2007/12/27
八尾市内にある弓削神社(ゆげじんじゃ)由義神社(ゆげじんじゃ)を訪れる


月の9日、八尾市内の常光寺を訪れたついでに、古代氏族とゆかりがある八尾神社と矢作神社も探訪した(11月9日付け橿原日記を参照)。八尾市にはその他にも訪れてみたい神社があったが、時間の制約で実現できなかった。

日の週間天気予報によれば、全国の天気は年末にかけて下り坂だそうだ。近畿地方は明日から雨になり、さらに寒波の襲来で年末年始は荒れ模様になるという。お出かけ日和は、どうやら今日が最後のようだ。そこで思い切ってもう一度八尾市に出かけることにした。

饒速日命
物部氏の遠祖
饒速日命
日訪れたのは、弓の制作を専業とする弓削部(ゆげべ)を統括していた古代氏族・弓削氏(ゆげうじ)が氏神を祀ったとされる弓削神社である。さらに足をのばして、称徳天皇・弓削道鏡時代に平城京に対する西の京として造営された旧蹟の跡に建つ由義神社も訪れた。

者が八尾市に興味を抱く理由は、物部(もののべ)氏が支配した地域だからである。物部氏は、元々は大和王権のもとで兵器を管理する氏族だったが、弓矢や馬具を制作する集団とそれらを統括する氏族を配下に持ち、大伴氏とならぶ軍事氏族として成長していった一族とされている。

部氏は河内国の哮峰(いかるがのみね)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされる饒速日命(にぎはやひのみこと)を遠祖とみなしてきた。西暦587年に勃発した丁未の変(ていびのへん)で、蘇我馬子(そがのうまこ)と物部守屋(もののべのもりや)が一族の存亡をかけて戦い、物部本宗家が滅亡したことはよく知られている。その物部本宗家や、弓削氏、矢作氏、鞍作氏といった武具制作集団を統括する一族が居住していたのが、現在の八尾市やその近辺である。


弓削神社:弓削氏の氏神を祀る、かっての若江郡で唯一の大社

JR志紀駅付近のマップ
JR志紀駅付近のマップ
前10時20分、JR大和路線の「志紀」駅のホームに降り立った。改札を出ると正面に駅付近の地図が掲載されていた。地図で確かめると、付近に勢力を保持していた弓削氏の氏神を祀った弓削神社が、駅の近くを流れる長瀬川を挟んで二カ所に表示されている。東側の東弓削一丁目にある弓削神社と西側の弓削町一丁目にある弓削神社である。『延喜式』の神名帳には、若江郡の項に「弓削神社二座」と表記されているという。どうやら二社一対で二座にあてているようだ。

ロータリーに建つ万葉歌碑
ロータリーに建つ万葉歌碑
紀駅の東口に出ると、駅前のロータリに、”埋れ木に寄する”と題した読み人知らずの万葉歌を刻んだ歌碑が立っている。
●真鉋(まかな)持ち 弓削の河原の 埋木(うもれぎ)の 顕(あらは)るましじき 事にあらなくに(巻7−1385)

碑には、次のような説明がなされている。「この付近は、旧大和川の河川敷にあたり弓削の河原と呼ばれたところである。往古の大和川は亀瀬峡谷を経て石川との合流点から北流し、この地方の農耕、文化や交通の発展に多大な貢献をした。しかし常に膨大な土砂を堆積したので、しばしば氾濫し、そのたび流路がたえず変化した。この歌は弓削の河原にある埋もれ木が、やがて現れでるように、私たちの仲は知られないはずもないという心情を、”弓削の河原の埋もれ木”にたとえて詠まれたものである。」

現在の長瀬川
現在の長瀬川
ータリーの先の道路に沿って、長瀬川が流れている。現在の長瀬川は、築留(つきどめ)用水改良事業によって整備された用水路にすぎない。この用水路は分離流下という方式を採用している。すなわち中央部の広い断面に用水を、両側の小断面に事業所排水を流す仕掛けになっていて、”3本川”とも呼ばれている。

が、1704年に大和川の付け替え工事が行われる以前の長瀬川は、大和川の本流で川幅が200mから300mもある堂々たる河川だった。人と物資を運ぶために、江戸時代には剣先船と呼ばれる川船が往来していたことは良く知られている。

大和川付替地図(出典:大阪府の歴史)
大和川付替地図(出典:大阪府の歴史)
瀬川に架かる橋を渡り、河岸に建つ11階建ての高層マンションを左手に見ながら進むと、マンションの敷地の先に左手に入る路地がある。その路地を入ると、駐車場になっている空き地の向こうに白い塀で囲まれた神社の屋根が見える。それが弓削神社の本殿である。神社の正面にまわると、しめ縄を張った石の鳥居が聳えていた。





