平成20年3月15日

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の墳墓と長髄彦(ナガスネヒコ)の本拠を訪ねる


ニギハヤヒとナガスネヒコ

車窓から見た矢田丘陵
大和郡山付近で車窓から見た矢田丘陵
阪府と奈良県を区切る生駒山地の東側を、生駒山地に寄り添うように矢田丘陵が南北に走っている。丘陵といっても立派な山地で、南北の長さは約13〜14km、東西の幅は約3kmに達する。以前から気になっていたのだが、その矢田丘陵の北の端から東側にかけて、白庭台(しらにわだい)とか鳥見(とりみ)町、登美ヶ丘といった地名が目に付く。記紀神話で語られるニギハヤヒノミコト(饒速日命)やナガスネヒコ(長髄彦)の説話に直結しそうな地名である。

になって彼らのことを少し調べてみる気になった。と言っても、二人について記した基本史料は『古事記』と『日本書紀』と『先代旧辞本紀』しかない。しかも、その内容はそれぞれ少しずつ違っている。


磐船神社と今回訪れた碑との位置関係
磐船神社と今回訪れた碑との位置関係
『古事記』では、イワレヒコノミコト(伊波礼毘古命、後の神武天皇)の東征説話の中で、大和地方の豪族トミ(登美)のナガスネヒコが奉じる神としてニギハヤヒが登場する。ニギハヤヒは、ナガスネヒコの妹のトミヤスヒメ(登美夜須毘売)を妻として、ウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうける。このウマシマジノミコトは物部連、穂積臣、采女臣の祖とされている。イワレヒコが東征してくると、ナガスネヒコはこれを日下(くさか)で撃退し、イワレヒコの兄のイツセノミコト(五瀬命)に矢傷を負わせた。

陽に向かって戦いを仕掛けたため負けたのだというイツセの言を入れて、イワレヒコは熊野に回り、背後からナガスネヒコを攻めた。このとき、ニギハヤヒはイワレヒコがアマテラスの子孫であることを知り、「天神の御子が天降(あまくだ)りされたと聞いて、後を追って天降って参りました」と告げ、天神の御子の証としての天の神宝を献じて、イワレヒコの軍門に下った。


今回訪れた碑の所在地
今回訪れた碑の所在地
『日本書紀』によると、天孫のニニギノミコトが降臨して1,792,470余年後に、イワレヒコは日向(ひゅうが)を発って大和(やまと)に東征することを決意した。その時すでにニギハヤヒというものが天磐船(あめのいわふね)でその地に天降って治めていることを知っていた。そして、『古事記』が記したように、孔舎衛坂(くさえのさか)でナガスネヒコに破れたため、背後に回り熊野から大和に攻め入った。

ワレヒコの軍は何回も戦いを重ねたが、ナガスネヒコに勝てなかった。しかし、ある時、金色の不思議な(とび)がイワレヒコの弓の端に止まり、照り輝いた。その雷光のような光に幻惑されてナガスネヒコの軍兵は戦うことができなかった。そこで、ナガスネヒコは使いを送って、イワレヒコに次のように言上したという。

「昔、天神の御子が天磐船に乗って天降られた。櫛玉(くしたま)のニギハヤヒノミコトという。この御子が我が妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)を娶って子をなした。ウマシマデノミコトという。それで、吾はニギハヤヒを君として仕えている。それなのに、そちらも天神の子と言われ、天神の子が二人もおられることになる。そちらは天神の子を名乗ってこの土地を奪おうとする偽物であろう」

れに対して、イワレヒコは、天神の子は多くいるが、本物ならば必ずそのことを示す品を持っているはずだ、と言われた。そこで、ナガスネヒコはニギハヤヒの天の羽羽矢(あまのははや)と歩靫(かちゆき)を示した。イワレヒコも同じものを示し、二人とも天神の子であることを証明した。しかし、それでもナガスネヒコは戦いを止めようとしない。そこで、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺害して、部下を率いてイワレヒコに帰順した。イワレヒコはその忠誠を褒めてニギハヤヒを寵愛した。このニギハヤヒが物部氏の先祖である。


