橿原日記 平成20年1月16日

日本史の悲劇の英雄の一人とされた捕鳥部万(ととりべのよろず)の墓

アメリカ・ニュージーランド・日本合作映画 『ラストサムライ(The Last Samurai)

『ラストサムライ』のスチール
『ラストサムライ』のスチール
捕鳥部万(ととりべのよろず)とは何者? と聞かれて即答できるとしたら、よほどの古代史通だろう。まして、日本史における悲劇の英雄の一人だと言われても、思い当たる人は少ないに違いない。

の人物について語る前に、思い起こしていただきたい映画がある。2003年12月に封切られた、アメリカ・ニュージーランド・日本合作映画『ラストサムライ』だ。捕鳥部万とこの映画とは思いがけないところで結びついているのだ。

ラストサムライ』はそのタイトル通り、明治維新の近代化で滅び行くサムライの最後の抵抗を描いたドラマだ。外国映画には珍しく、日本人の古来からの美意識や気性を真摯に取り上げた作品として評判を呼んだ。劇場に足を運んだ御仁も多いだろう。この映画の監督エドワード・ズウィック(Edward Zwick)は、ハーバードの東洋学科で日本学を学んだ日本通である。彼は、アイヴァン・モリス(Ivan Morris)著の『高貴なる敗北 日本の悲劇の英雄たち』(原題 The Nobility of Failure, Tragic Heroes in the History of Japan)で描かれた西郷隆盛の栄光と高貴なる敗北に感銘して、映画化を思い立ったとのことだ。

ネイサン・オールグレイン大尉役のトム・クルー
ネイサン・オールグレイン大尉役のトム・クルーズ
イヴァン・モリス(1925 - 1976)は、第二次世界大戦中、イギリス軍将校として日本語学習プログラムに参加し、それがきっかけになって日本研究を決意し、ハワード大学で日本語と日本文化を研究した。卒業後、イギリス国営放送局、イギリス外務省に勤務し、1969年から4年間コロンビア大学で日本文学を教えたこともある。1945年に、通訳として被爆した広島を訪れた最初の外国人の一人であり、日本文学に詳しく、三島由紀夫、大岡昇平の翻訳などで知られている。

高貴なる敗北』は、日本史の中で悲劇的な死を迎えた9人の英雄とカミカゼ特攻の戦士たちの末路を、日本人の古来からの美意識と高貴なる精神の発露であるという視点から見直した作品である。彼が取り上げた9人の悲劇の英雄の中に、日本武尊、有馬皇子、菅原道真、源義経、楠木正成、天草四郎、大塩平八郎、西郷隆盛と並んで、なぜか捕鳥部万の名がある。

勝元盛次役の渡辺謙
勝元盛次役の渡辺謙
国人の視点からみて、なぜ捕鳥部万が他の悲劇の英雄と同様に「誠」を貫き「あわれ」を漂わせ散っていった人物と評価されたのかは、よく分からない。そもそも捕鳥部万とはどのような人物なのか? 彼のことを扱った記述は、『日本書紀』の崇峻天皇前紀にしか出てこない。しかも、その記述の内容は、およそ次のようなものである。


(よろず)は大連・物部守屋(おおむらじ・もののべもりや)の近侍だった。西暦587年7月、大臣蘇我馬子(おおおみ・そがのうまこ)が皇太后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)の詔(みことのり)を受けて、諸豪族や諸皇子と共に河内の渋川に身を引いた守屋を攻め、討ち滅ぼすという事件が起きた。そのとき、万は守屋の指令で百人の兵士を率いて難波の守屋の屋形を守っていた。

屋死すの報を受けると、万は夜陰に紛れて馬で妻の実家があった茅淳県(ちぬのあがた)の有真香邑(ありまかのむら)の山中へ逃げた。数百人の兵からなる追討軍が組織され万を囲むと、万は竹藪に隠れ、縄を竹でつないで動かすことで、その竹の動きに注意を奪われた追討軍を矢で射った。万の放つ矢は悉く追討軍の兵を貫いたという。

