橿原日記 平成20年3月18日

藤原宮大極殿の正門跡から出土した新タイプの富本銭

大極殿の南門の土台にあたる基壇跡から出土した地鎮具の平瓶(ひらか)

出土した須恵器の平瓶
出土した須恵器の平瓶
007年9月8日は、橿原市の大地は燃えるように暑かった。それにも関わらず、大勢の考古学ファンが藤原宮跡に参集した。奈良文化財研究所(奈文研)が午後1時半から現地説明会を開くと公表したためである。奈文研はその年の4月から大極殿院の正門とされる南門の跡を発掘調査してきた。そして、門の土台にあたる基壇の跡を確認した。そのための現地説明会だった。

は、奈文研はこのときの発掘調査で、水や酒を注ぎ入れる平瓶(ひらか)を、埋められた状態で発掘していた。平瓶は壺の肩部の近い位置に口縁部を取り付けた容器で、見つかったのは南門跡から5メートルほど西の門につながる回廊跡の下だった。肩部の最大直径20.2センチ、残存の高さ13.8センチの壺は7世紀末の須恵器で、愛知県の尾北古窯址群(びほくこようしぐん)で焼かれた製品と考えられている。

の平瓶は、宮殿建設時の地鎮の際に使われたものと推測されている。壺を中心にして4つの柱穴(直径20〜25センチ)があり、約1メートル四方を神聖な空間として区画した可能性があるからだ。

日本書紀』には、持統天皇6年(692)5月23日の条に、「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と記述されている。飛鳥浄御原から藤原京へ遷都が行われる2年前のことである。発見された平瓶は『日本書紀』の記述を裏付けるとともに、古代の地鎮の実態やルーツを明らかにするための貴重な資料と位置づけられた。



平瓶の注ぎ口に詰め込まれていた9枚の富本銭

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の平瓶(ひらか)を高エネルギーX線CT撮影で詳しく調べたところ、注ぎ口には富本銭(ふほんせん)9枚が詰め込まれていた。中には600ccの雨水が溜まっていて、長さ2〜4センチの六角柱状の水晶の原石が底に9個入っていることも分かった。奈文研はそのことを昨年11月29日にメディアに発表している。

の後、平瓶のレプリカを作成し、出土した平瓶の注ぎ口の富本銭と内部の水晶片を取り出して精査した。富本銭は9枚が縦に重なった状態で、注ぎ口に詰まっていたので、取り出すとき一枚一枚を分離したが、2枚だけはくっついていて、どうしても分離できなかったとのことだ。

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(左)南門跡出土品、(右)飛鳥池遺跡出土品、
が国最古の貨幣である富本銭は、飛鳥時代の造幣局とされる明日香村の飛鳥池遺跡で鋳造されてきたと考えられてきた。しかし、新しく出土した9枚の富本銭と飛鳥池遺跡から出土したものと比較検討した所、意外なことが分かった。先ず、平均の直径は2.4cmで飛鳥池遺跡の富本銭とほぼ同じだが、平均の重さが6.77グラムと飛鳥池遺跡の富本銭の約1・5倍もあった。

らに、書体やデザインについても、次のような明確な違いがあった。すなわち、(1)飛鳥池遺跡の富本銭は隷書体だったが、今回出土したものは行書風の書体が用いられている。(2)「富」の字は冠の第一画の点がなく、冠の下も「口」と「田」が一体で書かれている。(3)「本」の字はやや扁平になっている。(4)左右の七曜を表す七つの点が大きい。(5)中心の四角い穴を囲む内郭の幅が広い。

うした違いを確認して、奈文研は昨日の17日、新しいタイプの富本銭が藤原宮跡で見つかり、本日から橿原市木之町にある同研究所の藤原宮跡資料室で一般公開すると発表した。、

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展示された大極殿院南門跡から出土の地鎮具



694年の遷都を機に、新しい富本銭が鋳造された?

字体の違い
字体の違い
文研の藤原宮跡資料室の玄関を入ると、エントランスホールのほぼ中央にガラスケースが置かれ、その中に大極殿院南門跡から出土した地鎮具が展示されていた。出土したときの状態をそのまま再現した平瓶のレプリカが真ん中にあり、その前面に、取り出された富本銭のうちの8枚(2枚重ねが一点あるので、見た目には7枚)と、9個の水晶片が並べられている。銅製の富本銭は錆びて緑青色をしていた。

ラスケースの中にはルーペも置かれ、残り一枚の富本銭と飛鳥池遺跡の富本銭が表面を拡大して見られるようになっている。のぞき込んでみると、素人でも上記のような飛鳥池遺跡の富本銭との違いが理解できた。

本銭に関しては、天武天皇12年(683)4月15日、銀銭を廃止し、銅銭の使用を命じる詔が出されている。このとき使用を禁止されたのは、厚さ2mm前後の銀の延べ板を裁断加工した円板に、重さを揃えるため銀片を貼り付けて10g前後とした私鋳の無文銀銭のこととされている。しかし、3日後には銀銭の使用を止めなくてもよいとする詔がだされている。このことから、当時すでに定量に重量調整された地金の銀が、貨幣的機能をもって流通していたことがわかる。一方、使用を命じられた銅銭とは、飛鳥池遺跡出土の富本銭とみられている。

使用を禁止された無文銀銭
使用を禁止された無文銀銭
日本書紀』には、その後の持統天皇8年(694)3月2日に、「大宅朝臣麻呂(おおやけのあそんまろ)らを以て鋳銭司(じゅせんし)に拝(め)す」と記述している。この年の12月には、藤原遷都が行われていることから、今回の富本銭は、その際に新たに設けられた造幣局で、遷都の“記念硬貨”として鋳造した可能性を指摘する専門家がいる。

た、今回の富本銭は、飛鳥池遺跡以外の鋳造所で製作された可能性を指摘する専門家もいる。奈文研の松村恵司考古第1研究室長は「藤原京遷都(694年)後、工房が飛鳥池から京内に移転し別のタイプの富本銭が造られた可能性がある」と話しておられるとのことだ。

かし、藤原京大極殿院の南門跡から出土した平瓶が、2年前の持統6年(692)5月に行われた地鎮祭で埋められたものならば、いずれの説も時代が合わない。現段階で言えることは、和銅元年(708)に和同開珎(わどうかいちん)が発行されるまでに、富本銭の鋳造時期が少なくとも2回あったことが判明しただけだ。しかし、そのためにわが国の貨幣の始まりに再検討を迫ることになった。

本銭に関して、今朝の毎日新聞は興味深い記事を載せていた。実は、今回出土した富本銭と同じものが、和歌山県の白浜町(旧日置川町)で、すでに5年前に発見されているという。平成15年(2003)に熊野水軍の領主の1人、安宅(あたぎ)氏の山城だった八幡山城跡(16世紀前半)を調査したところ、大量の土器や他の種類の通貨などと共に富本銭が見つかった。奈文研に分析を依頼したところ、飛鳥池遺跡の古代の富本銭と字体や形状、成分が異なることから、「中世の模造品」とみられていた。しかし、今回の発見で改めて検証が必要になった。

浜町は、持統天皇や文武天皇が行幸した牟婁温湯(むろのゆ)(湯崎温泉)があることで知られる。専門家の間では、白浜町で発見された富本銭はこれらの天皇の行幸と関連があるのでは、と指摘する声もあるそうだ。


2008/03/18作成 by pancho_de_ohsei return