橿原日記 平成20年3月22日

北河内に眠る古代氏族の古墳を巡る

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交野(かたの)市の市街地から交野山(こうのさん)を望む(2008/03/22 撮影)


駒山系の北の端に竜王山、交野山(こうのさん)、津田山の三山が連なっている。その中心をなす交野山は、交野市(かたのし)のシンボルとされている。山頂には観音岩といわれる巨岩が聳え立ち、古くから神の宿る山として崇められてきた。交野山の西側は、山麓から淀川、天野川の流域にかけて次第に低くなる台地が広がっている。古代には、その台地に2系統の古墳が築かれてきた。

古墳時代当時、大阪平野に広がっていた河内湖
古墳時代当時、大阪平野に広がっていた河内湖
つは、天野川流域の低湿地の周辺に村落を営んだ農耕氏族が築いてきた4世紀型の古墳である。この地域は、北河内でも前期古墳が多く分布している。上流から森古墳群、妙見山古墳、藤田山(とうだやま)古墳、禁野(きんや)車塚古墳、万年寺古墳などがある。

ひとつは、稲作に適さない山麓地帯に分布して、養蚕や機織技術をもった渡来系氏族がた6世紀から7世紀後期にかけて築いた古墳である。倉治丸山古墳(4世紀型古墳)、倉治関電変電所付近の群集墳(横穴式古墳)、清水谷古墳(7世紀型古墳)、寺村群集墳(片袖式小型墳)などが知られている。

野川流域に点在する古墳は、肩野(かたの)物部氏に関わる人物たちの奥津城だった可能性が高い。交野市私市(きさいち)の哮峯(いかるがのみね)は、物部氏の始祖とされるニヒハヤヒノミコトが肩野物部など一群を引き連れて天降った場所とされている。哮峯の横を流れる天野川の川縁には、巨石を祭神として祀っている磐船神社があり、その祭神はニギハヤヒが天降った時の「天の磐船」とされている。

そらく、物部氏の遠い祖先は西からやってきて大阪湾から当時の河内湖にはいり、さらに淀川からその支流の天野川をさかのぼって大和に入ったのであろう。その際に、天野川流域に住み着いたのが物部の一氏族が肩野物部と呼ばれたのであろう。天野川付近に築かれ続けた古墳は、しかし587年の秋に物部本宗家が滅亡した後は築かれなくなる。物部氏勢力の消長と古墳の築造は大いに関係があったと推察されている。

方、天野山の山麓に住み着いた渡来人たちが開いた機物織りの集落は広く発展した。その族長は交野忌寸(かたのいみき)の姓を与えられ、天野川地方の豪族にのしあがった。彼らの一族は族長の墳墓を築造し、さらに後の時代まで繁栄した。


車塚公園のコブシ
車塚公園のコブシ
近、筆者が物部氏の史跡探求にハマッているのを知った枚方市在住の知人H.S氏から、有り難い申し出があった。パンチョさんに付き合って、北河内の古墳を車で案内してあげましょう、というのである。願ってもない申し出だったので、喜んで受けることにした。

日がその日だった。今週に入って日本列島は馬鹿陽気が続き、本日も近畿地方では二〇度近い気温になるという。今月末と報じられていた桜の開花予想が前倒しとなり、ヒョッとすると一部の地域では本日になるかもしれないとのことだ。午前八時半、H.S氏の車が近鉄京都線「新田辺」駅の西口駐車場で筆者をピックアップしてくれた。

うしてH.S氏のガイドで枚方から交野、寝屋川、四条畷まで一筆書きで回る北河内の古墳巡りが始まった。せっっかくの機会だからと、彼は盛り沢山の古墳見学を予定してくれていた。しかし、道路の交通渋滞や時間の関係で、残念ながら、幾つかを割愛しなければならなかった。本日見学したのは、以下の八カ所の古墳と関係する発掘資料を展示した三カ所の歴史資料館である。

倉治古墳群 →  交野の車塚古墳群 → 妙見山古墳 → 忍岡古墳 → 太秦高塚古墳 → 禁野車塚古墳 → 万年寺山古墳 → 牧野車塚古墳

日は、H.S氏には本当にお世話になった。この場を借りて謝辞を表したい。


【参考】古墳の分類と時代区分


倉治古墳群(くらじこふんぐん): 関西電力枚方変電所建設時に整地作業で見つかった古墳群

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【所在地】交野市東倉治3-1-1 関西電力枚方変電所内
【墳形・規模】竪穴系横穴式石室を持つ直径8m未満の円墳8基
【築造時期】6世紀中葉から後葉
【アクセス】JR片町線「津田」駅から徒歩約10分


