橿原日記 平成20年2月14日

秦楽寺(じんらくじ)秦河勝(はたのかわかつ)が大和盆地の中央に建立したとされる古刹

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珍しい中国風の土蔵門を表門としている秦楽寺 (2008/02/15 撮影)

 見 学 メ モ

【宗派】真言律宗
【寺名】高日山浄土院 秦楽寺(じんらくじ)
【本尊】千手観音像(平安時代作) 脇侍に聖徳太子像、秦河勝像
【所在地】磯城郡田原本町秦庄267 
【電話】07443-2-2779
【アクセス】近鉄笠縫駅下車 北西方向へ徒歩5分

千手観音像を本尊として祀る秦河勝創建の寺

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戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)の有力なブレーンであり陰のスポンサーだった秦河勝(はたのかわかつ)のことをいろいろ調べていたら、面白い伝承に出会った。我が国の最初の正史である『日本書紀』には、秦河勝に関する記述が次の三カ所にしか記されていない。

●推古天皇11(603)年11月、厩戸皇子は諸大夫に対し、「われは尊像を有するが、誰かこの像を恭拝するものはないか」と問うた。その時、河勝が進み出て「臣が拝みまつらん」と答え、この仏像を受けて蜂岡寺を造った。
●推古天皇18年(610)10月、新羅・任那の使節が揃って入京したとき、河勝は土部連莵(はじのむらじ・うさぎ)とともに、新羅の導者(みちびきびと)に命じられた。
●皇極天皇3年(644)7月、東国の不尽(ふじ)河畔の人・大生部多(おおうべのおお)が虫を祭ることを村里の人に勧め、これは常世(とこよ)の神であり、祭るものは富みと寿を致すと称した。河勝は民が惑わされるのを憎み、大生部多を討った。

秦楽寺付近のマップ
秦楽寺付近のマップ
上である。ところが平安時代前期に編纂された著者不明の聖徳太子伝『上宮聖徳太子伝補闕記』には、用明天皇2年(587)に起きた丁未(ていび)の変(蘇我vs物部戦争)では、秦河勝は軍政人として厩戸皇子を守護し、軍の敗色が濃くなると、ヌリデの木を刻み、四天王像をつくり、みずから四天王の屋を放って物部守屋を倒し、進んでその頭を切った。そして玉造の東に四天王寺を営み、官位十二階が制定されたとき、第3位の大仁位に叙せられたと記されているという。四天王寺の縁起では、ヌリデの木を刻んで四天王像をつくり仏の加護を祈願したのは厩戸皇子であると記されていることは周知の通りだ。

喜17年(917)に 藤原兼輔が著したとされる『聖徳太子伝暦』では、物部守屋討伐に河勝は軍充として加わったが、守屋を射殺したのは厩戸皇子の舎人(とねり)・迹見赤檮(とみのいちい)としている。いずれにせよ、厩戸皇子が死んで聖徳太子として讃仰されるようになると、さまざまな伝承が付加されてどこまでが史実か分からなくなる。だが、秦河勝が丁未の変に厩戸皇子を守護するために参戦していたとは、筆者にとって新しい情報であり意外だった。


近鉄橿原線の「笠縫駅」
近鉄橿原線の「笠縫駅」
の秦河勝の名を意外なところでまた聞くことになった。田原本町を南北に縦断して流れる寺川の西に、秦庄(はたのしょう)という土地がある。秦氏と何か関係があるのかと調べてみたら、なんとその土地の中心に秦楽寺(じんらくじ)という名の古刹がある。しかも、大化3年(647)に秦河勝によって創建されたと伝えられているという。

河勝と言えば、蜂岡寺の後身とされる京都太秦の広隆寺が有名だが、まさか橿原市の隣町に河勝ゆかりの寺があるとは知らなかった。典型的な西高東低の気圧配置で本日も寒い朝を迎えたが、陽射しがあったので出かけて見ることにした。最寄りの駅は近鉄橿原線の「笠縫(かさぬい)駅」である。「畝傍御陵前」駅から「笠縫駅」は近い。各駅停車で10分たらずの所にある。

