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| 法隆寺聖霊院の内陣に鎮座する聖徳太子像 |
象牙の塔が生んだ非常識とも思える学説
明治45年(1912)7月30日の明治天皇逝去で明治という時代が終焉し、同じ年の9月13日に明治天皇の大葬が行われた。その日の夕べ、日露戦争で旅順攻撃を指揮し、軍神と崇められた乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将が静子夫人とともに自刃して亡くなった。明治天皇に対する殉死であり、このとき乃木大将は次の辞世の歌を残している。
話は変わって、奈良時代の初めの養老4年(720)、我が国で最初の正史『日本書紀』が上梓された。この史書は当時の律令官僚を主な対象読者として、天皇家の万世一系の皇統譜の正当性を主張したきわめて政治性の強い正史である。
早速その著書を購入して通読した後、我が身を当時の律令官僚の一人に置き換えてみた。そして、ねつ造された聖徳太子を記述した『日本書紀』を読まされたら、どのような感慨を抱くか想像してみた。奈良時代初期の律令官僚たちには、推古天皇以後の歴史はおそらく現代史の範疇で捕らえていたはずである。『古事記』も推古天皇の即位をもって記述を止めている。聖徳太子の行業も当時はすでに一般常識あるいは史実として普及していたであろう。彼等が理解していた太子像がまったく架空のものであると説かれたら、大いに戸惑っただろうし、何よりもそうした説を受け入れるのに拒否反応を示したにちがいない。 それはあたかも、上記の乃木希典が架空の人物であり、殉死などの事実などなかった、とする説が現代に提示されたようなものだ。国民の誰一人このような説を受け入れるのに躊躇するにちがいない。だが、象牙の塔に立てこもった専門家諸氏は、時には常識を疑うような新説を提示してくる。そうすることが彼等の存在理由なのかもしれないが、正常な感覚の持ち主には異常に見える。そうした観点から、大山説の批判を試みた( 大山説に対する疑問を参照)。
歴史上の人物の中には、後世さまざまな伝承が付加されて、実像とはかけ離れたイメージで伝えられている例がある。しかし、ある目的のために存在もしない人物像が紙上で創作され、その人物の事績が正史で堂々と記述されることが有りうるのだろうか。当時の為政者の意志でこのような史書が編纂されたのであれば、それはもはや正史の名に値しない。 |
7世紀初頭までの我が国の仏教を概括する7世紀初頭と言えば、我が国最初の女帝とされる推古天皇の治世である。摂政に任じられた厩戸皇子と大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)の三人で国政を主導した時代とされている。馬子は父の代からの熱心な仏教信者であり、我が国最初の本格的仏教寺院・法興寺(=飛鳥寺)をすでに建立している。厩戸皇子は馬子以上に熱心な仏教徒であり、女帝に仏教興隆の詔を出させたり、憲法17条を制定して仏・法・僧を敬うことを役人たちに求めている。つまり、百済から伝来した仏教が最初の大きな飛躍を迎えた時代と言えよう。 大半の日本人が平安あるいは鎌倉時代に創設された宗派の門徒である現代の我々から見れば、当時の仏教界の様相は現代のそれとは相当違っていたことは想像にかたくない。だが、具体的にどう違っていたかと聞かれると答えに窮する。そこで、当時の仏教界の様子を少し調べてみた。 仏教公伝仏教という外来宗教は、当時朝鮮半島にあった百済の聖王(せいおう、聖明王)から我が国の欽明(きんめい)天皇に伝えられたとされている。この意味は大きい。国王から国王へ、すなわち国家対国家というレベルで伝えられたのである。そのため、これを「仏教公伝」と呼んでいる。だが、その時期については2説ある。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』などは欽明天皇戊午年(538)とし、『日本書紀』は同天皇13年(552、壬申年)としている。どちらを正しいかは歴史学会でも異論があり、現状では6世紀中頃のこととしておくことが無難なようだ。
