![]() |
| 尼崎市近松公園の近松門左衛門像(2008/01/05 撮影) |
謎の多い近松門左衛門の生涯、生誕地もその一つ思い返してみると、歌舞伎・能・狂言・文楽といった古典芸能におよそ縁のない人生を生きてきた。これだけ歴史探訪にはまっているくせにである。古典芸能に興味がなかったわけではない。ただ、じっくり味わってみようという心のゆとりがなかった。 技術者でもないのに技術ドキュメント作成を生業(なりわい)としてきたのが、おそらくその原因だろう。新しい技術知識を吸収するのに必死だった。時間も金もほとんどそちらに投資してきた気がする。わざわざ劇場まで足を運んで古典芸能を鑑賞する精神的なゆとりがなかったと言い換えてもよい。
『日本書紀』は、聖徳太子が味摩之を桜井に住まわせて、少年を集め伎楽を習わせたと伝えている。その場所が、桜井市にある土舞台と聞いて訪れたこともある。桜井小学校の裏山に碑が建ち、我が国の”芸能発祥の地”と顕彰されていた。 最近は、またひょんなことから人形浄瑠璃に興味を持ちだした。正確な言い方をすれば、人形浄瑠璃そのものよりも、人形浄瑠璃の作者として知られる近松門左衛門(1653 - 1725)に興味をいだくようになった。松尾芭蕉(1644 - 1694)、井原西鶴 (1642 - 1693)とともに、元禄時代(1688 - 1503)の三大文豪と讃えられてきた人物である。
その近松に興味を持ちだした理由は簡単だ。あることを調べていて、彼の出生地が自分と同じ越前福井であるとする説があることを知ったためである。最初は「本当?」と信じられなかった。彼のことは中学や高校の歴史や国語の時間に習った。だが、同郷の名士であると教わった記憶がない。
近松門左衛門門の出生地が越前福井とする説は、郷土史家の田辺密蔵が、すでに大正14年に発行された『国語と国文学』8月号の中で発表している。田辺は「杉森家系譜」を調べて、近松の父の信義が福井藩主・松平忠昌に仕えた武士であり、後に浪人して京都に住んだことをほぼ明らかにした。 大阪市立大学の森 修教授は、昭和33年に発行された『国語国文』10月号に「近松門左衛門と杉森家系譜について」と題する一文を発表し、杉森家系譜のほか福井藩の記録をもとに、越前と杉森家の関係を明らかにされた。
二人の研究によって、近松の出生地=越前説が学会の主流になり、最近ではほぼ定説として受け入れられているようだ。実際に彼の生国が越前福井であるのなら、郷土の名士としておおいに誇ってよい。かっての吉江藩を市域に持つ福井県鯖江市では、市のホームページに近松の情(こころ)にふれあうまちめぐりというコーナーを設けて、町おこしの一助としている。もっとも、越前説に対する異論もあり、山口県在住の近松研究者宮原英一氏は、山口県長門市をその生誕地とする説を自作のホームページ上で展開しておられる。 |
近松門左衛門の2つの墓を訪れる近松門左衛門の辞世文
■ 享保9年(1724)の11月の上旬、大阪天満の老人の館では早朝から人の出入りがあった。老人は前の年あたりから急激に体力の衰えを感じていたが、年が変わり、それも秋風が吹く頃になると、奥の部屋で臥すことが多くなった。だが、その日は弟子達を手伝わせて礼装に身を包むと、両脇を抱きかかえられるようにして隣の部屋に歩を進めた。隣室では知り合いの絵師がすでに準備を整えて控えていた。
■ 老人は二言三言絵師と時候の挨拶を交わすと、床の間を背にして座った。そして、冗談らしい笑みを浮かべて言った。 ■ 和紙の上を這うかすかな絵筆の音を耳にしながら、老人の脳裏には七十余年の来し方が次々と思い浮かんだ。そして、とりとめのない一生を過ごしてしまったようだ、と自責の念にかられた。庶民の中で暮らしながら、商売のことは何も知らなかった。隠者のように振る舞いながら、隠者でもなかった。賢者のようでいて賢者でもなく、物知りのようで何も知らぬ、世のまやかし者だった。ただ、何ごとも知らぬことがないような振りををして、口から出任せ、筆の走るままにしゃべり散らして生きてきただけの人生だった・・・。
もし辞世は、と問う人あらば、 それぞ辞世 去ほどに扨(さて)もそののちに 残る桜が花しにほはば(*1) 享保九年中冬上旬 入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいん・ぼくい・にちいち・ぐそくこじ)) 不俟終焉期 予自記(終焉の期を待たず、あらかじめ自ら記す) 春秋七十二歳 と墨書した。さらに続けてもう一行、次の辞世の句を付け加えた。 のこれとは おもふもおろか うづみ火の けぬまあだなる くち木がきして(*2)
