橿原日記 平成20年1月25日

聖徳太子時代の仏教界の実相は・・・

法隆寺聖霊院内陣の太子像
法隆寺聖霊院の内陣に鎮座する聖徳太子像

象牙の塔が生んだ非常識とも思える学説

治45年(1912)7月30日の明治天皇逝去で明治という時代が終焉し、同じ年の9月13日に明治天皇の大葬が行われた。その日の夕べ、日露戦争で旅順攻撃を指揮し、軍神と崇められた乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将が静子夫人とともに自刃して亡くなった。明治天皇に対する殉死であり、このとき乃木大将は次の辞世の歌を残している。
   うつ志世を 神去りましゝ 大君乃 みあと志たひて 我はゆくなり

乃木希典陸軍大将
乃木希典陸軍大将
治は遠くなりにけりというが、今を去ることわずか95年前のできごとである。しかし、この殉死がまったくデタラメであり、そもそも乃木希典などという軍人は架空の人物であると、官選の史書で記述されていたとしたら・・・。我々は史実の歪曲であるとして政府を糾弾し、史書の書き直しを要求するであろう。我々の感覚では日露戦争は過去の遠い歴史ではなく、現代史の一部である。

は変わって、奈良時代の初めの養老4年(720)、我が国で最初の正史『日本書紀』が上梓された。この史書は当時の律令官僚を主な対象読者として、天皇家の万世一系の皇統譜の正当性を主張したきわめて政治性の強い正史である。

『〈聖徳太子〉の誕生』
『〈聖徳太子〉の誕生』
ころが、冠位十二階や十七条憲法で知られる聖徳太子が、実は『日本書紀』編纂の過程で捏造された虚像であるとする説が、少し前に世に出た。平成11年(1999)のことである。中部大学教授・大山誠一氏は『〈聖徳太子〉の誕生』という著作を吉川弘文館から出版され、その中で特異な聖徳太子論を展開された。書籍のタイトルに聖徳太子がカッコ付きで示されているように、大山教授は聖徳太子は実在の人物ではない、『日本書紀』編纂の時点で創作された人物であるとされた。そのため当時はかなりマスコミの話題になった。

速その著書を購入して通読した後、我が身を当時の律令官僚の一人に置き換えてみた。そして、ねつ造された聖徳太子を記述した『日本書紀』を読まされたら、どのような感慨を抱くか想像してみた。奈良時代初期の律令官僚たちには、推古天皇以後の歴史はおそらく現代史の範疇で捕らえていたはずである。『古事記』も推古天皇の即位をもって記述を止めている。聖徳太子の行業も当時はすでに一般常識あるいは史実として普及していたであろう。彼等が理解していた太子像がまったく架空のものであると説かれたら、大いに戸惑っただろうし、何よりもそうした説を受け入れるのに拒否反応を示したにちがいない。

れはあたかも、上記の乃木希典が架空の人物であり、殉死などの事実などなかった、とする説が現代に提示されたようなものだ。国民の誰一人このような説を受け入れるのに躊躇するにちがいない。だが、象牙の塔に立てこもった専門家諸氏は、時には常識を疑うような新説を提示してくる。そうすることが彼等の存在理由なのかもしれないが、正常な感覚の持ち主には異常に見える。そうした観点から、大山説の批判を試みた( 大山説に対する疑問を参照)。

聖徳太子のイメージ<
聖徳太子のイメージ
山説の論旨は、当時の唐から日本が後進国と見下されるのを危惧して、我が国にも儒仏道に精通した人物が存在したことを示すために、『日本書紀』の編纂時点で聖徳太子像が創作された、というものである。飛鳥時代に厩戸皇子(うまやとのみこ)と呼ばれた王族が実在したは、大山氏も否定しておられない。だが厩戸皇子は後に聖徳太子として尊崇されるような人物ではなかった。我々が知る聖徳太子像や太子の事績は、上記のような必要性に迫られてでっち上げられたものだという。

史上の人物の中には、後世さまざまな伝承が付加されて、実像とはかけ離れたイメージで伝えられている例がある。しかし、ある目的のために存在もしない人物像が紙上で創作され、その人物の事績が正史で堂々と記述されることが有りうるのだろうか。当時の為政者の意志でこのような史書が編纂されたのであれば、それはもはや正史の名に値しない。



仏教理解の最高到達点を示す三経義疏は太子作ではなかった!!