仏教公伝を記す『日本書紀』に従えば、百済の聖王は使者を派遣して釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上し、あわせて仏教受容を勧誘する聖王の上表文を提出した。その中で、聖王は勧誘の理由としては、仏教がきわめて高度で高級な教えである こと、願い通りの利益(りやく)をもたらす功徳が大な教えであること、などを挙げている。欽明天皇は、献上された仏像の容貌を賞賛し、仏教を受け入れるべきか否か臣下に諮問した。
欽明天皇は、百済の聖王から正式に伝えられた仏教を無視するわけにもいかず、稲目に仏像を与えて試みに崇拝させることにした。しかし、稲目がその仏像を礼拝したことで、国神の怒りを買い全国的に疫病が流行して多くの病死者が出た。そのため、廃仏派は仏像を難波の海に棄てたという。 同じ事件が敏達14年(585)にも起きている。この年、蘇我馬子が病気になった。占わせると、父(=稲目)の時に祀った仏に祟られている」という。馬子は敏達帝の許可を得て百済から招来した石仏を礼拝し、延命を祈願した。すると、またしても国神がたたり、疫病が流行して多くの人が死んだ。廃仏派は蘇我馬子の草堂をおそって焼き払い仏像を難波の堀江に棄てた。すると、今度は仏神がたたった。敏達帝の宮が神火で焼け、天皇と大連の物部守屋(もののべのもりや)が天然痘でやられ、天皇などはそれがもとで死んでしまったという。 『日本書紀』に記されたこうした伝承は、我々に興味ぶかいことを教えてくれる。仏教伝来から50年あるいは30年を経ても、当時の人々は仏を寛容な救済者ではなく、攻撃をうければ怒って即座にたたる国神と同様な存在と認識していたということだ。在来神は姿かたちが見えない存在だが、蕃神は金色の輝きを放っていた。それだけに一層不気味な神に見えたのかもしれない。
ブッダが説いた仏教の教義は、個人が祭祀によって利益を得るのではなく、修行によってこの世の束縛を離れることを教えるものだった。だが、中国や朝鮮では、仏教が在来の御利益信仰と同列視されて広まった。つまり、インド伝来の教理・教学仏教の上に現世利益信仰の外皮をまとったものが、当時の東アジアの仏教だったのである。したがって、百済が我が国に伝えた仏教も、インド仏教のように個人救済を目的とした宗教ではなく、現世利益の招来を目的としたの宗教だった。 在来の恐ろしき荒ぶる神をなだめるのは、供物を捧げ祝詞をあげて祭祀を行わなければならない、それを行なうものはシャーマンや巫女、あるいは呪術をもつ族長の役割だった。崇仏派の筆頭にあげられている蘇我馬子も、仏教の思想的・観念的内容を理解して帰依していたとは思えず、仏教という宗教を在来神祭祀と同質の仏像祭祀として理解していたようだ。馬子の仏教に対する知識はその程度のものだった。そこで、敏達13年(584)、馬子は渡来系氏族の娘3人を得度させて、自宅の東に仏殿を作り石仏に奉仕させている。 仏教を構成する三つの大切な要素は仏・法・僧、すなわち仏像と経巻と出家僧であり、仏教では仏・法・僧を三宝と呼んでいる。百済の聖王からの献上品の中には、釈迦像と経論若干巻が含まれている。だが、僧侶が含まれていない。これでは仏教を正式に伝えたことにならないと思っていたが、実は僧侶も派遣されていた。仏教公伝から2年後の欽明天皇15年(554)2月には、百済は援軍を要請した際に「僧曇慧(どんえ)ら9人を僧道深(どうしん)など7人に代えている。このことは、百済が交代制で継続的に僧侶を我が国に常駐させていたことを示している。