田辺市にある同志社大学の正門前を抜けて、府道65号線(生駒井出線)を西に向かった車は、京奈和自動車道の手前で、「観音寺」に立ち寄った。丘陵の麓にポツンと建つ寺の前面に広がる菜の花畑は見事だった。

観音寺前の菜の花畑 観音寺の本堂
観音寺前の菜の花畑 観音寺の本堂

音寺は真言宗智山派に属し、大御堂(おおみどう)とも普賢寺とも呼ばれている。寺伝では、天武天皇の勅願で義淵僧正が建立し、天平16年(744)には聖武天皇の勅を奉じて良弁僧正が伽藍を拡充したという。良弁の高弟・実忠和尚が大御堂の本尊として十一面観音立像(国宝)を安置したと伝えられる。


初に訪れたのは、倉治古墳群である。昭和26年(1951)、関西電力の枚方変電所を建設するため整地を行っている最中に発見された。現在の交野市東倉治、神宮寺にまたがる地域に6世紀中葉から後葉にかけて築かれた古墳群で、8基の古墳から構成されている。いずれも直径10mに満たない小規模な円墳だが、石室に明確な蒼ケ(せんどう)がないという特徴があり、「竪穴系横穴式石室」あるいは「玄室・羨道間に段をもつ石室-横口式石室」と呼ばれるものである。

倉治古墳群跡に整理された「古墳墓」の敷地
倉治古墳群跡に整理された「古墳墓」の敷地
から約1400年前、この付近は、機織りを専業とする渡来系氏族の集落が栄えていた。はたやま(現交野市寺)、はたもの(同市倉治)、はただ(枚方市津田)などと呼ばれていた地域である。そのため、倉治古墳群は秦(はた)氏など渡来系氏族の族長を埋葬した奥津城だったと考えられている。倉治古墳群から約1キロ離れた寺(てら)古墳群でも、14基の墓が見つかっている。

地の際に一部の古墳が破壊されたが、大阪府や当時の交野町教育委員会が約5ヶ月におよぶ発掘調査を実施し、当時としては珍しく適切な記録保存を行なった。調査の結果、石室内から被葬者の遺骨や、金環・勾玉などの装身具、刀剣、農機具などの鉄製品、瓶・壺などの土器類が副葬品として出土した。これらの出土品は、関西電力枚方変電所から市に返還されたのを機に、交野市立教育文化会館内の歴史民俗資料展示室(交野市倉治6−9−21、TEL810・6667)をリニューアルして、一般に公開されている。

お、関西電力では、発掘調査の際に見つかった各古墳の遺骨を集め、その霊を慰めるために、損壊した石室の石材を「心」字形に配置した塚を変電所の東側に新しく設けて、これを「古墳墓」として祀っている。

関西電力枚方変電所内に祀られた「古墳墓」
関西電力枚方変電所内に祀られた「古墳墓」


史民俗資料展示室が開館する午前10時には少し時間があるというので、交野ヶ原の中央に鎮座する機物神社(はたものじんじゃ、所在:交野市倉治1-1-7番地)に立ち寄った。この神社の創立年代は明らかではないが、一説には、聖武天皇の頃、倉治の村に機物技術を伝えて繁栄させた渡来人の庄員(しょういん)をこの地に祀ったのが神社の起こりとされている。

在は天棚機比売(あまのたなばたひめ)や栲機千々比売(たくはたちぢひめ)などを祭神として祀っている。この2柱の女神は、本来は農耕と産業を司る神だが、後世、七夕伝説と結びつき、手芸・学問の神と言われるようにあった。昭和54年(1979)に七夕祭りが復活し、年々にぎやかになってきているとのことだ。

天棚機比売(あまのたなばたひめ)を祀る機物神社 歴史民俗資料展示室がある交野市立教育文化会館
天棚機比売を祀る機物神社 交野市立教育文化会館

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倉治古墳群出土の装身具
野市立教育文化会館はレンガ造りの建物で、昭和4年(1929)に交野無尽金融の社屋として建設された。昭和17年(1942)に交野町に寄贈されてからは、町役場として使用されてきたという。その後、昭和45年(1970)に町役場が現在の交野市庁舎に移転したのを機に、市立教育文化会館としてオープンした。その一階にある歴史資料展示室には、関西電力から寄贈された倉治古墳群出土品をはじめ、近くの古墳や遺跡からの出土品が一般公開されている。



