すでに始まっていた一部の発掘調査実を言うと、一昨日の午後、橿原在住の友人T.Y君からメールが届き「纒向に付き合ってもらえないか?」と誘われた。”午後から天気が良くなるから”と彼は散策を口実にしたが、どうやらテレビのニュースで上記の報道をいち早く知って興味を抱いたようだ。筆者が纒向遺跡を訪れたのは、もう5年も前である。幸い予定もなかったので、彼の誘いを受けることにした。
駅の横に踏切がある。そこから一直線に西に延びる道路が太田地区を貫いている。途中で県道50号線(大和高田桜井線)を横切るが、その先はのどかな田園風景が広がっていた。遙か前方に二上山が霞んで見えた。季節風が緩んで3月の陽気だというけれど、田園を渡ってくる風は冷たい。県道を渡ると、やがて右手前方にコンクリートの建物が見えてくる。纒向小学校の校舎である。纒向古墳群の中の4つの前方後円墳は、この小学校を囲むように東西南北に位置している。
これら4つの古墳は、いずれも同じ企画で造られた全長100m前後の「纒向型前方後円墳」で、箸墓古墳に先行すると考えられている。それぞれの古墳には、桜井市教育委員会・歴史街道が立てた現地説明板が置かれている。今まで本格的な調査があまり実施されなかったようで、墳形の正確なデータすら分からず、どれも文面は似たような内容になっている。
そんな中にあって、纒向石塚古墳は今までに9次にわたる調査が実施されており、周濠から多くの土器が出土している。その中で西側周濠から出土した庄内0式期土器が一番古く、この土器を評価するならば、古墳の築造時期は3世紀初頭となる。土器以外にも、鋤、鍬、横槌などの農具、鶏形木製品・弧文円板・建築部材などの木製品が周濠から多数出土している。この古墳の頂きは平らに削られていて、一見しただけでは古墳に見えない。しかし、これは第二次大戦末期に高射砲か対空機銃の砲台が取り付けたためであることが判明している。 勝山古墳からも墳祭祀に使われたと見られる木製品が出土している。年輪年代法で木の伐採年を分析したこころ、「紀元199プラス12年以内」という結果が出たという。矢塚古墳からは周濠部から出土した土器が纒向V式期のものと考えられ、纒向石塚古墳よりも築造は新しいと考えられている。東田大塚古墳は石製の椅子が出土したとの伝承を持ち、纒向古墳群の中で墳丘の保存状態が良いが、詳しい調査は行われていない。
矢塚古墳の周辺二カ所で発掘が行われていた。最近開始されたようで、まだそれほど広い範囲が掘り返されているわけではない。現場に責任者がいたので、発掘の目的を聞いてみた。すると、矢塚古墳の前方部の規模を確認するための調査だという返事が返ってきた。この古墳の前方部は平滑されて水田になっている。農閑期のこの時期に田圃の表土を剥がせば、かっての前方部の基底が見つかるのかもしれない。 纒向小学校周辺は当時の墓域だったと思われ、纒向遺跡の盟主・箸墓古墳に先行する纒向式前方後円墳が集中している。箸墓古墳は、周濠の底から布留0式土器が出土したことから、古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と想定されている。そうであれば、これらの4基はいずれも3世紀前半に築造されたことになり、その順番が気になるところだ。その点を質問してみると、詳しいことは不明とのことだった。ただし、纒向石塚古墳から左周りに築造されていって箸墓に達したとする説もあるようだ。 (注)古墳時代初頭の土師器(はじき)の制作年代に、庄内式、布留式、纒向式といった型式が用いられる。素人にはその相互関係や前後関係がよく理解できないが、幸いインターネット上で土器の編年を懇切丁寧に解説したHP土器の編年が公開されている。必要に応じて参照されたい。
東田大塚古墳から南東方向を眺めると、民家の屋根越しに箸墓古墳の木立が鬱蒼と茂っているのが見え、その背後に三輪山が聳えている。ビニールハウスが並ぶ田園の中の農道を東に進むと、国道169号線にぶつかった。ガードをくぐると、T.Y君はさっさと先に立って歩きだした。このあたりを散策したことがあるらしい。民家の間を縫って続く道の中央に「山の辺の道」のタイルがはめ込まれている。道は箸墓古墳の後円部の縁を通って箸中の集落へ続いていた。 箸墓古墳は、全長が約280m、後円部の高さが約30mもあり、近寄ってみると自然にできた小山と錯覚するほど大きい。しかし、人力で築き上げた墓である。『日本書紀』には「昼は人が造 り、夜は神が造った」と記述されている。