橿原日記 平成20年2月29日


黄金塚古墳:
舎人親王(とねりしんのう)の墓として陵墓参考地に指定されている方墳

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日本書紀編纂の総裁・舎人親王の墓? 宮内庁は陵墓参考地として管理する黄金塚古墳


■ 『続日本紀』の養老4年5月21日の条に、我が国最初の正史『日本書紀』の完成を記した有名な一文がある。
”是より先、一品舎人親王、勅を奉けたまはりて日本紀を修む。是に至りて功成りて奏上す。紀卅巻系図一巻なり。”

■ 養老4年は西暦720年に当たる。天皇の命を受けて日本紀(=日本書紀)編纂局の総裁の任にあった一品の舎人親王(とねりしんのう)が、このたび紀30巻系図1巻を完成したことを奏上した、というのである。学生時代に日本史を学んだものならば、誰でも知っている出来事である。

■ 昨日の産経新聞インターネット版は、舎人親王の墓との伝承がある黄金塚古墳(所在:奈良市田中町字上ノ口575)で行われた奈良市教委の試掘調査で、墳丘南側から石敷きの遺構が出土したことが27日、分かった」と報じていた。実は、4年前の平成16年、この陵墓参考地の前を通る道を拡幅する計画があって、奈良市は宮内庁に用地の提供を求めたことがある。そのため、宮内庁書陵部がこの古墳前面を拝所の部分を調査したところ、立派な石敷きが出土した。そこで、宮内庁はその場所が御陵の一部であるとして、用地の提供を拒否したことがある。

■ 今回、奈良市教委は市道の水道工事に伴って、平成16年に石敷きが出土した場所の南側で6カ所試掘を行なった。そして、そのうち3カ所で10〜30cm大の石を並べた石敷きが見つかった。石敷きは墳丘正面の西約15m地点でも確認されていて、平成16年の調査結果と合わせると、東西30m、南北4mの大きさに石敷きが広がっていたのでは、と推測されている。

■ こうした調査の成果に対して、コメントを求められた橿考研の今尾文昭・総括研究員は「正面を整え、威容を高めたのだろう」と話しているという。『日本書紀』編纂を主導した著名な皇族の墓の噂がある黄金塚古墳を、今まで探訪したことがない。幸い、本日は晴天に恵まれたので、現場を見たくて朝から出かけてきた。

 黄金塚古墳へのアクセスルート

帯解駅正面に掲示されていた周辺地図
帯解駅正面に掲示されていた周辺地図
■ ネットで検索して見たが、黄金塚古墳へのアクセスを分かりやすく説明したサイトはなかった。ただ、最寄りの駅は、JR桜井線の「帯解(おびとけ)」駅で、そこから徒歩20分ほどの距離に位置するとの情報を得た。そこで、「畝傍」駅からワンマンカーに乗った。「帯解」駅までは約42分の乗車時間である。

■ 「帯解」駅は無人駅である。車両の一番前で運転手に切符を渡し、何人かの女学生の後に続いて駅のホームを出た。すると、駅前広場に周辺地図が掲げられていた。近寄って見ると、黄金塚古墳の場所が示されており、そこまでの道順が確認できた。

■ 駅前広場から線路に沿って左手の坂を登っていくと、県道51号線(天理環状線)が線路をまたいでいる。その跨橋のところを右折して、後は道なりに進めばよい。最初の辻のところで、左に折れれば、重要文化財の帯解子安地蔵尊で知られる帯解寺がある。

帯解駅 駅近くの跨橋
帯解駅 駅近くの跨橋

■ 県道51号線を東南方向に歩いて行くと、民家の切れ目に田圃があり、はるか北方に山焼きが終わった若草山が見えた。

県道51号線から北方を望む
 県道51号線から北方を望む

■ やがて行く手前方に鎮守の森が見えてくる。道路の左手に八坂神社の鳥居が立っていて、その神社を通り過ぎた所で、道路が二俣に分かれる。県道は神社の脇を通って右手に続いて行く。そのまま道なりに進めば、国道169号線の「窪之庄」交差点に出る。しかし、左側の道を取ると、国道169号線の「下山」交差点に出るため、国道を少し南に進んで、次の「窪之庄」交差点交差点まで歩かなければならない。

帯解駅 国道169号線の窪の庄交差点
県道51号線沿いの八阪神社 国道169号線の「窪之庄」交差点

■ 「窪之庄」交差点の陸橋を渡って、道路の反対側に出ると、窪之庄の集落の中を細い道が続く。そのまま進むと、やがて左手に神社がある。駅前の地図では、ここも八坂神社になっていて、窪之庄城跡があるらしい。神社を過ぎると、今度は右手に貯水池が見えてくる。貯水池の淵に民家が2軒建っている。その先にミラーがあり、また道が二俣に分かれる。

