橿原日記 平成20年2月9日

真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)
雪が降りしきる最悪の日に行われた現地見学会

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降りしきる雪もなんのその、石室を見るために2時間3時間待ちの長蛇の列 (2008/02/09 撮影)

石舞台古墳の石室をしのぐ国内最大級というけれど・・・

月7日の夕方、真弓鑵子塚古墳が本格的な発掘調査されていたことを、時事通信のインターネット電子配信で知った。明日香村教育委員会は、この古墳の史跡指定を目指して昨年7月から発掘調査を行ってきた。そして、7日の午後、「この時期の古墳としては、鑵子塚古墳の石室は石舞台古墳より一回り大きい国内最大級の規模である」と記者発表した。時事通信はその発表の内容に、「6世紀半ば、最大規模の石室=「渡来系東漢氏の地位示す」−奈良」というタイトルをつけて配信した。

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真弓鑵子塚古墳の石室内部。
写真右奥は北側の奥室とみられる空間(* )
日の新聞各紙は、地元の奈良新聞はもちろん、全国紙の朝日・毎日・読売・産経も、記者発表の内容を大々的に伝えた。筆者は自宅で朝日新聞を購読しているが、関東版の朝日新聞でも社会面トップでこのニュースを報じていた。関西では毎日新聞などは一面にカラー写真入りで報道したとのことだ。一方、NHKテレビも、7日夕方の全国放送ニュースで鑵子塚古墳の石室が石舞台古墳より大きかったことを伝えた。

聞各紙の見出しには、「全国最大級の石室確認」「石舞台しのぐ国内最大級の石室」「石400個 大ドーム 石舞台上回り国内最大級」と、毎度のことながらセンセーショナルな文字が躍っている。こうした報道によって、あたかも今回の発掘調査で新たに国内最大級の石室古墳が見つかったという印象を読者に与えたようだ。だが、事実は違う。

真弓鑵子塚古墳の案内板
真弓鑵子塚古墳の案内板
子塚古墳の横穴式石室が二つの蒼ケ(せんどう)を有することは、古くから注目されていた。大正2年(1913)8月に奈良県史跡調査会が発掘したときも、石室が南北の両口で開いているのを確認している。

和37年(1962)には、後期古墳研究会が墳丘や石室の調査を行なっている。そのときの調査で、この古墳が直径が23m、高さ5mの円墳であること、玄室の大きさも長さが6.3m、幅4.1m、高さ4.6mと最大級の石室であること、横穴式石室をもつ6世紀後半の築造と推定されることなどが確認された。そのことは、古墳近くに立つ案内板にもすでに明記されている。

子塚古墳は、北西に伸びる丘陵の先端を造成して築かれている。昭和37年の調査では、石室内を埋め尽くした土砂と取り除き、石室の実質調査を主眼に行われた。したがって、墳丘の規模などは今回の範囲確認調査とは大きく異なっている。この古墳が民有地にあるため、その後は詳しい発掘調査は行われなかった。

調査年墳丘径墳丘高玄室奥行玄室幅玄室高さ奥室奥行奥室幅奥室高さ
1962年約23m約5m6.3m4.2m4.8m
2008年約40m約8m約6.5m約4.4m約4.7m4m2m2m

室の巨大さと南北両方に二つの通路を持つ特異な構造は、45年も前からすでに知れ渡っていた。それにも関わらず、明日香村教育委員会は、鑵子塚古墳の石室が石舞台古墳より一回り大きく、国内最大級の規模であることが、今回の調査で初めて判明したような発表の仕方をした(ちなみに、玄室の床面積は見瀬丸山古墳では約34平米、真弓鑵子塚古墳では28平米、石舞台古墳では約26平米)。

鑵子塚古墳
雪に煙る鑵子塚古墳
者発表では、その他にもさまざまな情報が提供されたにもかかわらず、いずれの新聞各紙もTVも、石室の巨大さを際だたせてセンセーショナルに報じた。上述のように、石室の規模の規模は45年前の調査で判明していて、なにも今更大げさに騒ぎ立てるほどのニュースバリューはない。それに、玄室の床面積だけで石室の規模を云々するのは理に合わない。

