2007/12/28
西暦577年、大別王(おおわけのおおきみ)が造仏工と造寺工を百済から招来す


玉造筋沿いの豊川稲荷別院 曹洞宗観音寺
玉造筋沿いの豊川稲荷別院 曹洞宗観音寺

往古、堂ケ芝の地に古代寺院が聳えていた

R大阪環状線の「桃谷」駅のすぐ西側を、大阪のメインストリートの一つである「玉造筋(たまつくりすじ)」が南北に通っている。毎年行われる大阪国際マラソンのコースとして知られている道路だ。玉造筋と駅前から延びてきた通りが交わる交差点の一つに「堂ケ芝」がある。その交差点から玉造筋をわずかばかり北に行くと、道路に面して赤い鳥居が建っている。「豊川稲荷別院」と書かれた大きな看板を掲げた曹洞宗観音寺の境内入口である。

曹洞宗観音寺の山門
曹洞宗観音寺の山門
豊川叱枳尼真天を祀る本殿
豊川叱枳尼真天を祀る本殿
っとも、この寺の山門は少し手前の路地を入ったところになる。山門を入ると、狛犬の代わりに左右に配された朱色の狐の像が参拝者を迎えてくれる。境内の中央には石の鳥居が立ち、その正面に長い石段が二階まで続く本殿が聳えている。本殿の内部は拝観したことがないが、「豊川稲荷」の名で世上に知られる豊川叱枳尼真天(とよかわだきにしんてん)が祀られているはずである。明治初年の廃仏毀釈の嵐をくぐり抜けた我が国固有の神仏習合の姿が、ここにはある。

なみに、豊川叱枳尼真天とは、愛知県豊川市にある曹洞宗の名刹「豊川閣妙厳寺」(とよかわかく・みょうごんじ)の開祖・東海義易(とうかいぎえき)禅師が、文永4年(1268)入宋求法から帰朝する際、稲穂を担い、手に宝珠を掲げ、白狐にまたがって海上に至現した霊神である。禅師はその神示に深く感動して、帰朝後に至現の姿を手ずから刻んで守護神として祀ったという。

堂ケ芝廃寺の標識
堂ケ芝廃寺の標識
の豊川稲荷の大阪別院に興味を抱いたのは、宗教的理由からではない。境内に「堂ケ芝廃寺」の碑が建っていると知ったためである。この寺の境内から、白鳳時代から平安時代にかけての様々な古代寺院の瓦が出土している。かっては土壇状の高まりも見られたという。さらに、現在は所在不明となってしまったが、長方形柱座を持つ、巨大な塔心礎もあったと伝えられている。

まり、豊川稲荷別院が建っている境内やその周辺には、数百年にわたって古代寺院が存在した考古学的証拠が見つかっているのだ。残念ながら、文献上ではその寺院の名称は伝わっていない。そこで、その寺院跡を便宜上「「堂ケ芝廃寺」と呼んでいる。このことは、堂ケ芝寺という古代寺院がこの場所に存在したことを意味するのではない。名称不詳の寺がこの堂ケ芝の地に存在したことを意味しているのだ。

堂ケ芝廃寺の説明板
堂ケ芝廃寺の説明板
「堂ケ芝廃寺」の碑の近くに、大阪市教育委員会が掲げた説明板が置かれている。そこに記されているように、大阪は古代において東アジア諸国に向けた外交の窓口であり、外来文化を最初に受容した先端地域だった。難波津を臨む上町台地やその周辺には、中国や朝鮮半島から渡来した多くの人たちが居住していた。堂ケ芝は四天王寺に近い。この地に、四天王寺とともに我が国最古に属する古代寺院が聳えていたとしても、なんら不思議ではない。


明板には、出土したさまざまな瓦の種類が表示されている。それらの瓦は四天王寺、法隆寺、飛鳥の山田寺といった我が国最古の寺院の屋根に葺かれていたものと同范品であるという。そこで、「堂ケ芝廃寺」が古書に記されたいくつかの寺院に比定されている。その一つが「百済寺」である。

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西暦660年の百済滅亡前後に倭国に来朝してきた百済王子がいる。義慈王の子・禅広(ぜんこう、禅光、善光とも書く)である。一説には、禅広は豊璋の弟とされている。あるいは兄の帰国を促すための来朝だったかもしれない。しかし、白村江の大敗で百済復興の夢は消えた。禅広はやむなく帰国をあきらめ亡命を願い出た。朝廷は、難波に居住地を与えて、一族を上級官吏として重用した。持統天皇の時、禅広に百済王(くだらのこにきし)の姓を与えた。

