橿原日記 平成20年1月3日

日本のシェークスピア・近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の生国

尼崎市近松公園の近松門左衛門像
尼崎市近松公園の近松門左衛門像(2008/01/05 撮影)

謎の多い近松門左衛門の生涯、生誕地もその一つ

い返してみると、歌舞伎・能・狂言・文楽といった古典芸能におよそ縁のない人生を生きてきた。これだけ歴史探訪にはまっているくせにである。古典芸能に興味がなかったわけではない。ただ、じっくり味わってみようという心のゆとりがなかった。

術者でもないのに技術ドキュメント作成を生業(なりわい)としてきたのが、おそらくその原因だろう。新しい技術知識を吸収するのに必死だった。時間も金もほとんどそちらに投資してきた気がする。わざわざ劇場まで足を運んで古典芸能を鑑賞する精神的なゆとりがなかったと言い換えてもよい。

丘陵の頂きにある土舞台
桜井小学校の裏山の頂上付近にある土舞台
れがひょんなことから舞楽に興味を抱くようになった。西暦612年に百済人の味摩之(みまし)が伝えた伎楽にそのルーツがあると知ったからだ。知人の紹介で、一昨年は四天王寺で篝(かがり)の舞楽を見学し、昨年は同じく四天王寺の椽(えん)の下の舞を鑑賞した。

『日本書紀』は、聖徳太子が味摩之を桜井に住まわせて、少年を集め伎楽を習わせたと伝えている。その場所が、桜井市にある土舞台と聞いて訪れたこともある。桜井小学校の裏山に碑が建ち、我が国の”芸能発祥の地”と顕彰されていた。

近は、またひょんなことから人形浄瑠璃に興味を持ちだした。正確な言い方をすれば、人形浄瑠璃そのものよりも、人形浄瑠璃の作者として知られる近松門左衛門(1653 - 1725)に興味をいだくようになった。松尾芭蕉(1644 - 1694)、井原西鶴 (1642 - 1693)とともに、元禄時代(1688 - 1503)の三大文豪と讃えられてきた人物である。

石光寺の寒牡丹
石光寺の寒牡丹
松門左衛門は人形浄瑠璃で竹本義太夫と、歌舞伎で坂田藤十郎と協力して、数々の傑作を生んだ。彼が生涯に執筆した作品の数はおよそ150編であり、そのうち浄瑠璃の時代物約90編、世話物24編、歌舞伎脚本約30編余りとされている。このように近世の浄瑠璃や歌舞伎に大きな足跡を残し、演劇を芸術の域にまで高めた近松門左衛門を評して、「東洋のシェクスピア」とか「日本のシェクスピア」であると賛辞を送る人もいる。

の近松に興味を持ちだした理由は簡単だ。あることを調べていて、彼の出生地が自分と同じ越前福井であるとする説があることを知ったためである。最初は「本当?」と信じられなかった。彼のことは中学や高校の歴史や国語の時間に習った。だが、同郷の名士であると教わった記憶がない。

石光寺の寒牡丹
世文学において西鶴、芭蕉と並称されながら、近松の生涯は謎に満ちている。出生地に関しても、存命中や没後すぐの資料がまったく存在しないため、実にさまざまな説が出されてきた。京都、近江、備前、越前、三河、北越、長州萩、出雲などである。

松門左衛門門の出生地が越前福井とする説は、郷土史家の田辺密蔵が、すでに大正14年に発行された『国語と国文学』8月号の中で発表している。田辺は「杉森家系譜」を調べて、近松の父の信義が福井藩主・松平忠昌に仕えた武士であり、後に浪人して京都に住んだことをほぼ明らかにした。

阪市立大学の森 修教授は、昭和33年に発行された『国語国文』10月号に「近松門左衛門と杉森家系譜について」と題する一文を発表し、杉森家系譜のほか福井藩の記録をもとに、越前と杉森家の関係を明らかにされた。

