橿原日記 平成20年3月13日

登弥神社(とみじんじゃ)物部氏の祖神・饒速日命(ニギハヤヒのミコト)を祀る神社


天皇家に匹敵する天孫降臨神話を持つ古代氏族・物部氏

紀神話として今に伝えられている「天孫降臨」とは、よく知られているように、天上の国・高天原を治めていた皇祖神アマテラスが、葦原中国(あしはらのなかつくに)の統治のために孫のニニギのミコト(瓊瓊杵尊)を降臨させたという説話である。言うまでもなく、天孫降臨神話やそれに続く神武東征説話は、天皇の国土統治権の淵源を明らかとすることを目的として創作されたものである。

たがって、天皇家の絶対性や尊貴性を強調するために、他の氏族に始祖の降臨神話を認めるわけにはいかない。ところが、記紀編纂の時点で、古代氏族の中に始祖の降臨神話を持つことを許された氏族がたった一つある。他ならぬ物部(もののべ)氏である。

ニギハヤヒのミコト(饒速日尊)
ニギハヤヒのミコト
(饒速日尊)
部氏はニギハヤヒのミコト(饒速日尊)を始祖としている。ニギハヤヒはニニギの兄とされる天孫で、ニニギが日向の高千穂峰に降臨する以前に、アマテラスから10種の神宝をさずかり、天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下った。河内の哮峰は、北河内郡天の川の上流生駒山の北嶺とされている。

の後、ニギハヤヒは生駒山を越えて大和国鳥見(とみ)の白庭山あたりに進出した。そして、付近一帯に勢力を張っていたナガスネヒコ(長髄彦)を服従させて、その統治権を掌握した。さらに、ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、ウマシマジのミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。ニニギの曾孫にあたるカムヤマトイワレヒコが日向から東征してきたとき、ニギハヤヒはイワレヒコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレヒコに抵抗したナガスネヒコを切って帰順したという。

のように、『日本書紀』の神武紀には、ニギハヤヒがイワレヒコより先に大和に鎮座していることが明記されている。そのため、神武天皇の前に出雲系の王権が大和地方に存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などが出されている。


富雄谷に鎮座するニギハヤヒのミコトを祭神として祀る神社

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ニギハヤヒとその子を祀る石切神社
ギハヤヒのミコト(饒速日尊)とその子のウマシマジのミコト(宇摩志麻遅命)を祀っている神社が東大阪市にある。「河内の石切さん」とか「でんぼ(腫物)の神さん」の名で知られている石切神社だ。正式には石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)という。もう5年近く前のことだが、神社の近くで生まれ育った大学時代の知人T.A氏の案内で石切神社に参拝したことがある(平成15年8月2日付け橿原日記参照)。

つべきものはやはり気心の知れた友である。昨年の春、飛鳥遺跡に源流を訪ねる旅で韓国を旅行したとき同室だったH.S氏に、物部氏に興味を持っていると話したら、さっそく先月11日に行われた交野市文化財講座「北河内の古墳」のレジメの写しを送ってくれた。その中に「北河内の古墳に眠る豪族」と題するトピック記事があり、物部氏について興味深い記述があった。

登弥神社付近のマップ
登弥神社付近のマップ
ガスネヒコが勢力を張っていたとされる「鳥見(とみ)」は現在の奈良県生駒市から奈良市・大和郡山市あたりを指すとのことだ。また、奈良市石木町648番地に鎮座する登弥(とみ)神社はニギハヤヒを祀る式内社であり、その神社あたりがナガスネヒコの本拠地「鳥見」の中心地と考えられるという。

良市には、「とみ」がつく古い地名が多く、富、登美、鳥見、登弥、迹見などと表記されている。ニギハヤヒが妻としたトミヤスビメ(登美夜須毘売)もトミのヤスヒメだったのだろう。それはともかく、ニギハヤヒを祀る神社が意外と近くにあると知って、本日は午後から出掛けてきた。

弥神社は奈良市内の石木(いしき)町と言っても、隣の大和郡山に隣接するような場所に鎮座している。富雄川の河岸を、県道7号線(枚方大和郡山線)が通っている。神社はその県道に面していて、近鉄郡山駅から運行している「若草台」行きの奈良交通バスを利用すれば、簡単にアクセスできる。近鉄郡山駅から7つ目のバス停「木島(このしま)」で降りれば、すぐのところだ。

近鉄郡山駅前のバス停 バス停「木島」から見える登弥神社<
近鉄郡山駅前のバス停 バス停「木島」から見える登弥神社

鉄郡山駅前のバス停で若草台行きのバスを待っていると、到着したバスを見て驚いた。普通の車体の半分ほどの超小型バスである。しかも運転手は若い女性だった。乗車して座席の数を数えてみると、一人がけのシートは6個、それに後尾に4人がけのシートがあるだけだ。マイカー時代になって、路線バスを利用するのは、ほとんど地域の老人ばかりのようだ。バス会社も経費を節約するため、さまざまな手を打っているようだ。

