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弓削神社:弓削氏の氏神を祀る、かっての若江郡で唯一の大社
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| JR志紀駅付近のマップ |
午前10時20分、JR大和路線の「志紀」駅のホームに降り立った。改札を出ると正面に駅付近の地図が掲載されていた。地図で確かめると、付近に勢力を保持していた弓削氏の氏神を祀った弓削神社が、駅の近くを流れる長瀬川を挟んで二カ所に表示されている。東側の東弓削一丁目にある弓削神社と西側の弓削町一丁目にある弓削神社である。『延喜式』の神名帳には、若江郡の項に「弓削神社二座」と表記されているという。どうやら二社一対で二座にあてているようだ。
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| ロータリーに建つ万葉歌碑 |
志紀駅の東口に出ると、駅前のロータリに、”埋れ木に寄する”と題した読み人知らずの万葉歌を刻んだ歌碑が立っている。
●真鉋(まかな)持ち 弓削の河原の 埋木(うもれぎ)の 顕(あらは)るましじき 事にあらなくに(巻7−1385)
歌碑には、次のような説明がなされている。「この付近は、旧大和川の河川敷にあたり弓削の河原と呼ばれたところである。往古の大和川は亀瀬峡谷を経て石川との合流点から北流し、この地方の農耕、文化や交通の発展に多大な貢献をした。しかし常に膨大な土砂を堆積したので、しばしば氾濫し、そのたび流路がたえず変化した。この歌は弓削の河原にある埋もれ木が、やがて現れでるように、私たちの仲は知られないはずもないという心情を、”弓削の河原の埋もれ木”にたとえて詠まれたものである。」
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| 現在の長瀬川 |
ロータリーの先の道路に沿って、長瀬川が流れている。現在の長瀬川は、築留(つきどめ)用水改良事業によって整備された用水路にすぎない。この用水路は分離流下という方式を採用している。すなわち中央部の広い断面に用水を、両側の小断面に事業所排水を流す仕掛けになっていて、”3本川”とも呼ばれている。
だが、1704年に大和川の付け替え工事が行われる以前の長瀬川は、大和川の本流で川幅が200mから300mもある堂々たる河川だった。人と物資を運ぶために、江戸時代には剣先船と呼ばれる川船が往来していたことは良く知られている。
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| 大和川付替地図(出典:大阪府の歴史) |
長瀬川に架かる橋を渡り、河岸に建つ11階建ての高層マンションを左手に見ながら進むと、マンションの敷地の先に左手に入る路地がある。その路地を入ると、駐車場になっている空き地の向こうに白い塀で囲まれた神社の屋根が見える。それが弓削神社の本殿である。神社の正面にまわると、しめ縄を張った石の鳥居が聳えていた。
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| 東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社の正面鳥居 |
長瀬川を挟んで、弓削神社という同じ名前の神社が2社鎮座している理由は分からない。往古、長瀬川の両岸にそれぞれ弓削氏を名乗る同族集団が居住していたのだろうか。それとも祀られている神々は、長瀬川の水運を握っていたのであろうか。
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| 弓削神社の拝殿 |
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| 背後から見た弓削神社の本殿 |
現在ではそれぞれの神社が祀っている祭神も異なっている。東弓削町一丁目に鎮座する弓削神社は、饒速日命(にぎはやひのみこと)、弥加布都命(みかふつのみこと)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)、宇麻志摩治命(うましまぢのみこと)、天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)、比古左自彦命(ひこさじひこのみこと)、菅原道真の7神を祀っている。
