メディアが突然伝えた奇妙なニュース
読売新聞のインターネット版YOMIURI ONLINEは、2月28日の午後「蘇我蝦夷「畝傍の家」は橿原遺跡付近か、出土の瓦から判明」と題する国内ニュースを配信した。蘇我氏三代に関心を寄せている筆者としては、見逃すことができないニュースである。蝦夷の邸宅の所在地が特定できたのならば、これは大きな発見である。
何故特定できたのか知りたくて、さっそく本文に飛びついた。本文の要旨を整理すると、次のような内容だった。
● 皇紀2600年の記念事業として、神宮外苑の整備・拡張工事が行われた。この工事に伴って、昭和13年9月から約3カ年にわたる本格的な発掘調査が、10万平米という広大な面積に対して実施され、縄文時代から平安時代の初頭にいたる橿原遺跡が発見された。
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| 第14号井戸から出土した軒丸瓦 |
● その発掘調査の最中に、畝傍山の東約600mの地点にあった井戸跡から出土した遺物の中に、7世紀前半に焼かれたと思われる直径17cmの軒丸瓦の一部が含まれていた。橿原考古学研究所(橿考研)の清水昭博・主任研究員が70年前に出土したこの瓦を研究したところ、蘇我氏ゆかりの同県明日香村の豊浦(とゆら)寺跡で1977年に出土した瓦と一致した(いずれも京都府宇治市にあった瓦窯で生産されたとみられる)。
● そのため、大化改新で滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷の邸宅として『日本書紀』に記されている「畝傍の家」が、奈良県橿原市の橿原遺跡付近にあった可能性が高いことがわかった。
以上である。この記事を読み終わって、すぐさま様々な疑問が湧いてきた。清水主任研究員の研究で判明したのは、橿原遺跡付近の井戸から出土した軒丸瓦が豊浦寺跡で出土した瓦と同じ物だったということだけである。その事実をもって、蝦夷の「畝傍の家」が出土地点近くにあったと何故言えるのだろうか。
そもそも邸宅跡だったとしたら、しかもそれが瓦葺きの邸宅の跡だったら、かなり多量の瓦がその近辺に埋没していなければならない。だが、この記者のレポートには、その分量には言及していない。さらに言うならば、調査段階で建物の存在を示す柱穴などが見つかっていなければならない。
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| 平成17年3月の島庄遺跡の現説風景 |
次に、畝傍の家が瓦葺きの邸宅だった可能性はまずない。この時代、瓦屋根が葺かれたのは寺院建造物だけである。皇族や豪族の館跡から瓦が出土したという例は聞かない。蘇我馬子の館跡とされる島の庄遺跡でも、入鹿が建てた谷の宮門(はざまのみかど)の跡に比定されている甘樫丘東麓遺跡でも瓦は出土していない。643年に完成した皇極女帝の新宮殿すら板葺きだった。板葺きの屋根すら珍しく飛鳥板蓋宮と命名されたくらいだ。
したがって、豊浦寺跡で出土した瓦と同じ瓦が橿原遺跡付近から出土したのであれば、氏族の邸宅ではなく、仏教寺院が近くに存在したのでは・・・と疑ってみるのが先決であろう。
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| 大窪寺の塔心礎 |
現在の橿原市大久保集落の南部に大窪寺跡がある。大窪寺の後身・国源寺の観音堂境内には当時の塔心礎が残っている。大窪寺の創建に関わる史料は残っていない。だが、『日本書紀』には次のような記述がある。
朱鳥元年8月21日、檜隈寺・軽寺・大窪寺に食封それぞれ百戸を、30年を限り賜った。
朱鳥とは天武天皇15年7月20日に改元した新しい年号で、西暦686年にあたる。因みに、改元した翌月、天武天皇は病に倒れ、9月9日、ついに癒えず、正宮で崩御された。
檜隈寺・軽寺・大窪寺はいずれもその当時飛鳥付近に存在していた寺である。おそらく創建は数十年はさかのぼるであろう。そうであるならば、蝦夷の「畝傍の家」と大窪寺が近くで併存していた時期があったかもしれない。
史書が伝える蘇我蝦夷の邸宅
『日本書紀』は蘇我蝦夷の邸宅として、次の3カ所について記載している。それぞれについて見てみよう。
蝦夷は「蘇我豊浦蝦夷臣」・「豊浦大臣」と呼ばれていた。これは、蝦夷が「豊浦」の地に居を構えていたことによる。蝦夷の邸宅は、明日香村豊浦の周辺にあったと考えられている。『日本書紀』には、山背大兄皇子が叔父の蝦夷の病気を見舞うために飛鳥に赴いた折りに、豊浦寺に入ったとする記述がある。この記事から、蝦夷の住まいは豊浦寺からさはど離れていない場所にあったことを知ることができる。最近では、小墾田宮跡の一部と推定されていた古宮土壇ちかくの苑池遺構が、蝦夷の豊浦邸のものとする意見も出されている。
