橿原日記 平成20年2月22日

聖徳太子葬送の道を行く: 
第23回太子道(磯長ルート)をたずねる集いに参加

法隆寺 叡福寺太子廟
法隆寺中門 叡福寺太子廟


 飛鳥時代、推古天皇の摂政の任にあった厩戸皇子(うまやとのみこ)は、仏教広通に大きな足跡を残したため、後世、聖徳太子と尊称されるようになる。『日本書紀』はその太子が推古天皇29年(621)2月5日の夜半に亡くなり、その月のうちに磯長陵(大阪府太子町字太子)に埋葬したと記す。

聖徳太子像  しかし、法隆寺には別の伝承が伝わっている。法隆寺金堂の釈迦像光背銘や中宮寺の天寿国繍帳銘によれば、太子と妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が、推古天皇30年(622)2月に斑鳩宮(いかるがのみや)で病に倒れ、共に病床に伏した。そして、その月の21日、先ず妃が没し、後を追うように翌22日に太子が亡くなったとのことだ。そのため、法隆寺は聖徳太子の薨日を推古天皇30年2月22日としている。

 大阪府太子町字太子にある叡福寺の境内には、北側に磯長山の丘陵を利用した円墳がある。考古学では「叡福寺北古墳」と呼んでいるが、これが『日本書紀』に記す磯長陵である。寺伝では、太子が生前にこの地に廟を造営したと伝えている。推古29年(621)12月、太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)大后が没した。その時までには、この廟は完成していたのであろう。大后はこの墓に埋葬された。

 『日本書紀』がなにがしかの真実を伝えているなら、きびすを接するように亡くなった太子と妃は、ほとんど殯(もがり)の宮も営まれずに、その月のうちに大后の眠る廟に合葬されたことになる。こうして三人の棺がこの御廟に納められたことで、磯長陵は「三骨一廟」と呼ばれるようになった。

参加証  法隆寺では太子の命日である2月22日を「太子の日」として、太子を偲び太子をたずねる集いを毎年開催している。この催しでは、聖徳太子像を先頭にして、法隆寺から叡福寺までの「太子道」を歩く。この太子道は全長がおよそ19キロ(ただし、道路状況が悪い穴虫峠越えは、近鉄大阪線の「二上」駅近くから太子町春日までバスを利用する。したがって実際に歩く距離は15キロほどである)。

実は3年前の平成17年に一度この集いに参加したことがある(H17/02/22付け 橿原日記)参照)。この三年間で自分の体力がずいぶん落ちたことを自覚している。果たして全区間を踏破できるか自信はなかったが、もう一度歩いてみたいという誘惑には勝てず、参加を申し込んだ。


参考1太子道スタンプマップ
参考2太子を偲ぶ会作成「郷土に残る歴史街道」



「太子道」の全行程を写真で綴る

(1)法隆寺南大門に集合

 集合時間、日午前8時30分。集合場所、法隆寺南大門。全ては前回参加した時と同じ。ただ、今回は参加者が120名ほどで、3班に分けられた行列の第2班に割り当てられた。
(2)先頭を行く太子像

 行列の先頭を行く聖徳太子の像。普段は夢殿の中に安置されている。本日この像を担ぐのは、八部衆に扮した寺の関係者たち。

(3)定刻の9時、西門を出て出発

 出発に先立って、寺の関係者の挨拶と注意事項の説明があった。その後、解説者として同行される木下亘氏が紹介された。定刻の9時、太子像を先頭に行列が出発した。境内では高田良信長老の見送りを受けた。
(4)法隆寺西の住宅街の細い道を進む

 法隆寺の西門を出ると、そこは斑鳩町法隆寺西の住宅地。古い民家が軒を連ねる狭い道を、各班の旗を先頭に長蛇の列が続く。
(5)復元の完成間近の藤ノ木古墳

 9時5分、藤ノ木古墳の脇を通る。現在、古墳の復元工事はほぼ完成に近い状態にある。墳丘に柿の木が植えられていた藤ノ木古墳は、今ではすっかり様変わりしてしまった。
3年前に見た藤ノ木古墳

