橿原日記 平成19年12月20日

青州の里:
紀の川市に医聖・華岡青洲(はなおかせいしゅう)の「春林軒」を訪ねる

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青州の里の近くから葛城山を望む(撮影 2007/12/20)


晦日まで10日あまりを残すだけになった本日、近畿地方は珍しく小春日和のような好天に恵まれた。こんな日をノンビリと狭いアパートで暮らすほどまだ人間が枯れていない。朝の散歩が終わると、はやばやと近鉄の電車に飛び乗って南に向かった。行く先は和歌山県の紀の川市。

有吉佐和子著「華岡青州の妻」
有吉佐和子著「華岡青州の妻」
「吉野口」駅でJR和歌山線に乗り換え、2両編成のワンマンカーに揺られて行く一人旅は、なんとなく好きだ。列車は、紀ノ川沿いの田舎の無人駅を一つ一つ丁寧に拾うように停車していく。そのたびに、先頭車両の一番前のドアだけが開き、運転手が車掌に早変わりして降りる客の切符を回収する。ほとんどの客は顔見知りのようで、二言三言話しかけながら降りていく。そうした光景を見るにつけ、今ではとっくに廃線になってしまった田舎のローカル線を思い出す。

回の史跡探訪では一冊の文庫本をポケットにしのばせていた。新潮社から昭和41年(1966)に刊行された有吉佐和子の「華岡青州の妻」である。よほど人気があった作品なのか、翌年の昭和42年(1967)に第6回女流文学賞を取っている。また、同じ年に芸術祭参加作品として大映によって映画化されている。

船岡山をえぐる紀ノ川
船岡山をえぐるように流れる紀ノ川
JR和歌山線の「名手(なて)」駅
JR和歌山線の「名手(なて)」駅
周辺地図(*)
周辺地図(*)
岡青州(1760 - 1835)が世界に先駆けて全身麻酔による乳癌摘出手術に成功した医者であることは知識として知っていた。だが彼が全身麻酔薬の「通仙散」(つうせんさん)を完成させた陰には、実母と妻の献身的な犠牲による人体実験があったとは知らなかった。有吉佐和子の作品がベストセラーになった理由は、その献身的な犠牲を、実は嫁と姑の凄まじい愛憎の確執の結果と捕らえて、女同士の心理戦争を見事に描き切っているからだろう。

とより「華岡青州の妻」は、有吉佐和子の「創作」作品であって、「実話」ではない。だが読み進むに従って、一つ屋根の下で暮らす嫁と姑の女同士の戦いは、心理的な絡み合いの凄まじさで読者を圧倒する。その心理描写は、この女流作家にしか描けない独壇場として鬼気迫る様相を帯びてくる。

説を完全に読み終わった訳ではないが、急に小説の舞台となった場所に行ってみたくなった。ネットで検索したら、「青州の里」という名の施設が紀の川市にあり、そこに青州が住居兼診療所を医学校として整備した「春林軒」が保存されていることを知った。また、小説の主人公の華岡青州の妻・加恵(かえ)の実家も、国指定の重要文化財として保存されているという。いずれもJR和歌山線の「名手(なて)」駅に近い。

「五條」駅で乗り継いだワンマンカーは11時5分に「名手」駅に着いた。ホームに降り立った乗客は筆者一人、雲一つ無い青空の下で冬の陽射しが降り注ぐ構内は、実に閑散としていて人影はない。この駅も無人駅である。改札を出て、駅前の観光案内の看板を見上げていると、郵便配達の青年が単車でやってきた。国の史跡に指定されている「名手宿本陣」(なてじゅくほんじん)までの道筋を聞くと、丁寧に教えてくれた。



小説の主人公・加恵(かえ)が生まれ育った旧名手本陣妹背家住宅(きゅうなてほんじんいもせけじゅうたく)

「名手」駅前から町中を通って旧名手宿本陣へ行くルートは幾つもあるようだ。郵便配達の青年はしばらく思案して、一番簡単で分かりやすいルートを教えてくれた。駅前の道をまっすぐ150mほど進むと旧大和街道との交差点があり、その角に標識が出ている。その標識にしたがって右折してそのまま進めば、旧名手宿本陣の前に出る、という。徒歩で6〜7分ほどの距離だそうだ。

旧名手宿本陣の御成門
旧名手宿本陣の御成門
旧名手宿本陣の主屋
旧名手宿本陣の主屋
前の集落は、以前の上那賀(かみなか)郡名手荘(なてのしょう)の市場村である。その名の通り、古くから商人も住んでいたし、大晦日には市が立ち、近郷近在から多くの人々が集まったという。その集落をかっては大和街道が東西に貫いていた。そのせいか、彼が教えてくれた道筋には古い建物が多い。古い町並みの景観を味わいながら歩いていたので、白壁の築地塀に案内板が掲げてなければ、そこが昔の名手宿本陣とは気が付かず通りすぎるところだった。