交野の車塚古墳群(くるまづかこふんぐん)交野高校建設に先立って行われた発掘調査で発見された6基の古墳群

交野高校横にある車塚古墳群
交野高校横にある車塚古墳群。背後の建物は府立交野高校の校舎

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【所在地】第1号古墳−第5号古墳:交野市寺南野(交野高校敷地内)、第6号古墳:交野市 寺1丁目と2丁目
【古墳群の構成】合計6基
・第1号古墳(東車塚古墳) : 全長58mの前方後方墳 周壕の有無不明
・第2号古墳(西車塚古墳) : 27mの方墳か? 未調査
・第3号古墳(東車塚南古墳): 27mの周壕の中に22.4mの円墳が築造
・第4号古墳(西車塚南古墳): 16.5mの円墳 周壕あり
・第5号古墳  : 17mの円墳 周壕あり
・第6号古墳(前畑古墳)  : 全長85mの前方後円墳 周壕の有無不明
【築造時期】4世紀末から6世紀初頭の約100年間
【アクセス】JR学研都市線「河内磐船」駅より 徒歩10分


車塚古墳群の周辺地図
車塚古墳群の周辺地図
車塚古墳群の分布図
車塚古墳群の分布図
野市にある車塚古墳群は、府立交野高校建設に先立って行われた発掘調査で昭和48年(1973)に発見された。場所はJR学研都市線の西側である。二つの丘があり、昔から東の丘を東車塚、西の丘を西車塚と呼んでいた。丘の北を流れる前川の南側一帯が交野高校の建設用地とされたため、全面的に発掘調査が実施された。

の結果、前方後方墳1基、前方後円墳1基、円墳3基、方墳1基の合計6基が発見され、車塚古墳群と名付けられた。これらの古墳は、4世紀末から6世紀初頭の約100年間にわたって築かれ続けたと推測されている。

のうち、円墳の第3号墳(東車塚南古墳)は、墳丘部は円形で周溝部が正方形という珍しい墳形をしている。そのため「日の丸古墳」と呼ばれた。現在、テニスコートの下に保存されている。他の3基の円墳は、校舎建設にともない消滅した。

和63年(1988)から翌年にかけて、縁道整備に伴って第二次調査が第1号墳(東車塚古墳)が行われた。その結果、全長58m、前方部25m以上、後方部33mの前方後方墳で、2段のテラス面が検出され、3段築成であったことが推定された。2段目のテラスには10cm間隔で円筒埴輪が並べられていた跡があった。

1号墳には埋葬設備として、長さが8.1m、幅0.8mという巨大な割竹形木棺があり、その上に箱式木棺2棺が並列しておかれていた。これらの棺の中から、玉製品のほか、青銅製の鏡、筒形銅器、巴形銅器、鉄製の甲冑・剣・刀、ミニチュアの農耕具などの副葬品が見つかった。

1号墳から見つかった筒形銅器、巴形銅器は、韓国の釜山付近の古墳でも多数出土している。そのため、被葬者は生前に朝鮮半島東南部と深い関わりを持ったと思われる。そのため、車塚古墳群は朝鮮半島および吉備と関わりを持った肩野物部氏の奥津城として最もふさわしいとされている。 

車塚古墳群出土の家型埴輪 車塚古墳群の
襟付三角板革短甲
車塚古墳群の出土の盤龍鏡

R学研都市線の東側には、全長85mの前方後円墳が位置している。一般には大畑古墳と呼ばれているこの古墳は、該当地の弥生時代の遺跡発掘に伴い発見された墓で、当初は後期古墳とみられていた。その後の調査で出土した埴輪片などから、築造時期が古墳時代中期古墳(400年中頃)と判明した。そのため、車塚古墳群の流れにのった古墳として、古墳群の中の第6号古墳として分類されている。



妙見山古墳(みょうけんやまこふん): 妙見宮の東方尾根標高162mの妙見山に所在した古墳

交野高校横にある車塚古墳群
かって妙見山古墳が存在した付近。現在は妙見東住宅地の中央公園に変貌

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【所在地】 大阪府交野市妙見東3丁目
【墳形・規模】不明
【築造時期】古墳時代前期
【アクセス】 片町線星田駅バス11分、徒歩4分


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野市の南西部に位置する星田地区に、標高143.7mの妙見山がある。その山の東部から南部に、宅地開発された広大な分譲地が広がっている。春の暖かい陽射しを受けて、ひな壇式に立ち並ぶ戸建ての住居は、いずれも展望がよさそうだ。東に天野川と磐船街道を眼下に見下ろし、北は交野が原を一望に収め、遠く淀川、北摂の山々を眺めることができる。

