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| 法隆寺中門 | 叡福寺太子廟 |
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大阪府太子町字太子にある叡福寺の境内には、北側に磯長山の丘陵を利用した円墳がある。考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいるが、これが『日本書紀』に記す磯長陵である。寺伝では、太子が生前にこの地に廟を造営したと伝えている。推古29年(621)12月、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)大后が没した。その時までには、この廟は完成していたのであろう。大后はこの墓に埋葬された。 『日本書紀』がなにがしかの真実を伝えているなら、きびすを接するように亡くなった太子と妃は、ほとんど殯(もがり)の宮も営まれずに、その月のうちに大后の眠る廟に合葬されたことになる。こうして三人の棺がこの御廟に納められたことで、磯長陵は「三骨一廟」と呼ばれるようになった。
実は3年前の平成17年に一度この集いに参加したことがある(H17/02/22付け 橿原日記)参照)。この三年間で自分の体力がずいぶん落ちたことを自覚している。果たして全区間を踏破できるか自信はなかったが、もう一度歩いてみたいという誘惑には勝てず、参加を申し込んだ。
参考1:太子道スタンプマップ |
聖徳太子の葬送はどのように行われたか
最初に記したように、『日本書紀』は聖徳太子は推古天皇29年(621)2月5日の夜半に亡くなり、その月のうちに磯長陵(大阪府太子町字太子)に埋葬したと記す。 当時の習慣からすれば、大王や皇族が亡くなった場合、本葬の前に、棺に死体を納めて仮に祭る殯(もがり)という葬祭儀礼が行われた。その場所を殯の宮とか喪屋と呼ばれた。遺族は相当期間をそこで喪に服しながら、死者を生前と同様に扱って蘇生を願いつつ、死を確認する過程を重ねたという。
したがって、その月の内に遺骸を埋葬したのならば、殯の宮もそこそこに葬儀が行われたことになり、その背後に何か事件性を想定する歴史家や歴史愛好家がいる。まして、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)と一日違いで病没したのであれば、異常事態があった気配は濃厚だ。最近評判になった八木荘司氏の小説「遙かなる大和」では、蘇我馬子の手の者による毒殺説を採っている。 それはともかく、聖徳太子の葬送の儀礼がどのように行われたかを記した史料は残されていない。太子道を巡るとは、葬送の儀礼を追体験することであると筆者は考えている。疲れ切った足を引きずりながら、その様子を勝手に想像してみた。
葬列の先頭に立って進むのは、邪を払う方相(ほうそう)氏を載せた車である。方相氏とは、4つの黄金の目の仮面をつけ、熊の皮をかぶり、黒い衣に朱の裳をまとい、戈と楯を持って邪気を払うとされた呪師である。その後に、被葬者の棺の載せた車が続く。2台の車の後は、楽器(鼓、大角、小角、金鉦、鐃鼓)の奏楽者や幡を持つ人、楯などの威儀を備える人の列が続く。親王一品の場合、楽器演奏者のみでも254人、幡を持つ人が400人、楯を持つ人が7人と規定されていた。その数合計661人。天皇の場合の規定は記されていないが、その数はもっと多かったにちがいない。 これらの構成人の他に、葬儀参加者が何百人も参加したであろう。その中に、時の天皇だった推古女帝の輿があったかどうかは分からない。だが、太子の長男である山背大兄皇子を筆頭とする諸皇子や残された妃たちの姿は間違いなくあった。大臣・蘇我馬子を筆頭とする諸豪族の長もすべて参加したはずである。彼らは輿で、あるいは騎乗で葬列に参加したものと思われる。したがって、この葬列の数は優に千人は超えていたと見なさざるをえない。このように先導車や霊柩車を先頭に長々と続く葬列が通った道は細い山道であったとは思えない。それなりに車馬が行き交うことができる十分な道幅をもっていたであろう。
参列者たちは、行く手前方に聳える二上山を目にしていたはずである。その山の向こうが西方浄土であるという認識が普及していたとすれば、穴虫峠を越えていく長蛇の列は、まさに太子を冥土に送る旅だった。 |