名手宿本陣は、もともと在地の由緒ある地士(じざいむらい)として名手の大庄屋を代々世襲してきた名門・妹背(いもせ)家の屋敷である。ところが、大和街道に面していたので、紀伊藩主が参勤交代の折や鷹狩りのとき当家に宿泊するようになり、以後本陣と呼ばれるようになったという。そのため、昭和44年(1969)3月にはその旧宅が「旧名手本陣妹背家住宅」として国の重要文化財に指定され、昭和45年(1970)4月には同じ建物が「旧名手宿本陣」として国の史跡に指定されている。

成門を入ると受付小屋があるが、見学は無料である。主屋の廊下に記帳簿が置いてあり、その横に積まれた見学の栞を一部いただいて、建物を見学することができる。ただし三和土(たたき)の土間や土かまどが置かれた台所以外は、座敷内に上がることができない。その代わり、雨戸がすべて開けられていて、すべての畳の間を外部から眺めることが可能だ。

旧名手宿本陣平面図(*)
旧名手宿本陣平面図(*)
在の住宅は主屋(おもや)と座敷部で構成されている。主屋の西と南北の方向には、江戸時代に建てられた土蔵が二棟ある。見学の栞によれば、このうち北倉は米倉として用いられたもので、寛永11年(1634)の棟札が打ち付けてあった。一方、南倉には寛永20年(1643)の棟札が打ち付けてあるという。当初の主屋はこれらの蔵と同じ時期に建てられたと推測されている。ところが、正徳4年(1714)の市場村の火災で主屋が類焼してしまった。

年後の享保3年(1718)になって、紀伊藩主徳川宗直(むねなお)を迎えるために主屋が新築され、さらに遅れて延享3年(1746)に座敷部が増築された。建物の東側にまわると、藩主が宿泊するための本陣として増築された御座の間御次の間を縁側からのぞき込むことができる。

玄関式台
玄関式台
a主屋の内部
主屋の内部
暦元年(1751)には、主屋と座敷部のこけら葺きや茅葺きの屋根が現在のような瓦葺きに改められた。しかし、これらの建物は長い歳月、風雨でいたみがひどくなっていた。そこで、昭和44年(1969)に国の重要文化財の指定を受けた後、大規模な復元修理工事がなされている。

物のまわりを一周すれば誰でも気づくことだが、三和土(たたき)と台所を除いて、全ての部屋が廊下も含めて畳敷きである。板の間がない。これが大庄屋だった妹背家の住宅だった。「華岡青州の妻」の主人公の加恵は、庄屋の娘としてこの家で生まれ、そして天明2年の秋、数え年の22歳で華岡家に嫁ぐまでお嬢様としてなに不自由なくこの家で過ごした。

の加恵の人生を大きく変える縁談を持ち込んできたのは、華岡青州の母・於継(おつぎ)である。於継は市場村の東にある丁野町村の藍染紺屋を兼ねた松本という地主の娘だった。幼いときから才色の誉れが高かったが、適齢期にひどい皮膚病に冒され、松本家では金にあかして医者に診せた。しかし、ことごとく匙を投げられた。その話を聞いて松本家の門を叩いたのが、華岡直道(なおみち)という平山村の貧乏医者である。娘の皮膚病は必ず治してみせるが、その暁には彼女を自分に娶らせて欲しい、と彼は条件をつけた。

道の治療の甲斐があって、於継の不治の病は全治し、その結果、彼女は貧乏医者の家に嫁入りし、青州(せいしゅう)、本名は震(ふるう)、通り名は雲平(うんぺい))を生んだ。「華岡青州の妻」は、加恵が8歳のときこの於継を初めて見た時の幼児体験から物語が始まっている。その時の於継の美しさがやがて加恵の運命を狂わせることになる。

御次の間
御次の間
御座の間
御座の間
気がもとで華岡直道と懇意にしていた加恵の祖父が死んで3年目の晩春、於継が妹背家に突然現れて、加恵を息子の青州の嫁に譲り受けたいと申しでた。当時青州は京都に遊学中だったが、医者としての青州の力を思い切り伸ばさせる嫁を探すのは、母としての役目であるとして、加恵に白羽の矢を立てたという。そのとき、農工商の家柄ではなくて、士族の家柄の娘が医者の嫁として最もふさわしいとして、その理由をとうとうと語る於継の話が面白い。

継がどの部屋で加恵の父に縁談を申し入れたのかは分からない。だが妹背家と華岡家では、家柄も身分も違う。加恵の父ははなから於継の申し入れを相手にしなかった。ところが、加恵にとっては、幼いとき於継を一目見たときからその美貌に惹かれ彼女は憧れの人だった。その人に是非とも嫁にと請われているのを知ると、華岡家へ嫁ぎたいと心底思うようになった。

