大極殿の南門の土台にあたる基壇跡から出土した地鎮具の平瓶
実は、奈文研はこのときの発掘調査で、水や酒を注ぎ入れる平瓶(ひらか)を、埋められた状態で発掘していた。平瓶は壺の肩部の近い位置に口縁部を取り付けた容器で、見つかったのは南門跡から5メートルほど西の門につながる回廊跡の下だった。肩部の最大直径20.2センチ、残存の高さ13.8センチの壺は7世紀末の須恵器で、愛知県の尾北古窯址群(びほくこようしぐん)で焼かれた製品と考えられている。 この平瓶は、宮殿建設時の地鎮の際に使われたものと推測されている。壺を中心にして4つの柱穴(直径20〜25センチ)があり、約1メートル四方を神聖な空間として区画した可能性があるからだ。 『日本書紀』には、持統天皇6年(692)5月23日の条に、「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と記述されている。飛鳥浄御原から藤原京へ遷都が行われる2年前のことである。発見された平瓶は『日本書紀』の記述を裏付けるとともに、古代の地鎮の実態やルーツを明らかにするための貴重な資料と位置づけられた。 |
694年の遷都を機に、新しい富本銭が鋳造された?
ガラスケースの中にはルーペも置かれ、残り一枚の富本銭と飛鳥池遺跡の富本銭が表面を拡大して見られるようになっている。のぞき込んでみると、素人でも上記のような飛鳥池遺跡の富本銭との違いが理解できた。 富本銭に関しては、天武天皇12年(683)4月15日、銀銭を廃止し、銅銭の使用を命じる詔が出されている。このとき使用を禁止されたのは、厚さ2mm前後の銀の延べ板を裁断加工した円板に、重さを揃えるため銀片を貼り付けて10g前後とした私鋳の無文銀銭のこととされている。しかし、3日後には銀銭の使用を止めなくてもよいとする詔がだされている。このことから、当時すでに定量に重量調整された地金の銀が、貨幣的機能をもって流通していたことがわかる。一方、使用を命じられた銅銭とは、飛鳥池遺跡出土の富本銭とみられている。
また、今回の富本銭は、飛鳥池遺跡以外の鋳造所で製作された可能性を指摘する専門家もいる。奈文研の松村恵司考古第1研究室長は「藤原京遷都(694年)後、工房が飛鳥池から京内に移転し別のタイプの富本銭が造られた可能性がある」と話しておられるとのことだ。 しかし、藤原京大極殿院の南門跡から出土した平瓶が、2年前の持統6年(692)5月に行われた地鎮祭で埋められたものならば、いずれの説も時代が合わない。現段階で言えることは、和銅元年(708)に和同開珎(わどうかいちん)が発行されるまでに、富本銭の鋳造時期が少なくとも2回あったことが判明しただけだ。しかし、そのためにわが国の貨幣の始まりに再検討を迫ることになった。 富本銭に関して、今朝の毎日新聞は興味深い記事を載せていた。実は、今回出土した富本銭と同じものが、和歌山県の白浜町(旧日置川町)で、すでに5年前に発見されているという。平成15年(2003)に熊野水軍の領主の1人、安宅(あたぎ)氏の山城だった八幡山城跡(16世紀前半)を調査したところ、大量の土器や他の種類の通貨などと共に富本銭が見つかった。奈文研に分析を依頼したところ、飛鳥池遺跡の古代の富本銭と字体や形状、成分が異なることから、「中世の模造品」とみられていた。しかし、今回の発見で改めて検証が必要になった。 白浜町は、持統天皇や文武天皇が行幸した牟婁温湯(むろのゆ)(湯崎温泉)があることで知られる。専門家の間では、白浜町で発見された富本銭はこれらの天皇の行幸と関連があるのでは、と指摘する声もあるそうだ。 |