橿原日記 平成20年2月16日

萩之本遺跡と川西根成柿遺跡:
出現した弥生時代前期の水田遺構と環濠集落跡


橿原市川西町付近の地図
橿原市川西町付近の地図
■ いつも思うのだが、「橿原神宮前」駅西口の「久米」交差点から新沢千塚古墳群の間を抜けて川西町に向かう県道133号線は、自転車を駆るのに気持ちの良い道路だ。久米南口バス停付近から高取川に架かる益田大橋あたりまでの下り坂が、特に気持ちが良い。屏風のように立ちはだかる葛城・金剛山を前面に見据えながら、坂道を滑降する気分は壮快そのものだ。

■ 新沢千塚古墳群がある丘陵の先を、曽我川が南から北に流れている。その曽我川の西にある川西町で、県立橿原考古学研究所(橿考研)は現在、京奈和(けいなわ)自動車道建設予定地の緊急発掘調査を実施している。去る2月14日、橿考研は萩之本遺跡と名付けられた遺跡で、弥生時代前期(約2300年前)の水田跡や精巧な灌漑(かんがい)施設跡が見つかったと発表した。

県道133号線の先に聳える葛城山
県道133号線の先に聳える葛城山

■ また、萩之本遺跡から500mほど北の川西町と大和高田市根成柿(ねなりがき)にまたがる場所でも、弥生時代前期の環濠集落跡橋の跡を発見したと発表した。この遺跡は両方の町名を取って川西根成柿遺跡と命名された。

■ 本日は午後1時から両遺跡の現地説明会があるというので、愛用の古ぼけたチャリンコで出かけてきた。


川西根成柿遺跡出土の壺
川西根成柿遺跡出土の壺
■ 弥生時代とは、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する日本列島における時代区分の一つである(ただし、北海道と沖縄を除く)。弥生時代という呼称は、明治7年(1884)に現在の東京都文京区弥生から初めて出土した、薄手で赤くて固い素焼きの土器に由来する。

■ 弥生時代の特徴は水稲耕作と金属器の使用にあるとされている。通説では、紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州にこれらの技術を携えた集団が移り住み、水稲耕作を中心とした生活体系が九州から四国、本州へと広がったとされている。

■ 筆者は中学生の頃、弥生時代は今から約2300年前に始まり600年の間続いたと教わった。また600年を3等分して200年ずつを前期・中期・後期と分けていた。しかし、近年ではさまざまな研究動向をふまえ、北部九州で紀元前5世紀中頃に水田稲作を本格的に始めた時期を弥生早期とよび、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。

川西根成柿遺跡出土の蓋付きの壺
川西根成柿遺跡出土の蓋付きの壺
■ ところが、国立歴史民俗博物館は、放射性炭素(C14)測定法で北部九州出土の土器を調べた結果、北部九州の弥生早期は少なくとも紀元前9世紀、弥生前期は紀元前8世紀までさかのぼるとする説を2003年に発表した。

■ この新説は、弥生時代の始まりを従来の説より約500年近くもさかのぼることになる。この説が受け入れられれば、土器の形式による相対年代測定で積み上げられてきた従来の常識が大きく覆されることになる。そのため、学者からは疑問や異論も多く出ていて、まだ学会では公認されていないようだ。

弥生時代の水田遺構と潅漑施設跡が出土した萩之本遺跡

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現地説明会資料
■ 萩之本遺跡は、橿原市川西町を南北に縦断する県道35号線(橿原高取線)の「一町北」交差点の近くにあった。この場所は川西町の南西の隅にあたり、近い将来ここに京奈和自動車道の御所(ごせ)区間が建設される。

■ 午前中晴れていた空が昼過ぎには厚い雲が張り出し、すこし小雪が舞った。説明会の開始が予定されている午後1時の少し前に到着したが、西に聳える金剛山の頂きは雪雲に覆われていた。

■ 発掘現場は水田区画と潅漑施設が出土した区画の2カ所に別れていた。その面積は4000平米に達するという。まずその広大さに驚かされた。今までずいぶん現地説明会に参加してきたが、これほど広い調査地域を見たのは初めてだ。

