昨年10月に報道された国立扶余文化財研究所の記者発表参考までに、半年も前の昨年10月25日に、朝鮮日報のインターネット版に掲載された記事を引用しておこう。 1430年前の韓国最古の「舍利荘厳具」出土(上) 専門家ら「武寧王陵以来、百済最高の発掘」
百済王の名が刻まれた文化財(銘文)が発見されたのは、武寧王陵の出土品(1971年発掘)と、同じく「昌王」の名が書かれた舎利龕(仏舍利を安置した容器・1994年発掘)以来、三つ目だ。 この銘文から▲王興寺跡の舍利荘厳具は新羅・百済・高句麗の三国最古▲王興寺は三国史記の記録にあるように西暦600年ではなく577年に創建された▲威徳王には日本書紀に書かれている「阿佐太子」のほかにも、577年ごろに死亡した別の王子がいた、ということが新たに分かった。
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扶余の王興寺とは百済時代の王興寺は、王都泗沘(しひ)城の山城のある扶蘇山から見て錦江(=白馬江)を隔てた対岸の蔚城山(ウルソンサン、131m)の山麓に築かれていた。『三国史記』は、王興寺創建のいきさつを次のように伝えている。すなわち、武王2年(600)正月条に「王興寺を創す」とあり、武王35年(634)春2月に「王興寺成る。その寺は水に臨み、彩飾壮麗。王は常に船にのって寺に入り行香する」とある。
1934年に「王興」銘のある瓦が出土して、現在の位置が比定された。1946年には高麗時代の石仏坐像も発見されている。2000年から毎年発掘調査が行われていて、すでに百済時代の創建伽藍の東西回廊址と寺域南辺の石垣、木塔址と推定される建物址の一部が確認されている。
2005年と2006年の調査では、寺域の東側で百済時代の窯跡が10余基発見された。ここの窯で王興寺の瓦が焼かれたと推定されている。 昨年10月に出土した舎利容器に刻まれた29文字は、『三国史記』の記述を否定したことで重要である。金富軾(キム・ブシク)らが高麗王の命を奉じて執筆した『三国史記』が完成したのは1145年、何に依拠して王興寺址創建の記事を書いたのか不明だが、百済の第28代・威徳王(余昌、554-598)が死去した王子のために丁酉年(577年)2月15日に寺を建立したと示す舎利容器が出土したからには、こちらが史実と信ずるほかあるまい。 |
扶余の王興寺は本当に飛鳥寺のモデルだったのか?西暦538年に建都された百済最後の王都・泗沘城は、660年までのわずか133年の短命な王城だった。その間にさまざまな寺院が建設された。昨年1月13日に枚方市で開催された歴史講演会『百済王氏のルーツを探る−扶餘(ふよ)編−』で、韓国の国立扶餘文化財研究所所長の金容民(キムヨンミン)氏が「扶餘における最近の発掘調査成果について」と題する特別講演をされた。それによれば、133年の間に泗沘城やその周辺でさまざまな寺院が建立されている(平成19年1月13日付け橿原日記参照) にも関わらず、朝日新聞の記事は舎利容器に示された王興寺造営開始年の丁酉年(577年)と、『日本書紀』に敏達天皇6年(577)に百済王が我が国に造仏工や造寺工を送ってきたとする記事を絡ませて、王興寺が我が国最初の本格的仏教寺院・飛鳥寺のモデルだったと印象づけている。
『日本書紀』の記述を良く読めば、この関連づけは不当と言わざるを得ない。『日本書紀』には、次のように記されている。 大別王がどのような人物だったかは、『日本書紀』の編者にも分からなかったらしく、不明としている。だが、当時の王族の一人だったことは間違いなく、その年の5月に小黒吉士(おぐろのきし)と共に遣百済使に任命されているからには、相当重要な人物だったのだろう。そのことは難波に寺を持っていたことからも想像できる。寺と言っても当時はおそらく草堂の類だったのであろう。僧侶や造仏工・造寺工をその寺に安置したとあるからには、そこに常住させて、大別王寺を本格的な寺に立て直させたものと推測できる。