鯖江市の北端に位置する吉江町
鯖江市の北端に位置する吉江町
松門左衛門の父は、福井藩の武士で杉森信義(すぎもりのぶよし)と言い、近松は5人兄弟の次男として承応2年(1653)に誕生した。幼名を次郎吉(じろきち)と言い、長じて信盛(のぶもり)、巣林子(そうりんし)と号した。近松門左衛門は彼の浄瑠璃作者としてのペンネームである。近松が数え年で3歳のとき、一家揃って吉江(現・鯖江市吉江町)に引っ越し、10年余りをこの吉江で過ごした。しかし、その後、理由は不明だが、父・信義は吉江藩を辞め、一家は京都へ引っ越し公家に仕えたという。

二人の研究によって、近松の出生地=越前説が学会の主流になり、最近ではほぼ定説として受け入れられているようだ。実際に彼の生国が越前福井であるのなら、郷土の名士としておおいに誇ってよい。かっての吉江藩を市域に持つ福井県鯖江市では、市のホームページに近松の情(こころ)にふれあうまちめぐりというコーナーを設けて、町おこしの一助としている。もっとも、越前説に対する異論もあり、山口県在住の近松研究者宮原英一氏は、山口県長門市をその生誕地とする説を自作のホームページ上で展開しておられる。



国立文楽劇場で初めて初春公演「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」を観賞

国立文楽劇場
千日前通りに面した国立文楽劇場(所在:大阪市中央区日本橋1-12-10)

阪市内を走る上町筋と千日前通りは上本町6丁目で交差する。その角にある近鉄デパートの前から西に延びる千日前通りは、筆者にとってなにかと懐かしい道である。学生時代、近鉄沿線に下宿していたので、南の繁華街・難波に出るためによくこの通りを歩いた。

日前通りは、谷町筋を横切ったあたりから上町台地の緩やかな下り道になり、坂を下りきって松屋町筋と交差する。当時はこの通りを市電が走っていた。だが、西に沈む太陽を正面に見ながら、その坂道をゆっくりと歩くのが何より好きだった。現在、坂道付近は高速道路の高津入口に変わっていて、通りの真ん中を高架が連なる殺風景な景観に変貌している。

屋町筋を過ぎ、阪神高速環状線の高架が大きく弧を描く下を抜けると、右手に国立文楽劇場がある。世界無形遺産に指定された人形浄瑠璃(文楽)のほか、舞踊、邦楽、大衆芸能などを上演する目的で、昭和59年(1984)に開館した我が国4蕃目の国立劇場だそうだ。筆者の学生時代には存在しなかった施設である。

初春公演のポスター 同左<
初春公演のポスター 同左

に掲げられた看板を見ると、本日の1月3日から24日まで初春公演として人形浄瑠璃の演目が並んでいる。午後4時開演の第2部に国性爺合戦(こくせんやがっせん)の名があった。国性爺合戦は、近松門左衛門の代表作の一つである。中国人を父に日本人を母に持ち、台湾を拠点に明朝の復興運動を行った実在の軍人政治家・鄭 成功(てい せいこう、1624 - 1664)を題材にとり、これを脚色した作品であることくらいの知識はあった。正徳5年(1715)、大坂の竹本座で初演されると、非常に人気を集め、結果的に3年越し17ヶ月の続演を記録したという。

春公演初日を迎えた劇場前では本日の朝、恒例の鏡開きが行われ、文楽人形の「福禄寿」と「恵比寿」による振る舞い酒が、早朝から列をつくった文楽愛好家に振る舞われたそうだ。また、黒門市場と南水産物組合から縁起物の「にらみ鯛(だい)」が届けられ、正月ムードを一層盛り上げたとのことだ。

一階に設けられた茶席 入口正面に置かれた正月飾りとにらみ鯛
一階に設けられた茶席 入口正面に置かれた正月飾りとにらみ鯛

年の正月は、橿原のアパートで過ごした。その締めくくりに文楽観賞も悪くないと、国立劇場に入った。入口正面には、互いににらみ合った二匹のにらみ鯛(たい)が正月飾りの横に置かれていた。見るからに見事な鯛である。だが、よく見るとレプリカだった。近くの黒門市場などから届けられた本物は、刺身にさばかれてとっくに関係者の腹に収まっているとの話だ。玄関を入って左手に茶席があり、お一人様500円で抹茶がふる舞われていた。