特別史跡・百済寺跡
特別史跡・百済寺跡
済王氏を中心とする百済系渡来人は、今の東住吉区から平野区、生野区、東成区の南部にかけて集住し、後年、百済郡が建てられた。百済王氏は一族の精神的支柱として「百済寺」を建立した。一部の専門家は、堂ケ芝廃寺をその「百済寺」に比定している。しかし、百済郡で洪水が起こって、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)の時に百済王氏は枚方・交野へ移住し、百済郡はいつのまにか姿を消した。敬福は現在の枚方市中宮(なかみや)に新しく氏寺を建てた。その場所が現在、特別史跡・百済寺跡として保存されている。


ケ芝廃寺を「大別王寺」(おおわけおうじ)に比定する説もある。その説の根拠は『日本書紀』の敏達天皇6年(577)の条の記述にある。すなわち、
「この年の夏5月5日、大別王(おおわけのきみ)と小黒吉士(おぐろのきし)が百済に使節として派遣された。その年の11月1日、百済の威徳王は帰国する大別王らにつけて、経論若干・律師・禅師・比丘尼・呪禁師(じゅこんのはかせ)・造仏工(ほとけつくるたくみ)・造寺工(てらつくるたくみ)の6人を派遣した。これを難波の大別王の寺に配置した」
というのである。

『日本書紀』編纂の段階では、大別王とはいかなる人物なのか既に分からなくなっていた。そのため、『日本書紀』の編者はわざわざ「大別王の出所は詳(つまびら)かでない」と断っている。だが、編者の手元には、大別王が敏達天皇6年に百済に遣わされ、百済王から派遣された僧侶や造仏工、造寺工らを伴って帰国したことを示すなんらかの資料があったにちがいない。そう考えなければ、前後に何の脈絡もない記述がこの箇所に記載された理由が思いつかない。

ころが、我が国の仏教黎明期を語る歴史書は、百済の聖王からの仏教公伝時期や、蘇我氏と物部氏の崇仏廃仏論争に重点を置き、この大別王が招来した造仏工や造寺工、あるいは大別王寺の存在を余り注視していないようである。しかし、敏達天皇6年のこの記述が史実を反映したものであると見なすことで、我が国の仏教伝来時期の様相はガラリと変わる。

仏教導入をめぐる崇仏・廃仏論争は書紀編者の創作か?

『日本書紀』は欽明天皇13年(552)冬10月、百済の聖明王が使者を遣わして釈迦仏や経論を伝えたと記す(『法王帝説』などでは538年)。天皇は群臣にその仏像を礼拝すべきかどうか下問したところ、解明派の蘇我稲目(そがのいなめ)は「西の国の諸国はいずれも礼拝していいます。我が国だけが背くわけにもいきますまい」と仏教受容に賛成した。

現在の飛鳥寺
現在の飛鳥寺

ころが、守旧派の物部尾興(もののべのおこし)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)は「我が国は古くから八百万の神々を祀ってきました。新しく蕃神を祀れば国つ神の怒りを招きましょう」と反対した。そこで、天皇は稲目に仏像を渡し試しに礼拝させた。ところが国に疫病が流行したため、守旧派が廃仏を願い出た。天皇が許可したので、物部尾興らは稲目が仏像を祀っている向原の寺を襲い、仏像を難波の堀江に流し寺を焼き払った。

『日本書紀』は同様な事件を敏達天皇14年(585)にも記述している。ただし、当事者は一世代若返っている。蘇我馬子(そがのうまこ)は、前年に鹿深臣(かふかのおみ)と佐伯連(さえきのむらじ)が百済から持ち帰った仏像を譲り受け、家の東方に仏殿を作って安置した。さらに、3人の渡来系の娘達を尼として出家させ仏像を祀らせた。ところが、またしても国中に疫病が流行し、守旧派の物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は天皇の許しを得て、仏像と仏殿を焼き、焼き残った仏像を難波の堀江に捨てた。

