万と義犬の墓があると伝えられる天神山古墳群を訪れる当時の有真香邑(ありまかのむら)は、現在の岸和田市の阿間河滝(あまがだき)から天神山、神須屋、八田、真上、畑、流木、極楽寺の一帯にまたがる地域だったと推定されている。この地域には、8基の後期古墳で構成された天神山古墳群がある。多くの古墳は宅地開発で破壊されてしまったようだが、最近になって、捕鳥部万とその義犬を埋葬したと伝えられる古墳が残っていると聞いた。
天神山古墳群にアクセスする手段はすでに調べてあった。JR阪和線の「東岸和田」駅前から出る南海ウイングスの「天神山町3丁目」行きのバスを利用するのが便利なようだ。終点の一つ前の「天神山町2丁目」でバスを降り、徒歩10分ほどで捕鳥部万の墓に着けるとのことだ。 正午前に近鉄南大阪線で大阪阿部野橋まで出て、JR阪和線の快速電車に乗り換え岸和田に向かった。電車に揺られながら、モリスが捕鳥部万に興味を持った理由を考えてみた。彼は、万のことを敗北に際して自らの生命を絶った勇士として歴史に記録された最古の人物と評している。万が口にした最後の言葉に、おそらく武人としての誇りと無念さを感じ取ったにちがいない。 本来ならば、万は物部氏配下の武人として”天皇の楯”となって働くはずだった。ところが、運命のイタズラで天皇の逆賊にされた物部守屋を守る楯になることになった。しかし、その守屋すら守りきることがでず、返す返すも残念である。この上は、死んでお詫びするしかない・・・。そうした武人としての死に様に、モリスは武士道の根元を感じたのかもしれない。
定時に到着したバスは、運良く遮断機が上がっていたので、立ち止まることなく踏切を渡った。天神山町へ行くバスは2系統あるようで、12時53分のバスは、少し遠回りして流木(ながれぎ)墓地公園の縁に沿って天神山町へ向かう。天神山町は30年ほど前から大阪府が開発した住宅団地が広がる丘陵地帯である。丘陵は古代にこの地域を支配した豪族の奥津城だった。 1時5分に「天神山町2丁目」バス停についた。バスを降りて、はたと困った。市の史跡に指定されている「捕鳥部万の墓」への道順を示す標識がどこにも見あたらない。団地の奥の方に位置していることだけは確認していたので、取りあえずバス停手前の信号機のある三叉路から団地の中の広い通りに入っていくことにした。
何か催し物でもあるのか、公民館のエントランスホールでは、数人の男性がビラ配りをしていた。その中の一人が、親切にもメモ用紙に簡単な略図を書いてくれた。公民館の前の坂道通りを登っていくと2つ目の角にフェンスに囲まれた「遺跡公園」があるそうだ。公園とは名ばかりで、古墳を囲っているだけの代物にすぎず、中に立ち入ることはできない。その角を右に回り、さらに2つ目の道で今度は左折して少し進むと、右手に樹木に覆われた丘が見えてくる。そこが史跡公園として整備された大山大塚古墳で、その頂上に万の墓が立っていると教えてくれた。ついでに義犬の墓がある場所も書き添えてくれた。 彼が記してくれた略図に従って団地の中を進むと、はたして大山大塚古墳の前に出た。相変わらずどこにも「捕鳥部万の墓」の標識は見あたらない。交差点の角から石段が続き、そこを上りつめると、今度はサザンカの花が咲き乱れる木の間を縫って上りの地道が続いていた。クヌギなどの枯れ葉が大量に散乱した道を進むと、前方に巨大な石碑が立っている。明治22年(1889)に建てられた顕彰碑で、その題辞は幕末に尊攘派の公家として活動したことで知られる三条実美(さんじょう さねとみ)が書いた。
碑の文面はかなり摩滅している上に、逆光のせいでほとんど読めなかったが『日本書紀』の文章が引用されているようだった。「史跡 捕鳥部萬の墓」と書かれた白い標柱が、顕彰碑の近くにあった。標柱の横に数段の石の階段が築かれ、その上に捕鳥部万の墓が聳えている。先日訪れた近松門左衛門の墓に比べれば、ずいぶんと立派な石碑である。
捕鳥部は鳥取部とも表記し、『古事記』には白鳥や鶴を捕獲して朝廷に献上することを専門とする職業集団を「鳥取部(ととりべ)」と呼んだと記されている。本来ならば大和朝廷の職業部の一つを統べる立場にあった万が、物部本宗家の族長に近侍していた理由は不明である。おそらく物部氏配下の武将として天皇家または朝廷の警護の任にあったのだろう。 蘇我・物部抗争で物部守屋が皇太后の炊屋姫(かしきやひめ)の寵臣・三輪逆(みわのさこう)を殺害したことで、逆賊とされ河内の渋川に退いたとき、万は守屋に付き従って渋川に移っている。そして、100人の兵を率いて難波に赴いている。 守屋の指示で難波の屋形を守るためだったとされているが、実際は、守屋の招集に応じて九州や瀬戸内海の諸地域からはせ参じる物部一族の軍船を束ねて水軍を組織するのが任務だったのだろう。 万としては、最後まで守屋に近侍して族長を守りたかったに違いない。だが、最後の決戦のとき、守屋の傍に近侍できず、みすみす族長を死なせてしまった。その無念さが死に場所を求めて彼をこの場所に導いたのであろう。生き延びようと思えば、参集してきた九州物部の一団とともに北九州に落ち延びることも十分可能だったはずだ。 だが、彼はそうはしなかった。この付近に山中の竹藪に逃げ込み追討軍の兵を多く射殺し、そしてこの近くで自害して果てた。楯となって守るべき対象を無くした武将として、それが彼の美学だったのであろう。鎌倉時代以降の関東武士の間で芽生えてきた武士道の萌芽を、モリスは万の死に様に感じとったにちがいない。
義犬塚古墳(天神山1号墳)は、万の首を食いちぎりその頭を古い墓に埋めて守った白犬を埋葬した墓との伝承を持つ。忠犬ハチ公の遠祖のような義犬の墓だが、大山大塚古墳の北、約200mほどのところにある直径20メートルほどの円墳がそれである。墳頂は削平されて、現在は「萬家犬塚」の墓碑が立っているとのことだ。 その墓碑を見てみたかったので、「遺跡公園」の前まで戻り、公民館前の坂道をさらに上っていった。坂の頂上付近に共同墓地があり、道路を挟んで反対側の溜め池の縁に小山がある。そこが義犬塚古墳である。だが、民有地なので何処から墳頂に登ることが分からない。略図に示された場所の周囲をずいぶん探し回ったが、墓らしいものは存在しなかった。
もう一度場所を確認しようと公民館に戻った。先ほどのボランティアの男性は居なかったが、代わりに女性職員が地元の詳細な地図を出してきて場所を教えてくれた。男性が略図で示してくれた所とは違っていた。共同墓地の前にある駐車場の脇に、アクセスできる道があるという。実際は道ではなかったが、墓に続くと思われる場所は道路に面したところにあった。ただし、ブッシュに隠れてよほど注意しないと見逃してしまう。
枯れ葉で埋まった坂道を少し登ると、竹藪の中に墓碑が見えた。近づくと、「萬家犬塚」と大書された碑が立ち、松の小枝が花の代わりに供えられていた。墓の横に、「史跡 犬塚」と書かれた白い標柱が倒れそうに立っていた。一般人がアクセスできないような場所に標柱を立てても、なんの意味があるのだろう。岸和田市は「だんじり」を熱心に宣伝しても、史跡観光にはそれほど熱心ではないようだ。 |