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見学コースとして次のルートが予定されていた。 これらの遺跡のほとんどは、すでに埋め戻され、その上に公共施設やマンション、民家が建ち並んでいて、発掘当時の様子や飛鳥時代の景観を想像させるものは何もない。だが、遺跡のあった場所に実際に立ってみれば、周囲の景色も少しは変わって見えるのでは、と参加を決意した。総歩行距離約8kmであり、足首を少し痛めている身にはいささか厳しい行程に思えた。だが、大勢の参加者の尻にくっついてなんとか踏破することができた。 【関連地図】藤原京とその周辺 (特別展示解説書から転記) |
橿原遺跡: 橿原神宮外苑の拡張工事に伴って実施された発掘調査で見つかった遺跡皇紀2600年の記念事業として、橿原神宮外苑の整備・拡張工事が行われることになり、この工事に伴って、昭和13年9月から約3カ年にわたる本格的な発掘調査が、10万平米という広大な面積に対して実施された。その結果、縄文時代晩期の土器や土偶などが多数出土した。また、飛鳥時代から奈良時代を中心とした井戸が22基見つかり、調査したところ、多くは藤原京に関わるものと判明した。
70年前に発掘調査が行われた現場は、現在は橿原公苑として整備され、テニスコートや橿原体育館、陸上競技場、野球場などの施設が肩を並べて配置されている。現場に立ってみても、この地下に10万平米におよぶ広大な遺跡が眠っているとは、とても思えない。 だが、博物館に特別陳列されている第8号井戸の井戸枠は、現在の野球場のほぼ中央辺りから出土したものだそうだ。横板を正六角形に組み、上下は板の端を互いにかみ合わせている。対角の長さは98m、現存の高さは90cmを測る。
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丈六北・南遺跡: 橿原遺跡と同じ時期に発掘調査された遺跡
丈六北遺跡と丈六南遺跡は、「丈六」交差点の西に位置していた。両遺跡の発掘調査は橿原遺跡と同じ時期に実施され、飛鳥時代から奈良時代にかけての井戸や柱、礎石などが発見された。付近には舒明天皇時代の厩坂宮や古代寺院の厩坂寺が存在した記録がある。遺跡はこうした宮殿または寺院の跡とも推測されているが、明らかではない。
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藤原京右京十二条四坊調査地: 大藤原京の南限を推定すヒントになった発掘調査地昭和44年(1969)、京都大学教授だった岸俊男氏は、それまでの発掘調査のデータをもとに、藤原京の全体を推定し、「藤原京」という論文を発表した。それによれば、藤原京の京域は、中ツ道を東京極、下ツ道を西京極、横大路を北京極、上ツ道の南延長にあたる山田道を南京極とした。そして、藤原京を左京と右京に分け、それぞれを東西四坊、南北十二条に区分する条坊制(じょうぼうせい)街区を備えた構造とした。
ところが、昭和54年(1979)になると、岸説藤原京の外側で、京の条坊とつながる位置に道路遺構が次々と発見されるようになった。平成8年(1996)には、藤原京の西京極、東京極とみられる道路跡の発見された(橿原市土橋遺跡、桜井市上之庄遺跡)。これら一連の道路遺構の出現で「大藤原京」説が提唱され、岸説に替って定説化してきている。 大藤原京説では、京域は東西5.3km、南北4.8kmに及ぶ。しかし、南北の京極跡について未確定部分が残されていると言って良い。北については、横大路から北へ1457mの地点で東西小路が発見され、条坊地割りが北へ六条まで及ぶことは、一応確かめられているが、北京極とは断言できない。南限に関しても、藤原京右京十二条四坊で行われた発掘調査で、十二条大路の北側溝が確認された。これにより、部分的には、十二条大路が実際に造られていたことが明らかになった。この溝が現在まで最も南で確認された条坊関連遺跡である。と言って、大藤原京の南京極が正式に確定したわけではない。