劇場1階の展示室 舞台正面に飾られたにらみ鯛
劇場1階の展示室 舞台正面に飾られたにらみ鯛

席の奥に展示室がある。ここでは、人形浄瑠璃の歴史や人形の作り方が概観できるように、さまざまなものが置かれている。一人使いの人形も2体置かれていて、実際に手を差し込んで頭や手の動かし方を体験できる。展示室の一画には図書閲覧コーナーがある。開演までには時間があったので、越前生誕説を発表した上記の文献を読んでみたいと思ったが、そういった類の文献はここには置かれていていない。別に週のうち月・水・金の三日間公開している資料室が設けられていて、そちらで探してみては、とのことだった。

石光寺の寒牡丹
姓爺合戦が上演される大ホールの舞台正面の幕の上に、今年の干支の色紙と縁起物のにらみ鯛の張り子が飾られていた。にらみ鯛は、戦後長らく途絶えていたが、この劇場が開業後初めて迎えた昭和60年(1985)の正月に復活させた。以後、毎年の初春公演中の舞台飾りとして観客に親しまれているとのことだ。

形浄瑠璃は、浄瑠璃語りの大夫(たゆう)、三味線弾き人形遣いの三業(さんぎょう)が融合した日本の伝統舞台芸術である。三味線を伴奏楽器として大夫が詞章を語り、これに操り人形が加わる。大夫が語るのは、劇中人物の台詞やその仕草、演技の描写をも含むため、語り口が叙事的な力強さを持つ。

夫の語りとしては、義太夫節が有名だ。貞享元年(1684年)ごろ、竹本義太夫(後に筑後掾)が大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門が結んで、それまでの古い様式を捨て、文学的にも音楽的にも新しい様式の語りの義太夫節を始めた。二人によって義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術としての鑑賞に耐えうるものとなったとされ、浄瑠璃に新たな時代が訪れたとされている。


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和藤内(わとうない)の人形
刻の午後4時に幕が上がり、舞台の向かって右側客席寄りの(ゆか)と呼ばれる場所に、浄瑠璃語りの大夫と三味線弾きがそれぞれ6人ずつ並んで座った。黒子が舞台に登場して大夫と三味線弾きを一人一人紹介した後、三味線の伴奏に合わせて語りが始まった。

瑠璃「国性爺合戦」は、明朝の復興運動に活躍した実在の人物・人物鄭成功(ていせいこう、1624 - 1662、別名国姓爺)がモデルとして、近松門左衛門が脚色した物語である。実在の鄭成功は、肥前松浦平戸で中国人の父・鄭芝竜(ていしりゅう)と日本人の母・田川松との間に生まれた混血児である。幼名を福松といい、元の諱(いみな)は森、字(あざ)は明儼と称した。幼年時代を平戸で過ごすが、7歳の時に父の故郷の福建に渡っている。

644年、鄭成功が21歳になったとき、農民反乱の指導者・李自成(りじせい)が北京を陥落させ、明王朝を滅ぼした。そのため、北京を逃れた皇族たちは、各地で亡命政権を作り、清王朝に対して抵抗運動を始めた。鄭成功も父とともに唐王・朱聿鍵(隆武帝)を擁して、福建に明の亡命政権を樹立した。

石光寺の寒牡丹
成功が初めて隆武帝に謁見した時、その容貌・挙措がいたく気に入られ、国姓である姓を賜った、さらに「成功」という名を付け加えられた。しかし、彼は畏れ多いと朱姓は使わずに鄭成功を名乗ることにした。それ以降、鄭成功は国姓爺(爺は尊称)と呼ばれるようになった。

松は、「国性爺合戦」を執筆するにあたって、鄭成功の名を「和藤内」(わとうない)としている。和(日本)でも藤(唐、中国のこと)でも内(ない)という洒落だそうだ。さらに、当初は史実通り題名を「国姓爺合戦」としたが、物語が創作であることから、途中から「国性爺合戦」に改めたという。