■ 午後1時ちょうどに説明会が始まり、最初に当時の景観が説明された。このあたりは南の低い山に近い扇状地で、縄文時代の終わり頃には南から北へ流れていた数本の川が栄養分を多く含んだ耕土を築いていたようだ。そこへ弥生人が移り住んできて、水が豊富な土地に着目して水田を営んだと推測されている。

萩之本遺跡の水田区画遠望
萩之本遺跡の水田区画遠望。中程の灰色の溝は弥生時代後期のもの。

■ 水田の耕土は、黄色の砂が帯状に何層にも覆われていた、このことは、水田が営まれた時期に何度か小規模な洪水があったことを推測させる。洪水のたびに水田の復旧作業が必要になるが、その反面、栄養分の多い土が上流から運ばれてきて、土が肥えた水田になっていったようだ。

■ 約40枚の水田が規則正しく並んだ状態で出土した。驚いたのは、水田一面の大きさだ。一つ一つの区画は2.5x4m程度の長方形で、面積は10平米ほどしかない。これは、水田を細かく分けて平坦面を造りやすくした工夫だったのでは、と推測されている。しかも、水田を区切る畦(あぜ)は幅30〜40cm、高さ数cm程度である。畦には所々に切れ目があった。田から田へ水を流すための水口(みなくち)だそうだ。

小区画に区切られた水田 田から田へ水を流す水口
小区画に区切られた水田 田から田へ水を流す水口

■ 現在も発掘現場の周囲には水田が広がっている。現代の水田の耕土をわずか50cmほど剥いだだけで、弥生時代の水田遺構が横たわっていたのだ。その耕土にあたる土には、弥生時代前期の土器が含まれていた。そのため、弥生時代前期(約2300年前)に営まれた水田と推定された。2300年の時間の経過が、わずか50cm程度の耕土を積み重ねたにすぎない事実が、興味深かった。

■ 水田区画から50mほど北には潅漑設備(全長約10m、幅約2m、深さ約1m)が設けられていた。「弥生時代の川」の流れが北から東に曲がる場所に作られた、水田に水を引くための施設だった。その護岸のために、数百本の矢板や杭が長さ約10mにわたって幾重にも打ち込まれている。

潅漑設備の全景
潅漑設備の全景

■ 説明員によれば、「弥生時代の川」と表示した溝は、実は川ではなく、洪水で埋まった川を水路に転用したものだそうだ。一段低くなっている潅漑設備で水路から流れ込んだ水をいったん溜め、さらに下流の水田へ流す水の量を調整していたようだ。潅漑設備は何度か壊れたようで、補修した形跡があった。

潅漑設備−左側 潅漑設備−右側
潅漑設備−左側護岸 潅漑設備−右側護岸

9条の大溝が環濠集落の存在を示す川西根成柿遺跡

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現地説明会資料
■ 萩之本遺跡から北へおよそ500m、橿原市川西町と大和高田市根成柿にまたがる京奈和自動車道建設予定地でも、橿考研は大和高田市の教育委員会と共同で、8000平米の広範囲にわたる地域の発掘調査を実施している。萩之本遺跡で現地説明会に参加した後、県道35号線を自転車で移動した。川西根成柿遺跡と新しく命名された発掘現場でも、午後2時から説明会が行われることになっていた。

■ 一直線に南北に延びる県道35号線の西側は、延々とフェンスが張られて整地作業が進んでいる。この京奈和自動車道の御所区画では、発掘調査の終了を待って本格的な橋梁工事が始まるのだろう。本日見学する2カ所以外でも発掘調査が行われているようだ。調査が終われば、出土した遺跡は埋め戻され、おそらく二度と人の目に触れることはあるまい。

■ 川西根成柿遺跡では水田遺構ではなく、弥生人の集落跡が見つかった。集落跡は南北に約180mに渡って広がっていた。この調査地域では、集落の区画や水路、防御を目的として築かれたと思われる溝も9本見つかっている(最大幅約4m、深さ約1m)。しかし、なにぶんにも東西方向の発掘幅が狭いので、これらの溝がどのように環濠を形作っていたかは、素人目にはよく分からない。