十二条大路を東に延長して行くと、石川池の真ん中を通る。石川池の南に位置するのは孝元天皇陵とされているが、実際は4〜5世紀頃の3基の古墳と自然丘で一陵としたものらしい。この丘陵が実は藤原京を南限を推定する一つのヒントになるという。藤原京の建設に当たっては、京域に存在した墓は取り壊されたが、遺骸は他の場所へ改装している。だが、この丘陵については、古墳が移し替えられた形跡がない。つまり、十二条大路の南には条坊制が適用されなかったと推定される。そう言えば、十二条大路の南は丘陵地帯である。
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藤原京右京十一条四坊調査地: 物資を運ぶ運河と思われる大溝が見つかった遺跡
藤原京右京十二条四坊の北の十一条四坊でも発掘調査が実施され、十一条条間路が推定される所で東西方向に築かれた大溝(幅6m〜7m、深さ1.4m)が発見された。この大溝は前後3回にわたって調査され、総延長は150m以上に達した。大溝は東ではやや南に振っていたが、西では下ツ道の東側側溝につながっていたと考えられている。おそらく、物資を運ぶための運河だったようだ。この大溝には西四坊の坊間路と推定される部分で橋脚も見つかっている。 大溝からは、金属製の人型、人面の墨書土器、土馬など祭祀具がまとまって出土した。大規模な祭祀を行なう場所が、溝の近くにあったものと推測されている。
遺跡のあった場所の東にあたる右京十一条三坊で、新たな発掘調査が行われていた。道路の新設に伴う事前調査で、南北方向に築かれた道路遺構が見つかっている。この道路をまっすぐ北に延ばしていくと、本薬師寺の南門の正面にぶつかるという。本薬師寺は創建当時は「薬師寺」と呼ばれていた。天武9年(680)に皇后(後の持統天皇)の病気治癒のために天皇が発願したのが始まりとされている。ということは、680年の時点で条坊制に基づく道路建設がすでに計画されていたことを予感させる。 |
田中廃寺: 蘇我一族の枝氏である田中氏の氏寺が建立された場所
田中町には法満寺という寺がある。寺の境内に塔心礎と思われる礎石が残存している。石の1/3を割られているが、径2尺3寸の円形柱座を造出し、中央には径6寸×2寸5分の孔が穿たれている。しかし、心礎とするには小さく、心礎と断定はできないという見解もある。 平成元年(1989)から翌年にかけて、病院建設にともなう発掘調査が実施され、総柱建物跡や柱列、鋳造関係遺物とともに、大量の瓦が出土した。このため、調査区が田中廃寺の寺域の一部であることがわかった。出土した軒丸瓦は、山田寺式の単弁蓮華文軒丸瓦と重孤文軒平瓦の組み合わせであり、寺は7世紀の中頃創建されたと推定されている。
法満寺の西に、「天王藪」または「弁天の森」と呼ばれる土壇のような高まりがある。この土壇が現在は田中廃寺の金堂跡と推測されている。なお、発掘調査では、藤原京の条坊によって田中廃寺の寺域が縮小されたことも明らかにされている。しかし、田中宮伝承地については不明のままである。
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日高山瓦窯跡: 藤原京造営の際に瓦窯(がよう)が作られていた場所
日高山は、藤原京の右京7条西1坊に位置し、東南の1町全体が丘陵地になっている。藤原宮のほぼ真南に位置するため、山の斜面を下っていくと、正面に藤原宮跡が見え、その向こうに耳成山を望見することができる。、
藤原宮瓦供給地の一つとされ、ここでは軒丸瓦5種類の他に、軒平瓦や丸瓦、平瓦などが作られた。日高山瓦窯で使われた瓦の版は他へ移され、移された先で藤原京の瓦が作られているだ。この瓦窯は平城京の造営途中で瓦を焼くのを止めてしまったようだ。 窯跡があった斜面を登ると、山の頂上は削平された何もない広場になっていた。広場の端から西側を見下ろすと、現在共同墓地になっている。その墓地の地下から藤原京時代の1町の面積を占める広大な屋敷跡が見つかっている。