山城址の横を抜けたバスは国道7号線に入った。矢田丘陵と西の京丘陵に挟まれて南北に伸びる狭い富雄谷を富雄川が北から南へ貫流している。その右岸に築かれた県道7号線は旧街道であり、道幅が狭い。対向車が来れば、すれ違うこともできない。およそ15分ほどの乗車で「木島」停留所に着いた。バスを降りると、県道が富雄川に向かって左折する角に神社の鳥居が見えた。

式内社の登弥神社
式内社の登弥神社

弥神社は南北に伸びる西の京丘陵の南の先端に鎮座している。正面の鳥居をくぐると、長い参道が丘陵の斜面を登るように一直線に続いている。だが、単なる地道の参道ではなく、途中に八カ所ほど10段たらずの石段が設けられている。参道の両脇は樫などが原生林のまま保存されていて、実に赴きのある、心和む古社である。

木島大明神の灯籠 二の鳥居
木島大明神の灯籠 二の鳥居

弥神社は通称、木島(このしま)明神と呼ばれている。そのことを証明するように、「木島大明神」と彫られた燈籠が参道の両脇に立っている。二の鳥居まで来ると、石段の先の一段高くなった神域に拝殿の屋根が見えてくる。しかし、他に参拝する人影もなく、社殿を囲む鎮守の杜は、リンとした静寂のみが支配する世界だ。

拝殿 拝殿に飾られた絵馬
拝殿 拝殿に飾られた絵馬

社の拝殿は立派である。この神社では二拝二拍手一拝の拝礼を採用している。指定された方法で参拝し、正面を見ると一段高いところに、古色蒼然とした大きな本殿の建物が2つ並んでいる。その横には、向かって右に3つ、左に2つ小さな朱塗りの摂社が見える。拝殿の天井裏を見上げると、絵馬だけでなく様々な舞装束をまとった人物を描いた神額が掲げてある。

登弥神社の本殿 ああああ
登弥神社の本殿 横から見た本殿と境内神社

弥神社略記によると、この地は豪族ナガスネヒコニギハヤヒを奉じて勢力を振い、そのために東征してきたイワレヒコ(=初代神武天皇)が度々苦戦を強いられた土地である。だが、奇しくも瑞鳥金鵄の出現とニギハヤヒの忠誠によって、遂にナガスネヒコを破り大和平定の大業を成し遂げることができた。そこで、イワレヒコは、皇紀4年春2月23日、この場所で皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行したのがこの神社の淵源であるという。

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の神社の神域は、ニギハヤヒの住居または墓所であった白庭山であるとの伝説があるそうだ。後の時代に、ニギハヤヒの子孫である登美連(とみのむらじ)が、ゆかりのこの地に先祖であるニギハヤヒ夫妻と併せて天神地祇を祀ったのが、当神社の創建であると伝えられている。創建時期が何時だったかは不明だ。しかし、慶雲2年(704)に枚岡明神の春日遷幸の折、この地で暫し休まれたのが機縁で、和銅年間に春日明神を勧請したとの記録が残っているそうだ。そのため、奈良時代よりかなり以前にすでに創建されていたと考えられている。

社略記に依る限り、登弥神社は最初からニギハヤヒを祭祀するために創建された神社ではない。当初は皇祖天神を祀っていたが、後にニギハヤヒを合祀したようだ。瑞垣に囲まれた2つの社殿のうち、向かって右側の東本殿には高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と誉田別命(ほむだわけのみこと)が祀られている。向かって左側の西本殿には、神皇産霊神(かむむすびのかみ)と登美饒速日命(とみのにぎはやひのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)がそれぞれ祀られている。 さらに左右の小宮には、摂社として天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受比賣神(とようけひめのかみ)など十七柱の神を合祀、併せて二十二柱の神々を奉斎している。


富雄丸山古墳:4世紀後半に築造された近畿地方で最大の円墳

富雄川に架かる登弥橋 富雄川に架かる丸山橋
富雄川に架かる登弥橋 富雄川に架かる丸山橋

弥神社のすぐ近くを、富雄川が南に流れており、登弥橋が架かっている。この橋付近から県道7号線(枚方大和郡山線)が富雄川の右岸を川上に向かって北西方向に築かれている。登弥橋の上に立って北西方向を眺めると、矢田丘陵が東にせり出しているのが見える。その先端に、4世紀後半に築造された直径86mの近畿地方で最大の円墳・富雄丸山古墳(所在:奈良市大和田町丸山)が築かれている。