子塚古墳の石室は、重さ2〜3トンの近くで採れる石英閃緑岩をドーム状に6〜7段積み上げた構造をしている。その点ではユニークである。しかし、3個の天井石のうち、最大のものでも推定で30トンにすぎない。一方、石舞台古墳の天井に使われている石の重さは、北側が約64トン、南側が約77トンもあるという。まったく規模が違う。

れだけに、石舞台古墳をしのぐような古墳の発見を印象づける今回の報道には、なにか異常さを感じる。たとえそれが主催者側の発表であっても、何も論評を加えない報道は、センセーショナルに読者の好奇心をあおるだけだ。こうした報道の仕方に、筆者などはついメディアを利用したある作為を感じてしまう。その最大の犠牲者は、本日石室の内部を一目見ようと参集してきた多くの見学者たちだったにちがいない。



降りしきる雪の中を寒さに耐えながらどこまでも続く見学者の列

日の奈良県地方の天気予報は雪。最高気温も摂氏3度程度で、この冬一番の寒さになるという。午前9時頃から明日香地方は曇りから雪になるという予報が、見事に当たった。10時頃には民家の屋根が白くなり、11時頃には本降りになった。

真弓付近の地図
真弓付近の地図
弓鑵子塚古墳の現地見学会は、本日の午前10時から午後3時までと、予め報道されていた。それを知って、筆者は予定を一日早めて、昨晩遅くまた橿原に戻ってきた。報道内容の一部にどうしても確認しておきたいことがあった。

前にこの古墳を探訪したことがあり、アクセスの道順は知っている。近鉄吉野線の「飛鳥」駅前を走る国道169号線を南に進み、最初の信号で交差点を右折して真弓丘陵を越えて越智(おち)へ抜ける自動車道を行けばよい。自動車道が丘陵の頂上にかかるあたりに、牽牛子塚古墳と鑵子塚古墳方面への標識が立っている。あとは標識に従って行けばよいが、本日は案内人が立っているだろう。現地までは飛鳥駅から徒歩約15分の距離である。

の雪の降り方では、本日は現地見学会に出かけて来る考古学ファンも少ないに違いない。お昼頃現地に着けば、ゆっくりと石室の内部を見学できるにちがいない。そう思って、11時半頃飛鳥駅を降りたって、現地へ向かった。降りしきる雪で手にした傘が次第に重くなってくる。

ころが、である。近鉄電車の踏切を渡り、真弓丘陵の上り坂を半分ほど進んだところで、道路脇に一列に並ぶ人の群れが目に入ってきた。それが、雪をおして出かけてきた見学者の最後尾だった。古墳は丘陵の頂上から先のブッシュの中にあり、まだ700mほど先である。

長蛇の列−真弓丘陵の坂道の途中 分岐点付近
長蛇の列 − 真弓丘陵の坂道の途中 長蛇の列 − 分岐点付近

学者の隊列を整理しているボランティアに聞いてみたら、一度に石室内に入れる人数を20人ほどに制限しているため、長蛇の列ができたという。どれくらいの時間で古墳までたどり着けるだろうかと聞くと、2時間から3時間は覚悟しなければならないでしょうと、平然と答えた。とてもではないが、この凍えるような寒さの中を2時間も3時間も並んで待つ気力は筆者にはない。

室内は以前に見たことがあるので、今回は諦めることにした。しかし、発掘調査の成果を記した現地見学会の資料は入手したい。そこで見学者のルートとは別の道から、古墳手前100mほどのところに設営された受付にアクセスした。資料を入手した後受付の前に並んでいた一人に男性に「何時間並んでいましたか」と聞いた。「もう2時間です」との答えが返ってきた。だが、古墳はまだ100m先にある。

長蛇の列 − 受付の前付近 長蛇の列 − まもなく古墳前
長蛇の列 − 受付の前付近 長蛇の列 − まもなく古墳前

学者のいずれの顔も寒さと疲労で疲れた表情をしている。少しでも歩いているのなら、この寒さも耐えられるだろうが、雪が降り積もる中で棒立ちしているのは辛い。誰もが並んだまま無口である。中には、かなり年配の婦人の姿もある。寒さでトイレも近くなっているはずなのに・・・と人ごとながら心配になった。見たところ、簡易トイレが設置されているようにも見えない。黙りこくって列をなす人々の上に、雪は容赦なく降り注いでいた。



北の蒼ケが奥室に変わった!