「国性爺合戦」は、長編の時代物である。歌舞伎でも演じられるのは主として第3段のみか、あるいはその一部だけのようである。本日の浄瑠璃では、平戸に漂着した明の皇帝の妹である栴檀皇女を助け、明復興のために皇女を妻の小むつに預けて父母と唐土に出発するところから始まった。

石光寺の寒牡丹
こでは、物語の展開を省略するが、場内を見回すと、観客のほとんどは文楽ファンで、常連が多いようだった。筆者は初めての経験だったので、受付で音声ガイドを借りて、イヤホンで要所要所に流れる説明を聞きながらの観賞だった。さらに、大夫の語りは、江戸時代の庶民には容易に理解できただろうが、現代の我々には結構理解しづらい。そのため、舞台の上段にテロップで流される語りの文言を目で追いながらの観賞となった。

直なところ、30分の休憩時間を挟んで3時間半の公演は長かった。儒教の「孝」と「忠」の精神を人形劇でこれでもか、これでもかと見せられるのは、時代錯誤を感じて気分的に少し白けた。しかし、太棹の三味線の音色は深く心の奥底に響いた。マイクもなしに歌うように語る大夫の声は、耳に心地良かった。三人で操る人形の動作や表情にも生身の人間の所作がにじみ出ていて見事だった。



近松門左衛門の2つの墓を訪れる

近松門左衛門の辞世文

近松門左衛門の肖像
近松門左衛門の肖像
稲田大学演劇博物館は、一枚の近松門左衛門の肖像画を所蔵している。死の直前に絵師を呼んで描かせたというから、実際の風貌に近い顔が描かれているのであろう。肖像画には自筆の辞世文も記されている。この肖像画の写真を眺めていると、次のような勝手な空想が脳裏に広がってくるから不思議だ。


■ 享保9年(1724)の11月の上旬、大阪天満の老人の館では早朝から人の出入りがあった。老人は前の年あたりから急激に体力の衰えを感じていたが、年が変わり、それも秋風が吹く頃になると、奥の部屋で臥すことが多くなった。だが、その日は弟子達を手伝わせて礼装に身を包むと、両脇を抱きかかえられるようにして隣の部屋に歩を進めた。隣室では知り合いの絵師がすでに準備を整えて控えていた。

■ 老人は二言三言絵師と時候の挨拶を交わすと、床の間を背にして座った。そして、冗談らしい笑みを浮かべて言った。
「できたら、実際よりは少しは若く描いてもらえんかいのう」
「よろしおま。では、60くらいの絵にさせてもらいまひょ」
絵師も冗談を返しながら、目の前に置かれた和紙と泰然と座る老人の間を、視線だけは何度も往復させた。

■ 和紙の上を這うかすかな絵筆の音を耳にしながら、老人の脳裏には七十余年の来し方が次々と思い浮かんだ。そして、とりとめのない一生を過ごしてしまったようだ、と自責の念にかられた。庶民の中で暮らしながら、商売のことは何も知らなかった。隠者のように振る舞いながら、隠者でもなかった。賢者のようでいて賢者でもなく、物知りのようで何も知らぬ、世のまやかし者だった。ただ、何ごとも知らぬことがないような振りををして、口から出任せ、筆の走るままにしゃべり散らして生きてきただけの人生だった・・・。

近松門左衛門の肖像
近松門左衛門の肖像(拡大)
■ 絵師が描いた肖像画を見て、老人は何に感心したのか「フムフム」と頷いていたが、やがて筆を取ると、肖像画の上部にサラサラと辞世文を綴った。そして最後に、
もし辞世は、と問う人あらば、
それぞ辞世 去ほどに扨(さて)もそののちに 残る桜が花しにほはば(*1)
享保九年中冬上旬
入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいん・ぼくい・にちいち・ぐそくこじ))
不俟終焉期 予自記(終焉の期を待たず、あらかじめ自ら記す) 春秋七十二歳
と墨書した。さらに続けてもう一行、次の辞世の句を付け加えた。
のこれとは おもふもおろか うづみ火の けぬまあだなる くち木がきして(*2)

