平成20年1月23日

壬申の乱じんしんのらん倭古京(やまとこきょう防衛軍を助けた神々を祀る神社

神がかりとなって大海人(おおあま)皇子軍に神の加護を伝えた高市許梅(たけちのこめ)

阪奈自動車道は、阪和自動車道の美原JTCから分岐して東に延びている。全長1450mの竹内トンネルを抜けると、眼下に奈良盆地が車窓いっぱいに広がり、まことに眺めが良い。その広々とした盆地の中で、中折れ帽を伏せたようにひときわ人目を引く山がある。橿原市内に横たわる畝傍山である。

古事記』や『日本書紀』に記された皇統譜によって初代天皇とされる神武天皇の陵は、畝傍山の東北の山麓に築かれている。古代において、この神武天皇の存在が信じられていたことを伺わせる最も古い資料が、実は『日本書紀』の中にある。

南阪奈自動車道の先見える畝傍山
南阪奈自動車道の先に見える畝傍山

日本書紀』全30巻のうち、巻28と巻29の2巻は天武天皇の治世に当てられている。『日本書紀』が記述した歴代天皇のうち、上下両巻を合わせて1つの帝紀とされている天皇は、天武天皇以外にいない。しかも、上巻の巻28は、主として即位前の創業の状態、すなわち壬申の乱の経過を記している。そのため、この一巻を独立した戦記物として『壬申紀』と呼んでいる歴史学者も多い。 こうした事実一つとってみても、『日本書紀』の編纂目的の一つが、壬申の乱における大海人皇子側の正当性を主張し天武治世の賛美にあったことは、容易に読み取ることができる。

の『壬申紀』の中に、次のような興味深い逸話が挿入されている。

は、西暦672年7月4日。倭古京(やまとこきょう)防衛軍の将軍・大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)は、怒濤のように押し寄せる近江朝廷軍に対峙すべくこの日乃楽山(ならやま)に布陣した。だが、数の上で圧倒された吹負の軍は方々で防衛戦を破られ、兵士達は皆遁走してしまった。吹負自身も、二人の騎兵を連れて逃げだした。幸い、墨坂(すみさか、奈良県榛原町西方の坂)まで逃げてきたとき、置始連兎(おきそめのむらじ・うさぎ)が率いる騎馬隊の援軍と遭遇することができた。そこで、兎らとともに西に進み、金綱井(かなづなのい)に布陣し、乃楽山の敗戦でちりぢりになっていた敗兵を収容した。

JR桜井線沿いの小綱(しょうご)池
JR桜井線沿いの小綱(しょうご)池
綱井という場所がどのあたりにあったかは不明である。重要伝統的建造物群保存地区に指定されている現在の橿原市今井町付近とも、あるいは今井町の北に位置する小綱(しょうご)町付近とも言われているが、確証はない。現在、JR桜井線の線路脇に小綱池と呼ばれる溜池がある。かって暴れ川だった飛鳥川をなんとかなだめようと築かれた遊水池である。その岸辺から西を見ると、当麻寺方面や二上山がよく見える。近江朝廷軍の河内方面総司令官・壱岐史韓国(いきのふひと・からくに)麾下の軍と吹負の軍とが当麻の葦池(所在不詳)のほとりで激突するのは、この日から3日後のことである。

綱井に参集してきた倭古京防衛軍の中に、高市郡の大領だった高市県主許梅(たけちのあがたぬし・こめ)という人物がいた。この男は、なぜかこの日から口をきくことができなくなってしまった。おそらく乃楽山の戦いに敗れたショックが大きかったのであろう。

日後の7月7日の朝、許梅(こめ)はまるで神懸かりしたように突然しゃべりだし、こう言った。
「吾は高市社(たけちのやしろ)にいる事代主神(ことしろぬしのかみ)である。また身狭社(むさのやしろ)にいる生霊神(いくみたまのかみ)である。神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと、=神武天皇)の山稜に馬と種々の兵器を奉るがよい。これまでにも吾は大海人皇子の前後を守って無事不破(ふわ)まで送りとどけた。今もこの軍中にあってお前達を護っている」
そして、
「西の方から軍勢が押し寄せてくる。警戒せよ」
と付け加えてから醒めた。

ぜ、神懸かりした許梅が、このとき神武天皇陵に馬と種々の兵器を奉れと言ったのかよく分からない。天皇陵は彼らが布陣している金綱井とは、眼と鼻の先にある。そこで、大伴連吹負は許梅に神武天皇陵に参拝させ、馬と兵器を奉った。また高市社と身狭社には御幣(みてぐら)を奉らせると、吹負は集められるだけを兵を集め、金綱井から西に向かった。そして、当麻の葦池のほとりで、吹負の軍と韓国の軍が激突した。乃楽山の戦いで惨敗した吹負としては、この戦いで負けるわけにはいかない。彼は味方の兵達を叱咤激励しながら、自らも抜刀して攻め寄せる敵兵を右に左に切り払い、戦いに勝利した。

の許梅の言葉を載せた『日本書紀』の記事が、神武天皇の名を記した最初の確実な史料とされている。 このことにより、記紀編纂以前に神武伝承がすでに作られていたことが分かる。ところで、大伴連吹負が率いる大海人皇子軍を助けた神々を祀る神社が、現在も橿原市内に鎮座している。どのような神社か気になって探索することにした。