戸皇子は後世、「聖徳太子」の尊称で呼ばれ「日本仏教の祖」として語られることが多い。確かに、当時としては最高の知識人であったようだ。『日本書紀』によれば、仏法を高句麗の僧・慧慈(えじ)に習い、儒教の経典を(かくか)に学んだ。だが、それ以上に大陸の様々な教養を吸収して、中国の儒教や仏教に精通しており、本人自身も仏教に対してかなりの篤信者だったと思われる。

朝の散歩道−1
朝の散歩道−1
が、大山教授の聖徳太子像創作説は横においておくとしても、当時の仏教界の実像を我々はどこまで押さえているだろうか。最近、そうした疑問にぶち当たっている。そのきっかけとなったのは、『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』に対する史学界の研究成果である。

経義疏とは、厩戸皇子によって著されたとされる法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏の総称で、それぞれ法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈書である。『日本書紀』は推古14年(606)に厩戸皇子が勝鬘経と法華経を講じたと記述しているが、三経義疏の製作に関しては何も記していない。

戸皇子が経典の内容を推古女帝に講義したり、経典の注釈書を作成したのが史実であるなら、皇子自身の仏教に対する精通度は瞠目すべきで、当時の我が国における仏教理解の最高到達点と見なしてよいであろう。だが、最近の歴史学会は、三経義疏の皇子御製とする伝承に対して否定的なようである。

朝の散歩道−2
朝の散歩道−2
戸皇子による三経義疏の製作を伝えているのは、平安時代前期に編纂された著者不明の聖徳太子伝『上宮聖徳太子伝補闕記』である。補闕記によれば、勝鬘経義疏は推古17年(609)に製疏を始めて同19年(611)に完成、維摩経義疏は同20年に始めて翌年(613)完成、法華義疏は同22年に始めて翌年(615)完成したという。

料上での三経義疏の初見は、天平19年(747)に作成された『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』である。そこには「法華経疏3部各4巻、維摩経疏1部3巻、勝鬘経疏1巻、右上宮聖徳法王の御製といえり」と記されている。厩戸皇子がこれら三経の注釈書を実際に記述したのであれば、仏教に対する精通深さには驚嘆せざるを得ない。だが、最近ではその信憑性に疑問がもたれ、皇子御製説を鵜呑みにするわけにはいかない。

洋学者の藤枝晃(ふじえだあきら)氏は、皇子御製とされる『勝鬘経義疏』と敦煌の写経中から発見された『勝鬘義疏本義』を比較研究された。昭和50年(1975)のことである。そして、ほぼ7割が同じであることを証明され、これらの2疏は同じ原『勝鬘義疏本義』を6世紀後半に改修・節略した中国成立の兄弟系列本であると結論づけられた。法華義疏や維摩経疏に関しても、歴史学会ではその依拠学派や学説の引用傾向などの分析を行ってきた。その結果、これらの義疏も6世紀に中国で作成され、その後まもなく我が国に伝わったと推察されている。



7世紀初頭までの我が国の仏教を概括する

世紀初頭と言えば、我が国最初の女帝とされる推古天皇の治世である。摂政に任じられた厩戸皇子と大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)の三人で国政を主導した時代とされている。馬子は父の代からの熱心な仏教信者であり、我が国最初の本格的仏教寺院・法興寺(=飛鳥寺)をすでに建立している。厩戸皇子は馬子以上に熱心な仏教徒であり、女帝に仏教興隆の詔を出させたり、憲法17条を制定して仏・法・僧を敬うことを役人たちに求めている。つまり、百済から伝来した仏教が最初の大きな飛躍を迎えた時代と言えよう。