北側から見た石室の全景(**)
北側から見た石室の全景(**)
付で見学者に配布している資料には、今回の調査の成果を以下のようにまとめている。
(1)墳丘は北西に延びる丘陵を大規模に造成して築かれた直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳である。
(2)埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使用した穹窿(きゅうりゅう)状の横穴式石室である。
(3)築造年代については、石室内から出土した土器などから6世紀中頃と考えられる。
(4)墳丘と石室部分には南海地震の影響と見られる亀裂や大規模な地滑りも明らかになった。

室の全長は19m以上で、玄室の規模は上記の表の通りである。石室床面には幅約30cm、深さ約7cmの排水溝が設けられていた。石室の平面プランは、東壁が直線的で、西壁側に約2m分張り出した片袖式の構造になっている。また、玄室から続く北側には奥室的な機能をもつ蒼ケ状の施設が設けられている。

南側から見た石室の全景(**)<
南側から見た石室の全景(**)
の古墳の石室は盗掘によって埋葬品はほとんど持ち去られていた。石室から出土した遺物としては、陶棺片、土師器、須恵器、銀象嵌刀飾具、玉類、金銅製装飾金具、金銅製馬具、鉄鏃、鉄釘、凝灰岩片などがあるようだ。

学会の資料の説明は不十分で、これらすべてが今回の調査で見つかった印象を与えるが、事実はそうではない。陶棺片、須恵器、土師器破片と獣面を彫刻した小さな金銅製金具などは、昭和37年の調査で出土したものである。特徴的なものとしては、炊飯器を模したミニチュア土器が、今回石室の床から見つかった。渡来人の古墳からよく見つかる土器で、そのため、渡来系氏族の東漢(やまとのあや)の族長を被葬者と推測する専門家がいる。

聞に掲載された写真を見る限りでは、今回の発掘調査では蒼ケ入口の土砂が搬出され、以前訪れた時とはかなり様変わりしていた。是非見学して確認したかったのは、従来から”北側の蒼ケ”と称されていた開口部である。蒼ケとは玄室に棺を搬入するためのものだ。通常の常識では、そのための搬入口を2つも築く必要はない。

石室の内部見学風景
石室の内部見学風景(****)
料では、この部分を”奥室的な機能をもつ蒼ケ状の施設”とうまく断定を逃げている。しかし、南側に出入り口にあたる蒼ケ、北側に石棺の搬入口がある特殊構造の石室と解説している新聞報道がある。石棺を納めるだけなら、南側の蒼ケだけで十分であり、納得できる説明にはなっていない。前の橿考研付属博物館の館長だった河上邦彦氏も、北側の部分が「奥室」だったと考えておられる、盗掘で奥壁部分が破壊されてしまった結果、通路のようになってしまったというのである。しかし、この河上説も無理があるようだ。

聞に掲載された石室の平面図を見れば分かるように、”奥室”とされた北側の開口部はかなり東向きに築かれている。ドーム状に石室を築造する場合、蒼ケ、玄室、奥室を直線状に作る方がはるかに楽なはずである。わざわざ斜めに付け足した理由がわからない。そのため、現場で発掘当事者の意見を直接聞いてみたかったが、それが叶わず残念だった。

南側から見た石室の全景(**)<
石室の平面図(***)
室と奥室の両方から石棺の破片が見つかっており、少なくとも石棺2基と木棺1基が安置されていたらしい。そのことから、この古墳は追葬を前提に築かれたことが分かる。上述のように東漢氏の族長クラスが被葬者に推定されているが、今月京都橘大学を退官された猪熊教授は、蘇我稲目(そがのいなめ)を被葬者に推測しておられる。稲目が百済の姫2人を妻にしたという『日本書紀』の記述をふまえての推測だそうだ。

