コリアタウン近くで民家に囲まれて鎮座する神社
大阪市の生野区と天王寺区にまたがる鶴橋駅は、近畿日本鉄道とJR環状線、市営地下鉄の乗り換え駅として、乗り継ぎ利用客が多いことで知られる。そして、駅の改札口を一歩出れば、そこは在日コリアンによって作られたコリアタウンである。改札口から三方に続くアーケード街には、焼肉店やキムチなどの食材を扱う店、衣料店などが所狭しと並んでいる。
近鉄電車とJR環状線の乗り換えに、筆者やよく鶴橋駅を利用しているが、年の瀬も押し迫った本日、実に何十年ぶりかで鶴橋駅の改札口を出た。アーケード街が暮れの買い物客でごった返していた。焼き肉の香ばしい香りやキムチなどの独特な匂いが、広範囲にわたって漂っていた。
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| 駅前の鶴橋商店街 |
千日前通りの「玉津3」交差点 |
以前から気になっていた神社が、鶴橋駅の近くにある。駅前の千日前通りを350mほど東へ行った玉津3丁目交差点に近くにある比売許曾(ひめこそ)神社である。神社の略縁起などでは、下照比売命(したてるひめのみこと)を主祭神として祀っていることになっている。下照比売命は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)と宗像三神の多紀理姫命(たきりひめのみこと)の間に生まれた子神である。
だが、『日本書紀』の垂仁紀や『古事記』の応神天皇の段では、後述のように、新羅の天之日矛(あめのひぼこ、『日本書紀』では天日槍)の妻・阿加流比売(あかるひめ)が我が国に逃げ戻って、比売許曾神社の神となったと記す。神社の伝承と記紀の記述のどちらが正しいか、筆者には判断できない。だがコリアタウンに古代の新羅に関連した神社があることに興味を持った。
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| 路地の奥にある比売許曾神社 |
混雑するアーケード街を抜けて千日前通りに出ると、東へ向かって歩いた。徒歩で数分歩くと、市道上新庄生野線との玉津3丁目の交差点がある。交差点から筋道一つ手前に左に入る路地があり、奥の方を覗き込むと、神社の鳥居が見えた。そこが比売許曾神社の境内だった。神社を含む周辺地区は、珍しく戦災の被害を受けなかった。そのため昔風の民家が境内の周囲に隣接していて、神社は窮屈そうに鎮座している。
路地を入っていくと、「比売許曾神社」の扁額を掲げた鳥居の両脇に、古びた狛犬が隠れるように置かれている。鳥居の右側には、大きな楠木が聳えていた。鳥居に覆い被さるように枝葉を延ばし、境内に影を落としている。新年の初詣に備えて、境内では特設のテントの設営準備が進められていた。
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| 比売許曾神社の拝殿 |
正面鳥居の横にある樟の木 |
比売許曾神社の主祭神は下照比売命で、子授けの神として信仰されている。その他に、速素盞嗚命(すさのおのみこと)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・大小橋命(おおおばせのみこと)・大鷦鷯命(おおささぎのみこと) ・橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)が配祀されている。この神社の歴史は古い。略縁起によれば、垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀って「高津天神」と称したことに始まると伝えられている。顕宗天皇の時代に、社殿が整えられたという。『延喜式』神名帳でも名神大社に列せられていて、新嘗・相嘗の奉幣に預ったと記載されている。
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| 拝殿両脇の面白い形をした狛犬 |
天正年間に織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭い、愛来目山にあった社殿は焼失した。祭神は辛くも難を避け、摂社であつたこの地の牛頭天王社に遷座したという。しかし、天正以後に神社が荒廃してその所在も沿革も分からなくなってしまった。幸い、天明8年(1788)になって旧記と神宝を発見されたので、旧記に基いて比売許曽神社の縁起を編纂し、牛頭天王社を延喜式内の比売許曽神社に充当したと言われている。
『古事記』や『日本書紀』が伝える天之日矛の渡来伝説
比売許曾神社の社伝には、阿加流比売 (あかるひめ、阿加留比売、赤留比売とも書く)を祭神とする記録はない。阿加流比売をこの神社に祀ったという伝承は、実は『古事記』の中にある。『古事記』は応神天皇の段に、天之日矛(あめのひほこ)の渡来伝説を、次のような話で紹介している。
■ 新羅の王子・天之日矛は、ある男から赤い玉を譲り受けた。赤い玉は、新羅の阿具沼(あぐぬま)という沼で女が昼寝をしているとき、その陰部に日の光が虹のようになって当たり、女がたちまち娠んで生んだものだった。王子は譲り受けた玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
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| 比売許曾神社の正面鳥居に掲げられた扁額 |
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| 比売許曾神社拝殿から見た本殿内部 |
■ 天之日矛は、赤い玉から化身した女性と結婚し、正妻として迎えた。阿加流比売という女性は、夫に良く尽くした。しかし、ある時、夫婦喧嘩で夫からののしりを受けると、彼女は「親の国へ帰る」と言って小舟に乗って日本へ渡り、難波に住み着いた。『古事記』は、彼女が難波の比売許曾神社に祀られている阿加流比売の神であると、わざわざ注記している。