しかし、仏像を信仰する分には、必ずしも教義を理解している必要はない。相応の敬意を払って教えられたとおりに祭祀を行い、誠実に祈りを捧げればよい。中国でも、仏教伝来の最初期には仏が道教の黄帝・老子と同列の存在と受け取られて、それらと同じ「神」として現世福徳や不老長寿を祈った。 厩戸皇子が生まれ育った頃の仏教とは、およそこのような状況だったと思われる。仏を敬い仏教の弘通に尽力したとされる叔父の蘇我馬子すら、仏教に対する理解は上記の程度だったと思われる。後世、奈良時代から平安時代にかけて、厩戸皇子が聖徳太子として尊崇を集めるようになって、宗教界は様々な奇瑞を作り出して太子の伝記を作るようになる。そうしたフィルタを通して当時の宗教界の様相を推察しても、実態はなにも見えてこない。 当時の仏教の持つ側面我々現代人は、仏教をインドで興った世界三大宗教の一つとして理解している。しかし、仏教が伝来した6世紀の時点に我が身を置いてみると、現在の我々が抱く宗教理念とは違ったものが見えてくるのではないだろうか。
現在の世界経済において、オイルやレアメタルなどの資源物資、あるいは大豆や小麦といった農産物は、高度な戦略物資としての性格を有している。生産国が戦略的にこれらの物資の供給を止めれば、消費国側の経済はたちまち大混乱に陥る。当時の東アジア諸国において、仏教はその教義の崇高さもさることながら、仏教寺院や仏僧が備えた最先端の総合技術や文化が注目された。仏教寺院という特異な建築物、その中に安置された金色の仏像と堂内を飾る華麗な壁画、そして仏事に荘厳さ添える仏教音楽や舞踊は、第一級の芸術であり文化だった。 聖王はそうした第一級の芸術・文化を備えた仏教を無償で我が国に提供するほど度量が大きかったとは思えない。聖王は仏教の持つ魅力を十分に知っていたはずである。仏教の魅力に取り憑かれて、南梁に何度も使者を派遣して仏教の導入に尽力したのは、他ならぬ聖王自身だった。 当時、倭国の側から仏教の提供を求めたわけではない。だが、朝鮮半島で高句麗や新羅と敵対し、窮地に立たされている百済にとっては、倭国の軍事支援が必要だった。軍事支援を引き出すための格好のエサは、仏教のもつ第一級の芸術・文化であると判断した聖王は、使者を派遣して仏教を伝え、その代償として軍事支援を要求してきた。聖王からみれば、仏教は見返りを引き出すための戦略的ツールそのものだった。
当時の蘇我馬子は、大和政権の中にあって大臣の要職にあったが、かならずしも第一の権力者ではなかった。軍事氏族として強大な権力と財力を有する物部氏という存在が、蘇我氏の前に立ちはだかっていた。石上神宮の祭祀も司っている物部氏は、かならずしも仏教導入に積極的ではない。物部氏の勢力に追いつき追い越すには、仏教は願ってもない戦略ツールとなる。野心家の馬子は篤実な仏教崇拝者を装いながら、着々と物部氏追い落としの戦略を練っていたと思われる。 しかし、蘇我馬子が一族の氏寺として荘厳な法興寺(=飛鳥寺)の建立に取りかかるのは、用明天皇2年(587)秋7月に丁未の変(ていびのへん)と呼ばれる蘇我−物部戦争で、物部本宗家の守屋を滅ぼして後のことである。せっかく6世紀の中頃に百済から仏教が伝来しながら、外来宗教が我が国に根付いていく実態が、丁未の変の頃までよく分からないのが実情である。交代制で百済から僧侶を派遣してきた制度も、聖王の死後はいつしか立ち消えになり、倭国の側にもそれほど仏教弘通の必要性が感じられなかったのであろう。 『日本書紀』は2度にわたって、蘇我vs物部の崇仏廃仏論争を記述していて、我が国でも仏教導入に受難の時期があったような印象を与えている。しかし、これらの記述は蘇我氏が仏教導入に果たした役割を顕彰するために、『日本書紀』編纂時の創作であるとする説がある(*)。『日本書紀』は丁未の変を崇仏・廃仏論争の武力的解決のように装って記述しているが、廃仏派とされる物部守屋も渋川に氏寺(=渋川廃寺)を建立していた事実が、最近考古学的発掘で証明されている。