から40年前の昭和43年(1968)、この付近は大々的な宅地造成工事が推し進められていた。妙見山の東部は削り取られ、当時は標高162mもあった山形が大きく崩され、現在の形になった。その宅地造成の現場で、四条畷高校生が古墳の存在を見つけた。それが古墳時代前期に築かれた妙見山古墳だった。

野町教育委員会が調査に入った時には、宅地造成の土砂採取のため古墳の北側半分は削り取られていた。そのため、山頂部分を利用して築かれた古墳の墳形は円墳だったか、それとも前方後円墳だったか判断できなかったという。

昭和43年に発見された当時の妙見山古墳
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古墳に似せた土饅頭がある中央公園
砂採取で古墳の墳形そのものがすでに破壊されていただけでなく、埋葬設備もすでに盗掘され完全に破壊されていた。それでも、工事で掘り下げられた場所を平らにならしてみて、幅4mの墓坑があったことが分かった。墓坑の底には、約30cm幅で掘り下げた排水溝が築かれ、栗石が一面に敷き詰められていたという。墓坑の縦軸方向に幅約2mの平坦面が穿たれ、そこに木棺と副葬品が埋葬されていたようだ。

そらくこの古墳は、山頂部分の地山を掘り下げ、床面を整備し周囲に石を巡らしていたと推測されている。長方形の床部分は4mx7mほどの大きさだったようだ。そこに墓坑を築き、木棺と副葬品を安置し、これらを粘土で封じた。

土槨から出土した遺物は少なく、せいぜいヒスイの勾玉1個、ガラス製小玉6個、管玉15個、鉄鏃3点、刀子3点、ヤリガンナ5点程度だった。さらに古墳の周囲から円筒埴輪の破片が4点ほど見つかった。こうした発掘調査の結果、消滅寸前だった古墳は粘土槨を備えた前期の古墳だったことが判明した。

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ヒスイの勾玉とガラスの小玉
墳発見から40年を経過した現在、周囲の景観はすっかり変わってしまっているはずだ。古墳が存在した場所すら当時の関係者以外は誰も分からないにちがいない。それを言うと、H.S氏は、そうでもないと言いたそうな顔をした。なんとなく雰囲気を体験できそうな場所があるそうだ。そして、彼が案内してくれたのは、妙見東住宅地の中にある中央公園だった。

いたことに、公園の中に築かれた滑り台や周りの植え込みは平たい土饅頭の形をしていた。見ようによっては、小さな円墳を幾つか復元した場所のようにも見えた。たまたま、幼児を連れて公園に散歩に来ていた若い女性に、この付近に古墳があったのを知っているか聞いてみた。予想した通り、知らないという答えが返ってきた。

記のように妙見東住宅地は展望抜群の所に位置している。緩やかな下りの坂道を車を走らせながら、H.S氏は妙見山古墳の被葬者として肩野物部氏の関係者が想定されていることを話してくれた。古今東西を問わず、人間は誰しも最後は風光明媚な場所で永久の眠りにつくのが最後の願いのようだ。日当たりの良い南向きの高台に築かれた古墳は、上代人には願ってもない奥津城だったに違いない。そして、そのような場所に埋葬されるのは、一族のボスだけに許された特権だったのだろう。



忍岡古墳(しのぶがおかこふん): 北河内で前期古墳の石室を保存している唯一の古墳

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忍陵神社の社殿の横で、覆屋に守られている石室

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【所在地】大阪府四条畷市岡山2丁目
【墳形・規模】主軸が南北にある全長87m、高さ約6m、後円部径約45mの前方後円墳。
【築造時期】古墳時代前期
【史跡指定】府指定史跡(昭和47年(1972)
【アクセス】JR学研都市線「忍ヶ丘駅」下車、徒歩10分 


にH.S氏が案内してくれたのは、四条畷市岡山の忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ、地元ではにんりょうじんじゃとも言う)の境内にある忍岡古墳である。ただ、車でアクセスするには道路が狭く不便ということで、JR学研都市線を利用することにした。「東寝屋川」駅前の大型スーパーの駐車場に車を入れると、電車に乗る前に、彼は駅前の 寝屋川市立埋蔵文化財資料館(所在:大阪府寝屋川市打上宮前町3-1)へ案内してくれた。