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| 平成19年2月の甘樫丘東麓遺跡の現説風景 |
一方、朝鮮半島の情勢がにわかに緊迫の度を高めた皇極元年〈642)4月10日、蝦夷は畝傍の家に百済の王族翹岐(ぎょうき)等を招いている。翹岐は、百済義慈王の子で、この年の正月、義慈王の母親が死に、その後の貴族の抗争から日本に亡命していた。さらに10月には、朝廷における饗応につづいて、陸奥の蝦夷を自らの家に招いている。これらのことからは、大臣蝦夷の畝傍の家が迎賓館としての役割を担っていたことがうかがわれる。
皇極3年(644〉11月、蘇我蝦夷・入鹿(いるか)父子は、甘樫丘の上に邸宅を構えた。当時の人々は蝦夷の邸宅を「上の宮門(うえのみかど)」、入鹿の屋敷は「谷の宮門(はざまのみかど)」と呼んだという。その翌年に勃発した乙巳(いっし)の変で、蝦夷は「上の宮門に火を放ち自害している。甘樫丘に上の宮門を構えた同じ時期、畝傍山の東にも家を建て、池を掘って砦とし、武器庫を建てて矢を蓄えたとされている。この新しい家は、上記の畝傍の家とは別の館であろう。
豊浦寺跡で出土した瓦と同じ瓦を出土した井戸
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| 発見時の第14号井戸の様子 |
豊浦寺跡で出土した瓦と同じ軒丸瓦の一部が見つかったという井戸の存在が気になって少し調べることにした。このような場合、非常に重宝な施設が橿考研付属博物館の中にある。情報コーナーである。
「橿原遺跡の発掘調査で軒丸瓦が見つかった井戸について知りたいのだが・・・」と受付の女性に声をかけると、彼女は間髪を入れず後ろの書棚から分厚い本を引き出して、関連する箇所を教えてくれた。
彼女が示してくれた資料は「奈良県史跡名称天然記念物調査報告書 第17冊 橿原」である。”橿原市畝傍町 橿原神宮神苑施設事業による考古学遺跡の調査”というサブタイトルが付いている。昭和33年12月に奈良県教育委員会が編纂したものである。
その中に掲載された調査日誌によれば、問題の井戸は第14号井戸と名付けられ、昭和14年3月21日から26日にかけて調査されている。場所は、大久保整地参陵道路の下にあった。畝傍中学校生徒などの奉仕隊が付近を整地したあとに上部を露出しているのが発見された。
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| 橿原遺跡と第14号井戸出土地点 |
井戸は木枠で囲った一辺約90cmの四角い形をしており、井戸側の四隅内側に各々柱があり、西南隅の一本を除いて他は3本とも地上に21〜25cmの高さに顔を出していた。井戸内部の表土を取り除いていくと、表土下15cmから50cmの所から土器片・瓦片・木片・小児頭大の礫などが雑然と多量に出土した。表土下50cm内外の所に木の葉が薄く層状に堆積しており、その上の方から飛鳥式の疎瓦片が一個発掘された。
井戸の中は、上から1.8m程の所から厚さ10〜15cmの砂の層が2・3層見られた。さらに、2.06mの深さの所に敷石層があり卵大の小石が6cmの厚さに敷かれ、その上に5個の土器が置かれていたという。
日誌に記された飛鳥式の疎瓦片とは、豊浦寺などで出土する素弁八弁蓮華紋の高句麗系軒丸瓦のことであろう。花弁の模様が先端部で薄くなっているなど豊浦寺出土の瓦と同じ特徴が見られ、同じ窯で焼かれたようだ。
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| 井戸が見つかった付近の現在の町並み |
当時の発掘日誌から知られる事実は上記の通りだ。軒丸瓦は一個しか出土していない。その他に瓦片も少しはあったようだが、その数量は不明である。『日本書紀』の記述が正しいならば、蝦夷の家が畝傍山の東にもあったことは事実のようだが、建物跡の遺構が見つかっていない。したがって、この瓦の出土地点の近くに「畝傍の家」があったと断定はできない。藤原京の時代に、どこかで拾った瓦片を古井戸に捨てた可能性だって想定できるのだ。
橿考研付属博物館では3月23日までの期限で、「藤原京の実態」と題する特別展示を開催している。展示品の中には、第14号井戸から出土した軒丸瓦を含む瓦片が展示されている。また、第14号井戸の井戸枠こそないが、博物館が所蔵する第1・5・8・18号井戸の枠が展示されていて、その大きさには圧倒される。
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