(*1 意味)「さるほどに」とか「さても」とか「そののちに」とかいう浄瑠璃の語り出しの決まり文句で始まる作品が、後々まで残るならば、その一つ一つが私の辞世だ ■ この日から2週間後の11月22日、老人は約40年にわたる作家生活にピリオドを打った。享年72歳。老人の名は、江戸時代の元禄から享保期にかけて一世を風靡した人形浄瑠璃・歌舞伎狂言の作者・近松門左衛門その人だった。 まだ10代前半に過ぎなかった近松少年は、何かの理由で失職し浪人になった父に従って、一家とともに京都に移った。京都では、彼は公家の一条恵観(昭良)に仕えたが、その公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。近松が20歳になった頃は、公家の使いで人形浄瑠璃に通ううちに浄瑠璃にハマッてしまったようだ。 24歳になったとき、近松は京の浄瑠璃語りの第一人者・宇治加賀掾(うじかがのじょう)に弟子入りした。彼が初めてのヒット作となる『世継曽我』を執筆したのは天和3年(1683)、31歳のときだった。翌年の貞亨元年(1684)に大阪道頓堀で「竹本座」を旗揚げした竹本義太夫も、『世継曽我』をこけら落としで演じて、成功をおさめた。『世継曽我』の成功によって筆一本で立つ自信がついた近松は、武士の身分と完全に決別するべく、史上初めて台本に「作者・近松門左衛門」と誇りを持って名前を記入したという。 元禄12年(1699)、近松門左衛門は北国第一の遊郭だった越前・三国を舞台とする『傾城仏の原』(けいせいほとけのはら)を書き上げた。初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)がこの歌舞伎狂言を主演し大好評を得た。その後、大阪に移り、活動の場も主に人形浄瑠璃に移して、次々と作品を書き上げた。
『世継曽我』で劇作家として世間に認められて40有余年、多くの作品を書き続け名声を欲しいままにした近松だったはずである。だが、死期を直前に迎えて来し方を振り返ったとき、彼の心中は決して満ち足りてはいなかったのだろう。彼が生きた時代は士農工商とはっきりした身分制度が確立していて、芸能関係者は商人よりも軽んじられて河原乞食と蔑まれていた。浄瑠璃作者としていかに名声を得ても、武士を捨てたことに対する慚愧の念は死ぬまで彼につきまとったであろう。近松は、親戚縁者から縁を切られ、天涯孤独の生活を送っている。 ちなみに、上に示した肖像画のタイトルは、「近松門左衛門、姓は杉森、字は信盛、平安堂巣林子の像」となっている。そして、「自分は武門の家に生まれながら、武門を離れて三塊九卿(=高貴な公卿)に身近に仕えたが、自分にはなんの爵位もない」という内容で辞世を書き始めている。そのくせ、通常六位以下の者が着用する「法衣(ほい)」という装束に身を包み、武士がかぶる「風折烏帽子」をつけて描かせている。いかに武士という身分に拘泥していたかが分かろうというものである。 彼にとって最後の願いは、近松門左衛門という存在が後世においても認められ、己の作品が後世も生き残ってくれることであったにちがいない。そのため、己の自画像を描かせ、それに辞世の文を書き添えた。自分の作品が後世まで残って欲しいと思うのは愚かなことだとする辞世の句は、彼の今際(いまわ)の気持ちの逆説的表現であろう。 大阪市天王寺区谷町8丁目にある近松門左衛門の墓近松門左衛門と墓と称されるものはいくつかあるようだが、国史跡の指定を受けているのは、大阪市の法妙寺にあった墓と尼崎市の広済寺にある墓の2基だけである。どのような墓か気になって出かけてきた。
大阪市南区谷町に所在した法妙寺は、近松門左衛門の妻の実家の歴代の菩提寺だった関係で、境内に近松の墓が残っていた。法妙寺は昭和42年(1967)に大東市に移転することになった。近松の一族の墓や過去帳などは寺の移転に伴って移されたが、史跡に指定された近松の墓は移すことはできずそのまま残された。
通風塔とガソリンスタンドのブロック塀の間の幅1mもない路地を入っていくと、左手に近松門左衛門の墓が建っている。緑泥石片岩の自然石の墓石は思いの外小さく、高さは48cmしかない。墓石の表面には、近松門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」(あのくいんぼくいにちいちぐそくこじ)と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」(いちじゅいんみょうちゅうにちじしんにょ)が刻まれている。裏面には「享保九年(1724)十一月二十一日」と没年が刻まれているという。 案内板の説明によれば、この墓はもともとこの位置にあったのではないようだ。当初は近くの法妙寺の境内にあったが、昭和55年(1980)に財団法人住吉名勝保存会をはじめ市民の協力を得て現在の場所に移転し、整備が図られたとのことだ。 兵庫県尼崎市の広済寺にある近松門左衛門の墓もう一つの近松門左衛門の墓は尼崎の広済寺(所在:兵庫県尼崎市久々知1-3-27)の境内にある。アクセスする方法はいろいろあるだろうが、筆者はJR神戸線「尼崎駅」北側から11・12系統の市バスを利用して訪れた。「近松公園」で下車すると、すぐの所に近松公園があり、その先に広済寺がある。