東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社
東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社の正面鳥居

瀬川を挟んで、弓削神社という同じ名前の神社が2社鎮座している理由は分からない。往古、長瀬川の両岸にそれぞれ弓削氏を名乗る同族集団が居住していたのだろうか。それとも祀られている神々は、長瀬川の水運を握っていたのであろうか。

弓削神社の拝殿
弓削神社の拝殿
背後から見た弓削神社の本殿
背後から見た弓削神社の本殿

在ではそれぞれの神社が祀っている祭神も異なっている。東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社は、饒速日命(にぎはやひのみこと)、弥加布都命(みかふつのみこと)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)、宇麻志摩治命(うましまぢのみこと)、天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)、比古左自彦命(ひこさじひこのみこと)、菅原道真の7神を祀っている。

方、弓削町一丁目に鎮座する弓削神社は、饒速日命、宇麻志麻治命、および天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として祀っている。東弓削町にある弓削神社は、元々現在の社地から東へ約300mほど先の古宮という小字に鎮座していたそうだ。そのため、こちらが本社だと言われている。

『延喜式』神名帳によって、「弘仁式」が編纂された弘仁10年(819)頃には弓削神社がすでに存在していたことが知られている。若江郡では唯一の大社で、月次、相嘗、新嘗には奉幣にあずかったとされている。しかし、現在は周囲のアパートに取り囲まれた村の鎮守といったところだ。


削町に鎮座する弓削神社を訪れるために、志紀駅に戻り西口広場に出た。こちらにも駅前を走る国道25号線の脇に石碑が置かれていた。近寄ってみると、志紀駅の由来が説明してあった。

JR志紀駅西口 路地を入ると見えてきた弓削神社
JR志紀駅西口広場の石碑 路地を入ると見えてきた弓削神社

文によると、現在の志紀駅はかっての大和川の堤防跡に築かれていて、この付近は弓削村の墓地だったとのことだ。往時、大和川は築留から北上し、その水運と水利は村民の生活に多大な恩恵を与えてた。しかし、頻発した氾濫に惨禍も甚だしく、この地に居住した人たちは水難を恐れ、堤防上の比較的安全な景勝の地だったこの場所に、祖先安住の浄土として村の墓地を作ったという。

西口広場の角に志紀交番がある。交番の前を過ぎて南に少し行くと三叉路がある。八尾志紀郵便局と泉州銀行の間の路地に入っていくと、銀行の駐車場の先に弓削神社が鎮座している。駅の西口から歩いてもせいぜい2〜3分の距離だ。



弓削町一丁目に鎮座する弓削神社
弓削町一丁目に鎮座する弓削神社の正面鳥居

居をくぐって境内に入ると、正面に拝殿があり、右手に宝物殿と神楽殿が並び、左手には社務所がある。上で見たように、この神社の本殿には饒速日命(にぎはやひのみこと)、宇麻志麻治命(うましまじのみこと)、および天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭神として祀されている。その他に、稲荷神社、猿田彦神社、金比羅神社、天満宮の4社が摂社として祀られていて、東弓削町の神社よりこちらの方が境内も広く立派だ。

弓削神社の拝殿 弓削神社の本殿
弓削神社の拝殿 弓削神社の本殿

殿の向かって右側に、「延命水の井戸」を囲った建物があった。この井戸水を口にすれば長命すると言い伝えられている。さらに、神社正面の鳥居の横に「弓削神社由来」を記した石碑と並んで、ホトトギス派同人の若林南山の句碑が建っている。碑には、
 物部の 格式今に 除夜神楽
と刻まれている。

延命水の井戸 若林南山の句碑
延命水の井戸 若林南山の句碑


者が弓削氏に興味を持ったのは、丁未の変(ていびのへん)で滅亡させられた物部本宗家の族長・守屋(もりや)が弓削氏の血筋を引いていると知ったためである。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、その名の通り、武器の製作に携わるグループを率いていた。『日本書紀』などでは、守屋のことを「物部弓削守屋大連」と複姓で表示している。これは、父親の物部尾興(もののべのおこし)が弓削連の祖とされる倭古連(やまとこのむらじ)の娘・阿佐姫(あさひめ)を娶って生まれたのが守屋だったためだ。

部守屋は軍事氏族の族長として弓矢の達人だった。587年の丁未の変の際、守屋は衣摺(きぬすり)の地の榎木(えのき)の木股に登って上から眺め、寄せくる軍勢に雨のごとく矢を射かけたと、『日本書紀』は伝えている。そのため、蘇我軍は恐れをなして三度退却した。

