式内社 牟佐坐
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| 牟佐坐神社の拝殿 |
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| 鳥居に掲げられた扁額 |
室町初期の文安3年(1446)、当社の禰宣だった宮道君述が『五郡神社記』を著している。それによると、この神社の創始は安康天皇の時代までさかのぼる。渡来人の身狭村主青(むさのすぐり・あお)」が雷神を祀ったのが始まりとされている。
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| 天神大橋の前方に鎮座する牟佐坐神社 |
社名や祭神にはかなり変遷があったようだ。江戸時代の享保の頃は榊原天神と称し、菅原道真を祭神としていた。慶応4年(1868)の頃には天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としていたが、明治になって天津神である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とを奉祀し社名を現在のものに改めたとされている。
実は、壬申の乱の最中に大海人皇子の軍を守護する神として、許梅(こめ)に神懸かりした生霊神(いくみたまのかみ)とは、生国魂神(いくにたまのかみ)と同じ神で、この神を祀っていた身狭社(むさのやしろ)とは、元来この社だったとされている。 そのため、後世、朝廷から厚く崇敬された。
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| 孝元天皇の軽境原宮址の碑 |
たまたま神社の近くを通りかかった日は、見瀬恵比寿の祭礼の日だった。天神大橋の欄干に赤と白の幟(のぼり)が並び、参道の登り口にたき火が焚かれ、鳥居の横に張られたテントではにわか仕立ての祭壇の前で神事が行われていた。
式内社 河俣神社
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| 曽我川の河岸に鎮座する河俣神社 |
奈良・平安時代の出雲国造(いずもこくぞう)は、代替りごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかむよごと)と呼ばれる祝詞(のりと)を奏上する儀礼を行っていた。
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| 戒智橋の上から見た河俣神社の鎮守の森 |
神賀詞に記された宇奈提は、現在の奈良県橿原市の雲梯(うなて)町とされている。この町には、鴨八重事代主神(かものやえことしろぬしのかみ)を祭神として祀る河俣神社が鎮座している。近鉄南大阪線「坊城」駅からは、北東方向へおよそ1300mの所に位置していて、近くを流れる曽我川の東河畔にあたる。曽我川に架かる戒智橋の上に立つと、曾我川の東岸に樹木に覆われた長い参道が続いているのが見える。
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| 河俣神社の正面 |
大海人皇子は天武天皇として即位した後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に史上初となる神位を授けたとのことだ。
万葉集にも河俣神社を詠みこんだ次の歌が載っている。
●真鳥住む 卯名手(うなて)の神社(もり)の 管の根を 衣に書きつけ 着せむ子もがも(巻7)
●思はぬを 思ふといはば 真鳥住む 卯名手の社の 神し知らさむ(巻12)
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| 河俣神社の拝殿 |