平成20年2月21日

現地説明会の予定がない遺跡の発掘現場


かっての藤原京域で行われている道路建設に伴う緊急発掘

カンアヤメ
在の橿原市や明日香村は7世紀代の王城の地だった。どこを掘っても、当時の王宮や庶民の住居、寺院、道路などの遺構が見つかるという。だが、藤原宮跡など一部の例外を除いて、そのほとんどは民有地の地下に眠っている。そのため、民家の建て替えや道路の新設の時を利用して緊急発掘調査が行われる。それ以外の田園地帯では秋の取り入れが終わった後、春先までの短い期間を利用して田圃を一枚一枚剥がして毎年調査が実施されている。

調査費の予算の関係もあって、行政によって買い上げられた土地以外の発掘の期限は3月末までのようだ。そのため、あちこちで実施された発掘調査の現地説明会や現地見学会が、この時期毎週のようにどこかで行われている。だが、調査が行われた場所の全てで説明会/見学会が催されるとはかぎらない。

白梅
在は情報公開の時代である。調査結果は専門家ばかりでなく一般にも公開することが望ましい。しかし、たいした遺物や遺跡が出土しなければ、説明会/見学会を開いても意味がない。その他にも、民有地の持ち主が説明会/見学会を開催しないことを条件に、発掘を許可する事例もあるようだ。大勢の見学者が押し寄せて周囲の畦や畑の作物が荒らされるのは困る、というのが理由だそうだ。

しぶりに好天に恵まれ、暖かい陽射しが降り注いでいたので、いつものルートを自転車で明日香村に出かけた。すると、以前には気付かなかった場所で県立橿原考古学研究所(橿考研)が発掘調査を行っていた。何の調査か分からなかったので、自転車を降りて現場の様子をしばらく眺めていた。

発掘調査が行われている現場
発掘調査が行われている現場

在作業中の現場をさかんにデジカメに撮している中年の女性がいた。あぜ道を伝って近寄り話しかけると、彼女もまた偶然この場所を通りかかって興味を抱いたようだ。付近の古墳の名前をずいぶん口にしていたから、おそらく熱心な考古学ファンなのだろう。

藤原京の京域
藤原京の京域(出典:中村太一著
「藤原京と『周礼』王城プラン」
女は現場責任者から聞き出した話として、近く予定されている道路工事に先駆けて緊急発掘を行っていること、現場は藤原京の西三坊大路と十一条大路の交差する付近の坊の跡らしいこと、などを教えてくれた。

原京は、現在の奈良県橿原市を中心京域として、我が国で最初に築かれた条坊制(じょうぼうせい)の本格的な中国風都城である。持統4年(690)に着工され、持統8年(694)に完成したので、その年の旧暦12月6日、女帝は飛鳥浄御原宮を発ち、新装なった藤原宮に遷られた。その後、平城京遷都が和銅3年(710)に行われるまで、藤原京は持統・文武・元明の三天皇が君臨した16年間の日本の首都だった。

原京という呼称は近代に作られた学術用語である。『日本書紀』では、この都城のことを「新益京」(あらましのみやこ)と表示している。当初、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)の内側に藤原京があったと想定された岸俊男の説が通説となって、その京域は東西1.1km、南北3.2kmとみられていた。しかし、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定されるようになり、その規模は5.3km四方に達するという。

藤原京の京域に関しては、現在諸説があり、まだ確定していないようだ。仮に京域が5.3km四方だったとすると、その面積は25平方キロ以上に達し、後の平城京(24平方キロ)や平安京(23平方キロ)をしのぐ大きさになる。藤原京の造営を企画した天武天皇がいかに豪放的な君主だったとしても、平城京や平安京をしのぐ王城を築く必要が果たしてあったのだろうか。はなはだ疑問に思う。天武天皇にとっても、大和三山に周囲を守られた土地こそ王城の地としてふさわしかったのではなかろうか。第一、大和三山の頂き付近を横切って大路が築くなどとは、想定する方が異常である。

調査区に散乱する川原石 見つかった建物の柱跡
調査区に散乱する川原石 見つかった建物の柱跡

またま発掘責任者らしい青年が近くにいたので、いろいろ話を聞くことができた。今回の調査は、近々建設が予定されている「橿原神宮東口停車場飛鳥線」という新設道路の敷設地にあたるため、緊急発掘調査を行っているとのことだ。調査地区は古墳時代、川の流路だったようで、川底にあった小石がいたる所に散乱しているという。

鳥時代のころは、この付近の川は埋まってしまったが、湿潤地帯がかなり広がっていたようだ。そう言えば、飛鳥坐神社には大伴御行が詠んだ次の歌の歌碑がある。
●大君は 神にし坐せば 赤駒の はらばふ 田井を 都となしつ (巻19-4260)
【大意】天皇(=天武)は神であらせられるから、赤駒が這って歩いている田を、たちまちに立派な都となされてしまった

南北に貫く路の側溝 詳細なデータを取る作業員
南北に貫く路の側溝 詳細なデータを取る作業員

調査地は、南北方向の西三坊大路と東西方向の11条大路に接する坊付近である。取り立てて目新しい出土遺物が見つかっていないため、現地説明会/見学会は予定していないとのことだ。しかし、その青年は南北方向に走る道路に特に興味を示していた。

本薬師寺の伽藍配置
本薬師寺の伽藍配置
(出典:橿原市のHP>教育と文化)
の路をまっすぐ北に延ばして行くと、本薬師寺の南門の正面にぶつかるという。本薬師寺の創建に関しては、天武9年(680)11月に「皇后、体不予(みやまい)したまふ。即ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ(たつ)」と『日本書紀』に記されている。すなわち、時の天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気治癒のために発願したことに始まる寺である。

かし、その寺域をどのように設定したのかよく分かっていない。条坊制に基づく藤原京のマスタープランが680年時点ですでにできあがっていたのなら、そのプランに従って寺域が選定されたことになる。だが、藤原京の着工は10年後の持統4年(690)である。発掘責任者の青年は、どうやらこの道路が藤原京以前から存在したのでは、と想定しているようだ。そうであれば、この道路の存在を前提として、本薬師寺の位置が決定されたことになる。果たして、史実はどうであろうか。




2008/02/23作成 by pancho_de_ohsei return