捕鳥部万の墓
捕鳥部万の墓
るむ追討軍を見て、万は山奥へ逃げた。このとき一人の兵士が彼より早く駆けて前方に出ると、川のそばに隠れて万の膝を矢で射当てた。さしもの万もその場に崩れ落ちたが、矢を抜き取ると、悲痛な声で次のように叫んだと伝えられている。
「万は天皇の楯として、その勇をあらわそうとしたが、聞いて頂けず、かえってこの窮地に追い込まれてしまった。共に語るに足る者は来い。自分を殺そうとするのか捕らえようとするのか聞きたい」

が、兵士達は競い合って矢を射た。万は飛んでくる矢を払い防ぎながら三十余人を殺した。しかし、逃亡生活で疲れ果て、受けた疵も深かったことから、万もここで覚悟を決めると、持っていた太刀で自らの弓を砕き、太刀も怪力で折り曲げて川に投げ捨て、捕縛しようとにじり寄る追討軍を前にして、小刀で頚を刺し自刃した。武人としての悲壮な最後だった。

万家犬塚
万家犬塚
の話には後日談がある。河内国司(*)は万の最後の有様を朝廷に報告した。朝廷は「万の死骸を八つ切りにして八つの国に串刺しにして曝(さら)せ」と命じた。国司は指示に従って死体を切り串刺しにしようとしたとき、突如雷鳴がとどろき大雨が降った。すると、どこからともなく万が飼っていた白犬が現れ、万の亡骸の周囲を何度も何度も回ると天に向かって吼えた。そして、万の首を食いちぎると頭をくわえて持ち去り、古い墓を掘り出して埋めた。
(*)国司という地方官は律令官制のもので、当時はまだ施行されていない。実際は万討伐の部隊長程度の指揮官だったと思われる。

犬はその後、墓の傍らにまるで万の頚を護るかのように横たわった。河内国司の配下の者が万の頭を掘り出そうと近寄ると、歯をむき低い唸り声を上げて追い払った。白犬は、その場を一歩も動かず、遂には飢え死にをした。その報告を受けた朝廷はこの白犬の行動に慟哭し賞賛した上で、万と白犬の墓を作るように命じた。そこで、万の一族は有真香邑に墓を並べて作り万と犬を葬った、と伝えられている。



万と義犬の墓があると伝えられる天神山古墳群を訪れる

時の有真香邑(ありまかのむら)は、現在の岸和田市の阿間河滝(あまがだき)から天神山、神須屋、八田、真上、畑、流木、極楽寺の一帯にまたがる地域だったと推定されている。この地域には、8基の後期古墳で構成された天神山古墳群がある。多くの古墳は宅地開発で破壊されてしまったようだが、最近になって、捕鳥部万とその義犬を埋葬したと伝えられる古墳が残っていると聞いた。

岸和田市天神山町付近
岸和田市天神山町付近
を埋葬した墓は大山大塚古墳(天神山2号墳)といい、明治22年に三条実美の題辞による顕彰碑が立てられ、岸和田市の史跡に指定されている。その近くには、義犬の埋葬したとされる義犬塚古墳(天神山1号墳)があるという。天神山古墳群の中に残る2つの古墳が万とその愛犬を埋葬した墓である保証はどこにもない。それでも、そうした伝承が伝えられて来たと知った以上は、一度は訪れてみたいのが人情である。幸い、午前中の曇り空も午後には晴れてくるという天気予報が出ていた。

神山古墳群にアクセスする手段はすでに調べてあった。JR阪和線の「東岸和田」駅前から出る南海ウイングスの「天神山町3丁目」行きのバスを利用するのが便利なようだ。終点の一つ前の「天神山町2丁目」でバスを降り、徒歩10分ほどで捕鳥部万の墓に着けるとのことだ。


午前に近鉄南大阪線で大阪阿部野橋まで出て、JR阪和線の快速電車に乗り換え岸和田に向かった。電車に揺られながら、モリスが捕鳥部万に興味を持った理由を考えてみた。彼は、万のことを敗北に際して自らの生命を絶った勇士として歴史に記録された最古の人物と評している。万が口にした最後の言葉に、おそらく武人としての誇りと無念さを感じ取ったにちがいない。

来ならば、万は物部氏配下の武人として”天皇の楯”となって働くはずだった。ところが、運命のイタズラで天皇の逆賊にされた物部守屋を守る楯になることになった。しかし、その守屋すら守りきることがでず、返す返すも残念である。この上は、死んでお詫びするしかない・・・。そうした武人としての死に様に、モリスは武士道の根元を感じたのかもしれない。