駅前マンション「寝屋川東ファミリータウン」 寝屋川市立埋蔵文化財資料館の入口
駅前マンション「寝屋川東ファミリータウン」 寝屋川市立埋蔵文化財資料館の入口

蔵文化財資料館は駅前マンション「寝屋川東ファミリータウン」の中1番館にある。北河内のほぼ中央に位置する寝屋川市は、その西部平坦地が古くは大阪湾の内湾だった。その後長い年月を経て河内湾・河内潟・河内湖と変化して現在は平野を形成している。この平野には2〜3万年前から人類が住み着き、各時代の遺跡を残している。そうした先人の文化遺産を収集・復元・展示を目的として、この資料館がオープンしたのは昭和56年(1981)5月である。

料館の玄関に、「太秦高塚古墳とその時代」と題する張り紙が張ってあった。太秦高塚古墳は、秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群の中で唯一現存する古墳である。出土した埴輪や土器などから、5世紀後半に築かれたと考えられている。平成13年度に市制施行50周年記念事業として復元整備し、現在は「太秦高塚古墳公園」になっている。

後に太秦高塚古墳を訪れる予定だったので、タイミングのよい企画展示と言えた。それよりも驚いたのは、説明ボランティアとして詰めておられたのが、見覚えのある御仁だった。森ノ宮で毎月行われる「日韓古代文化研究会」の常連で、韓国の史跡探訪ツアーでも2回ほどご一緒させていただいたT.A氏である。最近は足の具合が良くないらしく、勉強会で顔を合わせる機会が減ったが、このような所でお会いできるとは奇遇だった。


岡古墳を探訪するには、次の「忍ヶ丘」駅が最寄りの駅である。しかし、H.S氏は、さらにその先の「四条畷」駅まで行き、四條畷市立 歴史民族資料館(大阪府四條畷市塚脇町3−7)を見学した後、歩いて忍岡古墳へ向かうことを提案した。

四條畷市立歴史民族資料館 大上古墳群1号墳から出土した遺物
四條畷市立歴史民族資料館 大上古墳群1号墳から出土した遺物

四条畷」駅まで行き、線路沿いの道を戻ってくると、住宅街の中に四條畷市立歴史民族資料館があった。古代中期の蒲田遺跡から出土した馬の生け贄や、古墳時代後期の大上(おおかみ)古墳群1号墳から出土した遺物などが展示されていた。圧巻は、四条畷駅に近い雁屋遺跡から完全な形で発掘された弥生時代の男性の人骨と、その横に置かれたコウヤマキの木棺だった。


忍陵神社の参道
忍陵神社の参道

R学研都市線「忍ケ丘」駅から200mほど西に、小高い丘陵がある。忍ケ丘という。この独立丘陵の頂上には、主祭神として藤原鎌足を祀る現在忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ、にんりょうじんじゃ)が現在鎮座している。その場所は丘陵の突端部の景勝地だが、実はこの場所は、北向きに築かれた全長約87m、高さ約6m、後円部の直径約45mの前方後円墳の後円部にあたる。

在の四条畷市は、古代の河内湖東岸に位置している。この地に渡来文化が定着し、多くの古墳が築造された。その一つがこの忍岡古墳である。河口湖を一望できる丘陵の先端を利用して忍岡古墳が築かれたことになる。

平成14年に再建された覆屋
平成14年に再建された覆屋
覆屋の中の竪穴式石室
覆屋の中の竪穴式石室

の古墳の発見のきっかけは、昭和9年(1934)9月の第一室戸台風である。忍陵神社が倒壊し、翌年の再建工事中に竪穴式石室が見つかった。京都大学が発掘調査を担当した。しかし、すでに盗掘され、副葬品はほとんど残っていなかった。それでも碧玉製の紡錘車、鍬形石、石釧、甲冑の部材である小札、刀子、鉄斧、円筒埴輪片などを採集することができた。これらの出土遺物や石室・古墳の形から、築造時期は古墳時代前期と推定されている。北河内で同時期に築かれた古墳として、枚方市の万年寺山古墳、藤田山古墳、交野市の妙見山古墳などがある。

元の努力によって竪穴式石室は覆屋を設けて保護されたきた。しかし、老朽化が進んだので、平成14年4月に覆屋の再建が行われた。67年ぶりに姿を見せた竪穴式石室は堂々たる風格だったという。

室内部を規模は、長さが6.3m、幅が1m。その中にコウヤマキを刳り抜いた棺が安置されていたと思われる。石室の壁は板状の石を丁寧に積み上げ、天上は大きな板石を載せていた。石の産地は、専門家の分析によって、兵庫県猪名川流域と判明している。基底や最下部の排水設備には、子供のこぶし大の石が使われていたが、これは四条畷の讃良川の川石を利用しているとのことだ。