 どちらかと言えば、以前の形の円墳がいかにも古墳らしい。しかし、築造当時の古墳は復元古墳のように大きな土饅頭だったにちがいない。

 法隆寺の西南に鎮座する竜田神社

(6)法隆寺伽藍鎮守の神を祀る神社

 最初に向かったのは、法隆寺の西南に鎮座する竜田神社。9時20分、神社に到着。社伝によると、法隆寺建立の際に、この神社の神のお告げに従って寺地を選定したという。よって、法隆寺伽藍の鎮守として長らく祀られてきた。

 境内では、斑鳩町の副町長が町長のメッセージを代読。その後、木下解説員の最初の史跡紹介があった。
(7)斑鳩町町長のメッセージを代読する副町長

 神社の北方約200mにある御坊山で、7世紀中葉前後に築かれた3基の古墳が見つかっている。法隆寺の造営者かその有力な関係者、あるいは上宮王家ゆかりの人物の墓と思われる(3号墳の石槨は橿考研の前庭に保管・展示されている)。

(8)太子像はお車へ

 聖徳太子像は目的地まで、行列の先頭を担がれて行くものとばかり思っていたが、そうでもないらしい。竜田神社から次の達磨寺までは、途中の道が狭かったり、交通量の激しい通りを行くため、葛下(かつげ)川の堤防までは、車で運ばれるようだ。
(9)「花小路せせらぎの道」を行く

 9時35分、竜田神社を出発。国道25号線を横断して、一路南へ向かう。小吉田の集落を抜けて行く細い道に、「花小路せせらぎ」の標識が立っている。ビニールで覆われた葡萄園や柿などの果樹園を左右に見ながら進む田舎道である。

(10)大和川の堤に出る

 午前10時少し前、竜田川にかかる橋を渡って神南3丁目の住宅街に入る。狭い道を右に左に折れながら進む。やがて、大和川の右岸に出る。
(11)昭和橋を渡り、王寺町に入る

 10時10分、大和川に架かる国道25号線の昭和橋を通る。対岸に見えてきたのは王寺町の町並みである。

 片岡尸解仙(しかいせん)説話に因んで創建された達磨寺

(12)葛下(かつげ)川の左岸

 王寺市内に入ると、交通の激しい国道168号線の歩道を歩いて行列は進む。王寺跨線橋を渡り、さらに達磨橋を渡って、葛下川の左岸に出た。堤防の上で太子像は車から降ろされ、ふたたび行列の先頭に立った。
(13)10時30分、達磨寺に到着

 王寺町の本町一丁目の住宅街を抜けて、次の休息地になっている片岡山達磨寺に到着。達磨寺は臨済宗南禅寺派の寺で、第十九番の聖徳太子遺跡霊場でもある。 『日本書紀』推古天皇21年(613)に記された片岡尸解仙(しかいせん)説話に因んで創建されたという。

(14)聖徳太子と縁の深い達磨寺

 達磨寺に到着すると、太子像が本堂の前に置かれ、法隆寺僧たちの読経が行われた。『日本書紀』には、推古天皇21年(613)12月1日の条に次のような説話を伝えている。

 太子が片岡に遊行された際、一人の飢人が道のほとりに倒れていたのを見つけ、食物を与え、自分の衣装を脱いで飢人にかけてやった。後日、つかいを遣わして飢人の様子を見させると、すでに死んでいたので、太子は飢人を手厚く埋葬し、塚を立ててやった。だが、後で墓を開けて調べると、不思議なことに飢人の屍(かばね)は無くなっていて、衣服だけは丁重にたたんで棺の上に置かれていた。

 奈良時代になると、この飢人が実は達磨だったと見なされるようになった。
(15)本堂真下の3号分から出土した石塔

 達磨寺が築かれる以前に付近に古墳が築かれた。現在境内から3基の古墳が見つかっていて、達磨寺古墳群と呼ばれている。

 1号墳と2号墳は本堂の北東にある木立付近に南北に並んで築かれている。3号墳は本堂の真下に位置している。本堂の建て替えの時調査したところ、その中心から石塔埋納遺構が出土した。

 その中に、高さ74cm、幅32cmの凝灰岩製の石塔を埋納してあった。さらに、石塔の中には水晶でできた高さ2.5cmの五輪塔の舎利容器と舎利があった。 現在、本堂にこの石塔と舎利が展示されている。