式内社 牟佐坐(むさにいます)神社 所在:奈良県橿原市見瀬町718

牟佐坐神社の拝殿
牟佐坐神社の拝殿


鳥居に掲げられた扁額
鳥居に掲げられた扁額
鉄吉野線の「岡」駅から西へ徒歩1分、高取川に架かる天神大橋を渡ると、「牟佐坐神社」(むさにいますじんじゃ)と書かれた扁額を掲げた石の鳥居が正面にそびえている。その先に岡の頂上に続く石段が見え、そこを登り切ると拝殿の前に出る。ここが、普段は訪れる人影もなく静まりかえっている延喜式内社・牟佐坐神社である。

町初期の文安3年(1446)、当社の禰宣だった宮道君述が『五郡神社記』を著している。それによると、この神社の創始は安康天皇の時代までさかのぼる。渡来人の身狭村主青(むさのすぐり・あお)」が雷神を祀ったのが始まりとされている。

天神大橋の前方に鎮座する牟佐坐神社
天神大橋の前方に鎮座する牟佐坐神社
なみに、身狭(=牟佐)は大和国高市郡の地名で、阿知使主(あちのおみ)が率いて帰化した東漢(やまとのあや)氏の本拠地とされている。身狭村主青は倭の五王の一人とされている雄略天皇の寵臣で、『日本書紀』は雄略8年(464))と雄略12年(468)に呉の国(南宋)に派遣されたと記す。しかし、この遣使の記事は「宋書」には記述されていない。

名や祭神にはかなり変遷があったようだ。江戸時代の享保の頃は榊原天神と称し、菅原道真を祭神としていた。慶応4年(1868)の頃には天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としていたが、明治になって天津神である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とを奉祀し社名を現在のものに改めたとされている。

は、壬申の乱の最中に大海人皇子の軍を守護する神として、許梅(こめ)に神懸かりした生霊神(いくみたまのかみ)とは、生国魂神(いくにたまのかみ)と同じ神で、この神を祀っていた身狭社(むさのやしろ)とは、元来この社だったとされている。 そのため、後世、朝廷から厚く崇敬された。

孝元天皇の軽境原宮址の碑
孝元天皇の軽境原宮址の碑
佐坐神社が鎮座する丘陵は、孝元天皇の軽境原宮(かるのさかいはらのみや)址の伝承地でもある。そのことを示すために、奈良県教育委員会は大正4年に碑を建立した。その碑が、現在も天神大橋の手前の踏切近くに建っている。そうした伝承のせいでもないだろうが、この神社には、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)とともに、孝元天皇も祀られている。

またま神社の近くを通りかかった日は、見瀬恵比寿の祭礼の日だった。天神大橋の欄干に赤と白の幟(のぼり)が並び、参道の登り口にたき火が焚かれ、鳥居の横に張られたテントではにわか仕立ての祭壇の前で神事が行われていた。



式内社 河俣神社(かわまたじんじゃ) 所在:奈良県橿原市雲梯町689

曽我川の河岸に鎮座する河俣神社
曽我川の河岸に鎮座する河俣神社


良・平安時代の出雲国造(いずもこくぞう)は、代替りごとに朝廷に参向して『出雲国造神賀詞』(いずものくにのみやつこのかむよごと)と呼ばれる祝詞(のりと)を奏上する儀礼を行っていた。

戒智橋の上から見た河俣神社の鎮守の森
戒智橋の上から見た河俣神社の鎮守の森
の祝詞が『延喜式』に掲載されており、大穴持命(おおあなもちのみこと)が国土を天孫に譲って出雲の杵築へ去るに当たって、自らの和魂(にぎたま)と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とすべき事を誓う一節が記されている。その中に、「・・・事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂(みたま)を宇奈提(うなて)に坐せ、賀夜奈流美命(かやなるみのみこと)の御魂を飛鳥の神奈備(かむなび)に坐せて・・・」とある。

賀詞に記された宇奈提は、現在の奈良県橿原市の雲梯(うなて)町とされている。この町には、鴨八重事代主神(かものやえことしろぬしのかみ)を祭神として祀る河俣神社が鎮座している。近鉄南大阪線「坊城」駅からは、北東方向へおよそ1300mの所に位置していて、近くを流れる曽我川の東河畔にあたる。曽我川に架かる戒智橋の上に立つと、曾我川の東岸に樹木に覆われた長い参道が続いているのが見える。

河俣神社の正面
河俣神社の正面
で述べたように、『日本書紀』は壬申の乱の際に、高市縣主許梅(こめ)に「高市社(たけちのやしろ)に居る事代主神(ことしろぬしのかみ)」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。その高市社はこの河俣神社に比定されている。

海人皇子は天武天皇として即位した後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に史上初となる神位を授けたとのことだ。

葉集にも河俣神社を詠みこんだ次の歌が載っている。
●真鳥住む 卯名手(うなて)の神社(もり)の 管の根を 衣に書きつけ 着せむ子もがも(巻7)
●思はぬを 思ふといはば 真鳥住む 卯名手の社の 神し知らさむ(巻12)

河俣神社の拝殿
河俣神社の拝殿
社の鳥居は、戒智橋のそばに立っていて、北向きに鎮座するめずらしい神社である。ちなみに、大阪の住吉大社には年2回、畝傍山口神社の境内に埴土を採りに赴く神事がある。河俣神社はその途中の「お旅所」になっていて、祭祀を行う者は当社で装束を整えることが恒例となっている。そのため、当社は「装束の宮」と俗称されている。




2008/01/23作成 by pancho_de_ohsei return