(*1 意味)「さるほどに」とか「さても」とか「そののちに」とかいう浄瑠璃の語り出しの決まり文句で始まる作品が、後々まで残るならば、その一つ一つが私の辞世だ
(*2 意味)埋み火が消えずに残るわずかな暇に書いたたわいない作品が、後々まで残れと思うだけでも愚かなことだ

■ この日から2週間後の11月22日、老人は約40年にわたる作家生活にピリオドを打った。享年72歳。老人の名は、江戸時代の元禄から享保期にかけて一世を風靡した人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の作者・近松門左衛門その人だった。


だ10代前半に過ぎなかった近松少年は、何かの理由で失職し浪人になった父に従って、一家とともに京都に移った。京都では、彼は公家の一条恵観(昭良)に仕えたが、その公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。近松が20歳になった頃は、公家の使いで人形浄瑠璃に通ううちに浄瑠璃にハマッてしまったようだ。

4歳になったとき、近松は京の浄瑠璃語りの第一人者・宇治加賀掾(うじかがのじょう)に弟子入りした。彼が初めてのヒット作となる『世継曽我』を執筆したのは天和3年(1683)、31歳のときだった。翌年の貞亨元年(1684)に大阪道頓堀で「竹本座」を旗揚げした竹本義太夫も、『世継曽我』をこけら落としで演じて、成功をおさめた。『世継曽我』の成功によって筆一本で立つ自信がついた近松は、武士の身分と完全に決別するべく、史上初めて台本に「作者・近松門左衛門」と誇りを持って名前を記入したという。

禄12年(1699)、近松門左衛門は北国第一の遊郭だった越前・三国を舞台とする『傾城仏の原』(けいせいほとけのはら)を書き上げた。初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)がこの歌舞伎狂言を主演し大好評を得た。その後、大阪に移り、活動の場も主に人形浄瑠璃に移して、次々と作品を書き上げた。

作『曽根崎心中』
江戸時代の絵入り本「牟芸古雅志(むぎこがし)」
の中の『曽根崎心中』の図
際に身近に起こった若者の悲恋・心中事件をリアルに描いた世話物の傑作『曽根崎心中』(1703年、そねざきしんじゅう)、福井に20年以上住んで優れた作品を残した絵師・岩佐又兵衛をモデルにした『傾城反魂香』(1708年、けいせいはんごんこう)、飛脚屋の養子忠兵衛が遊女梅川と深い仲になりふたりして破滅に向うという世話物『冥途の飛脚』(1711年、めいどのひきゃく)、『国姓爺合戦』(1715年、こくせんやがっせん)、遊女との心中を描いた最後の作品『心中天の網島』(1720年、しんじゅうてんのあみじま)など、多くの傑作が彼の筆によって世に出された。彼が生涯に執筆した作品の数は、上に記したようにおよそ150編に達するという。

『世継曽我』で劇作家として世間に認められて40有余年、多くの作品を書き続け名声を欲しいままにした近松だったはずである。だが、死期を直前に迎えて来し方を振り返ったとき、彼の心中は決して満ち足りてはいなかったのだろう。彼が生きた時代は士農工商とはっきりした身分制度が確立していて、芸能関係者は商人よりも軽んじられて河原乞食と蔑まれていた。浄瑠璃作者としていかに名声を得ても、武士を捨てたことに対する慚愧の念は死ぬまで彼につきまとったであろう。近松は、親戚縁者から縁を切られ、天涯孤独の生活を送っている。

なみに、上に示した肖像画のタイトルは、「近松門左衛門、姓は杉森、字は信盛、平安堂巣林子の像」となっている。そして、「自分は武門の家に生まれながら、武門を離れて三塊九卿(=高貴な公卿)に身近に仕えたが、自分にはなんの爵位もない」という内容で辞世を書き始めている。そのくせ、通常六位以下の者が着用する「法衣(ほい)」という装束に身を包み、武士がかぶる「風折烏帽子」をつけて描かせている。いかに武士という身分に拘泥していたかが分かろうというものである。