秦楽寺へのアクセス
「笠縫駅」で電車を降りて、秦楽寺への道を聞くと、駅員は親切にも一枚の案内図を渡してくれた。集落の中の生活道路を地図に示された矢印通りに進めば、5分足らずで寺の表門の前に到着できるとのことだった。この辺りの字名は秦楽寺という。道路に人影がなく、車の往来もない。集落が弱い冬の朝日の中で気味が悪いほど静まりかえっている。民家の庭に植えられた梅が、青空に向かって延びた枝に花を咲かせているのが印象的だった。

がて前方左手に樹木が生い茂った一画が見え来た。その先に白壁の塀が続いている。白壁の途中に秦楽寺の表門があった。表門は中国風の珍しい土蔵門だった。

秦楽寺の中国風の土蔵門
秦楽寺の中国風の土蔵門
秦楽寺の略縁記
秦楽寺の略縁記
門の横に、田原本町が立てた案内板があった。それによると、この寺はもともと、聖徳太子の家臣(舎人?)だった秦河勝が大化3年(647)に創建したという。大化3年といえば、有名な「大化改新」の2年後である。上記の丁未(ていび)の変で、秦河勝が当時14歳の厩戸皇子を守るために参戦していたとなると、少なくとも20歳にはなっていたと思われる。したがって、丁未の変から60年後にこの寺が創建されたことになるが、はたして河勝がその頃存命だったかどうか・・・

た、大同2年(807)に唐から帰国した空海がこの寺で『三教指帰』(さんごうしいき)を著したと伝えられている。『三教指帰』とは五人の人物による対話討論形式で儒教・道教・仏教を論じ、その中で仏教の教えが最善であることを示した出家宣言の書である。しかし、その序文から延暦16年(797)、空海24歳の時の著作であるとされている。

近一帯は秦庄(はたのしょう)といい、古代には渡来氏族の雄・秦氏の居住地の一つだった。秦河勝が建立した広隆寺は京都の太秦、すなわち当時は葛野(かどの)と呼ばれた所にあり、河勝の本宅もその近くに構えていたはずだ。あるいは厩戸皇子に近侍するために、一族の枝氏が居住するこの地に別業を構えていたのかもしれない。

楽寺の「楽」は神楽(かぐら)や猿(申)楽(さるがく)などの「楽」であり、秦楽とは秦の楽人の意味だそうだ。世阿弥が記した能の理論書『風姿花伝』の中で、申楽四座の由来を記した条に、秦楽寺の門前に金春(こんぱる)屋敷があり、金春家は河勝の末裔と称していたとのことだ。現在、秦楽寺は真言律宗に属し、千手観音像を本尊として、また聖徳太子像と秦河勝像を脇侍として祭っている。

表門を入ると鐘楼の向こうに本堂が見える 正面から見た本堂
表門を入ると鐘楼の向こうに本堂が見える 正面から見た本堂

蔵門をくぐって境内に入ると、右手に鐘楼があり、その先に本堂が建っていた。伝承では、秦河勝が厩戸皇子から賜った千手観音像を安置するために、方20町という領内に荘厳な伽藍を建立したという。厩戸皇子が斑鳩宮(いかるがのみや)で病没したのは、推古天皇30年(622)2月22日とされている。河勝がこの寺を建立した時期とは25年の開きがある。また、千手観音像は平安時代の作とされている。

国時代は仏教寺院は受難の時代だった。多くの寺が戦火を受けて灰燼に帰している。秦楽寺もその例外ではなかった。元亀元年(1570)松永久秀が十市郡に進出して大和を平定したとき、この寺も兵火で焼かれてしまった。寺の再興は、恵海和尚が堂宇を再建した宝暦9年(1759)まで待たなければならない。寺では、恵海和尚を中興の祖としている。

本堂の内陣 左:秦河勝像、右:聖徳太子像
本堂の内陣 左:秦河勝像、右:聖徳太子像

堂の扉は固く閉ざされていた。冬の寒空をおして出かけてきたのである。せめて本尊を拝んで帰りたい。そう思って、庫裏の呼び鈴を押した。住職は不在らしく、奥さんが玄関先へ応対に出られた。
「ご本尊の千手観音様を拝まして貰いたいのですが・・・」
駄目もとだと思って頼んでみると、あっさりと「いいですよ」との返事が返ってきた。 奥さんは一度奥へ引っ込んで鍵を持ってくると、足を引きずるようにして本堂の脇へ入られた。どやら足が不自由らしい。しばらくすると、中から解錠の音がして、正面の扉が開いた。

