橿原日記 平成19年12月30日

比売許曾神社(ひめこそじんじゃ):新羅の王子・天之日矛(あめのひほこ)の妻を祀った神社?

 探 訪 メ モ

アクセスマップ
【所在】大阪市東成区東小橋3-8-14
【祭神】下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀
【例祭】10月15日 例祭
【社格】旧村社
【由緒】垂仁天皇2年7月創祀。顕宗天皇の時代に社殿を造営
【備考】当初鎮座の地は高津宮内社(大阪市南区内)
【アクセス】JR/近鉄/市営地下鉄の近鉄駅から東へ徒歩350m


コリアタウン近くで民家に囲まれて鎮座する神社

阪市の生野区と天王寺区にまたがる鶴橋駅は、近畿日本鉄道とJR環状線、市営地下鉄の乗り換え駅として、乗り継ぎ利用客が多いことで知られる。そして、駅の改札口を一歩出れば、そこは在日コリアンによって作られたコリアタウンである。改札口から三方に続くアーケード街には、焼肉店やキムチなどの食材を扱う店、衣料店などが所狭しと並んでいる。

鉄電車とJR環状線の乗り換えに、筆者やよく鶴橋駅を利用しているが、年の瀬も押し迫った本日、実に何十年ぶりかで鶴橋駅の改札口を出た。アーケード街が暮れの買い物客でごった返していた。焼き肉の香ばしい香りやキムチなどの独特な匂いが、広範囲にわたって漂っていた。

駅前の鶴橋商店街 千日前通りの「玉津3」交差点
駅前の鶴橋商店街 千日前通りの「玉津3」交差点

前から気になっていた神社が、鶴橋駅の近くにある。駅前の千日前通りを350mほど東へ行った玉津3丁目交差点に近くにある比売許曾(ひめこそ)神社である。神社の略縁起などでは、下照比売命(したてるひめのみこと)を主祭神として祀っていることになっている。下照比売命は出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)と宗像三神の多紀理姫命(たきりひめのみこと)の間に生まれた子神である。

が、『日本書紀』の垂仁紀や『古事記』の応神天皇の段では、後述のように、新羅の天之日矛(あめのひぼこ、『日本書紀』では天日槍)の妻・阿加流比売(あかるひめ)が我が国に逃げ戻って、比売許曾神社の神となったと記す。神社の伝承と記紀の記述のどちらが正しいか、筆者には判断できない。だがコリアタウンに古代の新羅に関連した神社があることに興味を持った。

路地の奥にある比売許曾神社
路地の奥にある比売許曾神社
雑するアーケード街を抜けて千日前通りに出ると、東へ向かって歩いた。徒歩で数分歩くと、市道上新庄生野線との玉津3丁目の交差点がある。交差点から筋道一つ手前に左に入る路地があり、奥の方を覗き込むと、神社の鳥居が見えた。そこが比売許曾神社の境内だった。神社を含む周辺地区は、珍しく戦災の被害を受けなかった。そのため昔風の民家が境内の周囲に隣接していて、神社は窮屈そうに鎮座している。

地を入っていくと、「比売許曾神社」の扁額を掲げた鳥居の両脇に、古びた狛犬が隠れるように置かれている。鳥居の右側には、大きな楠木が聳えていた。鳥居に覆い被さるように枝葉を延ばし、境内に影を落としている。新年の初詣に備えて、境内では特設のテントの設営準備が進められていた。

比売許曾神社の拝殿 正面鳥居の横にある樟の木
比売許曾神社の拝殿 正面鳥居の横にある樟の木

売許曾神社の主祭神は下照比売命で、子授けの神として信仰されている。その他に、速素盞嗚命(すさのおのみこと)・味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)・大小橋命(おおおばせのみこと)・大鷦鷯命(おおささぎのみこと) ・橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)が配祀されている。この神社の歴史は古い。略縁起によれば、垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀って「高津天神」と称したことに始まると伝えられている。顕宗天皇の時代に、社殿が整えられたという。『延喜式』神名帳でも名神大社に列せられていて、新嘗・相嘗の奉幣に預ったと記載されている。

