宇治川護岸遺跡:
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昨年新たに発見された宇治川の護岸遺跡■ 今年の2月2日、京都新聞の電子板は”太閤堤の保存へ向けた要望書を日本考古学協会が国や京都府、宇治市に提出した”と伝えた。
■ 一般には、宇治から向島までの「槙島堤」、宇治から小倉までの「薗場堤」、小倉から向島までの「小倉堤」の約12kmの総称として、太閤堤の名が用いられている。宇治川の付け替え工事の目的は、流れを伏見へ導いて伏見港の繁栄を図るとともに、巨椋池(おぐらいけ)の洪水を防ぐためだったとされている。 ■ 宇治市莵道(とどう)丸山で、マンション建設に伴う緊急発掘調査が昨年の6月半ばに開始された。そして、調査区の北端にあたる宇治川堤防東側で、南北方向に長さ75mにわたって石積護岸施設が埋まっているのが発見された。江戸後期に洪水で埋没し陸化していたため、今まで存在が分からなかった堤の一部である。発掘の主催者である宇治市歴史資料館は、この遺跡を「宇治川護岸遺跡(太閤堤)」と命名し、昨年の9月8日に現地説明会を開催した。発掘の成果に関する記者発表はマスコミでも大きく報道された。
■ 筆者がこの発掘報道に興味を持ったのは、巨椋池(おぐらいけ)との関係である。宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置している。琵琶湖から流れ出る宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて、広大な遊水池を形成していた。これが古代から存在した巨椋池であり、平安京と平城京の間に位置するこの池は、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たしてきた。
■ 京都盆地の東縁には、奈良から北へ向かう古道が存在した。古道は、木津の市街を抜けて木津川を渡り、その右岸を北上して、宇治・京都に達していた。この道には、著名な土木事業家が関わっている。たとえば道昭(629 〜 700)によって大化2年(646)に宇治川の渡河地点に宇治橋が架けられ、木津川を渡る地点には、行基(668 〜 749)によって天平13年(741)に泉橋が架けられた。 ■ この古来の道筋に変更の手を加えたのは豊臣秀吉である。巨椋池の東岸に太閤堤の一部である小倉堤を築いて、宇治川を巨椋池がら切り離し、この新しい堤防を新大和街道とし、宇治橋を撤去して豊後橋(現、観月橋)を架け、京都と大和を結ぶ道を短くした。 ■ 聖徳太子の時代、渡来系氏族の雄である秦(はた)氏を統括していたのは、秦河勝(はたのかわかつ)という人物である。当時、中央の蘇我氏に対抗できるほど十分な財力を有しながら、大和朝廷からは一歩距離を置き、在地豪族として桂川流域の葛野(かどの)を本拠としていた。その河勝が聖徳太子のスポンサーだったとされている。そうであれば、彼はしばしば葛野と飛鳥を行き来していたはずである。
■ たまたま本日宇治市を訪れる用事があり、ついでに宇治市歴史資料館と宇治川護岸遺跡を訪れることができた。以下はそのレポートである。 宇治市文化センターの一画にある宇治市歴史資料館
■ 宇治市歴史資料館が開館したのは昭和59年(1984)とのことだ。すでに4半世紀も前のことであり、最近町おこしのために開館しているほうぼうで歴史資料館に比べると、規模も小さく、派手さもない。受付で、6〜7世紀頃の巨椋池周辺の交通事情を調べたいのだが、適当な資料があったら紹介して欲しいと来館の目的を告げた。応対に出た男子職員から「そのような資料はいっさいありません」と言下に否定されたのには、いささか驚いた。 ■ 考えてみれば、その職員が何も情報がないというのも当然かもしれない。6〜7世紀に飛鳥に都が置かれた時代、宇治地域は「山背」すなわち都から見れば後背地で、畿内地域に含まれているとはいえ、僻地だった。おそらく、記紀に記されている以上に知見はそれほど見つかっていないのだろう。 ■ その職員と話しているうちに、彼は面白い話をしてくれた。巨椋池は通常考えられているより、もっと小さかったのではないかという。巨椋池は大雨の度に洪水を起こして一帯を水浸しになった。そのため、秀吉は伏見城を洪水から護るための長い堤を造り、宇治川の流れを変えて池と分離しただけでなく、池そのものを幾つかの池に分散させた。だが、その後も洪水は起こり続け、その度に改修工事が行なわれた。
■ だが、池の底だったと思われる場所から古い時代の住居遺跡が見つかっているという。彼によれば、そのことが池はかなり小さかった証ということになる。 ■ 二回行われた現地説明会の資料を歴史資料館から貰った。その資料に示されたイラストで確認すると、発掘調査地は京阪電車の「宇治」駅の近くだ。宇治橋から見て、下流の宇治川の東岸にあたる。発掘現場を見学できるかと聞くと、現在も調査中であり立ち入り禁止になっているという。それでも、どのような場所にあるのか位置確認のために訪れることにした。 発掘現場は京阪線「三室戸」駅から下車5分ほどの宇治川河川敷