■ 阿加流比売を忘れられない天之日矛は、七種とも八種(*)とも言われる神宝とともに、妻のあとを追って日本に渡ってくる。彼は妻のいる難波に向かったが、海上の守護神に行く手を阻まれ逢うことがかなわなかった。そこで、やむなく但馬(兵庫県出石地方)に上陸してそこにとどまり、やがて土地の娘と結婚して子孫を残した。彼の曽孫に、『古事記』では多遅麻毛理(たじまもり)、『日本書紀』では田道間守(たじまもり)と記す人物がいる。田道間守については後述する。
(*)八種の神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡をいう。
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| 但馬国一之宮の出石神社 |
当時の但馬はまだほとんど開拓されていなかったので、天之日矛は鉄器や土器など新羅の新技術を伝えることによって農耕を発展させ、食料を豊かにした。そのため、但馬の開拓神として崇められ、但馬国一之宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)に「国土開発の祖神」として祀られている。
『日本書紀』は、新羅の王子・天之日矛ではなく大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つるがあらひと)の名で、類似の伝説を垂仁紀に載せている。
天之日矛には、「日矛」の名の通りに民族的な守護神としての武神のイメージもある。『播磨国風土記』では、天之日矛は葦原志許男(あしはらしこお)と国土をめぐって力を競う強力な神として登場する。葦原志許男とは山陰を開いた出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である。二人の争いは決着がつかなかったので、山の上から三本の矢を射て、落ちた所を支配地にしようということになった。天之日矛の矢はすべて但馬に落ち、葦原志許男の矢は、養父郡と気多郡に落ちた。そこで、天之日矛は但馬の出石を本拠とし、葦原志許男は養父神社と気多神社に大己貴命(おおなむちのみこと)として祀られた。 この伝承は、土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語とされている。
13世紀末に高麗の高僧一然(1206 - 1289)によって書かれた私撰の史書『三国遺事』は、朝鮮(新羅)にも天之日矛伝説に似た次のような説話を載せている。
■ 新羅の第8代阿達羅(あたるら)王の即位4年(157年)、東海の辺りに、延烏(ヨノオ)と細烏(セオ)という夫婦が住んでいた。ある日のこと、延烏が海へ行って海藻を採っていると、彼の乗っていた岩が動き出して、そのまま日本へ連れ去ってしまった。一説には、その岩は巨大な魚だったともいう。その国の人々は彼を見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった。
■ 細烏は夫の帰りが遅いので海に捜しに行き、岩の上に夫の鞋(くつ)が脱いであるのを見つけ、そこに登った。すると、岩が前と同じように動いて、彼女を日本に運んでいった。彼女が日本に着くと人々が驚いて王に報告したので、夫婦はようやく再会して再び結ばれた。
■ このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象と司る役人)は「太陽と月の精が我が国にあったのに、日本に行ってしまったため、このような異変が起こりました」と奏上したとのことだ。
玉津3丁目の交差点の角にある胞衣塚(
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| 玉津3丁目の交差点にある胞衣塚 |
千日前通りと市道上新庄生野線の「玉津3丁目」交差点には、西北の角に小さな祠(ほこら)が建っている。胞衣塚(えなづか)という。東成区役所が立てた説明板によれば、比売許曾神社に祀られている大小橋命(おおおばせのみこと)の胞衣(えな)を納めたところと伝えられているという。
大小橋命とは、藤原氏や中臣氏らの祖とされる人物で、この地に住み人々の尊敬を集めたと言われている。胞衣とは胎児を包む羊水や胎盤などを云う。つまり、大小橋命が生まれたときの胎盤を埋めた場所に祠が築かれていることになる。
後世、この塚に植えられた柳の枝が子供の夜泣き封じに効能があるという噂が広がった。そのため、「よな塚」とも呼ばれ、庶民に親しまれたそうだ。だが、夜鳴きをした子供を連れて参る人の姿は、現在では見られなくなったようだ。
不老不死の霊菓を求めて常世の国に渡った田道間守(たじまもり)
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宝来山古墳(垂仁天皇陵)の 陪塚・田道間守の墓 |
余談になるが、田道間守(たじまもり)に関する伝承を追加しておこう。ある時、第11代垂仁天皇は、常世の国に渡って不老不死の霊菓・非時香菓(トキジクノカグノコノミ)を探してくるようにと、田道間守に命じた。そこで、田道間守は苦難の末やっと常世の国に到達したが、非時香菓を持ち帰ったのは、それから10年後のことだった。ちなみにこの霊菓は、いつでも実をつけていて香りのよい橘とされている。
田道間守が帰国する1年前に、垂仁天皇は崩御してしまい、その年の暮れに埋葬されてしまった。不老不死の霊果が間に合わなかったのである。田道間守は天皇の陵に参拝し、復命が遅れたことを詫び、「今更生きていても何のためになりましょうや」と泣き叫んで陵の前で死んでしまった。群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸を陵の傍らに葬った。その墓が奈良市尼ケ辻町にある宝来山古墳(垂仁天皇陵)の周濠に浮かぶ陪塚であるという。田道間守が非時香菓を持ち帰った功績にちなんで、彼は現在でも菓子の祖神として菓子業者の信仰を集めている。
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