橿原日記 平成20年2月21日

医王山金剛寺:
鞍作止利(くらつくりのとり)建立の坂田寺の法灯を継ぐ聖徳太子遺跡霊場


飛鳥歴史公園祝戸地区から阪田の集落を望む
飛鳥歴史公園祝戸地区から阪田の集落を望む (2008/02/21 撮影)


古代の渡来系氏族・鞍作氏の氏寺だった坂田寺について

坂田寺跡周辺の地図
坂田寺跡周辺の地図

■ 現在の景観からは想像すべくもないが、明日香村の阪田にはかって巨大な飛鳥寺院が存在した。渡来系氏族・鞍作(くらつくり)氏の氏寺で、土地の名に因んで坂田寺と呼ばれていた。創建年代は不明だが、飛鳥寺と並んで我が国で最も古い寺院の一つとされいる。天武天皇の時代(672 - 686)には、大官大寺、飛鳥寺、川原寺、豊浦寺と並んで飛鳥の五大寺の一つに数えられたほどの大寺院だった。

■ 創建の由来について、古書はさまざまな伝承を伝えている。『扶桑略記』によれば、6世紀に渡来した鞍作村主・司馬達等(くらつくりのすぐり・しめたちど)が、坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝したという。我が国における仏教礼拝の初見である。『日本書紀』は、司馬達等の子の鞍部多須奈 (くらつくりのたすな) が、用明天皇の病気平癒を祈願して丈六仏像と寺を作ることを願い出たという。だが、仏像や寺が完成する前に天皇は崩御してしまう。

坂田寺跡に立つ解説板<
坂田寺跡に立つ解説板
坂田金剛寺跡の碑
坂田金剛寺跡の碑
■ さらに、『日本書紀』によれば、推古天皇14年(606)4月、多須奈の子の鞍作止利 (くらつくりのとり)が飛鳥寺の金堂に安置する金銅と繍(ぬいもの)の丈六の仏像を完成して納入した。推古女帝は、祖父・達等以来の仏法興隆に尽くした功を褒めて、近江国坂田郡の水田二十町を止利に賜った。止利はこの田を施入して、天皇のために金剛寺を造ったという。金剛寺とは、坂田寺の法号である。

■ このように、鞍作三代にわたる仏教崇拝を背景にして築かれた寺は、当然のことながら飛鳥の重要な寺院だった。飛鳥時代だけではない。奈良時代の初め頃には、この寺は「南淵坂田尼寺」と呼ばれていたことが分かっている。

■ 奈良時代には、信勝尼がこの寺を治めていた。当時は豊浦寺とならぶ代表的な尼寺として隆盛を誇っていたようだ。彼女は、天平9年(737)に経を内裏に進上し、また天平勝宝元年(749)には東大寺に大仏の東脇侍観音菩薩像を寄進したことが分かっている。

現在の坂田寺跡
現在の坂田寺跡
坂田寺跡に建つ万葉歌碑
坂田寺跡に建つ万葉歌碑
■ 平安時代以降は、坂田寺の消息は定かではない。今までの発掘調査で、10世紀の後半には土砂崩れで伽藍が倒壊したことが判明している。『多武峰略記』によれば、承安2年(1172)頃には、多武峰の末寺になっていたようだ。しかし、寺勢はその後次第に衰え、堂宇も荒廃し、礎石は多く持ち去られてしまった。現在では唯わずかに字名を残すのみである。

■ 現在、坂田寺跡には石碑と解説板が立っているだけで、他に見るべきものは何もない。山側から飛鳥川に向かって下る傾斜地がひな壇状に造成してあるだけである。ひな壇の一つに万葉歌碑が置かれている。碑には、万葉学者・故犬養孝の揮毫による柿本人麻呂の次の歌が刻まれている。
●御食向(みけむか)ふ 南淵山の 巌(いはお)には 降りしはだれか 消え残りたる (巻9-1709)

■ 坂田寺跡の調査は、昭和47年(1972)に開始された。主要な調査だけでも十数次に及んでいる。発掘調査は、奈良時代の坂田寺が山の斜面を平坦面に作りだしていたことを明らかにした。東西方向63m、南北方向56mのほぼ正方形の回廊を巡らしていたことも明らかになった。

坂田寺跡の伽藍配置
坂田寺跡の伽藍配置
■ 二重基壇を持つ金堂は、東面回廊に取り付いていた。しかし、中門は金堂の対面、すなわち西側回廊にはなく、北面回廊にあったと推定されている。また、回廊の内側には2棟の基壇建物が配されていたようだが、その規模や性格は分かっていない。

■ 回廊の外側には、金堂の背後に鎮壇具をもつ基壇建物が見つかっており、また回廊の西側には掘立柱建物あった。さらに、伽藍の北部で、井戸や石組み遺構も見つかっている。