半の日本人が平安あるいは鎌倉時代に創設された宗派の門徒である現代の我々から見れば、当時の仏教界の様相は現代のそれとは相当違っていたことは想像にかたくない。だが、具体的にどう違っていたかと聞かれると答えに窮する。そこで、当時の仏教界の様子を少し調べてみた。

 仏教公伝

教という外来宗教は、当時朝鮮半島にあった百済の聖王(せいおう、聖明王)から我が国の欽明(きんめい)天皇に伝えられたとされている。この意味は大きい。国王から国王へ、すなわち国家対国家というレベルで伝えられたのである。そのため、これを「仏教公伝」と呼んでいる。だが、その時期については2説ある。『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』などは欽明天皇戊午年(538)とし、『日本書紀』は同天皇13年(552、壬申年)としている。どちらを正しいかは歴史学会でも異論があり、現状では6世紀中頃のこととしておくことが無難なようだ。

鞍作氏が建てた坂田寺跡
鞍作氏が建てた坂田金剛寺跡
教公伝以前に、渡来系の人々の間で仏教が信仰されていた可能性は高い。たとえば『扶桑略記』は、継体16年(522)2月に来朝した渡来人の鞍部村主司馬達等(くらつくりのすぐり・しばたつと)が、高市郡坂田原で草堂を結び、仏像を安置し帰依礼拝したと伝えている。この伝承は史実としての信憑性は薄い。しかし、6世紀の初めころまでにはかなりの渡来人が我が国に定住している。彼等の母国ではすでに仏教が一定の地歩を占めつつあり、彼等が小仏像を携えてきて個人的に帰依礼拝していたことは十分考えられる。

教公伝を記す『日本書紀』に従えば、百済の聖王は使者を派遣して釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献上し、あわせて仏教受容を勧誘する聖王の上表文を提出した。その中で、聖王は勧誘の理由としては、仏教がきわめて高度で高級な教えである こと、願い通りの利益(りやく)をもたらす功徳が大な教えであること、などを挙げている。欽明天皇は、献上された仏像の容貌を賞賛し、仏教を受け入れるべきか否か臣下に諮問した。

飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏
飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏
臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の国の諸国は皆礼拝しています。我が国だけがそれに背くべきでしょうか」と崇仏の立場を鮮明にした。これに対して、大連の物部尾興(もののべのおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじ・かまこ)は、「我が国では天地社稷の百八十神を春夏秋冬に祀っています。新しく蕃神(あたしくにのかみ、=仏像)を拝むとなれば、これらの国神(くにつかみ)の怒りを受けることになるでしょう」と反対したという。こうして崇仏派蘇我氏と廃仏派物部氏の対立が始まったと、『日本書紀』は記している。

明天皇は、百済の聖王から正式に伝えられた仏教を無視するわけにもいかず、稲目に仏像を与えて試みに崇拝させることにした。しかし、稲目がその仏像を礼拝したことで、国神の怒りを買い全国的に疫病が流行して多くの病死者が出た。そのため、廃仏派は仏像を難波の海に棄てたという。

じ事件が敏達14年(585)にも起きている。この年、蘇我馬子が病気になった。占わせると、父(=稲目)の時に祀った仏に祟られている」という。馬子は敏達帝の許可を得て百済から招来した石仏を礼拝し、延命を祈願した。すると、またしても国神がたたり、疫病が流行して多くの人が死んだ。廃仏派は蘇我馬子の草堂をおそって焼き払い仏像を難波の堀江に棄てた。すると、今度は仏神がたたった。敏達帝の宮が神火で焼け、天皇と大連の物部守屋(もののべのもりや)が天然痘でやられ、天皇などはそれがもとで死んでしまったという。