ニギハヤヒノミコト(饒速日尊)
ニギハヤヒノミコト
(饒速日尊)
『先代旧辞本紀』の中の天孫本紀では、ニギハヤヒはアメノオシホミミノミコト(天押穂耳尊)とタカミムスビノミコト(高皇産霊尊)の娘との間に生まれた天孫で、ニニギの兄であるアメノホアカリ(天火明命)と同一神としている。アマテラスから十種の宝を授けられると、ニギハヤヒは三十二人の伴緒(とものお)を率いて天磐船(あめのいわふね)で河内の国の河上の哮峯(いかるがのみね)に天降られた。そして、大和の国の鳥見の白庭山(しらにわのやま)に移られた。ナガスネヒコの娘のミカシキヤヒメ(御炊屋姫)を娶って妃とされたが、ウマシマジノミコト(宇摩志麻治命)が生まれる前に亡くなられた。

ギハヤヒが亡くなっても天に登り還らなかったので、タカミムスビがハヤテノカミ(速飄神)を葦原中国に派遣して事情を調べさせた。ハヤテノカミは天に帰り「神の御子はすでに亡くなられた」と報告した。タカミムスビは哀れと思い、再びハヤテノカミを遣わして、ニギハヤヒの遺体を天上に上げて葬られた。

の後、ニギハヤヒは妻のミカシキヤヒメの夢に現れ、「我が子を私の形見としなさい」と言って、天璽の宝を授けた。そこで、天羽羽弓(あまのははゆみ)、天羽羽矢(あまのははや)、および神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬し、これを持って墓と為した。


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のように、古書が伝える伝承はそれぞれ少しずつ違っている。これらの伝承を総合的に整理すると、次のようになる。
●天孫ニニギノミコトが日向の高千穂の峰に天降る以前に、物部氏の始祖とされるニギハヤヒノミコトは、多くの伴緒を引き連れて天磐船で河内の国の哮峯(いかるがのみね)に降臨した。
●その後、大和の国の鳥見の白庭山に拠点を移し、その一帯を支配していた土豪ナガスネヒコを臣下とし、娘のトミヤスビメ(登美夜須毘売、『日本書紀』や『先代旧辞本紀』ではミカシキヤヒメ(御炊屋姫))を娶った。
●二人の間に子が生まれた。ウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)という。物部連、穂積臣、采女臣などはウマシマジノミコトを始祖としている(ただし、『先代旧辞本紀』ではウマシマジノミコトが生まれる前に、ニギハヤヒは亡くなったとしている)
●天孫ニニギ(瓊瓊杵尊)の曽孫にあたるイワレヒコが東征で攻めてきたとき、ナガスネヒコは孔舎衛坂(くさえのさか)で撃退した。そこで、イワレヒコは熊野に回り、背後からナガスネヒコを攻めた。ナガスネヒコが屈服しなかったので、ニギハヤヒは彼を殺害して、イワレヒコに帰順した。


からないのは、ニニギノミコトの降臨以前に天降ったニギハヤヒや義理の兄にあたるナガスネヒコが、イワレヒコの神武東征説話の中でも登場することである。『日本書紀』はイワレヒコが東征を開始したのは、ニニギ降臨の1,792,470余年後としている。神世の時の流れは余人には計り知れない。

紀神話では、高天原から日向国の高千穂峰に天降った後、ニニギはオオヤマツミノカミ(大山祇神)の娘コノハナサクヤヒメ(木花之開耶姫)を娶っている。この二神の間に生まれたのは、海幸彦と山幸彦で知られるホデリホオリで、ホオリの孫がイワレヒコとされている。つまりイワレヒコはニニギの曽孫にあたる。とてもではないが、ニギハヤヒとイワレヒコを同時代の存在とは考えられないが、そこが神話である。

磐船神社のご神体は巨大な磐座
磐船神社のご神体は巨大な磐座
ギハヤヒが天降った河内の哮峰(いかるがのみね)は、北河内郡天野川の上流にある生駒山の北嶺とされている。 その近くの大阪府交野市私市(きさいち)には、彼が乗ってきたとされる天磐船をご神体として祀る磐船神社(いわふねじんじゃ)がある。最近になって、磐船神社から南へ約3kmほどの地点に、ニギハヤヒが移り住んだ白庭山の所在やナガスネヒコの本拠地を示す碑があることを知った。さらにその南約800mほどの矢田丘陵の雑木林の中に、ニギハヤヒの墳墓が築かれていて、その傍に碑が立っているという。

とより、神話に語られる出来事が史実と考えている訳ではない。だが、神話の舞台となった場所がどのようなところなのかは興味がある。そこで、これらの碑の所在を求めて生駒市に出かけて来た。



