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| 降りしきる雪もなんのその、石室を見るために2時間3時間待ちの長蛇の列 (2008/02/09 撮影) |
降りしきる雪の中を寒さに耐えながらどこまでも続く見学者の列本日の奈良県地方の天気予報は雪。最高気温も摂氏3度程度で、この冬一番の寒さになるという。午前9時頃から明日香地方は曇りから雪になるという予報が、見事に当たった。10時頃には民家の屋根が白くなり、11時頃には本降りになった。
以前にこの古墳を探訪したことがあり、アクセスの道順は知っている。近鉄吉野線の「飛鳥」駅前を走る国道169号線を南に進み、最初の信号で交差点を右折して真弓丘陵を越えて越智(おち)へ抜ける自動車道を行けばよい。自動車道が丘陵の頂上にかかるあたりに、牽牛子塚古墳と鑵子塚古墳方面への標識が立っている。あとは標識に従って行けばよいが、本日は案内人が立っているだろう。現地までは飛鳥駅から徒歩約15分の距離である。 この雪の降り方では、本日は現地見学会に出かけて来る考古学ファンも少ないに違いない。お昼頃現地に着けば、ゆっくりと石室の内部を見学できるにちがいない。そう思って、11時半頃飛鳥駅を降りたって、現地へ向かった。降りしきる雪で手にした傘が次第に重くなってくる。 ところが、である。近鉄電車の踏切を渡り、真弓丘陵の上り坂を半分ほど進んだところで、道路脇に一列に並ぶ人の群れが目に入ってきた。それが、雪をおして出かけてきた見学者の最後尾だった。古墳は丘陵の頂上から先のブッシュの中にあり、まだ700mほど先である。
見学者の隊列を整理しているボランティアに聞いてみたら、一度に石室内に入れる人数を20人ほどに制限しているため、長蛇の列ができたという。どれくらいの時間で古墳までたどり着けるだろうかと聞くと、2時間から3時間は覚悟しなければならないでしょうと、平然と答えた。とてもではないが、この凍えるような寒さの中を2時間も3時間も並んで待つ気力は筆者にはない。 石室内は以前に見たことがあるので、今回は諦めることにした。しかし、発掘調査の成果を記した現地見学会の資料は入手したい。そこで見学者のルートとは別の道から、古墳手前100mほどのところに設営された受付にアクセスした。資料を入手した後受付の前に並んでいた一人に男性に「何時間並んでいましたか」と聞いた。「もう2時間です」との答えが返ってきた。だが、古墳はまだ100m先にある。
見学者のいずれの顔も寒さと疲労で疲れた表情をしている。少しでも歩いているのなら、この寒さも耐えられるだろうが、雪が降り積もる中で棒立ちしているのは辛い。誰もが並んだまま無口である。中には、かなり年配の婦人の姿もある。寒さでトイレも近くなっているはずなのに・・・と人ごとながら心配になった。見たところ、簡易トイレが設置されているようにも見えない。黙りこくって列をなす人々の上に、雪は容赦なく降り注いでいた。 |
北の蒼ケが奥室に変わった!
(1)墳丘は北西に延びる丘陵を大規模に造成して築かれた直径約40m、高さ約8mの二段築成の円墳である。 (2)埋葬施設は石英閃緑岩の巨石を使用した穹窿(きゅうりゅう)状の横穴式石室である。 (3)築造年代については、石室内から出土した土器などから6世紀中頃と考えられる。 (4)墳丘と石室部分には南海地震の影響と見られる亀裂や大規模な地滑りも明らかになった。 石室の全長は19m以上で、玄室の規模は上記の表の通りである。石室床面には幅約30cm、深さ約7cmの排水溝が設けられていた。石室の平面プランは、東壁が直線的で、西壁側に約2m分張り出した片袖式の構造になっている。また、玄室から続く北側には奥室的な機能をもつ蒼ケ状の施設が設けられている。
見学会の資料の説明は不十分で、これらすべてが今回の調査で見つかった印象を与えるが、事実はそうではない。陶棺片、須恵器、土師器破片と獣面を彫刻した小さな金銅製金具などは、昭和37年の調査で出土したものである。特徴的なものとしては、炊飯器を模したミニチュア土器が、今回石室の床から見つかった。渡来人の古墳からよく見つかる土器で、そのため、渡来系氏族の東漢(やまとのあや)の族長を被葬者と推測する専門家がいる。 新聞に掲載された写真を見る限りでは、今回の発掘調査では蒼ケ入口の土砂が搬出され、以前訪れた時とはかなり様変わりしていた。是非見学して確認したかったのは、従来から”北側の蒼ケ”と称されていた開口部である。蒼ケとは玄室に棺を搬入するためのものだ。通常の常識では、そのための搬入口を2つも築く必要はない。
新聞に掲載された石室の平面図を見れば分かるように、”奥室”とされた北側の開口部はかなり東向きに築かれている。ドーム状に石室を築造する場合、蒼ケ、玄室、奥室を直線状に作る方がはるかに楽なはずである。わざわざ斜めに付け足した理由がわからない。そのため、現場で発掘当事者の意見を直接聞いてみたかったが、それが叶わず残念だった。
蘇我氏を大氏族に押し上げた稲目ほどの人物の墓が、今まで特定されていない。馬子の父親である稲目の墓であれば、その石室も巨大であったであろう。しかし、稲目が妻にした”百済の姫2人”というのは、猪俣教授の勘違いか、記者の誤記である。彼女たちは、欽明天皇23年(562)年に大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が百済と協力して高句麗を討ったとき、高句麗の城で手に入れた戦利品とともに連れ帰った女性とされている。したがって、生国は高句麗とすべきある。 稲目は大伴狭手彦から高句麗の姫とその侍女(名を吾田子(あたこ)という)を献上され、妻として軽の曲殿(かるのまがりどの)の別邸に住まわせたという。ちなみに、稲目は大臣(おおおみ)の位にあること35年、欽明天皇31年(570)の3月に死去している。 追記: 明日香村埋蔵文化財展示室に展示されている出土品
先ず昭和37年(1962)に後期古墳研究会が行なった調査は、石室内を埋め尽くした土砂と取り除き、石室の実質調査を主眼に行われたという。すでに盗掘された後ではあったが、運び出された土砂の中からさまざまな遺物が見つかったであろう。そうした遺物はどうしたのか。今回の新聞発表ではそのことがいっさい触れられていない。
"出土品: 62年の調査では、ここから陶棺片、須恵器、土師器破片と獣面を彫刻した小さな金銅製金具などが出土しただけで、ほとんどが盗掘によって無くなっていたらしい。" 筆者はこの情報を6年前の2002年4月の時点で確認している。つっちゃん情報が正しければ、新聞で写真入りで紹介されている”金銅製獣面飾金具など”は、今回の出土品ではないことになる。 本日明日香村に出かけたついでに、埋蔵文化財展示室を覗いてみた。入口を入ったすぐ右側の硝子ケースに「調査速報」と題して、真弓鑵子塚古墳の出土品が展示されていた。たまたま先客の女性が硝子ケースを開けてもらって展示品を撮影していたので、筆者もデジカメで一緒に撮そうとした。しかし、傍にいた教育委員会の職員に撮影を禁止された。現在のところ撮影は事前に申請した報道関係者のみに許可しているとのことだ。 本当にこれらの遺物は今回の発掘調査で見つかったのか聞いてみた。その職員は間違いありませんと答えた。後期古墳研究会の調査報告などさらに詳しく聞こうと思ったが、急用があるのか、彼は急いで展示室から出て行った。それ以上のことが確認できず、残念だった(2008/02/21 記す)。 |