日本書紀』に記されたこうした伝承は、我々に興味ぶかいことを教えてくれる。仏教伝来から50年あるいは30年を経ても、当時の人々は仏を寛容な救済者ではなく、攻撃をうければ怒って即座にたたる国神と同様な存在と認識していたということだ。在来神は姿かたちが見えない存在だが、蕃神は金色の輝きを放っていた。それだけに一層不気味な神に見えたのかもしれない。

止利仏師作釈迦三尊像の主尊
止利仏師作釈迦三尊像の主尊
に、在来の国神はもともと限られた地域の自然秩序を維持してくれる神々であり、「五穀豊穣」とか「四時巡行」といった地域農耕社会の秩序を守ってくれる神々だった。蕃神は違った側面をもっていた。馬子が延命を祈願したように、個人や一家の福徳を祈願しても、それに答えてくれる神と認識されていたようだ。その背景には次のような事実がある。

ッダが説いた仏教の教義は、個人が祭祀によって利益を得るのではなく、修行によってこの世の束縛を離れることを教えるものだった。だが、中国や朝鮮では、仏教が在来の御利益信仰と同列視されて広まった。つまり、インド伝来の教理・教学仏教の上に現世利益信仰の外皮をまとったものが、当時の東アジアの仏教だったのである。したがって、百済が我が国に伝えた仏教も、インド仏教のように個人救済を目的とした宗教ではなく、現世利益の招来を目的としたの宗教だった。

来の恐ろしき荒ぶる神をなだめるのは、供物を捧げ祝詞をあげて祭祀を行わなければならない、それを行なうものはシャーマンや巫女、あるいは呪術をもつ族長の役割だった。崇仏派の筆頭にあげられている蘇我馬子も、仏教の思想的・観念的内容を理解して帰依していたとは思えず、仏教という宗教を在来神祭祀と同質の仏像祭祀として理解していたようだ。馬子の仏教に対する知識はその程度のものだった。そこで、敏達13年(584)、馬子は渡来系氏族の娘3人を得度させて、自宅の東に仏殿を作り石仏に奉仕させている。

教を構成する三つの大切な要素は仏・法・僧、すなわち仏像と経巻と出家僧であり、仏教では仏・法・僧を三宝と呼んでいる。百済の聖王からの献上品の中には、釈迦像と経論若干巻が含まれている。だが、僧侶が含まれていない。これでは仏教を正式に伝えたことにならないと思っていたが、実は僧侶も派遣されていた。仏教公伝から2年後の欽明天皇15年(554)2月には、百済は援軍を要請した際に「僧曇慧(どんえ)ら9人を僧道深(どうしん)など7人に代えている。このことは、百済が交代制で継続的に僧侶を我が国に常駐させていたことを示している。

法隆寺夢殿の救世観音像
法隆寺夢殿の救世観音像
等が仏教弘通にどのような貢献を果たしたかはいっさい不明である。仏教を構成するものの中で本来最も重要なのは教義であるとされているが、言葉も文化も思考も異なる地域では、教義が一番伝えがたい部分であろう。まして、仏典を深く学び、仏僧として帰依しようとする人々が不在の状態では、せっかく派遣されてきた百済僧たちも手持ち無沙汰であっただろう。

かし、仏像を信仰する分には、必ずしも教義を理解している必要はない。相応の敬意を払って教えられたとおりに祭祀を行い、誠実に祈りを捧げればよい。中国でも、仏教伝来の最初期には仏が道教の黄帝・老子と同列の存在と受け取られて、それらと同じ「神」として現世福徳や不老長寿を祈った。

戸皇子が生まれ育った頃の仏教とは、およそこのような状況だったと思われる。仏を敬い仏教の弘通に尽力したとされる叔父の蘇我馬子すら、仏教に対する理解は上記の程度だったと思われる。後世、奈良時代から平安時代にかけて、厩戸皇子が聖徳太子として尊崇を集めるようになって、宗教界は様々な奇瑞を作り出して太子の伝記を作るようになる。そうしたフィルタを通して当時の宗教界の様相を推察しても、実態はなにも見えてこない。