川西根成柿遺跡を見学する考古学ファン
川西根成柿遺跡を見学する考古学ファン

■ 現場説明員の話によると、9条の大溝のうち、居住域と思われる範囲を中心としてその南側と北側を東西方向に走るそれぞれ3本ずつの大溝は、集落が最初に作らされたとき掘られたようだ(大溝1〜大溝6)。調査地の西には北に向かって流れる川があり、これらの大溝はその川に取り付いて環濠を形成していたようだ。6条の大溝の最も内側を走る大溝の間には、それをつなぐ溝(大溝7)も掘られてた。

一番北の端に築かれた大溝9 大溝9に作られた橋脚と柵の出土地
一番北の端に築かれた大溝9 大溝9に作られた橋脚と柵の出土地

■このように、3重の濠に囲まれていたと推測されている居住域は、人口の増加に伴って南側に拡張したようだ。古い大溝を埋めながら、それと同時に2条の大溝(大溝8と9)が集落の南に新たに掘削された。集落の北と南に出入り口が設けられていた。南の出入り口にあたる場所には、大溝9に橋を架けられていた。橋のすぐ南側では、橋が外から見えないように、長さ約8mのL字形の柵が築かれていた。橋跡と柵跡は、集落と外部を明確に遮断した状況を示しており、この時期のものとしては全国的にも珍しいとのことだ。

大溝4と大溝5 発掘現場の西に聳える葛城山(右)と金剛山(左)
東西方向に掘られた大溝4と大溝5 発掘現場の西に聳える葛城山(右)と金剛山(左)

■ 大和高田市の教育委員会が調査を担当している北側の地域では、大溝1から大溝3が見つかっている。しかし北の端にあたる大溝1は、西側の川の流路に繋がっていない。そのため、この場所が集落の北側の出入り口だったのでは、と推測されている。川と溝の間に2列に並ぶ柱穴が見つかっていて、どうやら人の出入りをチェックする柵が設けられていたようだ。

大溝1と流路の間の柵を解説する説明員 大和高田市域の調査現場を撮した航空写真
大溝1と流路の間の柵を解説する説明員 大和高田市域の調査現場を撮した
航空写真(右が北側)

■ 掘っ立て柱建物跡や竪穴式住居跡を示す柱穴は、いずれの穴も浅い。説明員によると、中世に付近一帯の整地が行われ、弥生時代の表土もかなり削り取られてしまったためだそうだ。居住域の外の落ち込みには、土器や石器、木製品の破損品や制作途中で捨てられたものが多数見つかっている。土器や木製品などを製作した形跡も見つかっている。

■ これらの遺物から、今からおよそ2300年前の弥生時代前期に、弥生人がここに住み着いて水田耕作を営んだものと推定されている。しかし、当時としては大規模な農耕集落も、弥生時代前期という時間幅の中で衰退してしまったようだ。衰退の理由は分からない。

 萩之本遺跡と川西根成柿遺跡が明らかにしたこと

川西根成柿遺跡から出土した石製品
川西根成柿遺跡から出土した石製品
川西根成柿遺跡から出土した土器破片
川西根成柿遺跡から出土した土器破片
■ 稲作技術は、弥生時代の早期(実年代で言えば紀元前5世紀)に大陸から北九州に伝わったとされている。それから200年足らずで、奈良盆地にも高度な水利技術を携えた弥生人の集団が出現したことになる。それを如実に実証したのが萩之本遺跡と川西根成柿遺跡である。

■ これまで、奈良盆地で出土した弥生式土器の形式から、盆地内での水田耕作は弥生時代前期までさかのぼるのでは、と推測されていた。萩之本遺跡での水田跡の発見と川西根成柿遺跡での環濠集落跡の発見は、今までの推測を完全に裏書きすることになった。その意義は大きい。

■ では、川西根成柿遺跡で見つかった環濠集落に住んだ弥生人たちが、萩之本遺跡で見つかった水田で水稲栽培に従事したのだろうか。その可能性を説明員に聞いてみた。彼は否定も肯定もしなかった。両遺跡の間には500mの距離があり、いささか離れすぎているのが気にかかるという。調査地域の東西幅は京奈和自動車道の幅に過ぎない。調査地域を東側と西側に拡張すれば、別の遺跡が見つかって、萩之本遺跡の水田を営んだ別の弥生集落が見つかる可能性だってあるようだ。



2008/02/17作成 by pancho_de_ohsei return