削連倭古にとって、物部本宗家は総帥と仰ぐ家柄であり、その族長である守屋は娘婿である。天下を二分した丁未の変では、当然のことながら弓削氏は物部守屋側に荷担したにちがいない。それにもかかわらず、河内国若江郡からは、奈良時代に活躍した弓削連や弓削宿禰の姓をもつ人物を多く輩出している。その筆頭は弓削連道鏡(ゆげのむらじ・どうきょう)であろう。丁未の変(ていびのへん)の勝者・蘇我馬子は宿敵だった物部本宗家を滅亡させたが、その同族や支族に対しては寛大な処置をとったのであろうか。


由義神社: 称徳天皇時代の西の京の跡地に鎮座する神社

尾市には、弓削神社の他にもユゲ神社がある。由義と書いて「ゆげ」と読ませる由義神社である。八尾木北5丁目に鎮座するこの神社は、祭神として素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、少彦名命(すくなひこなのみこと)を配している。

社の境内に置かれた『由義神社由来』によれば、この神社は「由義宮の跡地に建立され、その規模、格式ともに近隣に比を見ない堀を巡らし、森をようした荘厳な式内河内5社の1社で立派な旧社であった」とされている。由義宮とは、称徳天皇・弓削道鏡時代に、平城京に対する西の京として造営された宮である。道鏡が関係しているとなれば、弓削氏と縁がない訳でもない。



由義神社付近のマップ
由義神社付近のマップ
義神社にアクセスする最寄りの駅は、JR大和路線の「志紀」駅、または近鉄大阪線の「高安」駅のいずれでもよい。どちらの駅からも徒歩でほぼ30分ほどの所に位置している。筆者は弓削神社を最初に訪れたため、「志紀」駅から由義神社を目指した。

紀駅の東口から長瀬川の縁に築かれた遊歩道を北西方向に向かって歩いて行くと、約17分ほどで「曙町1丁目」の交差点に出る。交差点を右折しそのまま進むと「西八尾木」交差点があり、その先にコンビニのセブンエレブンがある。コンビニの駐車場を右に入れば、八尾木北第一公園にぶつかる。神社は公園の北の端からさらに東に進んだ正面にあった。



由義神社の正面鳥居
由義神社の正面鳥居

義宮の前身は、道鏡の出身地である弓削に置かれた行宮だったとされている。『続日本紀』は、天平神護元年(765)、称徳天皇が道鏡を連れて紀伊和歌浦へ行幸し、その帰りに和泉から河内へまわり弓削の行宮に入ったと記す。この行宮で、道鏡は太政大臣禅師に任ぜられている。

由義神社の拝殿 由義神社の本殿
由義神社の拝殿 由義神社の本殿
義宮の名称は、4年後の神護景雲3年(769)に初めて史書に現れる。この年の10月17日、称徳天皇は由義宮に再び行幸し、その月の30日、由義宮を西の京とする詔を発した。この時点から西の京の造営工事が始まったと考えられている。その規模は不明だが、大県(おおあがた)、若江、高安の諸郡にかかる相当な広さだったと推定されている。しかし翌年の宝亀元年(770)8月4日、天皇が没し、道鏡失脚という政変が起こった。そのため、由義宮の造営も中止となった。

に示したように、由義神社は由義宮の跡地に建立された式内河内5社の1社に数えられるほど立派な旧社だったとされている。しかし『延喜式』神名帳には当社に該当する記載はない。中世には、度重なる兵火でこの地域の住民が離散し、神社の社殿も焼失してしまった。徳川時代になって、住民達が戻ってきたので、由義宮の跡に旧社を遷座させて再建し、由義神社と称したという。

覆屋に保存された狛犬 新しく拝殿前に置かれた狛犬
覆屋に保存された狛犬(雌の吽像) 新しく拝殿前に置かれた勇ましい狛犬

内の両脇に覆屋が建ち、その中に狛犬が置かれていた。説明板によれば、これらの狛犬は寛政8年(1796)に江戸の村井友七なる人物が奉納したもので、八尾市内にある49の神社に置かれた狛犬の中では三番目に古い。狛犬は関東様式で、脇巻き毛と尾形が鮮やかに刻まれている。奉納されて200年以上もの長い年月、風雨に曝されてきたため、破損が著しく進んだ。そこで、郷土の文化財として保存するため、場所を移して覆屋を設けたとのことだ。拝殿前には新しい狛犬が置かれている。立派な狛犬である。


2007/12/28作成 by pancho_de_ohsei
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