拝殿両脇の面白い形をした狛犬
拝殿両脇の面白い形をした狛犬
正年間に織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭い、愛来目山にあった社殿は焼失した。祭神は辛くも難を避け、摂社であつたこの地の牛頭天王社に遷座したという。しかし、天正以後に神社が荒廃してその所在も沿革も分からなくなってしまった。幸い、天明8年(1788)になって旧記と神宝を発見されたので、旧記に基いて比売許曽神社の縁起を編纂し、牛頭天王社を延喜式内の比売許曽神社に充当したと言われている。

『古事記』や『日本書紀』が伝える天之日矛(あめのひぼこ)の渡来伝説

売許曾神社の社伝には、阿加流比売 (あかるひめ、阿加留比売、赤留比売とも書く)を祭神とする記録はない。阿加流比売をこの神社に祀ったという伝承は、実は『古事記』の中にある。『古事記』は応神天皇の段に、天之日矛(あめのひほこ)の渡来伝説を、次のような話で紹介している。


■ 新羅の王子・天之日矛は、ある男から赤い玉を譲り受けた。赤い玉は、新羅の阿具沼(あぐぬま)という沼で女が昼寝をしているとき、その陰部に日の光が虹のようになって当たり、女がたちまち娠んで生んだものだった。王子は譲り受けた玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。

正面鳥居に掲げられた扁額
比売許曾神社の正面鳥居に掲げられた扁額
拝殿から見た本殿内部
比売許曾神社拝殿から見た本殿内部
■ 天之日矛は、赤い玉から化身した女性と結婚し、正妻として迎えた。阿加流比売という女性は、夫に良く尽くした。しかし、ある時、夫婦喧嘩で夫からののしりを受けると、彼女は「親の国へ帰る」と言って小舟に乗って日本へ渡り、難波に住み着いた。『古事記』は、彼女が難波の比売許曾神社に祀られている阿加流比売の神であると、わざわざ注記している。

■ 阿加流比売を忘れられない天之日矛は、七種とも八種(*)とも言われる神宝とともに、妻のあとを追って日本に渡ってくる。彼は妻のいる難波に向かったが、海上の守護神に行く手を阻まれ逢うことがかなわなかった。そこで、やむなく但馬(兵庫県出石地方)に上陸してそこにとどまり、やがて土地の娘と結婚して子孫を残した。彼の曽孫に、『古事記』では多遅麻毛理(たじまもり)、『日本書紀』では田道間守(たじまもり)と記す人物がいる。田道間守については後述する。
(*)八種の神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡をいう。


但馬国一之宮の出石神社
但馬国一之宮の出石神社
時の但馬はまだほとんど開拓されていなかったので、天之日矛は鉄器や土器など新羅の新技術を伝えることによって農耕を発展させ、食料を豊かにした。そのため、但馬の開拓神として崇められ、但馬国一之宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)に「国土開発の祖神」として祀られている。

『日本書紀』は、新羅の王子・天之日矛ではなく大加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つるがあらひと)の名で、類似の伝説を垂仁紀に載せている。

之日矛には、「日矛」の名の通りに民族的な守護神としての武神のイメージもある。『播磨国風土記』では、天之日矛は葦原志許男(あしはらしこお)と国土をめぐって力を競う強力な神として登場する。葦原志許男とは山陰を開いた出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である。二人の争いは決着がつかなかったので、山の上から三本の矢を射て、落ちた所を支配地にしようということになった。天之日矛の矢はすべて但馬に落ち、葦原志許男の矢は、養父郡と気多郡に落ちた。そこで、天之日矛は但馬の出石を本拠とし、葦原志許男は養父神社と気多神社に大己貴命(おおなむちのみこと)として祀られた。 この伝承は、土着の出雲民族と渡来系の出石民族の勢力争いの記憶をとどめる物語とされている。


3世紀末に高麗の高僧一然(1206 - 1289)によって書かれた私撰の史書『三国遺事』は、朝鮮(新羅)にも天之日矛伝説に似た次のような説話を載せている。


■ 新羅の第8代阿達羅(あたるら)王の即位4年(157年)、東海の辺りに、延烏(ヨノオ)と細烏(セオ)という夫婦が住んでいた。ある日のこと、延烏が海へ行って海藻を採っていると、彼の乗っていた岩が動き出して、そのまま日本へ連れ去ってしまった。一説には、その岩は巨大な魚だったともいう。その国の人々は彼を見て、これはただならぬ人物だとして、王にたてまつった。