JR阪和線「東岸和田」駅
JR阪和線「東岸和田」駅
「天神山町2丁目」バス停
「天神山町2丁目」バス停
「東岸和田」駅には12時30分に着いた。南海ウイングの「東岸和田」バス停は、駅の近くの踏切を渡ったところにある。天神山町3丁目行きの時刻表を調べると、次のバスは12時53分に来る。ベンチに座って車の流れを見ていると、先ほど横切った踏切の遮断機が頻繁に昇降を繰り返し車の流れを遮る。その都度、車の渋滞がバス停の先まで延びてくる。

時に到着したバスは、運良く遮断機が上がっていたので、立ち止まることなく踏切を渡った。天神山町へ行くバスは2系統あるようで、12時53分のバスは、少し遠回りして流木(ながれぎ)墓地公園の縁に沿って天神山町へ向かう。天神山町は30年ほど前から大阪府が開発した住宅団地が広がる丘陵地帯である。丘陵は古代にこの地域を支配した豪族の奥津城だった。

時5分に「天神山町2丁目」バス停についた。バスを降りて、はたと困った。市の史跡に指定されている「捕鳥部万の墓」への道順を示す標識がどこにも見あたらない。団地の奥の方に位置していることだけは確認していたので、取りあえずバス停手前の信号機のある三叉路から団地の中の広い通りに入っていくことにした。

天神山団地の中の通り
天神山団地の中を貫く坂道の通り
史跡公園として整備された大山大塚古墳(天神山2号墳
史跡公園として整備された
大山大塚古墳(天神山2号墳)
角に区域の住居を表示した看板が立っていたが、そこにも「捕鳥部万の墓」の表示がない。たまたま通りかかった三人連れの近所の主婦に場所を聞いてみた。あまり自信がないので近くの公民館で聞いてみては、と公民館まで案内してもらった。

か催し物でもあるのか、公民館のエントランスホールでは、数人の男性がビラ配りをしていた。その中の一人が、親切にもメモ用紙に簡単な略図を書いてくれた。公民館の前の坂道通りを登っていくと2つ目の角にフェンスに囲まれた「遺跡公園」があるそうだ。公園とは名ばかりで、古墳を囲っているだけの代物にすぎず、中に立ち入ることはできない。その角を右に回り、さらに2つ目の道で今度は左折して少し進むと、右手に樹木に覆われた丘が見えてくる。そこが史跡公園として整備された大山大塚古墳で、その頂上に万の墓が立っていると教えてくれた。ついでに義犬の墓がある場所も書き添えてくれた。

が記してくれた略図に従って団地の中を進むと、はたして大山大塚古墳の前に出た。相変わらずどこにも「捕鳥部万の墓」の標識は見あたらない。交差点の角から石段が続き、そこを上りつめると、今度はサザンカの花が咲き乱れる木の間を縫って上りの地道が続いていた。クヌギなどの枯れ葉が大量に散乱した道を進むと、前方に巨大な石碑が立っている。明治22年(1889)に建てられた顕彰碑で、その題辞は幕末に尊攘派の公家として活動したことで知られる三条実美(さんじょう さねとみ)が書いた。

ああああ
捕鳥部万の顕彰碑 古墳の墳頂に立てられた捕鳥部万の墓

の文面はかなり摩滅している上に、逆光のせいでほとんど読めなかったが『日本書紀』の文章が引用されているようだった。「史跡 捕鳥部萬の墓」と書かれた白い標柱が、顕彰碑の近くにあった。標柱の横に数段の石の階段が築かれ、その上に捕鳥部万の墓が聳えている。先日訪れた近松門左衛門の墓に比べれば、ずいぶんと立派な石碑である。

捕鳥部万の墓(拡大)
捕鳥部万の墓(拡大)
が供えたのか、墓前には新しい花と果物が置かれていた。ヒョッとすると、万の末裔が近くに住んでいるのかもしれない。墓の石段に腰を下ろすと、バス停前のコンビニで買ってきた握り飯で昼食と取りながら、『日本書紀』に記された彼の最後の奮戦を思い起こしてみた。