太秦高塚古墳(うずまさたかつかこふん): 寝屋川市制施行50周年記念で復元整備された円墳

寝屋川市制施行50周年記念で復元整備された円墳
、「太秦古墳群」の中で現存する唯一の古墳

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周辺地図
【所在地】大阪府寝屋川市太秦高塚町
【墳形・規模】円墳。全長39m、円丘部の直径37m、高さ7m、2段築成
【築造時期】5世紀後半
【史跡指定】市指定史跡第1号(平成9年)
【アクセス】京阪本線「寝屋川市駅」よりバスに乗り換え「豊野浄水場前」下車


屋川市には秦(はた)や太秦(うずまさ)といった古代豪族・秦氏ゆかりの地名がある。それどころか、寝屋川北岸にある川勝町の秦山と呼ばれる丘陵には、「伝・秦河勝(はたのかわかつ)の墓」が存在し、市の指定史跡になっている。飛鳥時代、聖徳太子のスポンサーだったとされる秦河勝や彼の一族の足跡が、この付近に残っているのは興味深い。

鶏型埴輪
市立埋蔵文化財資料館に展示されて
いた太秦高塚古墳出土の鶏型埴輪
れはさておき、太秦高塚町には、生駒山地から派生した標高40〜50mの丘陵の上に太秦高塚古墳と呼ばれる古代の墓が存在する。周辺には「塚」などの地名や発掘調査によって多数の古墳が存在していたことが分かっている。しかし、「太秦古墳群」と呼ばれている古墳群の中で、現存しているのは太秦高塚古墳だけである。

秦高塚古墳は長らく個人の所有だったが、平成6年(1994)に寝屋川市が古墳を買い取り、3年後の平成9年には市の史跡第1号に指定した。平成13年(2001)に市制50周年を迎えるにあたり、市は記念事業として太秦高塚古墳を復元整備して、市民に親しまれる「太秦高塚古墳公園」として開園することになった。

元整備に先立って発掘調査が行われ、古墳の形状や保存状態についてさまざまな事が分かった。主な点を箇条書きで整理すると、つぎのようになる。

墳丘復元図
墳丘復元図
(1) 墳形は直径約37m、周濠の底からの高さ約7mの円墳で、北西に「造り出し」と呼ばれる方形の区画を備えていた。
(2) 古墳は二段築成で、一段目のテラスは幅2.5m、そこに円筒埴輪の列が巡らされていた。
(3) 葺石(ふきいし)は施されていなかった。
(4) 「造り出し」部分からは人物・家・盾(たて)・鶏・水鳥などの形象埴輪や土器が出土し、この場所で祭りの儀式が行われたことがわかった。
(5) 頂上部分は土砂が流出して変形していたが、東側に埋葬施設の主体部の一部が残っており、短甲・鏃(やじり)・斧・馬具などの副葬品が見つかった。
(6) 出土した埴輪や須恵器の特徴から、この古墳の築造時期は古墳時代中期後半(5世紀後半)と思われる。

掘調査が終了した時点で、調査区は埋め戻され、墳丘を保護するため30〜50cmの盛土を行なって墳丘を築造当時の状態に近い形で復元した。「太秦高塚古墳公園」として開園したのは、平成14年4月1日である。

墳頂の主体部 墳頂から見下ろした造りだし
墳頂の主体部位置表示 墳頂から見下ろした造りだし

段を伝って墳頂に登ってみた。もとより築造当時の墓にはこのような階段などなかった。しかし、二段目のテラスに巡らされた円筒埴輪の列は実にきれいだった。いつもの癖で、この墓に眠る被葬者はどのような人物だったのか、つい想像したくなる。秦氏と関わりのある渡来人だったのだろうか。それとも肩野物部氏に連なるこの地方の族長だったのだろうか、あるいは河内湖の東岸に牧場を築いた馬飼集団のボスだったのだろうか。付近には破壊されてしまった多くの古墳が存在していたという。その「太秦古墳群」の盟主的存在がこの古墳だったことだけは間違いない。



禁野車塚古墳(きんやくるまづかこふん)天皇家に多くの皇后・皇妃を輩出した息長氏に関わる人物の墓?