■ 細烏は夫の帰りが遅いので海に捜しに行き、岩の上に夫の鞋(くつ)が脱いであるのを見つけ、そこに登った。すると、岩が前と同じように動いて、彼女を日本に運んでいった。彼女が日本に着くと人々が驚いて王に報告したので、夫婦はようやく再会して再び結ばれた。

■ このとき新羅では、太陽と月の光が消えてしまった。日官(気象と司る役人)は「太陽と月の精が我が国にあったのに、日本に行ってしまったため、このような異変が起こりました」と奏上したとのことだ。

玉津3丁目の交差点の角にある胞衣塚(えなづか)

玉津3丁目の交差点にある胞衣塚
玉津3丁目の交差点にある胞衣塚
日前通りと市道上新庄生野線の「玉津3丁目」交差点には、西北の角に小さな祠(ほこら)が建っている。胞衣塚(えなづか)という。東成区役所が立てた説明板によれば、比売許曾神社に祀られている大小橋命(おおおばせのみこと)の胞衣(えな)を納めたところと伝えられているという。

小橋命とは、藤原氏や中臣氏らの祖とされる人物で、この地に住み人々の尊敬を集めたと言われている。胞衣とは胎児を包む羊水や胎盤などを云う。つまり、大小橋命が生まれたときの胎盤を埋めた場所に祠が築かれていることになる。

世、この塚に植えられた柳の枝が子供の夜泣き封じに効能があるという噂が広がった。そのため、「よな塚」とも呼ばれ、庶民に親しまれたそうだ。だが、夜鳴きをした子供を連れて参る人の姿は、現在では見られなくなったようだ。

不老不死の霊菓を求めて常世の国に渡った田道間守(たじまもり)

田道間守の墓
宝来山古墳(垂仁天皇陵)の
陪塚・田道間守の墓
談になるが、田道間守(たじまもり)に関する伝承を追加しておこう。ある時、第11代垂仁天皇は、常世の国に渡って不老不死の霊菓・非時香菓(トキジクノカグノコノミ)を探してくるようにと、田道間守に命じた。そこで、田道間守は苦難の末やっと常世の国に到達したが、非時香菓を持ち帰ったのは、それから10年後のことだった。ちなみにこの霊菓は、いつでも実をつけていて香りのよい橘とされている。

道間守が帰国する1年前に、垂仁天皇は崩御してしまい、その年の暮れに埋葬されてしまった。不老不死の霊果が間に合わなかったのである。田道間守は天皇の陵に参拝し、復命が遅れたことを詫び、「今更生きていても何のためになりましょうや」と泣き叫んで陵の前で死んでしまった。群臣たちは、これを聞いて皆泣き、その亡骸を陵の傍らに葬った。その墓が奈良市尼ケ辻町にある宝来山古墳(垂仁天皇陵)の周濠に浮かぶ陪塚であるという。田道間守が非時香菓を持ち帰った功績にちなんで、彼は現在でも菓子の祖神として菓子業者の信仰を集めている。



鶴橋の語源となった「つるのはし」の旧跡を保存する小公園

橋という地名の由来になった橋の旧蹟が、桃谷3丁目の市道上新庄生野線沿いに史跡公園として保存されていると聞いて訪れてみることにした。
『日本書紀』は仁徳天皇14年の条に、興味深い記事を載せている。
「冬10月に、猪甘津(いかいのつ)に橋を渡す。すなわち、その所を号(なづ)けて、小橋(おばし)という」
これが、我が国での架橋の記録としては最も古く、また、このとき架けられた小橋は、我が国最古の橋として名高い「猪甘津の橋」とされている。

つるのはし跡公園
平成9年4月に整備された『つるのはし跡公園』

の橋は、略して「津(つう)の橋」と呼ばれるようになり、さらに訛って「つるのはし」になったと言われている。江戸時代に作られた地誌『摂陽群談』では、「昔は、このあたりに鶴が多く群れ集まったため、鶴の橋が鶴橋の由来になった」と記している。

