平成20年3月31日

明日香村で開催された甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)の現地見学会

現地見学会から2日経った甘樫丘東麓遺跡
3月29日の現地見学会から2日経った甘樫丘東麓遺跡 (2008/03/31 撮影)

一気に春本番の花の季節を迎えた明日香村

月の彼岸前後から汗ばむような暖かい日が続いた。その陽気が3月5日に気象庁が出した第1回の桜の開花予想を狂わせたようだ。北陸・関東甲信・東 海地方では平年並の見込みとしていたが、25日には東京や静岡などで早々と開花宣言が出された。その日、筆者は日韓古代文化研究会が企画した韓国歴史探訪ツアーに参加して日本を離れた。

国でも桜の花はほころびかけていた。街路樹代わり植えられた若い桜の木をあちこちで見かけたが、開花までまだ数日は要すると思われた。しかし、日本に戻るとどうだ。テレビはあちこちで満開の桜を映し出していた。本日は曇天の下を北風が吹き荒れて花冷えの一日だった。それでも、橿原市内の小房観音近くまで出かけ、飛鳥川の川面を覆う桜を満喫し、ついでに明日香村まで足を伸ばした。

甘樫丘東麓遺跡近くの畠で咲いていた桃の花 甘樫丘東麓遺跡近くの畠で咲いていた菜の花
遺跡近くの畑で咲いていた桃の花 遺跡近くの畑で咲いていた菜の花

言うのも、奈良文化財研究所(=奈文研)が発掘調査してきた「甘樫丘東麓遺跡」の現地見学会が一昨日の29日に行われたことを、昨日旅行から帰国して知ったためである。久しぶりに訪れた明日香は一気に春本番を迎えたように、あちこちで季節の花が咲き乱れていた。

樫丘東麓遺跡に行く途中の山麓の畑では、桃の花が鮮やかに咲き誇っていたし、遺跡の近くの山麓では菜の花が見事に黄色に色づいていた。甘樫丘に登ると、見慣れた畝傍山を梅林の向こうに望むことができ、豊浦展望台では、満開の桜の枝が風にあおられて大きく揺れていた。百花繚乱のこの時期、例年だと歩調を合わせるように数カ所で発掘現場の説明会が開催されるが、今年は「甘樫丘東麓遺跡」だけだったようだ。

甘樫丘の梅林から畝傍山を望む 甘樫丘豊浦展望台の満開の桜
甘樫丘の梅林から畝傍山を望む 甘樫丘豊浦展望台の満開の桜



4回目を迎えた甘樫丘東麓遺跡の発掘調査

平成6年発掘当時の甘樫丘東麓遺跡
平成6年発掘当時の甘樫丘東麓遺跡(*)
樫丘東麓遺跡の発見は、平成6年(1994)までさかのぼる。その年、国営飛鳥歴史公園甘樫丘の東の山麓で、駐車場を建設するため事前発掘調査を行なったところ、7世紀中頃の焼けた壁土や炭化した木材などが出土した。そのため、調査された場所は甘樫丘東麓遺跡と命名された。

日本書紀』の巻24には、皇極3年(644)冬11月に「蘇我大臣蝦夷(えみし)とその子の入鹿(いるか)臣は、家を甘檮岡(うまかしのおか)に並べ建て、大臣の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)と呼んだ。(中略)家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫(武器庫)を造り、門ごとに水を満たした舟一つと木鉤(きかぎ)数十本とを置いて火災に備え、力強い男に武器をもたせていつも家を守らせた」(井上光貞監訳『日本書紀 下』より)とある。

年の皇極4年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮の大極殿で三韓の調(みつぎ)を献上する式典の執り行われた。その式典の最中に、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の一統が企てたクーデターで蘇我入鹿が誅殺された。翌日には、法興寺(飛鳥寺)に参集したクーデター派の軍勢を眼下に見て、勝ち目がないと悟った蘇我蝦夷は、上の宮門と谷の宮門に火を放って自らの命を絶った。こうして権勢を極めた蘚我本宗家は滅び去ったとされている。

甘樫丘東麓遺跡出土遺物
甘樫丘東麓遺跡出土遺物(*)
成6年の事前発掘調査では、焼けた土器の他に炭になった建築部材も見つかった。そのため、谷の上で建物が火災で倒壊し、その燃えた建築部材が発掘現場付近に崩れ落ちたものと推定された。土器の年代観も7世紀中頃のものと一致したため、蘇我入鹿の谷の宮門が付近にあった可能性が示唆された。


成17年(2005)、駐車場の西側を造園化する計画が持ち上がり、奈文研は6000平米の平地のうち、幅5m、総延長145mの細長い調査区を設定して遺跡確認のための試掘を行った(調査面積は725平米)。 その結果、五棟の掘立柱建物跡と一列の塀跡が見つかった。以前に蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと騒がれた場所から、ついに建物跡が見つかったのである。メディアは奈文研の発表を大きく取り上げ、まるで蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたような見出し付で報道した。

かし、奈文研は入鹿の邸宅跡とは断定していない。発掘を行なったのは、約725平米にすぎず、しかも見つかった五棟の掘立柱建物跡のうち規模が確認できたのは1棟だけである。その規模は南北3.6m、東西10.5mと小さく、邸宅跡と呼べる大きさではない。そのため、奈文研はこの辺りに入鹿の邸宅があった可能性は否定できないが、結論は来年度以降の本格調査を待ちたいとした(平成17年11月16日付け橿原日記参照)。