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朱雀大路跡: 藤原京のメインストリートだった朱雀大路を復元した史跡
特に、藤原宮の朱雀門から南に延びる部分は当時のメインストリートで、両側溝の中心間距離は25mを測る。約260m南側の日高山では、丘陵を削り谷が埋め立てて朱雀大路が建設されていた。 そのことから、朱雀大路は大がかりな造成工事によって整備されたことが窺える。しかし、飛鳥川の南では朱雀大路の状態は明確に確認されていない。一方、北側では、耳成山をまたいだところで、東側の溝が確認されている。
朱雀大路の一部が、芝を敷いた遺跡とバラスの側溝跡として復元され、史跡に指定されている。 史跡の前を通る道路の反対側に別所池がある。その池畔に、司馬遼太郎揮毫の次の万葉歌碑がある。
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藤原宮跡: 持統・文武・元明正と3代にわたる天皇の宮跡
天武元年(672)、壬申の乱に勝利した天皇は、飛鳥に戻ると母・斉明天皇の宮殿だった「後飛鳥岡本宮」の南に飛鳥浄御原宮を造営して遷っている。しかし、飛鳥浄御原律令の制定と並んで、唐の都城に倣った新しい都を作ることは天武天皇の永年の懸案だったようだ。即位から4年後の天武5年(676)、天皇は早くも新都建設を計画し、予定地の田畑の耕作を禁じた。しかし、何故か計画は中断された。 新たに新都建設計画が再燃したのは、それから6年後の天武11年(682)から13年にかけてである。天武11年には新都予定地に人を派遣して地形などの現地調査を行っている。そして、天武13年(683)2月28日、天皇はみずから予定地を巡察して、宮地の場所を決定している。 遷都決定後、天武天皇の存命中に新都建設工事が着手していたかどうかを示す文献資料はない。天皇は朱鳥元年(686)に崩御してしまう。天武の事業を引き継いだのは、皇后だった持統天皇である。持統4年(690)、飛鳥浄御原で第41代天皇として正式に即位すると、その年の10月の末、太政大臣の高市皇子に藤原の宮地を観させており、12月には天皇自らも宮地に行幸している。
新都建設工事が具体的に始まったのは翌年の持統5年(691)である。その年の10月27日、使者を遣わして新益京(あらましのみやこ)の地鎮祭を行って、京の建設を開始している。この新都を「藤原京」と呼ぶのは、最近の学術用語である。当時は新益京(あらましのみやこ)と呼ばれた。飛鳥の「もとの京」に対して「新しく益(ま)した京」の意味と解釈されている。 だが、天皇の住まいや国政、国家的儀式をおこなう殿舎などの建つ宮は、当初から藤原宮(ふじわらのみや)と呼ばれていた。この藤原宮の造営は、京の建設着手より半年ほど遅れて開始されている。持統6年(692)5月23日、天皇は難波王などを派遣して、藤原宮地の地鎮祭を行わせている。その地鎮祭に使用したと思われる地鎮具が、昨年11月に発掘された大極殿院の正門である南門の近くで見つかった。
持統8年(694)の暮れも押し迫った12月6日、持統天皇は藤原宮に遷都した。3日後には、百官の拝朝を受け、翌日には親王以下郡司にいたるまで遷都の引き出物を賜り、12日には公卿大夫に対して宴を賜ったという。着工から2年半で藤原宮の全ての建物が完成していたとは、とても思えない。 現在、平城京遷都1300年を記念して復元工事が行われている平城宮の大極殿ですら、平成14年(2002)2月に工事に着手したが、完成は平成19年末だという。