「丸山橋」バス停付近から見た富雄丸山古墳
「丸山橋」バス停付近から見た富雄丸山古墳
古墳周辺の住居表示
古墳周辺の若草台丸山住宅案内図
弥橋から古墳までは、およそ1,6キロの距離である。ついでだから、見学して行くことにした。アクセスには、近鉄郡山駅あるいは近鉄富雄駅から運行している奈良交通バスの「若草台」行きを利用すればよい。最寄りの駅は、終点一つ前の「若草台中央」のバス停だ。だが、バスの便は一時間に一本程度の運行で、次のバスはなかなか来ない。徒歩でアクセスすることにした。

道7号線は道幅が狭いため、一方交通に制限されている。車の流れに逆らって15分ほど歩くと丸山橋のたもとに出た。橋の上から西の方角を見ると、丘の脇が一部削られて道路が築かれ、その南から西にかけて新興住宅地が広がっている。富雄丸山古墳は丘を成形して造営されているようだ。

雄丸山古墳は、大和盆地に築かれた古墳の中でも特異な存在らしい。通説では、大和のの古墳は、3世紀中頃から盆地東南部の三輪山麓に巨大な前方後円墳が出現したのが始まりとされている。その周辺で大・中・小の古墳が次々に築かれたが、4世紀後半になると、墓域が大和盆地の北部に中心が移動して、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の西群と呼ばれる巨大前方後円墳が築かれる。

丸山古墳のイメージ
丸山古墳のイメージ
雄丸山古墳は、大和盆地の北西部を南北に走る矢田丘陵から東に派生した独立の丘を利用して築かれているが、その時期も4世紀後半と推測されている。しかし、佐紀盾列古墳群で次々と巨大前方後円墳が築かれている時期に、なぜか直径86m、高さ10mと推定できる畿内では最大級の円墳として造営されている。しかも、周辺には他に目立つ古墳がなく、いわば単独で存在している。

の古墳は、宅地開発による事前調査で、昭和47年(1972)に発掘調査が実施された。埋葬施設は粘土槨で、南北方向を中心軸として2段に掘り込まれた墓壙(ぼこう)の内部に設けられていた。棺は残っていなかった。だが、粘土の床に残されていた窪み跡から推測して、長さ6.9m近い長大な竹割り形木棺が据え付けられていたようだ。

の古墳は明治12〜13年頃に盗掘が行われたようだ。そのため、発掘調査の時出土した副葬品はほどんどかき回された土の中から見つかっている。主な物に、管玉、鏃形石などの玉・石製品、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、鉄鑓、短甲などの武器・武具類の破片、斧、ヤリガンナ、鋸形鉄製品、錐・鑿形鉄製品、鍬先、鎌、刀子、ヤスなどの農耕具・漁具があった。その他に、巴形銅器、筒形銅製品、銅鏃などの銅製品も見つかっている。埴輪は墳頂上に配置されていたと思われ、その破片も出土している。

古墳の脇を南北に抜ける遊歩道 遊歩道には落ち葉が堆く散乱
古墳の脇を南北に抜ける遊歩道 遊歩道には落ち葉が堆く散乱

雄丸山古墳から出土したと伝承されている遺物が京都国立博物館に保管されていて、その中には重要文化財に指定されているものもある。明治時代に盗掘されたものが、古物商や好事家の手を経て博物館へまわってきたと推測されている。さらに、天理参考館や地元の弥勒寺が所蔵する舶載の三角縁神獣鏡4面も、この古墳から出土したとされる伝承品である。

丸山第一号街区公園 古墳を取り巻く金網のフェンス
古墳の北側にある丸山第一号街区公園 古墳を取り巻く金網のフェンス

うしたことから、この古墳は知る人ぞ知る古墳として専門家の間では知れ渡っているようだ。それなりの整備がされていると期待したが、実際は古墳の案内板も見あたらず、墳丘の周りは金網のフェンスが巡らされていて、墳頂への登り口も見つからない。ただ、墳丘を南北に横切る遊歩道があったので、そこを登っていくと、すぐ下りになり、その先が公園に続いていた。誰もいない公園で、年配者がゴルフのアプローチをしていた。

東側から見た富雄丸山古墳
東側から見た富雄丸山古墳
れてみて何もなかった古墳であるが、この古墳には色々と想像を掻きたてる要素がある。一般に言われているように、古墳にはその形態や規模、施設、副葬品などに一定の制約があり、被葬者と中央のヤマト王権との関係を示している。その意味では、円墳に粘土槨という埋葬設備を持つ古墳の被葬者は、中央とはいささか距離を置いた存在だったかもしれない。しかし、舶載の三角縁神獣鏡4面をはじめ、さまざまなAクラスの副葬品が埋葬されていた点を考えれば、たいそうな権勢を有していた人物のように思える。あるいはナガスネヒコのように大和王権に逆らった在地豪族の墓だったのかもしれない。


2008/03/14作成 by pancho_de_ohsei return