矢田丘陵の北の端に築かれていたニギハヤヒの墳墓

ギハヤヒの墳墓の所在を知ろうとして、インターネットでいろいろ検索をかけてみたが、なかなか場所が分からない。幸い、”まれびと”さんのHP饒速日命墳墓を訪ねるに、氏が実際に訪れた時の経験が記載され、その中に詳細な道順が記されていたので、それを参考にさせてもらった。

れびとさんの記述では、生駒市総合公園を起点としている。バスでその公園にアクセスするには、近鉄「東生駒」駅前から奈良交通バスが利用できる。あすか野センター行き、白庭台駅行き、ひかりが丘行きの3系統が運行しているが、いずれも総合公園近くの「あすか野団地口」バス停を通過する。

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@近鉄「東生駒」駅 あすか野センター・
白庭台駅・ひかりが丘行き奈良交通バスに乗る
Aほぼ13分で「あすか野団地口」バス停。
下車すると、すぐ近くに生駒市総合公園方面の
標識あり

前10時7分に駅前を出るあすか野センター行きバスに乗った。バスは国道168号線を北に向かって走っていたが、「稲倉」交差点で右折すると、矢田丘陵の斜面を駆け上っていく。駅前からおよそ13分ほどで、丘陵の頂きにある「あすか野団地口」バス停に到着した。すぐ近くに生駒市総合公園の標識が道路脇に立っている。テニスコートは総合公園の一番奥にあった。


下は、まれびとさんのHPに示された道順を写真で示しておこう。実は、最初のところで道を間違えてしまった。テニスコートの西側のフェンスの外に喫煙所が設けてあり、その先が丘陵の斜面を下る階段になっている。整備された遊歩道のようだったので、こちらの道を下っていったら、排水溝の先に池があって、行き止まりだった。

ニスコートまで戻って調べると、まれびとさんの案内ではコートの北面に沿って進むとある。その道は植え込みの外側にある道とも思えない道だった。半信半疑でその道を進むと、北東の角で排水溝を塞いだ鉄板の並びが見えた。

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Bバス停から徒歩約8分。
総合公園の一番奥にあるテニスコート
Cコートの西面を奥に進み、
北面をコートに沿って回り込む

Dコートの北東の隅で北方向に少し下り、
排水溝を塞いだ鉄板に沿って雑木林へ
E二手に分かれる道の中央に「火の用心」の
赤い標識。右手へ進む。その後も分岐点ごとに
同じ標識が立っているが、いずれも左方向へ
進む

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Fテニスコートの北面から10分ほどで、
高圧線の白い鉄塔の下を通過。
Gところどころに朽ちて倒れかかった枯れ木が
道をふさぐ

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H白い鉄塔から5分ほどで紅白の高圧線
鉄塔に到着
I鉄塔の右手の一段低くなったところに墳墓
あり。その前に細い碑が立っている。


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割石が敷き詰められた墳墓の前に建てられた「饒速日命墳墓」の碑

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ギハヤヒの墳墓へ続く道は、雑木林の中の山道である。うずたかく積もった枯れ葉が昨日の雨で少し濡れていている。丘陵の尾根づたいを這うように続く道にはそれほどアップダウンはない。しかし、ほとんど誰も利用しない道なのだろう、ところどころで朽ち果てた木の幹が横たわっていたり、倒れかかって進路を防いでいる。

印は、上空に張られた送電線の鉄塔である。雑木林の間から見え隠れする鉄塔を目指せば、墳墓のところにたどり着ける。墳墓は紅白に塗った鉄塔の右手にあった。一段低くなったところに、割石で覆った小さなマウンドがあり、その前にひょろ長い石碑が建っている。正面にまわると「饒速日命墳墓」と彫られていた。

とより天神の子の亡骸がこのような場所に埋葬されたはずはない。『先代旧辞本紀』に記されたように、亡骸は天上世界に引き上げられ、代わりに天羽羽弓(あまのははゆみ)などの神宝が埋められたのかもしれない。だが、なぜこの場所と判明したのか?

れびとさんは、大正3年に郷土の伝承保存を目的に発足した「金鵄会(きんしかい)」が作成した「金鵄発祥の史蹟考」を参考資料として添付して、墳墓制定のいきさつを示しておられる。それによれば、この地に山伏塚と稱する古墳が存在したが、「山伏」は「山主」が転訛であり、山主は白庭山の故主であるニギハヤヒと解されるので、この塚をニギハヤヒの墳墓としたという。はたしてどうであろうか。 、



ナガスネヒコの根拠地は白庭山にあった?