窪の庄町の集落の中の道 道路脇の貯水池
窪の庄町の集落の中の道 道路脇の貯水池

■ 左の丘陵へ続く坂道を上っていくと、途中に共同墓地があり、その入口に大阪市在住の篤志家が寄贈した可愛い舟形六地蔵が並んで立っている。この付近は竹藪が多い。その中を貫く道を進むと、一軒の廃屋がある。道はその前を左に旋回して続くが、まっすぐ延びる脇道がある。狭いながらもアスファルト舗装されたその脇道に入っていくと、突然黄金塚古墳の前に出た。

竹藪の中に続く市道 やっと見えてきた古墳
竹藪の中に続く市道 やっと見えてきた古墳

 古墳の前には最近発掘調査した形跡なし

黄金塚古墳の正面 古墳の西側
黄金塚古墳の正面 古墳の西側

■ 黄金塚古墳は、帯解丘陵の南斜面に築かれた6世紀末から7世紀頃の古墳とされている。被葬者とされている舎人親王は、天武天皇と天智天皇の第5女・新田部(にいたべ)皇女との間に生まれた第3皇子(『続日本紀』)あるいは第5皇子(『続日本紀』の帝皇系図)とされる人物である。天武天皇5年(676)に生まれ、天平7年(735)に60歳で亡くなっている。したがって、陵墓参考地とするには時代が合わない。

■ それはともかく、古墳は一辺約26mの二段築成の方墳である。墳丘の周りに張り巡らされた石柱によって、この墓が方墳であることがよく分かる。、背後の丘陵と墳丘を区分するために、南を除く三方に空濠を巡らされている。南に面して横穴式石室を有するが、陵墓参考地のため入口は鉄の扉で塞がれ施錠されている。

古墳の東側 古墳の後側
古墳の東側 古墳の後側

■ だが、石室の構造は意外とよく知れ渡っている。記録によると、埋葬施設は榛原石を使った全長約12.5mの磚槨式の横穴式石室を有する。玄室の長さは3m、幅は3.3m、高さは2.6mで、側壁は1.6mまで垂直に積まれ、その上は持ち送りになっている。羨道の長さは9.5m、幅は1.5m、高さ1.3mで、羨道部は長さを3等分するように柱石状の突出部を持つ特異な構造をしているという。玄室、羨道ともに壁面には漆喰が塗られているとのことだ。

産経新聞に掲載された写真 本日見た古墳前の石敷き箇所
産経新聞に掲載された写真 本日見た古墳前の石敷き箇所
■ 上記の産経新聞インターネット版は、奈良市教委の試掘調査で、「墳丘南側から石敷きの遺構が出土したことが27日、分かった」と報じていた。念のためにに、2月28日付け産経新聞で確認すると、”試掘調査で新たに確認された石敷き遺構”の写真まで掲載されていた。こうした写真入りの報道に接すると、読者はたいてい調査が最近実施され、出土した遺構がまだ埋め戻していないものと思ってしまう。どのような状態か見てみたいと、現場を訪れる考古学ファンがいるかもしれない。そうした一人として、筆者も本日訪れてきた。

■ だが、古墳の前には最近試掘調査が行われた形跡がない。写真に示されたような箇所は全に埋め戻され、ずいぶん時間が経っているようだ。雑草がはびこり、落ち葉が散乱している。以前に実施された調査の情報が、新聞記事の穴埋めに用いられ報道だったに違いない。以前にも何回か同じ経験をさせられたが、この記事を書いた記者も5W1Hがニュース記事を書くときの原則であることを失念していたのだろう。まことに迷惑な話しだ。

 舎人親王という人物

窪之庄交差点の歩道橋から眺めた生駒山
窪之庄交差点の歩道橋から眺めた生駒山

■ これを機会に、舎人親王(676 - 735)という人物に興味を抱いて少し調べてみた。上に述べたように天武天皇の第3皇子(または第5皇子)として生を受けた舎人親王は、天武天皇の皇子の中で最後まで生き残り、長命を得た人物として知られている。『続日本紀』から彼の事績を追ってみよう。