 当時の仏教の持つ側面

々現代人は、仏教をインドで興った世界三大宗教の一つとして理解している。しかし、仏教が伝来した6世紀の時点に我が身を置いてみると、現在の我々が抱く宗教理念とは違ったものが見えてくるのではないだろうか。

>線刻壁画−船に乗る人物
高井田古墳群第3支群5号墳に描かれた
線刻壁画 −船に乗る人物
(百済へ出征する兵士?)
れは、仏教を伝えた百済の聖王の立場と仏教を受容した蘇我氏の立場を読み解くことで見えてくる。結論から先に言うと、百済王にとっては、仏教は倭国から軍事支援を引き出すためのいわば戦略ツールであり、蘇我氏にとっては、仏教は一族の権力を荘厳に飾るツールと解していたように思える。

在の世界経済において、オイルやレアメタルなどの資源物資、あるいは大豆や小麦といった農産物は、高度な戦略物資としての性格を有している。生産国が戦略的にこれらの物資の供給を止めれば、消費国側の経済はたちまち大混乱に陥る。当時の東アジア諸国において、仏教はその教義の崇高さもさることながら、仏教寺院や仏僧が備えた最先端の総合技術や文化が注目された。仏教寺院という特異な建築物、その中に安置された金色の仏像と堂内を飾る華麗な壁画、そして仏事に荘厳さ添える仏教音楽や舞踊は、第一級の芸術であり文化だった。

王はそうした第一級の芸術・文化を備えた仏教を無償で我が国に提供するほど度量が大きかったとは思えない。聖王は仏教の持つ魅力を十分に知っていたはずである。仏教の魅力に取り憑かれて、南梁に何度も使者を派遣して仏教の導入に尽力したのは、他ならぬ聖王自身だった。

時、倭国の側から仏教の提供を求めたわけではない。だが、朝鮮半島で高句麗や新羅と敵対し、窮地に立たされている百済にとっては、倭国の軍事支援が必要だった。軍事支援を引き出すための格好のエサは、仏教のもつ第一級の芸術・文化であると判断した聖王は、使者を派遣して仏教を伝え、その代償として軍事支援を要求してきた。聖王からみれば、仏教は見返りを引き出すための戦略的ツールそのものだった。

線刻壁画−出征兵士に袖を振る女性
高井田古墳群第3支群5号墳に描かれた
線刻壁画 −出征兵士に袖を振る女性
方、崇仏派とされた蘇我稲目・馬子父子は仏教の教義そのものより、まず仏教が持つ最先端の技術や文化に着目した。今まで目にしたことがない七堂伽藍の建物を蘇我一族の氏寺として建立すれば、これまでの巨大な墳墓に代わって、一族の権力の大きさを十分に象徴してくれるはずだ。さらに、仏教という外来の宗教がもたらす技術や文化の独占できれば、他の氏族が氏寺の建立を思い立ったとき、蘇我氏からの技術支援を仰がざるを得なくなる。その結果、蘇我氏の他氏への影響力が増し、権力の拡大に大いに寄与するにちがいない。

時の蘇我馬子は、大和政権の中にあって大臣の要職にあったが、かならずしも第一の権力者ではなかった。軍事氏族として強大な権力と財力を有する物部氏という存在が、蘇我氏の前に立ちはだかっていた。石上神宮の祭祀も司っている物部氏は、かならずしも仏教導入に積極的ではない。物部氏の勢力に追いつき追い越すには、仏教は願ってもない戦略ツールとなる。野心家の馬子は篤実な仏教崇拝者を装いながら、着々と物部氏追い落としの戦略を練っていたと思われる。