宮内庁はこの墓を第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の大市墓(おおいちのはか)として管理していて墳丘への自由な出入りはできない。倭迹迹日百襲姫とは、三輪山の大物主神(おほものぬしのかみ)の妻となった女性である。彼女は夜な夜な通ってくる夫の顔が見たいと懇願すると、「それでは明け方に汝の櫛笥(くしげ)に入っていよう。しかし、私の姿を見ても驚くなよ」と大物主神は答えた。 翌朝、彼女が櫛笥(くしげ)を開けてみると、中に美麗な小蛇(こおろち)がいた。驚いて悲鳴を上げたので、大物主神は恥をかかされたと、大空をかけて三輪山に登ってしまった。その姿を仰ぎ見て、倭迹迹日百襲姫が座り込んだ拍子に、箸に陰(ほと)を憧(つ)いて死んでしまった。そこで、時の人は墓を名付けて「箸墓」と呼んだという。
現在、宮内庁が管理している陵墓のうち、古墳の数は121、その内訳は陵が59,墓が32,陵墓参考地が28,その他が2だそうだ(2004年3月24日の第159国会での予算委嘱審査の質疑応答による)(*)。皇室の尊厳を守るという名目で、これらの陵墓はいずれも発掘調査はおろか、立ち入りすら認めていない。 では、古代の天皇陵や陵墓参考地の現状はどうか。いずれも墳丘は原生林と見間違うほど樹木が生い茂るに任せ、とてもまともな管理・整備がされているとは思えない。せめて樹木を切り払い墳丘に芝を植えて旧に復す程度のことはなされて然るべきではあるまいか。 「税金の無駄使いだな」と、T.Y君は箸墓の後円部に生い茂る木々を見上げながらポツリと言った。誰の墓とも分からない陵墓を維持するのに、宮内庁は毎年相当額の予算を要求しているはずだ。その金は我々が納める税金でまかなわれている。 (*)2008年1月18日付けの毎日新聞は、宮内庁が奈良市の神功(じんぐう)皇后陵(五社神(ごさし)古墳)の立ち入り調査を許可することを決め、日本考古学協会に通達した、と伝えている。ただし、立ち入り調査といっても、立ち入りを認めるのは1段目の平らな部分までで、撮影は可能だが発掘はできないとのことだ。同じ記事で、「宮内庁は歴代の天皇、皇后、皇太后らを埋葬した場所を「陵」、それ以外の皇族は「墓」としている。近畿地方を中心に、1都2府30県に陵188基、墓552基がある。形状は時代によって異なり、前方後円墳、石塔などさまざまだが、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、全国で458カ所、計896基になる」と記している。上記の陵墓121というのは、そのうちの古墳の数だけのようだ。
ホケノ山古墳はJRの線路を挟んで箸墓古墳の東200mの所に築かれている。この古墳は、画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したという伝承があるが、実態は判然としていなかった。しかし、平成7年(1995)11月以降、古墳の史跡整備に先立って4次にわたる発掘調査が行われ、様々な事柄がわかった。まず、墳丘の規模だが、全長約80m、後円部径55m、後円部高さ約8.5m、前方部長さ約25m、前方部高さ約3.5mで、前方部が非常に短い纒向型前方後円墳であることが判明した。
また、後円部中央から我が国で初めて「石囲い木槨」が出土した。これは、木槨の周囲に河原石を積み上げたもので、古墳時代初期の竪穴式石室に先行するものである。
邪馬台国畿内大和説では、卑弥呼の墓は箸墓古墳とされてきたが、築造年代に無理がある。しかし、卑弥呼の墓をホケノ山とし、卑弥呼の宗女・台与の墓を箸墓とすることで、つじつまが合うことになる。あくまで邪馬台国が大和に存在したということが前提だが・・・・。
纒向地域から南の茅原地域には、珠城山古墳群や箸墓古墳、茅原大塚古墳といった有名な古墳がある。その他にも20数基の中小規模の古墳が見つかっているとのことだ。その多くは古墳時代後期の円墳のようだ。中には前方後円墳の思われるものもあるが、調査が行われていないため詳しいことは分かっていない。堂の後古墳は、径35m程度の円墳と想定され、巻野内石塚古墳は後円部の径が35m程度の北面する前方後円墳のようだ。 纒向遺跡の中枢は、時期によって異なる。3世紀前半は、祭殿とみられる建物跡などが近くで見つかった太田地区が中枢だが、3世紀後半には、朝鮮半島の影響を受けた土器や絹製の袋などが出土した巻野内地区に移ったとみられている。市教委は両地区の発掘を長期的な計画で順次、進めていくようだ。一見したところのどかな田園風景のようだが、この地下からどのような遺跡や遺物が発見されるのか、今から楽しみだ。 |