隣接して立つ二つの碑の所在地
隣接して立つ二つの碑の所在地
ガスネヒコの根拠地に建てられたという碑の所在も、なかなか見つからなかった。やっとHP「ZOUのイメージ歴史観」の中のエミシヲヒタリモモナヒト-那賀須泥毘古で、碑の写真とMapFanの地図が表示されていたため、だいたいの場所は目星がついた。しかし、所在地の番地も何も表示してない。これでは、現場近くを訪れて、地元の住民に聞いてみるしか手はない。

記のHPの写真と地図から判断すると、ニュータウンの白庭台2丁目近くにある池の畔に碑が立っているようだ。取りあえず「あすか野団地口」バス停から白庭台駅行きのバスに乗って、けいはんな線の「白庭台」駅に出た。そこから白庭台ニュータウンの2丁目まで歩いて、池の近くまで行った。

「白谷」バス停の傍に、貯水池があった。たまたま犬の散歩で通りかかった婦人に池の名を聞いてみた。鳥浦池だった。池で釣り糸を垂れている二人連れの姿が目に入ったが、周囲を見回しても、石碑らしいものは見あたらない。婦人も知らないという。

くのT字路交差点の傍に新聞の取次店があった。立ち寄って聞いてみたが、店員も知らないという。他に貯水池がないか確認すると、バス通りからは民家の陰になって見えないが、鳥浦池の近くにもう一つ池があるという。その店員は親切にも付近の地図をコピーして渡してくれた。


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池の縁に建つ「長髄彦本拠」の碑 同碑の拡大

指す石碑はその池のほとりにあった。碑の正面に立つと、確かに「長髄彦本拠」と彫られている。ニギハヤヒの墓で見かけたのと同じ細長い碑である。判読できないが、同じように碑の下部に浪華□□□□と刻まれているようだ。

の付近は矢田丘陵の北の外れである。西側を天野川が国道168号線に沿って北流し、逆に西側のニュータウンの東側を富雄川が南流している。つまり、天野川を下れば、およそ3kmほどのところに磐船神社があり、現在の交野市から枚方市を通って淀川に通じる。富雄川を南に下れば、ニギハヤヒを祭神として祀る登弥神社の脇を通って、法隆寺の先で大和川に合流する。

ようによっては、ナガスネヒコはうまい所に拠点を構えていたとも言える。2つの水系を通して大和盆地東部の南北と押さえることができる。西の備えは生駒山地である。生駒の山頂に立てば、西から攻めて来る敵を望見できる。地の利を得たナガスネヒコは、イワレヒコの軍勢を孔舎衛坂(くさえのさか)で上から押し返すことができた。


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白谷垣内集会所 集会所の敷地に立つ「鳥見白庭山」の碑

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の付近は宅地造成で変貌を遂げた白庭台ニュータウンの一角だと思っていたが、町名は生駒市上町(かみまち)である。「長髄彦本拠」の碑がある貯水池の西側に平屋の白谷垣内集会所ある。驚いたことにその敷地に「鳥見白庭山」と彫られた碑が建っていた。碑の下部は生け垣に隠れて見にくいが、確かに白庭山と書かれている。

近を見渡しても、山と呼べるほどのものはないが、ひょっとしたら矢田丘陵の北端あたりを指す地名だったかもしれない。現在は白庭山が白庭台というニュータウンの名称に変わっている。ニギハヤヒは天磐船(あめのいわふね)で河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天降った後、大和の国の鳥見の白庭山に移ったとされている。ということは白庭山は鳥見という地域の中に位置していた。

見は「とみ」である。『古事記』ではナガスネヒコを登美能那賀須根毘古(とみのながすねひこ)または登美毘古(とみひこ)と表記している。『日本書紀』は面白い地名語源説話を載せている。長髄(ながすね)というのは、もともと邑(むら)の名前だったが、イワレヒコの弓に止まった金鵄(きんし)に幻惑されて、ナガスネヒコの軍勢が力戦できなかった。そこで、時の人が邑の名前を鵄(とび)の邑に変えた。鳥見(とみ)というのは鵄(とび)が訛ったものだという。




2008/03/16作成 by pancho_de_ohsei return