一方、弓削町一丁目に鎮座する弓削神社は、饒速日命、宇麻志麻治命、および天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭神として祀っている。東弓削町にある弓削神社は、元々現在の社地から東へ約300mほど先の古宮という小字に鎮座していたそうだ。そのため、こちらが本社だと言われている。
『延喜式』神名帳によって、「弘仁式」が編纂された弘仁10年(819)頃には弓削神社がすでに存在していたことが知られている。若江郡では唯一の大社で、月次、相嘗、新嘗には奉幣にあずかったとされている。しかし、現在は周囲のアパートに取り囲まれた村の鎮守といったところだ。
弓削町に鎮座する弓削神社を訪れるために、志紀駅に戻り西口広場に出た。こちらにも駅前を走る国道25号線の脇に石碑が置かれていた。近寄ってみると、志紀駅の由来が説明してあった。
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| JR志紀駅西口広場の石碑 |
路地を入ると見えてきた弓削神社 |
碑文によると、現在の志紀駅はかっての大和川の堤防跡に築かれていて、この付近は弓削村の墓地だったとのことだ。往時、大和川は築留から北上し、その水運と水利は村民の生活に多大な恩恵を与えてた。しかし、頻発した氾濫に惨禍も甚だしく、この地に居住した人たちは水難を恐れ、堤防上の比較的安全な景勝の地だったこの場所に、祖先安住の浄土として村の墓地を作ったという。
西口広場の角に志紀交番がある。交番の前を過ぎて南に少し行くと三叉路がある。八尾志紀郵便局と泉州銀行の間の路地に入っていくと、銀行の駐車場の先に弓削神社が鎮座している。駅の西口から歩いてもせいぜい2〜3分の距離だ。
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| 弓削町一丁目に鎮座する弓削神社の正面鳥居 |
鳥居をくぐって境内に入ると、正面に拝殿があり、右手に宝物殿と神楽殿が並び、左手には社務所がある。上で見たように、この神社の本殿には饒速日命(にぎはやひのみこと)、宇麻志麻治命(うましまじのみこと)、および天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭神として祀されている。その他に、稲荷神社、猿田彦神社、金比羅神社、天満宮の4社が摂社として祀られていて、東弓削町の神社よりこちらの方が境内も広く立派だ。
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| 弓削神社の拝殿 |
弓削神社の本殿 |
拝殿の向かって右側に、「延命水の井戸」を囲った建物があった。この井戸水を口にすれば長命すると言い伝えられている。さらに、神社正面の鳥居の横に「弓削神社由来」を記した石碑と並んで、ホトトギス派同人の若林南山の句碑が建っている。碑には、
物部の 格式今に 除夜神楽
と刻まれている。
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| 延命水の井戸 |
若林南山の句碑 |
筆者が弓削氏に興味を持ったのは、丁未の変(ていびのへん)で滅亡させられた物部本宗家の族長・守屋(もりや)が弓削氏の血筋を引いていると知ったためである。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、その名の通り、武器の製作に携わるグループを率いていた。『日本書紀』などでは、守屋のことを「物部弓削守屋大連」と複姓で表示している。これは、父親の物部尾興(もののべのおこし)が弓削連の祖とされる倭古連(やまとこのむらじ)の娘・阿佐姫(あさひめ)を娶って生まれたのが守屋だったためだ。
物部守屋は軍事氏族の族長として弓矢の達人だった。587年の丁未の変の際、守屋は衣摺(きぬすり)の地の榎木(えのき)の木股に登って上から眺め、寄せくる軍勢に雨のごとく矢を射かけたと、『日本書紀』は伝えている。そのため、蘇我軍は恐れをなして三度退却した。
弓削連倭古にとって、物部本宗家は総帥と仰ぐ家柄であり、その族長である守屋は娘婿である。天下を二分した丁未の変では、当然のことながら弓削氏は物部守屋側に荷担したにちがいない。それにもかかわらず、河内国若江郡からは、奈良時代に活躍した弓削連や弓削宿禰の姓をもつ人物を多く輩出している。その筆頭は弓削連道鏡(ゆげのむらじ・どうきょう)であろう。丁未の変(ていびのへん)の勝者・蘇我馬子は宿敵だった物部本宗家を滅亡させたが、その同族や支族に対しては寛大な処置をとったのであろうか。
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