にとって最後の願いは、近松門左衛門という存在が後世においても認められ、己の作品が後世も生き残ってくれることであったにちがいない。そのため、己の自画像を描かせ、それに辞世の文を書き添えた。自分の作品が後世まで残って欲しいと思うのは愚かなことだとする辞世の句は、彼の今際(いまわ)の気持ちの逆説的表現であろう。

 大阪市天王寺区谷町8丁目にある近松門左衛門の墓

松門左衛門と墓と称されるものはいくつかあるようだが、国史跡の指定を受けているのは、大阪市の法妙寺にあった墓と尼崎市の広済寺にある墓の2基だけである。どのような墓か気になって出かけてきた。

谷町筋の谷町7丁目交差点 国指定史跡 近松門左衛門墓
谷町筋の谷町7丁目交差点 国指定史跡・近松門左衛門墓の案内

阪市南区谷町に所在した法妙寺は、近松門左衛門の妻の実家の歴代の菩提寺だった関係で、境内に近松の墓が残っていた。法妙寺は昭和42年(1967)に大東市に移転することになった。近松の一族の墓や過去帳などは寺の移転に伴って移されたが、史跡に指定された近松の墓は移すことはできずそのまま残された。

近松門左衛門の墓
近松門左衛門の墓
町9丁目の交差点から谷町筋を北に向かって歩いていくと、谷町7丁目交差点の角に「オリーブハイツ」という高層マンションがある。マンションの建物とその手前のガソリンスタンドとの間に地下鉄の通風塔があり、墓はその通風塔の裏に隠れてひっそりと建っている。大阪市教育委員会が立てた案内板が通りに面して置かれているため、かろうじて墓の所在を知ることができる。

風塔とガソリンスタンドのブロック塀の間の幅1mもない路地を入っていくと、左手に近松門左衛門の墓が建っている。緑泥石片岩の自然石の墓石は思いの外小さく、高さは48cmしかない。墓石の表面には、近松門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」(いちじゅいんみょうちゅうにちじしんにょ)が刻まれている。裏面には「享保九年(1724)十一月二十一日」と没年が刻まれているという。

内板の説明によれば、この墓はもともとこの位置にあったのではないようだ。当初は近くの法妙寺の境内にあったが、昭和55年(1980)に財団法人住吉名勝保存会をはじめ市民の協力を得て現在の場所に移転し、整備が図られたとのことだ。

 兵庫県尼崎市の広済寺にある近松門左衛門の墓

う一つの近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(所在:兵庫県尼崎市久々知1-3-27)の境内にある。アクセスする方法はいろいろあるだろうが、筆者はJR神戸線「尼崎駅」北側から11・12系統の市バスを利用して訪れた。「近松公園」で下車すると、すぐの所に近松公園があり、その先に広済寺がある。

近松公園付近の案内図 近松公園の入口
近松公園付近の案内図 近松公園の入口

標識
松公園の塀の脇に立てられた標識に従って進むと、公園の入口がある。入口に立って公園の中を覗き込むと、正面に近松門左衛門の像が見え、その左手には近松記念館があった。記念館は正月休みで開館していなかったが、近松の像は堂々たる体躯の恰幅の良い姿をしていた。浄瑠璃の台本を右手に持ち、義太夫節をじっと聞き入る姿をイメージして制作されたようだ。

髪して泰然と構えたその姿は、まるで僧侶のようだ。上に示した肖像画を見慣れた者には、まるで別人に思える。近松が京都から大阪に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となったのは、宝永2年(1505)、53歳の時である。あるいは、彼が最も油ののった頃の姿をイメージして、この像が刻まれたのかもしれない。