(16)達磨寺古墳群の中の1号墳

 本堂の北東にある1号墳は石室が開口していて、中をのぞき見ることができる。達磨寺古墳群を構成する3基の古墳は、土器などの出土遺物からいずれも6世紀後半の築造と推測されている。
(17)片岡王寺の寺跡に建つ王寺小学校

 11時ちょうどに達磨寺を出発。近くの国道168号線を跨ぐ歩道橋から、達磨寺と反対側にある王寺小学校の校舎を見ることができる。

 王寺小学校の地下から、この地域では最も早い創建された寺跡が見つかっている。南面する四天王寺式伽藍配置の寺で、出土した瓦から7世紀代の創建と考えられている。

 飛鳥時代創建の尼寺廃寺(にんじはいじ)跡

(18)尼寺北廃寺の塔跡

 香芝市の尼寺(にんじ)2丁目で、香芝教育委員会が史跡尼寺廃寺跡の整備工事を行っていた。この尼寺廃寺跡は、、飛鳥時代の末に創建され、東面する法隆寺式伽藍配置だったが、平安時代初期に焼失した。寺域全体は、東西約100m、南北約130mと推定され、法隆寺から大阪府太子町へ通じる旧「太子道」に面している。

 1995年の発掘調査では塔の土壇の上面が取除かれ、塔礎石が出土し、更に地下から、心礎が発掘された。塔の心礎はは3.8メートル四方で、日本最大級の心礎である。基壇は約13メートル四方。この大きさから塔は法隆寺の五重塔(約32メートル)を上回る規模だったと推定されている。その塔跡に立って、木下氏と香芝市教育委員会の山下氏が遺跡の概要を解説した。
(19)東側に位置する中門跡を発掘調査中

 この寺跡の発掘調査は平成8年から行われてきた。出土した瓦から650〜660年頃に創り始め、690年頃に完成したと指定されてる。近くにもう一つ廃寺跡があり、区別するためにこちらを尼寺北廃寺、もう一方を尼寺南廃寺と呼んでいる。

 当時鐘の音が聞こえるほど近くに建立された2つの寺は、僧寺と尼寺の関係にあった。奈良時代には国分寺と国分尼寺として全国に建てられたことが知られている。しかし、飛鳥時代には飛鳥寺と豊浦寺、斑鳩寺と中宮寺以外には知られていない。

 だが、尼寺南・北廃寺の存在から、飛鳥時代に蘇我氏や上宮王家に匹敵する寺を建立できた一族が、この付近に盤踞していたと推定される。山下氏は、それが忍坂彦人皇子から続く茅淳王など敏達系の王族だったのでは、と推測されている。 。

 正福寺で昼食休憩

(20)香芝IC脇にある正福寺の浄苑

 12時10分前に尼寺北廃寺跡を出発。太子道を南に向かって進む。前方に西名阪自動車道の橋脚が見えてくる。一行が向かったのは高速道路の香芝IC脇にある正福寺の浄苑である。そこの庫裏で昼食と取ることになっていた。
(21)境内で昼食をとる参加者

 正福寺の庫裏は、寺関係者も含めると140人近い一行を収容できるほど大きくはない。庫裏に入りきらなかった参加者たちは境内の思い思いの場所に散って食事を取ることになる。予約制で弁当が支給されたが、みそ汁は全員に振る舞われた。

 志都美(しずみ)神社で平野古墳群の話を聞く

(22)志都美(しずみ)神社の鳥居

 午後1時10分に正福寺浄苑を出発して、高速道路のガードをくぐった。すぐ近くにある武烈天皇陵を遠望しながら、次の休憩所である志都美(しずみ)神社に向かう。

 5分ほどで、志都美神社に到着した。天児屋根命 中筒男命 誉田別命を祭神として祀る神社である。弘仁4年8月9日に藤原鎌足六世の孫・従四位民部少輔片岡綱利によって創建されたと伝えられている。神社の境内で、木下解説員から平野古墳群についての説明があった。
(23)志都美神社の社殿

 平野古墳群とは、香芝市の平野を東に伸びる丘陵の南斜面に築かれた6基の古墳で構成される。しかし、そのうち3基は破壊されて現存していないとのことだ。

 平野古墳群は、7世紀の終期古墳の石室の変遷を時系列的に追うことができる珍しい例だそうだ。また、この古墳群は敏達系王族に関係した奥津城だったと想定されている。特に、平野塚穴古墳は、孝徳・皇極天皇の父にあたる茅淳王の墓と想定する説もあるという。