枚方市内では牧野車塚古墳と並んで屈指の大型古墳の禁野車塚古墳
枚方市内では牧野車塚古墳と並んで屈指の大型古墳の禁野車塚古墳

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【所在地】 大阪府枚方市宮之阪5−381
【墳形・規模】前方後円墳。全長110m、後円部の高さ9.9m、径57m。前方部の高さ4m、幅40m。竪穴式石室を持つ。
【築造時期】4世紀末から5世紀初頭
【史跡指定】国指定史跡(1972年)
【アクセス】京阪電鉄交野線「宮之阪」駅から徒歩5分


踏切の向こうは古墳の後円部
踏切の向こうは古墳の後円部
方市には、禁野(きんや)という地域がある。中宮(なかみや)一帯を含む広い地域に対する呼称で、古代に交野ケ原の天皇狩猟の禁野だったことに由来するという。中宮から続く丘陵と天野川に挟まれた低地に、禁野車塚古墳が築かれている。前方部を西に向けて築かれた全長110mの前方後円墳である。枚方市内では牧野車塚古墳と並んで屈指の大型古墳である。

阪電鉄交野線の「宮之阪」駅の南に踏切があり、踏切を横切ると、住宅の間に禁野車塚古墳の後円部が見える。後円部に沿って左側に回ると、墳丘の横に小さな公園があり、そこに案内板が立っている。公園のベンチに座って墳丘を眺めると、前方後円墳であることがよく分かる。削平された前方部がベアグランドの遊び場になっていて、子供たちがサッカーに興じていた。

円部は雑木の間に背丈の低い笹が生い茂っている。登ってみると、2段に築成された様子が観察できる。この後円部で葺石と埴輪の存在が確認されている。内部構造や副葬品については明らかでないが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室だったと推測されている。

前方部から後円部を見る 公園から見た後円部
前方部から後円部を見る 公園から見た後円部

方部の西を天野川が流れている。この付近は淀川から2キロほどさかのぼった地点で、古代には淀川と天野川の合流地点を臨む良好な場所な場所だった。

禁野車塚古墳の前を流れる天野川
禁野車塚古墳の前を流れる天野川
野川の対岸に田宮という地域がある。そこは、応神天皇の息子の若野毛二派皇子(わかのけふたまたのみこ)が、息長氏の百敷真若中媛を娶って生んだ田宮中媛が居住した所とされている。そのため、地元の教育委員会が立てた案内板では、禁野車塚古墳は天皇家に多くの皇后・后妃を出し、水運に携わる姻族とされる息長氏にかかわる人物の墓と推測している。おそらく、被葬者はこの地域の交通権を掌握した首長だったのだろう。



万年寺山古墳(まんねんじやまこふん): 枚方市駅南側の丘陵先端部に存在した古墳

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今の意賀美(オガミ)神社が鎮座しているところが、かっての万年寺山古墳

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【所在地】枚方市枚方上之町
【墳形・規模】前方後円墳。墳丘長約100m、後円部径約68m、前方部長約34m、高さ約6m。
【築造時期】4世紀中頃
【アクセス】京阪本線枚方市駅から旧京街道を南西へ徒歩10分 


意賀美神社の長い石段が続く表参道
意賀美神社の長い石段が続く表参道
阪電車の「枚方市」駅から南西方向に直線距離で700mほどの所に、標高40m足らずの丘陵がある。淀川に沿って細長くのびる旧枚方の町並みを東西に分けるように、こんもりと緑に包まれた万年寺山である。

承では、推古天皇の時代に高句麗から来朝した恵灌(えかん)という僧侶が、この地の風景が唐の林岸江に似ているとして草庵を立てたという。奈良時代には密教系寺院の万年寺があった。しかし、明治3(1870)年の廃仏毀釈によって廃寺になり、本尊は三矢町の浄念寺に預けられた。その跡に明治42年(1909)、意賀美(おかみ)神社が建てられた。意賀美神社は、岡・岡新町村の鎮守社だった日吉神社と、三矢・泥町村の鎮守社だった須賀神社を合祀して、現在の場所に新たに創建したものである。

社の表参道の数多い石段を登って行くと、途中に見晴らしの良い豊臣秀吉の茶屋御殿跡がある。京と大坂を結ぶ交通の大動脈だった淀川と京街道を見下ろすこの場所に、秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のこととされている。江戸時代には幕府公用の施設となったが、延宝7年(1679)7月の枚方宿の火事で全焼し、以後再建されることはなかった。枚方小学校も一時この地に建てられたという。丘陵の中程には紅梅を中心とした梅林があり、現在は交野市の観梅の名所になっている。