剃髪して泰然と構えたその姿は、まるで僧侶のようだ。上に示した肖像画を見慣れた者には、まるで別人に思える。近松が京都から大阪に移住し道頓堀の竹本座の座付作者となったのは、宝永2年(1505)、53歳の時である。あるいは、彼が最も油ののった頃の姿をイメージして、この像が刻まれたのかもしれない。
近松公園の塀に沿って先へ進むと、公園に隣接した広済寺のドッシリとした門の前に出る。広済寺は、現在は日蓮宗の寺であるが、創建は平安時代までさかのぼる。天徳元年(957)、摂津源氏の頭領だった多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝えられている。しかし、鎌倉時代末期の元弘3年(1333)戦災を被って、長い間荒れ寺として放置されてきた。江戸時代の正徳4年(1714)になって、日蓮宗の日昌上人が堂宇を建立して寺を再興した。
近松はときどき尼崎に来遊していた。当時、広済寺本堂裏には「近松部屋」という、六畳二間、奥座敷四畳半の建物があり、近松はここで著作したという話も伝わっている。そのとき近松が愛用した遺品や近松部屋の階段などは広済寺寺宝として「近松記念館」に展示されてるとのことだ。記念館は残念ながら閉館中で見学できなかった。 国史跡に指定された近松門左衛門の墓は、広済寺の墓地の一画にある。その墓石の前に立った時の第一印象は「似ている」だった。谷町の墓石と同じような大きさの緑泥石片岩に、近松門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」が刻まれている。ただし、裏面に彫られた近松の命日は「享保九年(1724)十一月二十二日」となっている(谷町の墓碑では十一月二十一日)。
さて、分からなくなった。なぜ墓が近松の菩提寺の尼崎・広済寺と、妻側の菩提寺の大阪・法妙寺の二カ所に建てられているのか、なぜ両方の墓碑に同じ大きさ、同じ緑泥石片岩の自然石が用いられているのか、なぜ近松の命日に一日のずれがあるのか、なぜ夫婦の戒名が刻まれた比翼墓なのに、妻の命日が刻まれていないのか、etc.etc. 近松が母を広済寺に葬ったのであれば、広済寺が近松家の菩提寺であり、彼の墓が菩提寺にあるのは理解できる。彼の妻の名前も命日も伝わっていないが、常識的には近松より後に没したであろう。近松一家は日昌上人と親交があり、近松と同様に妻も生前に法号戒名を与えられていたと思われ、比翼塚として夫婦の戒名が刻まれたのだろう。その時点では、妻はまだ存命だった。だが、妻の生家の菩提寺は法妙寺だった。そのため、彼女は広済寺に建てる墓碑と同じものもう一つ作って法妙寺にも建てさせたのではあるまいか。近松の命日に一日のずれがある理由はわからない。 追記: 人形浄瑠璃と文楽「人形浄瑠璃」のことを、関西人はよく「文楽」という。世情に疎い筆者には両者の違いがよく分からなかった。気になって少し調べてみると、近松門左衛門や竹本義太夫の出現で、人形浄瑠璃は一時期は歌舞伎をしのぐほどの人気を誇った。だが江戸の終わりの頃には、歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった。 寛政年間(1789-1801)に落ち目の人形浄瑠璃を再興させた人物がいる。初世植村文楽軒である。彼は人形浄瑠璃の伝統を引き継ぐとともに、現在の大阪市中央区の高津橋に新しく劇場を作って人形浄瑠璃を上演した。明治5年(1872)、三世植村文楽軒のとき、この劇場を大阪市西区の松島に移し、「文楽座」と改名した。明治時代の末期には、文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場であったことから、特に大阪では「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として使われるようになったという。しかし、文楽が人形浄瑠璃の一派であることに変わりはない。 |