徳天皇が在位した紀元5世紀の頃、河内平野にはまだ満々と淡水をたたえた河内湖が横たわっていた。猪甘津の橋が築かれた場所から少し北側は入江になっていて、「小橋(おばし)の江(え)」と呼ばれていた。その入江に百済川(のちの平野川)が注ぎこんでいたため、河口付近は人や物資を運ぶ船が盛んに出入りする「猪甘津」として栄えた。

時は仁徳天皇の難波高津宮(たかつのみや)は上町台地に築かれ、そこから官道が猪甘津に通じていた。橋は猪甘津から河内・大和方面への交通路を開くために架けられたと推測されている。


御幸森天神宮の正面鳥居
御幸森天神宮の正面鳥居
御幸森天神宮の拝殿
御幸森天神宮の拝殿
「玉津3丁目」交差点から市道上新庄生野線を南に向かっておよそ10分ほど歩くと、御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)が鎮座している。当地にこの神社が築かれたのは、次のような理由によるとされている。

の付近一帯は、朝鮮半島の百済から渡来した人々が多く住み着いていたので、昔は百済野と呼ばれていた。仁徳天皇は鷹狩りの折、彼らの生活状態を見聞するために、たびたび当地の森で休憩された。そのため、いつしかこの付近が「御幸の森」と呼ばれるようになった。御幸森天神宮は、仁徳天皇が崩御した後、反正天皇2年(406)の9月、この森に社殿を建てて天皇の霊を祭神として奉祀し御幸の宮と称したが始まりと言われている。

徳天皇の頃には、当地の入江が陸地化して、朝廷に献上ずるイノシシ(完全には家畜化されていない猪)が飼われるようになり、猪飼野(いかいの)と呼ばれるようになった。古代には、猪飼部(いかいべ)の民が多く津のあたりに居住していたと考えられている。猪飼野は現在の鶴橋や桃谷、北勝山、中川、田島、玉津の一部にまたがっていた。しかし、昭和48年(1983)の住居表示制度の導入によって、猪飼野という地名は消滅した。


aaaaa
幸森天神宮の手水舎には、「御幸森」や「猪飼野」、「鶴橋」の地名の由来を要領よく解説した説明板が掲げてある。それを一読して、たまたま居合わせた宮司さんに「つるのはし跡公園」への道筋を聞いた。すると、神社の前の路地を左へ行けば、4分ほどで突き当たりに猪飼野保存会の建物があると教えてくれた。そこを右に曲がれば、すぐの所に史跡公園があるという。

歴史の散歩道
歴史の散歩道
司さんに教わった道は「歴史の散歩道」だった。道の中央にタイルが埋め込まれていて、そのタイルをたどれば自然と史跡公園にたどり着ける。

幸森天神宮に所蔵されている古記録によれば、江戸時代の橋は全長20軒(36.4m)、幅7尺5寸(2.3m)の板橋(いたばし)だった。明治7年(1874)に平野川を深く掘り下げた時、板橋は欄干付きの長さ7間(12.7m)、幅1間(1.8m)の石橋に掛け替えられた。その後、大正12年(1923)に新平野川が開鑿され、不要となった旧川筋が昭和15年(1940)に埋め立てられた。そのため、「つるのはし」は廃橋となった。

つるのはし跡公園
つるのはし跡公園
緒ある橋の名を後世に残すため、旧平野川の流路の上に史跡公園を作り、記念碑を建てて当時の親柱4本を保存することにした。昭和27年(1952)のことである。実際の「つるのはし」は公園入口前の道路上に存在したとのことだ。

の史跡公園の側壁には、「つるのはし跡」の解説の他に、元禄14年(1701)時点での平野川・大和川の絵図長谷川貞信が描いた浮世絵が展示してある。これらの展示を眺めていると、まさに隔世の感がする。わずか200年前、この付近はのどかな街道沿いの村落だった。平野川に平行して北に流れていた大和川も、3年後の宝永元年(1704)には、堺の海に向けて川筋が付け替えられている。




平野川・大和川の絵図 長谷川貞信が描いた浮世絵
平野川・大和川の絵図 長谷川貞信が描いた浮世絵




2007/12/31作成 by pancho_de_ohsei return