一方、『日本書紀』は崇峻天皇元年(588年)、百済が使節と僧の恵総(えそう)ら6人の僧侶を派遣してきて、仏舎利を献上したと記す。さらにこのとき恵総ら6人の僧侶とともに、寺工2人、路盤工1人、瓦博士4人、画工1人も同時に送り込んできた。これは前年に物部守屋を滅ぼし、本格的な寺院建立に取りかかった蘇我馬子からの技術支援要請に、百済王が応えたものと解釈されている。したがって、577年と588年の造寺工派遣記事は、派遣要請者も派遣目的もちがう。 ところが、577年に派遣されてきた造仏工や造寺工が我が国で人材を養成し、10年以上の準備期間を経て飛鳥寺の建設が始まったとする専門家もいるようだ(仏教美術史の大橋一章・早稲田大学教授)。恣意的な解釈に過ぎるのではないだろうか。 専門家は王興寺が飛鳥寺の原型だったとする根拠に、たとえば二系統の瓦が使われていることや舎利容器が地下式塔心礎に収めていることを指摘している。 飛鳥寺の発掘調査の結果、素弁と呼ばれるシンプルな模様の軒丸瓦が創建当時の主要伽藍に葺かれていたことが判明している。しかも、これらの軒丸瓦は蓮弁の形から大まかに「星組」と「花組」とに区別されている。蓮弁の形が綺麗に花びらのようになっているものが「花組」、蓮弁の先端に珠点のあるものが「星組」である。「花組」は、主に塔・金堂等主要伽藍に使用されている事から、「星組」よりも僅かに先行する文様だとされてる。ちなみに、瓦の焼き方の違いにより、赤っぽい瓦は「花組」、灰色の瓦は「星組」で、二系統の異なる窯で焼かれたようだ。
「花組」と「星組」は、この他にも製作技術に多少の違いが認められる。そのため、飛鳥寺創建時には、二組の造瓦集団がいたと考えられている。飛鳥寺は、平城遷都の際に元興寺極楽房に移転させられている。現在元興寺の本堂と禅室に葺かれている瓦の約14%が飛鳥寺のもので、そのうち4%の約170枚が飛鳥寺創建時のものだそうだ(*)。 朝日新聞の記事では、王興寺でも二系統の瓦が確認できると記されているが、瓦当の文様や構造に関する類似点の説明はない。 東北学院大の佐川正敏教授によれば、6世紀後半の仏教は仏舎利信仰が中心で、舎利容器を地中に収めその上に塔を立てた。しかし、時代が下がるに従って心柱は地上の礎石の上に建てられるようになり、舎利も柱の中など地上に移るとのことだ。飛鳥寺でも王興寺でも、舎利容器を収めて地下深く埋めた塔心礎の上に心柱が立てられていた。 だが、二つの寺で舎利容器の安置方法が微妙に異なっているとのことだ。飛鳥寺では心柱の真下に縦穴を掘りその壁を横にくりぬいて舎利容器が安置されていた。王興寺の場合は、心柱の真下ではなく、少し南側に縦の穴を掘り舎利容器を収める構造になっている。そこで、佐川氏は「よく似ているが、単なる模倣ではなかった」点を強調されているという。だが、舎利容器を収める当塔心礎の構造が違っていることは、別の技術集団の伝統技術を引き継いだとの解釈もなりたつ。
ところが、現在までに判明している王興寺の伽藍配置は、塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ四天王寺様式のようだ。ただ、陵山里寺址の復元図に見られるように回廊東西の付属建物があり、これが飛鳥寺で金堂に変わったのではとの見方もあるようだ。 こうした見解も飛鳥寺が百済からの技術支援のもとに建立されたとする先入観のせいであろう。飛鳥寺創建当時は、すでに高句麗と通交しており、高句麗仏教の影響も無視できない。むしろ、百済・高句麗の支援を得て建立されたと解したほうがすなおではないだろうか。飛鳥寺の正式名称である法興寺と王興寺とは似ているからと言って、なにも王興寺に結びつける必要はない。 |