近松門左衛門の像 広済寺の正門
近松門左衛門の像 広済寺の正門

松公園の塀に沿って先へ進むと、公園に隣接した広済寺のドッシリとした門の前に出る。広済寺は、現在は日蓮宗の寺であるが、創建は平安時代までさかのぼる。天徳元年(957)、摂津源氏の頭領だった多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝えられている。しかし、鎌倉時代末期の元弘3年(1333)戦災を被って、長い間荒れ寺として放置されてきた。江戸時代の正徳4年(1714)になって、日蓮宗の日昌上人が堂宇を建立して寺を再興した。

近松門左衛門の墓−1
近松門左衛門の墓−1
近松門左衛門の墓−2
近松門左衛門の墓−2
の再興開山に協力した人々を記した「広済寺開山講中列名縁起」の中に近松門左衛門の名があるという。日昌上人は正徳4年(1714)まで道頓堀に近い寶泉寺の住職を務めていた。何かの機会に二人が知己を得る出会いがあったのだろう。近松の母「智法院貞松日喜」は享保元年(1716)9月に亡くなっている。近松は母を広済寺に葬り、そのとき家宝の二位大納言阿野実藤筆の法華経和歌集二巻と後西天皇直筆の色紙を広済寺に寄付している。

松はときどき尼崎に来遊していた。当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があり、近松はここで著作したという話も伝わっている。そのとき近松が愛用した遺品や近松部屋の階段などは広済寺寺宝として「近松記念館」に展示されてるとのことだ。記念館は残念ながら閉館中で見学できなかった。

史跡に指定された近松門左衛門の墓は、広済寺の墓地の一画にある。その墓石の前に立った時の第一印象は「似ている」だった。谷町の墓石と同じような大きさの緑泥石片岩に、近松門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」が刻まれている。ただし、裏面に彫られた近松の命日は「享保九年(1724)十一月二十二日」となっている(谷町の墓碑では十一月二十一日)。

二つの墓碑(左:大阪谷町、右:尼崎広済寺)
二つの墓碑(左:尼崎広済寺、右:大阪谷町)

て、分からなくなった。なぜ墓が近松の菩提寺の尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺の二カ所に建てられているのか、なぜ両方の墓碑に同じ大きさ、同じ緑泥石片岩の自然石が用いられているのか、なぜ近松の命日に一日のずれがあるのか、なぜ夫婦の戒名が刻まれた比翼墓なのに、妻の命日が刻まれていないのか、etc.etc.

松が母を広済寺に葬ったのであれば、広済寺が近松家の菩提寺であり、彼の墓が菩提寺にあるのは理解できる。彼の妻の名前も命日も伝わっていないが、常識的には近松より後に没したであろう。近松一家は日昌上人と親交があり、近松と同様に妻も生前に法号戒名を与えられていたと思われ、比翼塚として夫婦の戒名が刻まれたのだろう。その時点では、妻はまだ存命だった。だが、妻の生家の菩提寺は法妙寺だった。そのため、彼女は広済寺に建てる墓碑と同じものもう一つ作って法妙寺にも建てさせたのではあるまいか。近松の命日に一日のずれがある理由はわからない。


 追記: 人形浄瑠璃と文楽

「人形浄瑠璃」のことを、関西人はよく「文楽」という。世情に疎い筆者には両者の違いがよく分からなかった。気になって少し調べてみると、近松門左衛門や竹本義太夫の出現で、人形浄瑠璃は一時期は歌舞伎をしのぐほどの人気を誇った。だが江戸の終わりの頃には、歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった。

政年間(1789-1801)に落ち目の人形浄瑠璃を再興させた人物がいる。初世植村文楽軒である。彼は人形浄瑠璃の伝統を引き継ぐとともに、現在の大阪市中央区の高津橋に新しく劇場を作って人形浄瑠璃を上演した。明治5年(1872)、三世植村文楽軒のとき、この劇場を大阪市西区の松島に移し、「文楽座」と改名した。明治時代の末期には、文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場であったことから、特に大阪では「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として使われるようになったという。しかし、文楽が人形浄瑠璃の一派であることに変わりはない。




2008/01/07作成 by pancho_de_ohsei return