左:恵海和尚像、右:弘法大師像 左:地蔵菩薩像、右:大日如来像
左:恵海和尚像、右:弘法大師像 左:地蔵菩薩像、右:大日如来像

面中央に厨子が置かれ、その中に本尊が安置されていた。本尊の前面左右に置かれているのは聖徳太子像と秦河勝像である。残念ながら、十一面観音の上部は幕の陰に隠れて拝観できなかった。 厨子の左手に、弘法大師の座像と中興の祖とされる恵海和尚像の像があった。一方、厨子の右手には、地蔵菩薩像と大日如来像がならんでいた。奥さんは一つ一つ誰の像かを説明してくださった。

梵字”阿”をかたどった阿字の池
梵字”阿”をかたどった阿字の池
法大師像の前に二枚の蓮の写真が置かれていた。本堂の前にある阿字池に咲いていた中国蓮の写真だそうだ。本堂を辞すと、正面に枯れた蓮の茎が水面に広がる阿字池があった。梵字の”阿”の字をかたどったとされるこの池は、大和三楽寺の三池の一つに数えられている。7月から8月にかけて、蓮の花が極楽の如く咲き乱れるそうだ。

伝にによれば、弘法大師が『三教指帰』を執筆中にカエルの鳴き声がけたたましかったので、これを叱ったことから、それ以来この地ではカエルの声は聞かれないという。


 秦楽寺の境内に祭られている春日神社と笠縫神社

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秦楽寺の境内にある春日神社
字池の横に、道路に面して春日神社の石碑と鳥居が立っている。もともと神仏習合の頃はこの神社も秦楽寺の境内の一部だったはずだ。

楽寺が秦河勝の創建に関わる寺院なら、同じ境内に祭る神社は、古代豪族・秦氏の守り神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を祭る稲荷社であって然るべきだが、そうはなっていない。春日神社は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、すなわち中臣氏の藤原氏の祖先神を祭っている。奈良市にある春日大社が有名だが、春日神社は全国に3100社あるという。

の神社の興味深いのは、拝殿の前に立つと目の前に二つの鳥居がある。左の朱塗りの鳥居は春日神社のもの、右の石の鳥居は笠縫神社のものであるという。春日神社の中央の社殿は春日神社と厳島神社が相殿となっている。向かって右には小さな祠の八阪神社が、左には稲荷神社がそれぞれ建っている。

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二つ並んで立つ鳥居 春日神社

笠縫神社
笠縫神社
方、笠縫神社は驚くほど小さい祠だが、天照大神を祭っている。『日本書紀』の崇神記に有名な話が記載されている。第10代崇神天皇の6年、皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して天照大神を宮中から大和の笠縫邑(かさぬいむら)に遷し、その場所に堅固な石の神籬を造り祀ったという。第11代垂仁天皇の25年になって、天照大神を豊鍬入姫命から離して倭姫命(やまとひめのみこと)に託すことになった。倭姫命は天照大神を鎮座させる場所をあちこち探したが、最終的に大御神の希望を入れて、伊勢国の度会宮に遷したという。

初に天照大神を遷座した大和の笠縫邑は、現在桧原神社が鎮座する「三輪の檜原」あたりに比定されているが、その他にもさまざまな説があるようだ。秦楽寺の境内に笠縫神社があることは、あるいはこの付近にも笠つくりを専業とした笠縫氏が居住していた時代があったのだろうか。大阪市東成区深江南にある深江稲荷神社には、付近の深江は笠縫氏の居住地で、大和の笠縫邑から移住してきた、との伝承があるという。


社から西に向かうと、すぐに集落の外れの田園地帯に出た。道路の交差点に秦楽寺方面の標識が立っていた。その標識からは、麦撒きのために荒田起こしが終わった田圃の向こうに二上山が見えた。北西風にスモッグが追い払われて、二上山は冬の青空の下で鮮やかに稜線を見せていた。標識の傍に立って四方を見渡すと、まさにここが奈良盆地の中央であることが実感できる。
秦楽寺方面の標識 遠方に二上山を望む
秦楽寺方面の標識 遠方に二上山を望む



2008/02/15作成 by pancho_de_ohsei return