鳥部は鳥取部とも表記し、『古事記』には白鳥や鶴を捕獲して朝廷に献上することを専門とする職業集団を「鳥取部(ととりべ)」と呼んだと記されている。本来ならば大和朝廷の職業部の一つを統べる立場にあった万が、物部本宗家の族長に近侍していた理由は不明である。おそらく物部氏配下の武将として天皇家または朝廷の警護の任にあったのだろう。

我・物部抗争で物部守屋が皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)の寵臣・三輪逆(みわのさこう)を殺害したことで、逆賊とされ河内の渋川に退いたとき、万は守屋に付き従って渋川に移っている。そして、100人の兵を率いて難波に赴いている。 守屋の指示で難波の屋形を守るためだったとされているが、実際は、守屋の招集に応じて九州や瀬戸内海の諸地域からはせ参じる物部一族の軍船を束ねて水軍を組織するのが任務だったのだろう。

としては、最後まで守屋に近侍して族長を守りたかったに違いない。だが、最後の決戦のとき、守屋の傍に近侍できず、みすみす族長を死なせてしまった。その無念さが死に場所を求めて彼をこの場所に導いたのであろう。生き延びようと思えば、参集してきた九州物部の一団とともに北九州に落ち延びることも十分可能だったはずだ。

が、彼はそうはしなかった。この付近に山中の竹藪に逃げ込み追討軍の兵を多く射殺し、そしてこの近くで自害して果てた。楯となって守るべき対象を無くした武将として、それが彼の美学だったのであろう。鎌倉時代以降の関東武士の間で芽生えてきた武士道の萌芽を、モリスは万の死に様に感じとったにちがいない。


坂道を上りきった所にある共同墓地 墓地の前に位置する義犬塚古墳
坂道を上りきった所にある共同墓地 墓地の前に位置する義犬塚古墳

犬塚古墳(天神山1号墳)は、万の首を食いちぎりその頭を古い墓に埋めて守った白犬を埋葬した墓との伝承を持つ。忠犬ハチ公の遠祖のような義犬の墓だが、大山大塚古墳の北、約200mほどのところにある直径20メートルほどの円墳がそれである。墳頂は削平されて、現在は「萬家犬塚」の墓碑が立っているとのことだ。

の墓碑を見てみたかったので、「遺跡公園」の前まで戻り、公民館前の坂道をさらに上っていった。坂の頂上付近に共同墓地があり、道路を挟んで反対側の溜め池の縁に小山がある。そこが義犬塚古墳である。だが、民有地なので何処から墳頂に登ることが分からない。略図に示された場所の周囲をずいぶん探し回ったが、墓らしいものは存在しなかった。

「萬家犬塚」に続く雑木林 竹藪の中に立つ「萬家犬塚」
「萬家犬塚」に続く雑木林 竹藪の中に立つ「萬家犬塚」

う一度場所を確認しようと公民館に戻った。先ほどのボランティアの男性は居なかったが、代わりに女性職員が地元の詳細な地図を出してきて場所を教えてくれた。男性が略図で示してくれた所とは違っていた。共同墓地の前にある駐車場の脇に、アクセスできる道があるという。実際は道ではなかったが、墓に続くと思われる場所は道路に面したところにあった。ただし、ブッシュに隠れてよほど注意しないと見逃してしまう。

「萬家犬塚」(拡大)
「萬家犬塚」(拡大)
の古墳の入口と思われる場所は、小さな柵が部外者の侵入を阻止していた。ただ柵を固定しているロープは簡単に取り外せるようだった。、民有地なので、どうしょうか迷ったが、見つかったら事情を説明して謝ればよいと覚悟を決めて、ロープを外した。柵の中は、一部が樹木が切り倒され、頭を朱に塗った小さな杭が所々に打ち付けてある。どうやら発掘調査のトレンチの目印のようだった。

れ葉で埋まった坂道を少し登ると、竹藪の中に墓碑が見えた。近づくと、「萬家犬塚」と大書された碑が立ち、松の小枝が花の代わりに供えられていた。墓の横に、「史跡 犬塚」と書かれた白い標柱が倒れそうに立っていた。一般人がアクセスできないような場所に標柱を立てても、なんの意味があるのだろう。岸和田市は「だんじり」を熱心に宣伝しても、史跡観光にはそれほど熱心ではないようだ。




2008/1/17作成 by pancho_de_ohsei return