こうした物部氏の派遣武将たちは、武寧王の時代の熊津城で、そして聖王の時代の泗沘(しひ)城で甍を並べる仏教寺院を目の当たりにして、仏教国家・百済の実情をつぶさに守屋に報告しているはずである。守屋の父の尾輿が馬子の父の稲目と争ったのは、天皇家が蕃神を祭祀すべきかどうかの諾否を争ったのであり、氏族レベルで仏教を受け入れるべきかどうかを争ったわけではない。丁未の変(ていびのへん)は宗教戦争ではなく、用明天皇崩御の後の皇位継承者を巡る権力闘争であったと理解すべきであると、筆者は考えている。 仏像祭祀仏教から如法仏教へ敏達13年(584)、3人の渡来系の娘が出家して尼となった。すなわち、司馬達等(しばたつと)の娘・嶋(しま)、漢人夜菩(あやひとのやめ)の娘・豊女(とよめ)、そして錦織壺の娘・石女(いしめ)である。出家した後の彼女たちの法名はそれぞれ善信尼、禅蔵尼、恵善尼といった。出家の師は、播磨にいた高句麗からの渡来人で恵便という還俗者だった。三人の尼は、馬子の家の東方に新しく造って弥勒石像を安置した仏殿で、在来神に仕える巫女のように仏に仕えた。 「出家の途は、戒(い)むことをもって本となす」という。尼になるための正式な受戒の手順は、まず尼寺で十尼師を請い本戒を受け、ついで、法師寺に詣でて法師を請い、先の尼師十と合わせ、二十師で本戒を受けなければならない。だが、恵便は正式の僧侶でも受戒師でもなかった。それ加えて、当時は受戒に必要な数の尼も僧侶も存在しなかった。
丁未の変で政敵・物部守屋を葬った蘇我馬子は、善信尼たちが百済に赴いた年、念願の氏寺創建に取りかかった。現在の飛鳥寺あたりに建っていた衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし整地作業が始まり、翌年には山に入って伽藍の用材を伐採している。この氏寺が完成するのは、推古4年(596)とも、推古17年(609)とも言われている。 後に聖徳太子として尊崇される厩戸皇子(うまやとのみこ)は、蘇我軍に荷担した皇子の一人として丁未の変に参戦している。時に数え年で14歳。まだ多感な年頃の少年だった。しかも、わずか3ヶ月前に父の用明帝を病気で亡くしている。
「今もし敵に勝たせてくださったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」 と、戦勝を祈願したという。後の難波四天王寺の縁起にも見える有名な逸話である。四天王とは『金光明経』などに表された護法善神の持国天・増長天・広目天・多聞天のことをいう。数種ある『金光明経』の中では義浄(635 - 713)が漢訳した『金光明最勝王経』が最も読まれ、我が国で四天王信仰が一般に流布するのは、7世紀後半から8世紀初頭の頃とされている。 したがって、それよりも1世紀近く前の丁未の変の頃に四天王信仰が我が国で普及していたとは思えない。逸話は逸話として、14歳の厩戸皇子がその頃から仏教に深く傾倒していたとする証拠にはならない。 崇峻元年(588)、善信尼ら3人の尼に戒律を学ばせるため、蘇我馬子は帰国する百済の使節・首信(すしん)に頼んで彼女たちを百済に留学させた。百済では、聖王4年(526)に謙益(けんやく)がインドから帰国すると、持ち帰った梵本『五分律』を翻訳している。謙益はさらにインド僧倍達多(ばいだった)を戒律の師として同行させている。曇旭(どんきょく)と恵仁(えにん)の二人はこの『五分律』を注釈して律疏36巻を著し、これにより百済律宗が確立されたとされている。 いわば、当時の百済は中国を飛び越してインドから直接戒律を学んだ仏教王国だった。