この約1キロ四方の広大な区画の中に、天皇の住居である内裏、天皇・官人が政務を執り儀式を行う大極殿と朝堂、それに中央政府の政務実務を行なう官衙の建物が、計画的に配置されていた。宮の内外を遮断する大垣には、各辺に3つずつ門が築かれていた。大垣は溝と広い外周帯を伴っていた。それぞれの門は基壇の上に建つ礎石建物で、正面5軒、側面2間の瓦葺きである。柱間は17尺(5m)に復元され、平城宮の朱雀門とほぼ同規模だったと推定されている。 各辺に設けられた合計12門のうち、南辺の中門の名称は朱雀門である。その他に、出土した木簡などから北辺の3門と東辺の3門の名称が判明している。北辺の門は西門が海犬養(あまいぬかい)門 、中門が猪使(いつかい)門、東門が蝮王(たじひ)門)、東辺の門は北門が山部(やまべ)門、中門が建部(たけるべ)門、南門が少子部(ちいさこべ)門である。
見学会では、大極殿跡で小休止を取った後、その北側にある醍醐池の縁を通って、藤原宮の北辺の西門にあたる海犬養(あまいぬかい)門が発掘された場所を見学した。門の跡は現在埋め戻されて、小さな遊園地になっている。しかし、遊園地の西を流れる用水路に沿って少し北に歩くと、海犬養門の礎石だったとされる巨岩が2つ水路の壁から顔を出していた。 |
橿原市藤原京資料室: 藤原京の模型や戦前の発掘調査の出土品を展示する市の施設
藤原宮跡の西に隣接するJAならけん橿原東部経済センターの2階に、藤原京資料室(橿原市木之本町94-1)がある。ここには、我が国最古の都城である藤原京(694年〜710年)の模型が展示されている。この模型は平成7年に制作ざれ、橿原市小房町の「かしはら万葉ホール」に展示されていたものをこの場所に移した。東西5.4km、南北6.4kmと想定した大藤原京を1000分の一に再現している模型は圧巻だ。
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縄手池周辺(西面大垣、南面大垣): 藤原宮の西面から南面隅の大垣などの施設を復元した遺構
大垣そのものは、2.7m間隔に柱を立て並べた掘立柱塀で、高さが5.5m、土壁の厚さ20cmで、瓦葺きだった。橿原市縄手町にある縄手池の側に、西辺の大壁の一部が復元されている。また、その南の飛騨町には、藤原宮西南隅の大垣や外濠・内濠の一部が復元されている。 律令では、宮城の門の出入りには、身分によって細かい規定があったようだ。五位以上の貴族は、どの門でも自由に出入りできた。しかし、六位以下の中・下級役人は、あらかじめ許可を得ている門しか使えなかった。さらに、仕丁(しちょう)など下働きの人たちが出入りする時や、物資の搬入を行なう者は、いちいち届け出を出して許可を得る必要があったとのことだ。通行証として使われた木札が発掘調査で出土している。
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本薬師寺跡: 皇后の病気平癒のため、天武天皇の発願で建立された寺の跡
金堂跡は、案内板の脇を入った奥の民家の庭先にあり、15個の礎石が並べてある。その庭先の南の休耕田の中に小高い土壇が見える。東西両塔の跡である。寺域の休耕田に夏から10月頃にかけて咲くホテイアオイの花がきれいだ。 本薬師寺は、現在奈良市西の京にある薬師寺の前身として、今から約1300年前に建立された。その発端は、天武天皇が天武9年(680)に皇后(後の持統天皇)の病気治癒のために発願したのが始まりとされている。創建当時は「薬師寺」の名で呼ばれ、藤原京右京八条三坊の全域(4町)を寺域としていた。
発掘調査によって、規模も伽藍配置も現在の薬師寺と変わらぬことが確認されている。平城京遷都にともなって本薬師寺は、養老2年(718)に平城京右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移建されたと考えられてきたが、最近は非移建説も有力になってきている。 |