 穴虫峠を越えて一路太子町へ

(24)香芝市今泉町を行く

 午後1時30分、志都美神を出発。香芝市の今泉の住宅地を縫って穴虫方面に向かう。
(25)太子道の碑

 午後1時35分、太子道の碑の前を通過。

(26)近鉄大阪線「二上」駅付近

 進行方向の左手の丘陵地帯は、大手デベロッパーが開発した香芝市旭ヶ丘の分譲住宅地が続く。午後2時15分、近鉄大阪線の跨橋を過ぎると緩やかな坂道が続く。疲労が溜まった足がそろそろ悲鳴を上げだした。
(27)待機していた3台のバス

 坂道を上りきると、やっと左手に待機しているバスが見えてきた。穴虫交差点から近鉄南大阪線に沿って西に延びる香芝太子線は道幅が狭いのに交通量が多い。歩道が設けられていないので、大勢が隊列を組んで行進するのは危険だ。そのため、穴虫峠越えにはバスが利用されている。

(28)バスで穴虫峠を越える

 穴虫峠を越える香芝太子線は天然記念物の屯鶴峯(どんづるぼう)の傍を通る。電車の線路に沿って走るバスは、10分足らずで大阪府太子町に入り、午後2時40分に、香芝太子線が国道166号線と交わる「春日北」交差点近くでバスを降りる。そこからは、「竹内街道」を歩くことになる。
(29)太子町の「竹内街道」

 「竹内街道」は国道166号線と平行して太子町の住宅街の中を通る道である。きれいに整備された道をたどると、六枚橋近くに太子町役場がある。

(30)太子町役場に到着

 午後2時50分、太子町役場に到着。
(31)太子町役場の会議室で最後の史跡解説

 役場の大会議室で町長の歓迎の挨拶を受ける。その後、木下氏が太子町周辺に展開する磯長谷古墳群・一須加古墳群と古代街道について、3時30分まで30分にわたって最後の講義をされた。

 墓前で行われた太子奉賛の儀式

(32)太子町役場を出発

 午後3時半、木下氏の講義が終わり、太子像を先頭に押し立てて町役場を出発。最後の行程を歩いて叡福寺に向かう。叡福寺までは残り800m。
(33)叡福寺に到着

 午後4時少し前、予定通り叡福寺境内に到着。寺の正面からではなく、脇から境内に入って、そのまま聖徳太子廟の前まで進んだ。

(34)太子廟前での太子奉賛の儀式

 今回の「太子道を訪ねる集い」に参加した全員が太子廟の前に参集した。その群衆が参加する形で、法隆寺の僧侶たちによる太子奉賛の儀式が、厳かに執り行われた。
(35)「太子和讃」の読経

 法隆寺から同行してきた僧たちが、太子廟の前で唱える「太子和讃」の読経の声が、朗々と境内に響き渡った。 今を去ること1386年の昔、聖徳太子とその妃の遺骸を治めた棺を積んだ車を先頭に、穴虫峠を越えてきた葬儀の参列者は、おそらく千人を超す行列だったであろう。彼らもまた、太子廟に安置された2つの棺を前にして、二人の安らかな眠りを祈ったであろうか。

(36)聖霊殿でも行われた同じ儀式

 叡福寺の聖霊殿には、聖徳太子十六歳の等身像が本尊として祀られている。この像は、宮中にあったものを文治3年(1187)に後鳥羽天皇により下賜されたものであるという。そのため、太子廟の前で行われた同じ儀式は二天門の左下にある精霊殿の前でも行われた。
(37)最後に振る舞われた甘酒

 すべての行事が予定通り行われて、最後に参加者全員に甘酒が境内で振る舞われた。帰路はバスで法隆寺まで戻る。途中、近鉄の「二上」駅とJRの「法隆寺」駅に立ち寄ってくれるという。「二上」駅で降ろして貰ってアパートに戻ることにした。

 とにかく参加者に遅れまいとして最後まで行動を共にすることができた。だが、駅の階段を下りるとき、両足のアキレス腱がビンビンと響いた。アパートに戻ったら、湿布薬のやっかいになることは間違いなしだった。