■ 平成14年(2002)10月末、住宅の建て替えに伴う発掘調査が行われた。その時には、坂田寺の回廊跡の約40m北側で奈良時代の掘立柱跡と墨書土器が見つかっている。掘立柱跡は一辺が約4m(2間)で、「醤四斗不乃理五斗」と書かれた木簡が出土していることから、倉庫のような建物だったようだ。墨書土器は4点あり、「知識」や「金」と書かれていた。

■ このように、現在までの発掘調査で奈良時代の坂田寺については徐々にその遺構が判明してきた。寺域は飛鳥川近くまであったようだ。残念ながら、飛鳥時代の坂田寺については、ほとんど何も分かって居らず、今後の課題とされている。

 坂田寺の法灯を継ぐとされている医王山金剛寺とは

■ 地図で見ると、稲淵山の急な北側斜面にへばりつくように甍を並べている阪田の集落の外れに、「医王山金剛寺」という寺がある。かっての坂田寺の法灯を今に継いでいて、聖徳太子遺跡霊場であるという。今まで何回か阪田の集落を訪れているが、集落の一番高い場所に築かれたこの寺を訪れたことはない。

■ 古代氏族・鞍作氏のゆかりの寺となれば、一度は訪ねて我が目で見ておくべき寺である。本日は3月下旬なみの陽気に恵まれて暖かい一日だったので、久しぶりに明日香村を訪れた。ついでに山の斜面を自転車を押して金剛寺を目指した。

陽射しを一杯に浴びて元気な彼岸花の葉 村の外れで城郭のように組まれた金剛寺の石垣
陽射しを一杯に浴びて元気な彼岸花の葉 村の外れで城郭のように組まれた金剛寺の石垣

■ この時期、野の雑草や草花はまだ冬眠中で、ブザマな枯れ草を台地に曝している。唯一元気なのが彼岸花だ。濃い緑の葉を精一杯伸ばし、冬の陽射しを一杯に浴びながら光合成に熱中している。光合成で作られた栄養はせっせと球根に蓄えられているにちがいない。他の雑草が新芽を出すころ、これらの葉は役目を終えて枯れてしまう。しかし、秋の彼岸頃には、球根に蓄えられた栄養をもとに、いっせいに茎を伸ばして赤い花を咲かせる。彼岸花の花と葉を同時に見ることはない。

■ 医王山金剛寺は村の外れにあった。山の斜面にへばりついた山の斜面では、村の外れとは村の一番の高所を意味する。集落の中を右に左に蛇行するように続く坂道を登り詰めたところに、城郭を思わすような石垣があった。下から見上げた限りでは、寺には見えない。たまたま石垣の下で洗い物をしていた女性に確認して、そこが目的の寺であることが分かった。

金剛寺のお堂 人気のない庫
金剛寺のお堂 人気のない庫裏

■ 現在は無住の寺だそうだ。石段を登っていくと、山門の扉は開いていた。「聖徳太子遺跡霊場 医王山金剛寺」と書かれた看板が、扉の脇に掛けてある。山門を入ると、左手にお堂が建ち、その横に庫裏が並んでいる。いずれも扉やガラス戸が閉まっていて、人の気配はない。おそらく、法事などの催しがあるときだけ、他の寺から住職がやってくるのであろう。

■ 金剛寺の上手(かみて)は村の共同墓地である。墓地まで登ると、お堂の屋根越しに盆地を一望することができる。市街地の中に浮かんだように見える円錐形の山は耳成山である。その手前右側に香具山が延びている。手前左側には、雷丘と甘樫丘を望むことができる。

金剛寺から奈良盆地を望む
金剛寺から奈良盆地を望む。中央が耳成山、右が香具山、左が甘樫丘・雷丘 

■ 墓石の傍に立って、目の前の眺望を満喫しながら、法灯を継ぐというのはどういう意味なのか考えてみた。少なくとも、こんな集落の一番高いところに、鞍作止利が金剛寺を建立したはずはない。この場所には古い寺跡も古瓦の出土もないという。本来の金剛寺は飛鳥川のほとりの斜面を平坦にして築かれていたことは、すでに発掘調査で確認されている。

■ では、同じ寺の法号を後の時代に建立された寺に冠しただけで、法灯を継ぐと言えるのだろうか。正直なところ、よく分からない。ただ、何となくこの場所が気に入った。司馬達等が阪田に居を構えたのであれば、彼の一族はこの場所で子孫を増やして言ったにちがいない。少年の日の鞍作止利がこの場所まで登ってきて、眼下の真神原を眺めたことが度々あったであろうと想像するのは楽しい。

金剛寺の墓地からの眺め@ 金剛寺の墓地からの眺めA
金剛寺の墓地からの眺め@ 金剛寺の墓地からの眺めA

■ 彼の少年時代、真神原の中心で飛鳥寺の建立が始まっていた。蘇我馬子が一族の威信をかけて築きあげようとしていた本格的な仏教寺院である。後年、その寺の中金堂に安置する釈迦三尊を鋳造することになろうとは、神ならぬ身の止利少年は知る由もなかったであろう。



2008/02/21作成 by pancho_de_ohsei return