第2回発掘現場の中心部分(西→東)
第2回発掘現場の中心部分(西→東)

成18年(2006)、2年前に発掘した場所の北側に約900平米の調査地域を設定して、奈文研は初めて大規模な発掘調査を実施した。そして、7世紀前半の石垣と掘立柱建物やそれを埋め立てた整地跡と建物群、炉跡、溝などを検出し、翌年の2月11日に現地見学会を催した。筆者は自宅に戻っていたため参加できなかったが、小雨がちらつく天気にもかかわらず、約9千人の見学者が参集したそうだ(平成19年2月11日付け橿原日記参照)。

見学会に押しかけた見学者の列 発掘現場
見学会に押しかけた見学者の列 発掘現場


奈文研作成の現地見学会資料
奈文研作成の現地見学会資料
4回目となる今回の発掘調査は平成19年(2007)11月12日から開始された。調査地は平成17年度の調査区に隣接する950平米の場所である。調査の目的は2つあった。平成17年の調査で確認された建物群の規模と年代を明らかにすること、そして、谷の奥における建物群の広がりを把握することである。

文研は3月28日、今回の発掘調査の成果をメディアに公表した。その発表を受けて、全国紙は「蘇我氏邸宅の存在、確実に」(毎日新聞)とか、「蘇我入鹿邸、甘樫丘を要塞に」(産経新聞)など、例によってセンセーショナルな見出しで発掘の成果を報道した。翌29日には現地見学会が開かれ、前回ほどの規模ではなかったが、それでも2100人ほど見学に訪れたそうだ。

地見学会で見学者に配布した資料によって、発掘調査の内容を整理すると次のようになる。
●今回の調査区内で掘立柱建物、塀、土抗、溝などを確認した。これらの遺構はT期(7世紀前半)、U期(7世紀後半)、V期(7世紀末頃)の3時期に分けられる。

遺構平面図
甘樫丘東麓遺跡の遺構平面図(*)

●T期(7世紀前半)の建物は次の3棟である。
・建物1:5x3間の総柱建物(面積約40平米)。北にL字形の溝が巡らされている。
・建物2:5x2間の掘立柱建物。建物の東で焼土や炭が埋まった溝、南で7世紀中頃の土器を含む土抗2が見つかった。
・建物3:2006年に検出した5x2間の総柱建物(面積約40平米)。西に塀4を伴う。
●U期(7世紀後半)の建物は次の3棟である。
・建物4:3x3間以上の掘立柱建物。コ字形に巡る塀1が取り付いている。
・建物5:4x2間の掘立柱建物。塀1によって囲まれている。
・建物6:4x2間の掘立柱建物。塀1によって囲まれている。
・塀1は、建物4の廃絶後、塀2に造り替えられた。塀1の外側に位置する塀3もU期に相当する可能性がある。
●V期(7世紀末頃)の遺物としては、溝1がある。コ字状に曲がり、配石遺構につながっている。
●T期とU期の建物は大規模な整地の上に建てられていた。


回の発掘で土抗1から7世紀中頃の土器が良好な状態で出土した。飛鳥時代の土器は、日本書紀の年代や出土した木簡との照合によって、5〜10年単位まで絞り込むことができる。今回の土器は650年代とほぼ特定できた。土器の埋まった土抗は、建物3より後に掘られていたことから、この建物はは640年代に廃絶したことが確実になった。さらに、西側で見つかった建物1と建物2も同時期と判明した。

うした考古学知見から、建物1〜3が645年に廃絶した蘇我本宗家が甘樫丘に築いた建物の一部であることがほぼ確定したと言って良い。だが、入鹿の邸宅跡とするには、規模が小さいため、谷の宮門に付随した武器庫か倉庫だったと推定されている。また、U期の建物群は、飛鳥の再整備にあたって、廃虚と化した蘇我邸を撤去して新たに築かれたようだ。

かし、今回の調査でも入鹿が暮らした正殿にふさわしい宮殿クラスの大型建物跡は発見できなかった。一部には、石垣の内(東側)にあるのではないかと想定している専門家もいるようだが、正殿が この谷に築かれたとは、どうしても思えない。

発掘調査の現場
本日見た発掘調査の現場
時の入鹿の性格を考えたとき、彼の邸宅は眼下に皇極天皇の飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)を望む場所に築かれたとみなすべきだ。残念ながら、この遺跡の前面にせり出した丘陵の陰に隠れて、飛鳥板蓋宮跡は見えない。おそらくもっと北の別の谷に正殿は築かれていたのであろう。

上邦彦・神戸山手大教授(考古学)も、同じ意見をお持ちのようだ。産経新聞の取材に応じて、「(東麓遺跡は)丘陵の影に隠れる場所にあり、屋敷を維持していくための食糧や武器を納めた倉庫だろう。屋敷自体は、飛鳥寺や板蓋宮(いたぶきのみや)を望む場所にあり、天皇家と対峙(たいじ)していたのでは」と話しておられるという。

日は近畿地方は雨に見舞われた。せっかく訪れた発掘調査の現場だったが、残念ながらシートで覆われて何も見えなかった。幸い、現場にいた調査員に現地見学会の資料を所望したら、快く提供してくれた。このレポートはその資料で当日の様子を想像しながら書いている。


(*) 奈文研のHPおよび奈文研作成の「甘樫丘東麓遺跡 飛鳥藤原京第151次調査 現地見学会資料」より転記




2008/04/01作成 by pancho_de_ohsei return