かし、蘇我馬子が一族の氏寺として荘厳な法興寺(=飛鳥寺)の建立に取りかかるのは、用明天皇2年(587)秋7月に丁未の変(ていびのへん)と呼ばれる蘇我−物部戦争で、物部本宗家の守屋を滅ぼして後のことである。せっかく6世紀の中頃に百済から仏教が伝来しながら、外来宗教が我が国に根付いていく実態が、丁未の変の頃までよく分からないのが実情である。交代制で百済から僧侶を派遣してきた制度も、聖王の死後はいつしか立ち消えになり、倭国の側にもそれほど仏教弘通の必要性が感じられなかったのであろう。

日本書紀』は2度にわたって、蘇我vs物部の崇仏廃仏論争を記述していて、我が国でも仏教導入に受難の時期があったような印象を与えている。しかし、これらの記述は蘇我氏が仏教導入に果たした役割を顕彰するために、『日本書紀』編纂時の創作であるとする説がある(*)。『日本書紀』は丁未の変を崇仏・廃仏論争の武力的解決のように装って記述しているが、廃仏派とされる物部守屋も渋川に氏寺(=渋川廃寺)を建立していた事実が、最近考古学的発掘で証明されている。

物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺
物部守屋の屋形跡に建つ大聖勝軍寺
者も物部氏が廃仏派だったとは解していない。高句麗の好太王との武力衝突で百済の要請を受けて半島に派兵して以来、軍事支援の中心にいた氏族は常に物部氏である。継体21年(527)に勃発した磐井の乱を1年あまりをかけて鎮圧したのは、守屋の祖父・物部麁鹿火(もののべのあらかい)であったことを考えても、物部氏がいかに優れた軍事氏族であったかが分かる。一族の中から多くの武将が半島に渡り百済を助けて高句麗や新羅と戦った。中には、半島に住み着いて現地の女性と結婚したものもいる。

うした物部氏の派遣武将たちは、武寧王の時代の熊津城で、そして聖王の時代の泗沘(しひ)城で甍を並べる仏教寺院を目の当たりにして、仏教国家・百済の実情をつぶさに守屋に報告しているはずである。守屋の父の尾輿が馬子の父の稲目と争ったのは、天皇家が蕃神を祭祀すべきかどうかの諾否を争ったのであり、氏族レベルで仏教を受け入れるべきかどうかを争ったわけではない。丁未の変(ていびのへん)は宗教戦争ではなく、用明天皇崩御の後の皇位継承者を巡る権力闘争であったと理解すべきであると、筆者は考えている。

 仏像祭祀仏教から如法仏教へ

達13年(584)、3人の渡来系の娘が出家して尼となった。すなわち、司馬達等(しばたつと)の娘・(しま)、漢人夜菩(あやひとのやめ)の娘・豊女(とよめ)、そして錦織壺の娘・石女(いしめ)である。出家した後の彼女たちの法名はそれぞれ善信尼、禅蔵尼、恵善尼といった。出家の師は、播磨にいた高句麗からの渡来人で恵便という還俗者だった。三人の尼は、馬子の家の東方に新しく造って弥勒石像を安置した仏殿で、在来神に仕える巫女のように仏に仕えた。

出家の途は、戒(い)むことをもって本となす」という。尼になるための正式な受戒の手順は、まず尼寺で十尼師を請い本戒を受け、ついで、法師寺に詣でて法師を請い、先の尼師十と合わせ、二十師で本戒を受けなければならない。だが、恵便は正式の僧侶でも受戒師でもなかった。それ加えて、当時は受戒に必要な数の尼も僧侶も存在しなかった。

蘇我馬子が建立した法興寺の跡に建つ飛鳥寺
蘇我馬子が建立した法興寺の跡に建つ飛鳥寺
峻元年(587)6月、正式な手続きを経て尼になったのではないことを知った善信尼たちは、百済に赴いて正式に戒を受けることを蘇我馬子に願い出た。丁未の変(587年7月)が勃発するわずか1ケ月前のことである。実際に彼女たちの百済留学が実現したのは、それから1年後の崇峻元年(588)のことである。彼女たちの留学は、現世福徳や祖先供養のために仏像を祭祀していたにすぎない仏教が、如法仏教へ移行するのを予感させるものだった。