我氏を大氏族に押し上げた稲目ほどの人物の墓が、今まで特定されていない。馬子の父親である稲目の墓であれば、その石室も巨大であったであろう。しかし、稲目が妻にした”百済の姫2人”というのは、猪俣教授の勘違いか、記者の誤記である。彼女たちは、欽明天皇23年(562)年に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が百済と協力して高句麗を討ったとき、高句麗の城で手に入れた戦利品とともに連れ帰った女性とされている。したがって、生国は高句麗とすべきある。

目は大伴狭手彦から高句麗の姫とその侍女(名を吾田子(あたこ)という)を献上され、妻として軽の曲殿(かるのまがりどの)の別邸に住まわせたという。ちなみに、稲目は大臣(おおおみ)の位にあること35年、欽明天皇31年(570)の3月に死去している。

追記: 明日香村埋蔵文化財展示室に展示されている出土品

明日香村埋蔵文化財展示室に<br>展示された出土品<
真弓鑵子塚古墳から出土した
金銅製獣面飾金具など(*****)
に述べたように、明日香村教育委員会は、今回の発掘調査で陶棺片、土師器、須恵器、銀象嵌刀飾具、玉類、金銅製装飾金具、金銅製馬具、鉄鏃、鉄釘、凝灰岩片などが見つかったと発表している。 しかし、筆者はどうもこの発表を率直に受け取れなかった。理由は2つある。

ず昭和37年(1962)に後期古墳研究会が行なった調査は、石室内を埋め尽くした土砂と取り除き、石室の実質調査を主眼に行われたという。すでに盗掘された後ではあったが、運び出された土砂の中からさまざまな遺物が見つかったであろう。そうした遺物はどうしたのか。今回の新聞発表ではそのことがいっさい触れられていない。

明日香村埋蔵文化財展示室に<br>展示された出土品<
明日香村埋蔵文化財展示室に
展示されている真弓鑵子塚古墳出土品
に、インターネット上ではかなり以前から”つっちゃんのホームページ「毎日が日曜/古墳巡り大和の二百選・真弓丘周辺の古墳”( http://www4.kcn.ne.jp/~ntsuchi/kofun-J.html ) が公開されている。筆者が好きなHPの一つで、いろいろ勉強させて貰っている。その中の真弓鑵子塚古墳の項に次のような記載がある。
"出土品:  62年の調査では、ここから陶棺片、須恵器、土師器破片と獣面を彫刻した小さな金銅製金具などが出土しただけで、ほとんどが盗掘によって無くなっていたらしい。"

者はこの情報を6年前の2002年4月の時点で確認している。つっちゃん情報が正しければ、新聞で写真入りで紹介されている”金銅製獣面飾金具など”は、今回の出土品ではないことになる。

日明日香村に出かけたついでに、埋蔵文化財展示室を覗いてみた。入口を入ったすぐ右側の硝子ケースに「調査速報」と題して、真弓鑵子塚古墳の出土品が展示されていた。たまたま先客の女性が硝子ケースを開けてもらって展示品を撮影していたので、筆者もデジカメで一緒に撮そうとした。しかし、傍にいた教育委員会の職員に撮影を禁止された。現在のところ撮影は事前に申請した報道関係者のみに許可しているとのことだ。

当にこれらの遺物は今回の発掘調査で見つかったのか聞いてみた。その職員は間違いありませんと答えた。後期古墳研究会の調査報告などさらに詳しく聞こうと思ったが、急用があるのか、彼は急いで展示室から出て行った。それ以上のことが確認できず、残念だった(2008/02/21 記す)。



(*) 2月8日付け毎日新聞インターネット版から転記。(**) 明日香村教育委員会作成の現地見学会資料より転記。(***) 2月8日付け朝日新聞社会面より転記。(****) 2月9日付け読売新聞インターネット版から転記。(*****) 2月8日付け奈良新聞より転記
2008/02/09作成 by pancho_de_ohsei return