矢田丘陵の北の端に築かれていたニギハヤヒの墳墓ニギハヤヒの墳墓の所在を知ろうとして、インターネットでいろいろ検索をかけてみたが、なかなか場所が分からない。幸い、”まれびと”さんのHP饒速日命墳墓を訪ねるに、氏が実際に訪れた時の経験が記載され、その中に詳細な道順が記されていたので、それを参考にさせてもらった。 まれびとさんの記述では、生駒市総合公園を起点としている。バスでその公園にアクセスするには、近鉄「東生駒」駅前から奈良交通バスが利用できる。あすか野センター行き、白庭台駅行き、ひかりが丘行きの3系統が運行しているが、いずれも総合公園近くの「あすか野団地口」バス停を通過する。
午前10時7分に駅前を出るあすか野センター行きバスに乗った。バスは国道168号線を北に向かって走っていたが、「稲倉」交差点で右折すると、矢田丘陵の斜面を駆け上っていく。駅前からおよそ13分ほどで、丘陵の頂きにある「あすか野団地口」バス停に到着した。すぐ近くに生駒市総合公園の標識が道路脇に立っている。テニスコートは総合公園の一番奥にあった。 以下は、まれびとさんのHPに示された道順を写真で示しておこう。実は、最初のところで道を間違えてしまった。テニスコートの西側のフェンスの外に喫煙所が設けてあり、その先が丘陵の斜面を下る階段になっている。整備された遊歩道のようだったので、こちらの道を下っていったら、排水溝の先に池があって、行き止まりだった。 テニスコートまで戻って調べると、まれびとさんの案内ではコートの北面に沿って進むとある。その道は植え込みの外側にある道とも思えない道だった。半信半疑でその道を進むと、北東の角で排水溝を塞いだ鉄板の並びが見えた。
目印は、上空に張られた送電線の鉄塔である。雑木林の間から見え隠れする鉄塔を目指せば、墳墓のところにたどり着ける。墳墓は紅白に塗った鉄塔の右手にあった。一段低くなったところに、割石で覆った小さなマウンドがあり、その前にひょろ長い石碑が建っている。正面にまわると「饒速日命墳墓」と彫られていた。 もとより天神の子の亡骸がこのような場所に埋葬されたはずはない。『先代旧辞本紀』に記されたように、亡骸は天上世界に引き上げられ、代わりに天羽羽弓(あまのははゆみ)などの神宝が埋められたのかもしれない。だが、なぜこの場所と判明したのか? まれびとさんは、大正3年に郷土の伝承保存を目的に発足した「金鵄会(きんしかい)」が作成した「金鵄発祥の史蹟考」を参考資料として添付して、墳墓制定のいきさつを示しておられる。それによれば、この地に山伏塚と稱する古墳が存在したが、「山伏」は「山主」が転訛であり、山主は白庭山の故主であるニギハヤヒと解されるので、この塚をニギハヤヒの墳墓としたという。はたしてどうであろうか。 、 |
ナガスネヒコの根拠地は白庭山にあった?
上記のHPの写真と地図から判断すると、ニュータウンの白庭台2丁目近くにある池の畔に碑が立っているようだ。取りあえず「あすか野団地口」バス停から白庭台駅行きのバスに乗って、けいはんな線の「白庭台」駅に出た。そこから白庭台ニュータウンの2丁目まで歩いて、池の近くまで行った。 「白谷」バス停の傍に、貯水池があった。たまたま犬の散歩で通りかかった婦人に池の名を聞いてみた。鳥浦池だった。池で釣り糸を垂れている二人連れの姿が目に入ったが、周囲を見回しても、石碑らしいものは見あたらない。婦人も知らないという。 近くのT字路交差点の傍に新聞の取次店があった。立ち寄って聞いてみたが、店員も知らないという。他に貯水池がないか確認すると、バス通りからは民家の陰になって見えないが、鳥浦池の近くにもう一つ池があるという。その店員は親切にも付近の地図をコピーして渡してくれた。
この付近は矢田丘陵の北の外れである。西側を天野川が国道168号線に沿って北流し、逆に西側のニュータウンの東側を富雄川が南流している。つまり、天野川を下れば、およそ3kmほどのところに磐船神社があり、現在の交野市から枚方市を通って淀川に通じる。富雄川を南に下れば、ニギハヤヒを祭神として祀る登弥神社の脇を通って、法隆寺の先で大和川に合流する。 見ようによっては、ナガスネヒコはうまい所に拠点を構えていたとも言える。2つの水系を通して大和盆地東部の南北と押さえることができる。西の備えは生駒山地である。生駒の山頂に立てば、西から攻めて来る敵を望見できる。地の利を得たナガスネヒコは、イワレヒコの軍勢を孔舎衛坂(くさえのさか)で上から押し返すことができた。
付近を見渡しても、山と呼べるほどのものはないが、ひょっとしたら矢田丘陵の北端あたりを指す地名だったかもしれない。現在は白庭山が白庭台というニュータウンの名称に変わっている。ニギハヤヒは天磐船(あめのいわふね)で河内の国の哮峰(いかるがのみね)に天降った後、大和の国の鳥見の白庭山に移ったとされている。ということは白庭山は鳥見という地域の中に位置していた。 鳥見は「とみ」である。『古事記』ではナガスネヒコを登美能那賀須根毘古(とみのながすねひこ)または登美毘古(とみひこ)と表記している。『日本書紀』は面白い地名語源説話を載せている。長髄(ながすね)というのは、もともと邑(むら)の名前だったが、イワレヒコの弓に止まった金鵄(きんし)に幻惑されて、ナガスネヒコの軍勢が力戦できなかった。そこで、時の人が邑の名前を鵄(とび)の邑に変えた。鳥見(とみ)というのは鵄(とび)が訛ったものだという。 |