未の変で政敵・物部守屋を葬った蘇我馬子は、善信尼たちが百済に赴いた年、念願の氏寺創建に取りかかった。現在の飛鳥寺あたりに建っていた衣縫造の祖・樹葉(このは)の家をつぶして寺地とし整地作業が始まり、翌年には山に入って伽藍の用材を伐採している。この氏寺が完成するのは、推古4年(596)とも、推古17年(609)とも言われている。

に聖徳太子として尊崇される厩戸皇子(うまやとのみこ)は、蘇我軍に荷担した皇子の一人として丁未の変に参戦している。時に数え年で14歳。まだ多感な年頃の少年だった。しかも、わずか3ヶ月前に父の用明帝を病気で亡くしている。

信貴山寺境内の騎乗太子像
信貴山寺境内の騎乗太子像
の14歳の若き厩戸皇子が、蘇我軍の劣勢を見て、ヌリデの木を切り取って四天王の像を刻み、束髪の上にのせると
「今もし敵に勝たせてくださったら、必ず護世四王のため寺塔を建てましょう」
と、戦勝を祈願したという。後の難波四天王寺の縁起にも見える有名な逸話である。四天王とは『金光明経』などに表された護法善神の持国天・増長天・広目天・多聞天のことをいう。数種ある『金光明経』の中では義浄(635 - 713)が漢訳した『金光明最勝王経』が最も読まれ、我が国で四天王信仰が一般に流布するのは、7世紀後半から8世紀初頭の頃とされている。

たがって、それよりも1世紀近く前の丁未の変の頃に四天王信仰が我が国で普及していたとは思えない。逸話は逸話として、14歳の厩戸皇子がその頃から仏教に深く傾倒していたとする証拠にはならない。

峻元年(588)、善信尼ら3人の尼に戒律を学ばせるため、蘇我馬子は帰国する百済の使節・首信(すしん)に頼んで彼女たちを百済に留学させた。百済では、聖王4年(526)に謙益(けんやく)がインドから帰国すると、持ち帰った梵本『五分律』を翻訳している。謙益はさらにインド僧倍達多(ばいだった)を戒律の師として同行させている。曇旭(どんきょく)と恵仁(えにん)の二人はこの『五分律』を注釈して律疏36巻を著し、これにより百済律宗が確立されたとされている。 いわば、当時の百済は中国を飛び越してインドから直接戒律を学んだ仏教王国だった。

豊浦寺の跡地に建つ現在の向原
豊浦寺の跡地に建つ現在の向原寺
の善信尼たちが、崇峻3年(590)3月に帰国すると、桜井寺(別名向原寺)に住んで多くの者を出家させている。『日本書紀』には、この年出家した尼として、以下の者の名を伝えている。
大伴狭手彦連の女・善徳(ぜんとく)、大伴狛の夫人、新羅媛善妙(ぜんみょう)、百済媛妙光(みょうこう)、漢人の善聰(ぜんそう)、善通(ぜんつう)、妙徳(みょうとく)、法定照(ほうじょうしょう)、善智恵(ぜんちえ)、善光(ぜんこう)
また鞍作司馬達等の子・多須奈も同時に出家して徳斉法師を名乗ったという。その多くは渡来系氏族の子女だったが、我が国で正式に受戒した僧尼が誕生したことに変わりはない。

古4年(595)、高句麗僧の慧慈(えじ)が来朝し、同じ年に、百済からも慧聡(えそう)が来朝した。翌年の11月、蘇我氏の氏寺が完成する。馬子は「仏法興隆」から2字を取って法興寺と名付けた。一般には飛鳥寺と呼ばれた寺である。慧慈と慧聡は、落成した法興寺に止住し、やがて倭国仏教の中心的存在になっていく。