じような事件が二度も記述されていることから、一般には、どちらかの事件を下敷きにして二世代にわたる崇仏・廃仏論争を『日本書紀』の編者が演出したものと推測されている。しかし、この論争も、用明天皇崩御後の皇位継承争いで587年に勃発した丁未の変(ていびのへん)で蘇我馬子が政敵物部守屋を葬ったことで決着した。翌年、馬子の要請を受けて百済は、飛鳥寺(=法興寺)建立に必要な技術集団を送り込んできた。そして、7世紀の初めには飛鳥寺を初めとする仏教寺院があちこちで建立され飛鳥仏教文化が花開いたとされている。

うした一般的な通説に棹さすのが、上記の大別王とその寺の存在である。大別王が何者だったかは、上に述べたように、『日本書紀』の編者は不詳としている。ところが、天明5年(1785)に出版された河村秀根・益根父子による『書紀集解』(しょきしっかい)」は、何を根拠にしたのか不明だが、敏達天皇の第一皇子とされる難波皇子に比定しているのだ。おそらく『日本書紀』で”難波大別王寺”と表記されているのを”難波大別王の寺”と読解したことによる誤りであろう。

法隆寺
法隆寺
の比定の正否を判断する資料も能力も筆者にはない。だが、大別王が当時の王族の一人だったことは間違いないだろうし、敏達天皇の特使として百済に派遣された人物であれば、この天皇の近親者と見なすことは許されるであろう。

題は、使節派遣の目的と派遣時期である。『日本書紀』の記述が史実であれば、使節が派遣された敏達天皇6年は西暦577にあたる。崇仏派と廃仏派の両巨頭が干戈を交えた丁未の変の10年も前のことである。そして経論の他に律師や禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工などを伴って帰国している点を勘案すれば、派遣の目的は明らかであろう。仏教寺院建立を目的とした人材の派遣要請だったと考えられる。

らに留意すべきは、この特使派遣が敏達天皇の意志によるものだったと思われる点である。ところが、『日本書紀』巻第二十の最初で、”天皇は仏法を信じたまわずして、文章や史学を愛(この)みたまう”と明言している。本当に敏達天皇は仏教を信じていなかったのだろうか。本当は、蘇我氏などに先駆けて、権威の象徴として王立の仏教寺院を建立しようと考えていたのではなかろうか。

四天王寺
四天王寺
皇自身はそれほど仏教を信じていなくても、皇后の堅塩姫(きたしひめ、後の推古天皇)の存在を忘れてはならない。日本初の女帝として登極して仏法興隆の詔を発したり、飛鳥寺の本尊のモデルを選定したりして、飛鳥仏教の発展に寄与した彼女が、皇后の時から仏教を信仰し、天皇家の寺の造営を画策したとしても不思議ではない。

別王が連れてきた僧侶や造仏工、造寺工たちは、その後どうしたであろうか。『日本書紀』は彼らを”難波の大別王の寺に配置した”と記す。その時点で、大別王は難波の邸宅を改造して草堂ていどの仏教施設は備えていたものと思われる。彼らはそこで居住しながら、新たに大別王寺の建立を指導したであろう。

仏工や造寺工が技術指導したのは大別王寺の建立だけではあるまい。たとえば、587年に滅亡した物部本宗家は渋川にすでに氏寺(渋川廃寺)を建立していた。当初の四天王寺は、実は難波を本貫とする難波吉士氏が玉造の東の岸に造られた氏寺であったとする説もある。彼らが難波吉士氏の氏寺建立に関与しなかったとは言い切れない。

飛鳥大仏
鞍作止利が制作した飛鳥大仏
う一つ気になる事実がある。崇峻天皇元年(588)、蘇我馬子の要請を受けて飛鳥寺を建立するために百済から派遣されてきた技術集団の中には、造仏工が含まれていない。『日本書紀』は推古天皇4年(596)11月、飛鳥寺が落成したと記している。その時点で、飛鳥寺の中心伽藍である中金堂には本尊の仏像が安置されていたはずである。それから10年後に、止利仏師(とりぶっし)が造った釈迦三尊像が新たに中金堂に安置されるが、それ以前の本尊の制作者は誰であろうか。大別王が招聘した造仏工の指導を得て仏像を制作できる集団がすでに存在していたのではないだろうか。そのことを承知していたため、馬子はあえて造仏工の派遣を要請しなかった。要請する必要もなかった、と筆者は考えている。

達天皇6年(577)に大別王が百済に派遣されたという『日本書紀』の記述を史実と見なした場合、このように今までとは違った仏教史の裏面をいろいろ想像することを可能にしてくれる。だから、古代史は面白い。


2007/12/28作成 by pancho_de_ohsei
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