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| ニギハヤヒとその子を祀る石切神社 |
ニギハヤヒのミコト(饒速日尊)とその子のウマシマジのミコト(宇摩志麻遅命)を祀っている神社が東大阪市にある。「河内の石切さん」とか「でんぼ(腫物)の神さん」の名で知られている石切神社だ。正式には石切剣箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)という。もう5年近く前のことだが、神社の近くで生まれ育った大学時代の知人T.A氏の案内で石切神社に参拝したことがある(平成15年8月2日付け橿原日記参照)。
持つべきものはやはり気心の知れた友である。昨年の春、飛鳥遺跡に源流を訪ねる旅で韓国を旅行したとき同室だったH.S氏に、物部氏に興味を持っていると話したら、さっそく先月11日に行われた交野市文化財講座「北河内の古墳」のレジメの写しを送ってくれた。その中に「北河内の古墳に眠る豪族」と題するトピック記事があり、物部氏について興味深い記述があった。
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| 登弥神社付近のマップ |
ナガスネヒコが勢力を張っていたとされる「鳥見(とみ)」は現在の奈良県生駒市から奈良市・大和郡山市あたりを指すとのことだ。また、奈良市石木町648番地に鎮座する登弥(とみ)神社はニギハヤヒを祀る式内社であり、その神社あたりがナガスネヒコの本拠地「鳥見」の中心地と考えられるという。
奈良市には、「とみ」がつく古い地名が多く、富、登美、鳥見、登弥、迹見などと表記されている。ニギハヤヒが妻としたトミヤスビメ(登美夜須毘売)もトミのヤスヒメだったのだろう。それはともかく、ニギハヤヒを祀る神社が意外と近くにあると知って、本日は午後から出掛けてきた。
登弥神社は奈良市内の石木(いしき)町と言っても、隣の大和郡山に隣接するような場所に鎮座している。富雄川の河岸を、県道7号線(枚方大和郡山線)が通っている。神社はその県道に面していて、近鉄郡山駅から運行している「若草台」行きの奈良交通バスを利用すれば、簡単にアクセスできる。近鉄郡山駅から7つ目のバス停「木島(このしま)」で降りれば、すぐのところだ。
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| 近鉄郡山駅前のバス停 |
バス停「木島」から見える登弥神社 |
近鉄郡山駅前のバス停で若草台行きのバスを待っていると、到着したバスを見て驚いた。普通の車体の半分ほどの超小型バスである。しかも運転手は若い女性だった。乗車して座席の数を数えてみると、一人がけのシートは6個、それに後尾に4人がけのシートがあるだけだ。マイカー時代になって、路線バスを利用するのは、ほとんど地域の老人ばかりのようだ。バス会社も経費を節約するため、さまざまな手を打っているようだ。
郡山城址の横を抜けたバスは国道7号線に入った。矢田丘陵と西の京丘陵に挟まれて南北に伸びる狭い富雄谷を富雄川が北から南へ貫流している。その右岸に築かれた県道7号線は旧街道であり、道幅が狭い。対向車が来れば、すれ違うこともできない。およそ15分ほどの乗車で「木島」停留所に着いた。バスを降りると、県道が富雄川に向かって左折する角に神社の鳥居が見えた。
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| 式内社の登弥神社 |
登弥神社は南北に伸びる西の京丘陵の南の先端に鎮座している。正面の鳥居をくぐると、長い参道が丘陵の斜面を登るように一直線に続いている。だが、単なる地道の参道ではなく、途中に八カ所ほど10段たらずの石段が設けられている。参道の両脇は樫などが原生林のまま保存されていて、実に赴きのある、心和む古社である。
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| 木島大明神の灯籠 |
二の鳥居 |
登弥神社は通称、木島(このしま)明神と呼ばれている。そのことを証明するように、「木島大明神」と彫られた燈籠が参道の両脇に立っている。二の鳥居まで来ると、石段の先の一段高くなった神域に拝殿の屋根が見えてくる。しかし、他に参拝する人影もなく、社殿を囲む鎮守の杜は、リンとした静寂のみが支配する世界だ。
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| 拝殿 |
拝殿に飾られた絵馬 |
神社の拝殿は立派である。この神社では二拝二拍手一拝の拝礼を採用している。指定された方法で参拝し、正面を見ると一段高いところに、古色蒼然とした大きな本殿の建物が2つ並んでいる。その横には、向かって右に3つ、左に2つ小さな朱塗りの摂社が見える。拝殿の天井裏を見上げると、絵馬だけでなく様々な舞装束をまとった人物を描いた神額が掲げてある。
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| 登弥神社の本殿 |
横から見た本殿と境内神社 |
登弥神社略記によると、この地は豪族ナガスネヒコがニギハヤヒを奉じて勢力を振い、そのために東征してきたイワレヒコ(=初代神武天皇)が度々苦戦を強いられた土地である。だが、奇しくも瑞鳥金鵄の出現とニギハヤヒの忠誠によって、遂にナガスネヒコを破り大和平定の大業を成し遂げることができた。そこで、イワレヒコは、皇紀4年春2月23日、この場所で皇祖天神を祀り、神恩に感謝の祭を斎行したのがこの神社の淵源であるという。
この神社の神域は、ニギハヤヒの住居または墓所であった白庭山であるとの伝説があるそうだ。後の時代に、ニギハヤヒの子孫である登美連(とみのむらじ)が、ゆかりのこの地に先祖であるニギハヤヒ夫妻と併せて天神地祇を祀ったのが、当神社の創建であると伝えられている。創建時期が何時だったかは不明だ。しかし、慶雲2年(704)に枚岡明神の春日遷幸の折、この地で暫し休まれたのが機縁で、和銅年間に春日明神を勧請したとの記録が残っているそうだ。そのため、奈良時代よりかなり以前にすでに創建されていたと考えられている。
神社略記に依る限り、登弥神社は最初からニギハヤヒを祭祀するために創建された神社ではない。当初は皇祖天神を祀っていたが、後にニギハヤヒを合祀したようだ。瑞垣に囲まれた2つの社殿のうち、向かって右側の東本殿には高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と誉田別命(ほむだわけのみこと)が祀られている。向かって左側の西本殿には、神皇産霊神(かむむすびのかみ)と登美饒速日命(とみのにぎはやひのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)がそれぞれ祀られている。 さらに左右の小宮には、摂社として天照大神(あまてらすおおみかみ)、豊受比賣神(とようけひめのかみ)など十七柱の神を合祀、併せて二十二柱の神々を奉斎している。
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