大伴狭手彦連の女・善徳(ぜんとく)、大伴狛の夫人、新羅媛善妙(ぜんみょう)、百済媛妙光(みょうこう)、漢人の善聰(ぜんそう)、善通(ぜんつう)、妙徳(みょうとく)、法定照(ほうじょうしょう)、善智恵(ぜんちえ)、善光(ぜんこう) また鞍作司馬達等の子・多須奈も同時に出家して徳斉法師を名乗ったという。その多くは渡来系氏族の子女だったが、我が国で正式に受戒した僧尼が誕生したことに変わりはない。 推古4年(595)、高句麗僧の慧慈(えじ)が来朝し、同じ年に、百済からも慧聡(えそう)が来朝した。翌年の11月、蘇我氏の氏寺が完成する。馬子は「仏法興隆」から2字を取って法興寺と名付けた。一般には飛鳥寺と呼ばれた寺である。慧慈と慧聡は、落成した法興寺に止住し、やがて倭国仏教の中心的存在になっていく。 二人の僧は己の意志で来朝したのではない。蘇我馬子が両国から招聘したのか、あるいは飛鳥寺建立の噂を聞いて、両国の国王が送り込んできたかのいずれかである。国王から派遣されてきた当時の仏僧は、同時に我が国における外交大使の役目も担っていた。特に、今や倭国の第一人者の地位を確保した蘇我馬子と友誼を保つことは、両国にとってきわめて重要だった。
我が国最初の女帝として登極した推古帝は、当時20歳の厩戸皇子を摂政に任じ、国政をすべて任せたとされている。どこまで真実かは分からないが、皇子に関するさまざまな伝承から判断すると、皇子がずば抜けた頭脳の持ち主だったことは事実のようだ。若い頭脳は慧慈の教えを次々と吸収していったであろう。少し後になるが、推古15年(606)7月、推古女帝は皇子を小墾田宮に招き、勝鬘経を講説させている。この年、皇子はさらに岡本宮で法華経を講じたという。 これらの経典を講説できたとしても、『三経義疏』が皇子の親撰でないとなると、皇子が上記の教学を完全に修得していたかどうかは疑問である。慧慈は推古23年(615)に帰国している。皇子が学問僧師弟として修学した期間は20年にすぎない。これだけの期間で最先端教学を修得するのは、おそらく無理であっただろう。 法興寺の完成や四天王寺の創建を皮切りに、蘇我氏が抱える仏教技術者の提供を受けて、中央の有力豪族がつぎつぎと氏寺の建立に奔走するようになった。厩戸皇子の逝去から3年後の推古32年(624)には、46の寺院が建立されていた。僧尼の数も僧が816人、尼が569人、合わせて1385人に達したという。 ここで留意すべきは、これらの寺院のほとんどは中央豪族が祖先供養と一族の安寧祈願を目的として建立した氏寺だったということである。しかも、地方豪族の建てた寺はまれであり、飛鳥を中心に近畿地方で建てられた。そうした意味からも、この時代の仏教は文字通り飛鳥の仏教だった。飛鳥時代の仏教は、一般民衆はほとんど無関係だった。一般民衆が仏教を需要し始めるのは奈良時代のことである。
当時の僧尼や在家の仏教信者が、自分の成仏を要件として他者の救済活動をどのように実践したかは不明である。厩戸皇子は敬虔な仏教信者であると同時に、卓越した政治感覚の持ち主でもあった。 推古13年(605)4月、32歳のとき斑鳩の宮に移ると共に、斑鳩寺(法隆寺の前身)を建立している。斑鳩寺は単なる一族の氏寺ではなかった。有能な若者を集めて仏教教学を学ばせる学問所でもあった。そうした学問の寺を創設したことが、厩戸皇子の利他行ではないかと、筆者は思っている。やがて、この寺で仏教の基礎を学んだ若者たちが、本格的に仏教教学を修得するために学問留学僧として遣隋使節に従って大陸に渡ることになる。 |