●養老2年(718)、一品の位階に昇叙される(43歳)
●養老3年(719)、元正天皇より異母弟の新田部親王と共に皇太子・首皇子(後の聖武天皇)の補佐を命じられる(44歳)
●養老4年(720)、5月に『日本書紀』の完成を奏上する。8月に実力者であった右大臣・藤原不比等が死亡したのに伴い、知太政官事に就任、右大臣(後、左大臣)の長屋王とともに皇親政権を樹立する(45歳)
●神亀元年(724)、首皇子が聖武天皇として即位した際、封500戸を加えられる(49歳)
●天平元年(729)、2月に起こった長屋王の変では、新田部親王と共に長屋王を糾問し、自害せしめた。同年8月、藤原氏出身の光明子の立后を宣言するなど藤原四兄弟政権の成立に協力した(54際)
●天平7年(735)、11月14日、天然痘が蔓延する平城京で生涯を閉じ、太政大臣を贈位される(60歳)

■ 藤原不比等の死後、舎人親王は長屋王に協力して皇親政権を樹立したとされている。しかし、729年の長屋王の変では、長屋王を糾問して自殺に追い込む側にまわっている。どうやら皇族のトップにありながら、この頃から藤原氏にすり寄っていたようだ。そのことは、光明子の立后の際は、藤原四兄弟政権の成立に協力していることからも明らかだ。

■ 天平宝字3年(759)、舎人親王の七男・大炊王(おおいおう)が淳仁天皇として即位すると、天皇の父として崇道尽敬皇帝と追号されている。舎人親王はまた、万葉集に3首を残している歌人としても知られている。例えば、次の1首は彼の作である。
ぬば玉の 夜霧ぞ立てる 衣手の 高屋の上に たなびくまでに (巻9-1706)

■ ちなみに、舎人親王の子孫には臣籍に降下して清原朝臣(きよはらのあそん)の姓を賜ったものがいる。枕草子の作者として知られる清少納言は、清原元輔(908 - 990)の娘である。

 新説:平城宮南東の平城京三条三坊にあった舎人親王の邸宅

■ 橿考研の1階アトリウムで、平城京左京三条三坊六坪から出土した瓦や写真パネルなどが今月半ばまで展示されていた。そのアトリウム展示で、同研究所の近江俊秀主任研究員の「平城京左京三条三坊=舎人親王宅」説が仮説として紹介されていた。上記と関係するテーマなので、その要旨を以下に示しておこう。

舎人親王の邸宅の所在地
舎人親王の邸宅の所在地(*)
■ 近江主任研究員が舎人親王の邸宅跡と推定した場所は、現在の平城宮南東にあたる奈良市大宮町4の区域である。近鉄新大宮駅の南側で、今はマンションなどが建っている。この区域は、かっての平城京左京三条三坊の一角で、当時の佐保川と人工の運河・東堀河にはさまれた約240m四方の土地だった。

■ 橿考研や奈良市教育委員会は、過去20年の間に、この区域の8か所で道路建設などに伴う発掘調査してきた。調査はいずれも小規模なものだったが、その結果を積み重ねると、区域内を分ける道路が見つからず、広大な敷地が一体で利用されていたことが判明した。さらに、この区域では、京都府木津川市にあった官窯・瀬後谷(せごたに)瓦窯で710年代中ごろから720年代に焼かれた瓦が大量に出土している。また、奈良時代中期の太政大臣、藤原仲麻呂邸に関連する「田村殿」「藤原家」と書いた木簡が近くで見つかっている。

■ こうした考古学的知見に基づいて、近江主任研究員は次のように考えたという。すなわち、平城宮以外で当時建てられた瓦葺きの建物は、貴族の邸宅、寺院、あるいは役所のいずれかである。この区域では役所や寺院の遺構はみられない。一方、この時期に広い敷地を持てる皇族や貴族は、舎人親王と左大臣長屋王、それに舎人親王の異母弟の新田部親王の3人だけである。しかし、長屋王と新田部親王の邸宅があった場所はすでに判明している。

■ それとは別に、文献資料上からは、後に淳仁天皇となる皇子の大炊(おおい)王を斜め向かいにあった仲麻呂邸で養育させるなど、舎人親王は藤原氏と緊密な関係だったことが知られている。藤原仲麻呂邸に関連する木簡が近くで見つかったことは、仲麻呂邸と舎人親王邸の位置関係を示している。

■ 以上の論証から、近江主任研究員は「平城京左京三条三坊=舎人親王宅」説を導き出した。和田萃・京都教育大学名誉教授は、考古資料と文献をしっかり押さえた説得力ある説と評価されているとのことだ。

(*) 2007年12月28日付け 読売新聞よりコピー



2008/02/29作成 by pancho_de_ohsei return