人の僧は己の意志で来朝したのではない。蘇我馬子が両国から招聘したのか、あるいは飛鳥寺建立の噂を聞いて、両国の国王が送り込んできたかのいずれかである。国王から派遣されてきた当時の仏僧は、同時に我が国における外交大使の役目も担っていた。特に、今や倭国の第一人者の地位を確保した蘇我馬子と友誼を保つことは、両国にとってきわめて重要だった。

聖徳太子及二王子像
聖徳太子二王像
の慧慈が厩戸皇子の仏教の師だったことはよく知られている。慧慈は三論・成実教学の学僧として高句麗では著名な人物だった。皇子は慧慈について、涅槃教学や法華教学、維摩教学など、六朝仏教で三論教学として重視されていた経典を学んだ。さらに『成実論』に基づく成実教学を学んだものと思われる。これらは当時の東アジアにおいて最先端の教学だった。

が国最初の女帝として登極した推古帝は、当時20歳の厩戸皇子を摂政に任じ、国政をすべて任せたとされている。どこまで真実かは分からないが、皇子に関するさまざまな伝承から判断すると、皇子がずば抜けた頭脳の持ち主だったことは事実のようだ。若い頭脳は慧慈の教えを次々と吸収していったであろう。少し後になるが、推古15年(606)7月、推古女帝は皇子を小墾田宮に招き、勝鬘経を講説させている。この年、皇子はさらに岡本宮で法華経を講じたという。

れらの経典を講説できたとしても、『三経義疏』が皇子の親撰でないとなると、皇子が上記の教学を完全に修得していたかどうかは疑問である。慧慈は推古23年(615)に帰国している。皇子が学問僧師弟として修学した期間は20年にすぎない。これだけの期間で最先端教学を修得するのは、おそらく無理であっただろう。

興寺の完成や四天王寺の創建を皮切りに、蘇我氏が抱える仏教技術者の提供を受けて、中央の有力豪族がつぎつぎと氏寺の建立に奔走するようになった。厩戸皇子の逝去から3年後の推古32年(624)には、46の寺院が建立されていた。僧尼の数も僧が816人、尼が569人、合わせて1385人に達したという。

こで留意すべきは、これらの寺院のほとんどは中央豪族が祖先供養と一族の安寧祈願を目的として建立した氏寺だったということである。しかも、地方豪族の建てた寺はまれであり、飛鳥を中心に近畿地方で建てられた。そうした意味からも、この時代の仏教は文字通り飛鳥の仏教だった。飛鳥時代の仏教は、一般民衆はほとんど無関係だった。一般民衆が仏教を需要し始めるのは奈良時代のことである。

法隆寺西院伽藍
法隆寺西院伽藍
が国に伝来した仏教はブッダが説いた仏教そのものではなく、一般に大乗仏教と呼ばれている。大乗仏教の発生は、紀元一世紀頃までさかのぼるが、この新仏教は、他者の救済を自分の成仏の要件とする「自利利他」の旗印を掲げた。そして、出家・在家を問わず、その実現にむかって利他業(菩薩業)を実践し続ける「菩薩」が正統な仏教徒であるとした。

時の僧尼や在家の仏教信者が、自分の成仏を要件として他者の救済活動をどのように実践したかは不明である。厩戸皇子は敬虔な仏教信者であると同時に、卓越した政治感覚の持ち主でもあった。 推古13年(605)4月、32歳のとき斑鳩の宮に移ると共に、斑鳩寺(法隆寺の前身)を建立している。斑鳩寺は単なる一族の氏寺ではなかった。有能な若者を集めて仏教教学を学ばせる学問所でもあった。そうした学問の寺を創設したことが、厩戸皇子の利他行ではないかと、筆者は思っている。やがて、この寺で仏教の基礎を学んだ若者たちが、本格的に仏教教学を修得するために学問留学僧として遣隋使節に従って大陸に渡ることになる。




(*)参考文献:曾根正人著『聖徳太子と飛鳥仏教』(吉川弘文館)
2008/01/28作成 by pancho_de_ohsei

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