御茶屋御殿跡展望広場 万年寺山意賀美梅林
御茶屋御殿跡展望広場 万年寺山意賀美梅林

治37年(1904)、枚方小学校の運動場拡張工事の最中に、丘陵の先端部で古墳が見つかった。すでに全壊されていたが、前方後円墳の可能性が高く、墳丘長約100m、後円部径約68m、前方部長約34m、高さ約6mを測ったという。しかし、埴輪や葺石は碓認されていない。

万年寺山の頂に鎮座する意賀美神社
万年寺山の頂に鎮座する意賀美神社
の古墳の埋葬施設は割竹形木棺だったと思われ、長さ3m以上、幅0.3m以上の棺の断片が採取されていいる。この古墳から8面の青銅鏡や鉄刀などが出土した。出土した青銅鏡のうちの6面は三角縁神獣鏡だった。これらの出土品から、古墳の築造時期は、4世紀中頃と推定されている。

枚の青銅鏡と共に埋葬された被葬者がどのような人物だったのだろうか。淀川に臨む交通の要衝の丘陵上に己の奥津城を築かせたからには、水上交通と軍事的要所を支配する相当有力な豪族だったことは間違いないだろう。古墳の所在する伊加賀の地は、片野物部の祖とされる伊加賀色男命(しこおのみこと)の居住地であったという伝承があり、万年寺山古墳と物部氏との関係が注目されている。



牧野車塚古墳(まきのくるまづかこふん): 枚方台地の北東端に築かれた国指定史跡

牧野車塚古墳
古墳公園として整備されている牧野車塚古墳

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【所在地】大阪府枚方市小倉東町369
【墳形・規模】2段築成の前方後円墳。全長107m、周囲に幅10mの周溝を巡らす。南から西に外堤を巡らす
【築造時期】4世紀第2四半期
【史跡指定】国指定史跡(大正11年(1922))
【アクセス】京阪バス 京阪枚方市より13番系統に乗車 小倉東町下車直ぐ 


阪電車「牧野」駅の南1.2キロの地点に、車塚公園がある。この公園は、穂谷川・船橋川流域に築かれた首長墓である牧野車塚古墳を史跡公園として整備したものだ。牧野車塚古墳は、禁野車塚古墳に次いで北河内で2番目に大きい古墳である。土地の名前をとって小倉車塚古墳とも呼ばれている。

方市教育委員会が立てた説明板によると、牧野車塚古墳は、枚方台地の北東の端に築かれた2段築成の前方後円墳で、全長107.5m、後円部の直径54.5m、前方部の幅44mを測る。主軸線はほぼ東西にとり、東を流れる穂谷川に前方部を向けている。墳形は後円部が高く、前方部が低い。そのため4世紀後半の築造と考えられている。

牧野車塚古墳の前方部 牧野車塚古墳の後円部
牧野車塚古墳の前方部 牧野車塚古墳の後円部

和53年(1978)に、この古墳の第一次調査が後円部西側の外堤隣接地で実施された。調査の結果、幅4〜5m、深さ20から30cm濠痕跡が確認された。そのことから、築造当初には2重濠であったことが判明した。また濠内からは円筒埴輪列も検出された。

成16年(2004)に、第2次調査が実施された。実はこれがこの古墳の本格的な調査で、前方部の墳丘と周溝の調査を対象に行われた。その結果、前方部テラスで板石からなる特異な葺石を検出した。葺石は大きさ20〜30cm、厚さ3〜4cmで、石の産地は徳島県吉野川流域、兵庫県猪名川流域、二上山と推定されている。さらに、この調査によって周溝が鍵穴形になくことが再確認された。

1次調査で出土した円筒埴輪によって、古墳の築造時期は5世紀前半と推測されていた。しかし、第2次調査で鰭(ひれ)付き円筒埴輪の出土したことで、築造時期は4世紀後半までさかのぼることが判明した。

野車塚古墳は、上記のように穂谷川・船橋川流域に築かれている。それまで安定的に首長墓が築かれてきた天野川流域から、突如、穂谷川・船橋川流域に盟主墳が移動してきたことになる。その背景にどのような事情があったのかは、まだ解明されていない。また、穂谷川・船橋川流域における古代豪族の動向もよく分かっていない。しかし、可能性として、馬匹生産などに携わった渡来系氏族の存在が考えられるという。穂谷川沿いの各所で馬や、馬に関わる遺構・遺物の検出が相次いでいて、穂谷川河畔を利用した馬の放牧が行われていたと考えられるからである。その時期は、四条畷市や寝屋川市で見つかっている馬の時期よりも古い。




2008/04/01作成 by pancho_de_ohsei return