだ。

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花組の素弁十弁蓮華紋軒丸瓦 星組の素弁十一弁蓮華紋軒丸瓦

花組」と「星組」は、この他にも製作技術に多少の違いが認められる。そのため、飛鳥寺創建時には、二組の造瓦集団がいたと考えられている。飛鳥寺は、平城遷都の際に元興寺極楽房に移転させられている。現在元興寺の本堂と禅室に葺かれている瓦の約14%が飛鳥寺のもので、そのうち4%の約170枚が飛鳥寺創建時のものだそうだ(*)。

日新聞の記事では、王興寺でも二系統の瓦が確認できると記されているが、瓦当の文様や構造に関する類似点の説明はない。

北学院大の佐川正敏教授によれば、6世紀後半の仏教は仏舎利信仰が中心で、舎利容器を地中に収めその上に塔を立てた。しかし、時代が下がるに従って心柱は地上の礎石の上に建てられるようになり、舎利も柱の中など地上に移るとのことだ。飛鳥寺でも王興寺でも、舎利容器を収めて地下深く埋めた塔心礎の上に心柱が立てられていた。

が、二つの寺で舎利容器の安置方法が微妙に異なっているとのことだ。飛鳥寺では心柱の真下に縦穴を掘りその壁を横にくりぬいて舎利容器が安置されていた。王興寺の場合は、心柱の真下ではなく、少し南側に縦の穴を掘り舎利容器を収める構造になっている。そこで、佐川氏は「よく似ているが、単なる模倣ではなかった」点を強調されているという。だが、舎利容器を収める当塔心礎の構造が違っていることは、別の技術集団の伝統技術を引き継いだとの解釈もなりたつ。

飛鳥寺の復元イメージ
飛鳥寺の復元イメージ
鳥寺と王興寺の決定的な違いは、その伽藍配置にある。飛鳥寺の伽藍配置は、よく言われるように一つの塔を三つの金堂で囲む一塔三金堂様式である。この一塔三金堂の伽藍配置は、朝鮮半島の平壌で発掘された清岩里廃寺や定陵寺などにだけ見られる独特の様式とされている。平壌は、その当時高句麗が首都をおいた所である。

ころが、現在までに判明している王興寺の伽藍配置は、塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺様式のようだ。ただ、陵山里寺址の復元図に見られるように回廊東西の付属建物があり、これが飛鳥寺で金堂に変わったのではとの見方もあるようだ。

うした見解も飛鳥寺が百済からの技術支援のもとに建立されたとする先入観のせいであろう。飛鳥寺創建当時は、すでに高句麗と通交しており、高句麗仏教の影響も無視できない。むしろ、百済・高句麗の支援を得て建立されたと解したほうがすなおではないだろうか。飛鳥寺の正式名称である法興寺と王興寺とは似ているからと言って、なにも王興寺に結びつける必要はない。



(*) 飛鳥寺の瓦については、素弁瓦当を参照・引用させていただいた。
2008/04/17作成 by pancho_de_ohsei return