秦楽寺:秦河勝
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千手観音像を本尊として祀る秦河勝創建の寺
●推古天皇11(603)年11月、厩戸皇子は諸大夫に対し、「われは尊像を有するが、誰かこの像を恭拝するものはないか」と問うた。その時、河勝が進み出て「臣が拝みまつらん」と答え、この仏像を受けて蜂岡寺を造った。
延喜17年(917)に 藤原兼輔が著したとされる『聖徳太子伝暦』では、物部守屋討伐に河勝は軍充として加わったが、守屋を射殺したのは厩戸皇子の舎人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)としている。いずれにせよ、厩戸皇子が死んで聖徳太子として讃仰されるようになると、さまざまな伝承が付加されてどこまでが史実か分からなくなる。だが、秦河勝が丁未の変に厩戸皇子を守護するために参戦していたとは、筆者にとって新しい情報であり意外だった。
秦河勝と言えば、蜂岡寺の後身とされる京都太秦の広隆寺が有名だが、まさか橿原市の隣町に河勝ゆかりの寺があるとは知らなかった。典型的な西高東低の気圧配置で本日も寒い朝を迎えたが、陽射しがあったので出かけて見ることにした。最寄りの駅は近鉄橿原線の「笠縫(かさぬい)駅」である。「畝傍御陵前」駅から「笠縫駅」は近い。各駅停車で10分たらずの所にある。
やがて前方左手に樹木が生い茂った一画が見え来た。その先に白壁の塀が続いている。白壁の途中に秦楽寺の表門があった。表門は中国風の珍しい土蔵門だった。
また、大同2年(807)に唐から帰国した空海がこの寺で『三教指帰』(さんごうしいき)を著したと伝えられている。『三教指帰』とは五人の人物による対話討論形式で儒教・道教・仏教を論じ、その中で仏教の教えが最善であることを示した出家宣言の書である。しかし、その序文から延暦16年(797)、空海24歳の時の著作であるとされている。 付近一帯は秦庄(はたのしょう)といい、古代には渡来氏族の雄・秦氏の居住地の一つだった。秦河勝が建立した広隆寺は京都の太秦、すなわち当時は葛野(かどの)と呼ばれた所にあり、河勝の本宅もその近くに構えていたはずだ。あるいは厩戸皇子に近侍するために、一族の枝氏が居住するこの地に別業を構えていたのかもしれない。 秦楽寺の「楽」は神楽(かぐら)や猿(申)楽(さるがく)などの「楽」であり、秦楽とは秦の楽人の意味だそうだ。世阿弥が記した能の理論書『風姿花伝』の中で、申楽四座の由来を記した条に、秦楽寺の門前に金春(こんぱる)屋敷があり、金春家は河勝の末裔と称していたとのことだ。現在、秦楽寺は真言律宗に属し、千手観音像を本尊として、また聖徳太子像と秦河勝像を脇侍として祭っている。
土蔵門をくぐって境内に入ると、右手に鐘楼があり、その先に本堂が建っていた。伝承では、秦河勝が厩戸皇子から賜った千手観音像を安置するために、方20町という領内に荘厳な伽藍を建立したという。厩戸皇子が斑鳩宮(いかるがのみや)で病没したのは、推古天皇30年(622)2月22日とされている。河勝がこの寺を建立した時期とは25年の開きがある。また、千手観音像は平安時代の作とされている。 戦国時代は仏教寺院は受難の時代だった。多くの寺が戦火を受けて灰燼に帰している。秦楽寺もその例外ではなかった。元亀元年(1570)松永久秀が十市郡に進出して大和を平定したとき、この寺も兵火で焼かれてしまった。寺の再興は、恵海和尚が堂宇を再建した宝暦9年(1759)まで待たなければならない。寺では、恵海和尚を中興の祖としている。
本堂の扉は固く閉ざされていた。冬の寒空をおして出かけてきたのである。せめて本尊を拝んで帰りたい。そう思って、庫裏の呼び鈴を押した。住職は不在らしく、奥さんが玄関先へ応対に出られた。
正面中央に厨子が置かれ、その中に本尊が安置されていた。本尊の前面左右に置かれているのは聖徳太子像と秦河勝像である。残念ながら、十一面観音の上部は幕の陰に隠れて拝観できなかった。 厨子の左手に、弘法大師の座像と中興の祖とされる恵海和尚像の像があった。一方、厨子の右手には、地蔵菩薩像と大日如来像がならんでいた。奥さんは一つ一つ誰の像かを説明してくださった。
寺伝にによれば、弘法大師が『三教指帰』を執筆中にカエルの鳴き声がけたたましかったので、これを叱ったことから、それ以来この地ではカエルの声は聞かれないという。
秦楽寺の境内に祭られている春日神社と笠縫神社
秦楽寺が秦河勝の創建に関わる寺院なら、同じ境内に祭る神社は、古代豪族・秦氏の守り神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭る稲荷社であって然るべきだが、そうはなっていない。春日神社は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、すなわち中臣氏の藤原氏の祖先神を祭っている。奈良市にある春日大社が有名だが、春日神社は全国に3100社あるという。 この神社の興味深いのは、拝殿の前に立つと目の前に二つの鳥居がある。左の朱塗りの鳥居は春日神社のもの、右の石の鳥居は笠縫神社のものであるという。春日神社の中央の社殿は春日神社と厳島神社が相殿となっている。向かって右には小さな祠の八阪神社が、左には稲荷神社がそれぞれ建っている。
最初に天照大神を遷座した大和の笠縫邑は、現在桧原神社が鎮座する「三輪の檜原」あたりに比定されているが、その他にもさまざまな説があるようだ。秦楽寺の境内に笠縫神社があることは、あるいはこの付近にも笠つくりを専業とした笠縫氏が居住していた時代があったのだろうか。大阪市東成区深江南にある深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承があるという。 神社から西に向かうと、すぐに集落の外れの田園地帯に出た。道路の交差点に秦楽寺方面の標識が立っていた。その標識からは、麦撒きのために荒田起こしが終わった田圃の向こうに二上山が見えた。北西風にスモッグが追い払われて、二上山は冬の青空の下で鮮やかに稜線を見せていた。標識の傍に立って四方を見渡すと、まさにここが奈良盆地の中央であることが実感できる。
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