 聖徳太子の葬送はどのように行われたか

八部衆に担がれて太子廟を後にする聖徳太子像
八部衆に担がれて太子廟を後にする聖徳太子像

 最初に記したように、『日本書紀』は聖徳太子は推古天皇29年(621)2月5日の夜半に亡くなり、その月のうちに磯長陵(大阪府太子町字太子)に埋葬したと記す。 当時の習慣からすれば、大王や皇族が亡くなった場合、本葬の前に、棺に死体を納めて仮に祭る殯(もがり)という葬祭儀礼が行われた。その場所を殯の宮とか喪屋と呼ばれた。遺族は相当期間をそこで喪に服しながら、死者を生前と同様に扱って蘇生を願いつつ、死を確認する過程を重ねたという。

 この殯の儀礼が姿を消しはじめたのは、大化の改新以降で、薄葬令によって葬儀の簡素化がすすめられたためとされている。聖徳太子の時代はまだ殯の儀礼は簡素化されていない。極端な例だが、敏達天皇が薨去したとき、その后だった豊御食炊屋姫(のちの推古天皇)は殯の宮を主催し、6年も夫の遺骸と一緒に寝起きを共にしたという。

 したがって、その月の内に遺骸を埋葬したのならば、殯の宮もそこそこに葬儀が行われたことになり、その背後に何か事件性を想定する歴史家や歴史愛好家がいる。まして、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)と一日違いで病没したのであれば、異常事態があった気配は濃厚だ。最近評判になった八木荘司氏の小説「遙かなる大和」では、蘇我馬子の手の者による毒殺説を採っている。

 それはともかく、聖徳太子の葬送の儀礼がどのように行われたかを記した史料は残されていない。太子道を巡るとは、葬送の儀礼を追体験することであると筆者は考えている。疲れ切った足を引きずりながら、その様子を勝手に想像してみた。

 聖徳太子の死後約1世紀後の養老2年(718)に制定された養老令の中の喪葬令が、飛鳥時代の葬送儀礼を踏襲していると仮定すれば、聖徳太子と妃の遺骸の葬送儀礼は、次のよう行われたと想像される。

 葬列の先頭に立って進むのは、邪を払う方相(ほうそう)氏を載せた車である。方相氏とは、4つの黄金の目の仮面をつけ、熊の皮をかぶり、黒い衣に朱の裳をまとい、戈と楯を持って邪気を払うとされた呪師である。その後に、被葬者の棺の載せた車が続く。2台の車の後は、楽器(鼓、大角、小角、金鉦、鐃鼓)の奏楽者や幡を持つ人、楯などの威儀を備える人の列が続く。親王一品の場合、楽器演奏者のみでも254人、幡を持つ人が400人、楯を持つ人が7人と規定されていた。その数合計661人。天皇の場合の規定は記されていないが、その数はもっと多かったにちがいない。

 これらの構成人の他に、葬儀参加者が何百人も参加したであろう。その中に、時の天皇だった推古女帝の輿があったかどうかは分からない。だが、太子の長男である山背大兄皇子を筆頭とする諸皇子や残された妃たちの姿は間違いなくあった。大臣・蘇我馬子を筆頭とする諸豪族の長もすべて参加したはずである。彼らは輿で、あるいは騎乗で葬列に参加したものと思われる。したがって、この葬列の数は優に千人は超えていたと見なさざるをえない。このように先導車や霊柩車を先頭に長々と続く葬列が通った道は細い山道であったとは思えない。それなりに車馬が行き交うことができる十分な道幅をもっていたであろう。

20キロ近い当時の道を千人を超える行列が進むのは大変なことだ。現代でも朝の9時に出発し、途中でバスを利用しても太子廟の前に到着するのは夕方である。当時はおそらく夜明けを待って斑鳩の宮を出発したに違いない。陰暦の2月末は、現代のカレンダーで言えば4月の半ばである。陽気が緩み、山桜が咲き誇る時期になっていたであろう。あるいは春風に乗って飛んできた桜の花びらが、太子の棺の上に舞い降りていたかも知れない。

 参列者たちは、行く手前方に聳える二上山を目にしていたはずである。その山の向こうが西方浄土であるという認識が普及していたとすれば、穴虫峠を越えていく長蛇の列は、まさに太子を冥土に送る旅だった。




2008/02/25作成 by pancho_de_ohsei return