■ 本日は日曜日なので発掘作業は行われておらず、調査地にはブルーシートが懸けてある。さらに、立ち入り禁止のために、周囲に金網の柵やロープが巡らしてあるが、幸いなことに河岸の堤の上から現場を見下ろすことができた。
■ 護岸の構造は、傾斜30度の法面(のりめん、切土や盛土により作られる人工斜面のこと)の下端に径20cmの松杭を打ち、割り石を数段積み上げて水流に備え、上半分から天端(馬踏:ばふみ)にかけては、割石をきれいに貼り付けて化粧されていた。水流から護岸を守る石出しは、基部の幅9m、長さ8.5mの平面台形形状の石垣積みだった。 ■ この護岸工事に使用された石は粘板岩である。3kmほど上流の天ヶ瀬ダム付近の川岸から切り出され船で運搬されたものと考えらている。昭和54年(1979)に見つかった填島堤遺跡でも同様の石が使用されていたという。
■ 「村井重頼覚書」によれば、今回の発掘場所を含む太閤堤は、文禄3年(1594)に宇治川を小椋池から切り離し、向島まで延長する填島堤から着工されたという。しかし、今回見つかった右岸の護岸に関する記録は今のところ見つかっていない。現在の宇治川右岸には、河岸に巨大な石が並べられて堤防を守っている。河岸まで降りてみると、なぜか流れの中にうち捨てられた廃船が黒い影を落としていた。
応神天皇の皇太子・莵道稚郎子の墓
■ 莵道稚郎子 − 『日本書紀』の応神紀によれば、応神天皇と和珥臣(わにのおみ)祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)との間に生まれた皇子とされている。幼い頃から学問に秀で、応神15年8月に百済から来朝した阿直岐(あちき)を師として典籍を学び、翌年2月には阿直岐に代わって王仁(わに)を師として、さらに様々な典籍を習った。 ■ 応神天皇は末子の莵道稚郎子を寵愛し、応神40年1月には皇太子としたが、翌年に天皇が崩御してしまう。しかし、莵道稚郎子は即位せず、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと、即位して仁徳天皇)と互いに皇位を譲り合ったという。そのような中、異母兄の大山守皇子(おおやまもりのみこ)は皇太子に立てられなかったことを恨んで、莵道稚郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して莵道稚郎子に知らせた。そこで、莵道稚郎子は謀略を用いて大山守皇子を殺してしまう。
■ この後、莵道稚郎子は菟道宮(京都府宇治市の宇治上神社が伝承地)に住み、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うことが3年も続いた。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ皇太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。大鷦鷯尊は泣き悲しみながらその亡骸を莵道(とどう)の山の上に埋葬したとされている。 ■ このように、『日本書紀』は、兄の大鷦鷯尊と皇位を譲り合って自ら命を絶った悲劇の皇子として莵道稚郎子を描かれている。だが、実際は仁徳天皇、すなわち大鷦鷯命が登極するまでには、幾人かの異母弟との間に、長期にわたる激しい皇位継承の争いがあったようだ。『日本書紀』は儒教で言う謙譲の美徳のように、莵道稚郎子を描いているが、この皇子も皇位継承の争い犠牲者だったのだろう。
■ 莵道稚郎子は「莵道の山上」に葬られたと『日本書紀』は記しているが、いろいろな説があってその墓の所在地は特定されていない。江戸時代には宇治川東岸の朝日山山頂の経塚が莵道稚郎子の墓とされていた。明治23年(1890)になって、当時の宮内省が「浮舟の杜」とよばれていた場所を買い取り、「莵道稚郎子の墓」(宇治墓)とした。 だが、この地は宇治川右岸に近接していて、「山上」と呼ぶに相応しくない。
■ 参道を通らなくても、民家の庭先や発掘が行われている畑の縁を伝って遙拝所の近くまで行き、生け垣の外から遙拝所を眺めることはできる。実にこざっぱりと手入れの行き届いた墓だった。ちなみに、紫式部は、この莵道稚郎子を「源氏物語」の宇治十帖に登場する桐壺帝の第八皇子・八の宮のモデルにしたのではないかと言われている。
(*) 宇治市歴史資料館作成「宇治川護岸遺跡(太閤堤)の発掘成果資料」より転記
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