の反対でそれが叶わぬと知ると、加恵は食べ物がのどを通らずにわかに痩せていって、親たちを驚かせた。結局は、親たちが折れて、加恵は華岡家に嫁ぐことになり、夫となる青州が不在のまま仮祝言をあげることになる。妹背家では盛大な宴を張って娘を送りだした。加恵は綿帽子をかぶって見事な花嫁衣装で、この家の玄関から駕籠に乗り込んだ。

の時の妹背家の賑わいを想像しながら建物裏手にまわると、二棟の蔵があった。創建当初の主屋と同じ時期に築かれた米蔵と南倉である。主屋が本陣として利用されたとき、妹背家の人々は一時的に南倉の一階に移り住んだと言われている。

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寛永20年(1643)に建てられた南倉 寛永11年(1634)に建てられた米蔵

本陣裏手にある郡役所跡
本陣裏手にある郡役所跡

背家の裏手には、延享3年(1746)に建てられた郡役所の跡がある。江戸時代、この地方は伊都郡代官の管理下にあり、伊都奉行同心がこの郡役所に駐在して、税を徴収したり裁判を行った所とされている。近寄って見たが、雑草が生い茂るばかりで、遺構らしきものは何も見えなかった。受付で確認すると、建物跡を整備する計画はあるが、なかなか進まないとのことだ。



春林軒:青州が建てた住居兼診療所兼医学校

と医と健康のテーマパーク「青州の里」(所在:紀の川市西野山473)は、「名手」駅から徒歩20分、旧名手宿本陣からでも徒歩15分くらいの所に築かれている。北に聳える葛城山(海抜865.7m)に向かって一直線に延びる県道127号線(中尾・名手市場線)が、そのアクセスルートである。

青州の里の近くから葛城山を望む
青州の里の近くから葛城山を望む
「青州の里」の駐車場入口
「青州の里」の駐車場入口
ノ川の右岸は、北側の山麓が紀ノ川までゆったりと下る河岸段丘をなしている。南から降り注ぐ日の光を受けて温暖な土地がらなのか、昔から様々な果物の栽培が盛んだ。両側にイヨカンの果樹園が点在する県道127号線は緩やかな傾斜をなしている。その坂道をゆっくりと歩いていくと、やがて「青州の里」の標識ある三叉路にぶつかる。

「青州の里」はその三叉路を右に入ってすぐの所にある。県立高等看護学院の前を通り過ぎると、その横に紀州弁で「ようおこしなして! 青州の里」と書かれた駐車場のゲートが聳えている。駐車場の奥へ進むと、ひときわ目を引くコンクリートの建物がある。先頃亡くなった建築家・黒川起章氏が曼陀羅華(まんだらげ、チョウセンアサガオ)の花をモチーフに設計したフラワーヒルミュージアムである。

ラワーヒルミュージアムの中には、ふるさと物産ショップやパン工房、バイキングレストランが並び、その奥に展示室がある。華岡青州が生前使用していた手術器具、愛用の眼鏡、克明に記録した治療に関する資料や標本、それに当時の多くの名士との交流書簡などが展示されている。ここを訪れて青州の遺品に接することで、彼の業績の偉大さが分かる。

曼陀羅華
曼陀羅華
示室には、「医惟在活物窮理 青州震」と書かれた書も飾られている。震(ふるう)は青洲の本名である。「医学はこれ真理を見極め常に研究する精神にあり」とは、青州が常々門下生に語っていた彼の医学哲学を表した言葉で、門下生が春林軒を卒業していくとき、よく直筆の書を与えたという。彼の医学哲学を表現した四文字熟語としては、内外合一(外科をするにはまず内科を熟知しなければならない)も有名である。

岡青州は宝暦10年(1760)10月23日、旧那賀町平山の華岡直道の長男として生まれた。天明2年(1782)、23歳のとき京都に遊学し、吉益南涯(よしますなんがい、1750-1813)に師事して古医方を学び、さらにその後、大和見立(やまとけんりゆう、1750〜1827)にオランダ外科を学んで、天明5年(1785)2月、郷里平山に帰ってきた。以後、家業を継いで多忙な診療の傍ら、麻酔薬の開発に没頭した。彼が曼陀羅を主材とする麻酔薬「通仙散」(つうせんさん)を開発し、世界で初めて全身麻酔による乳ガン摘出に成功するのは、まだ20年も先のことである。

フラワーヒルミュージアム エントランスホール
フラワーヒルミュージアム エントランスホール

ラワーヒルミュージアの先に、華岡青州の正座姿の像と彼の書である「活物窮理」を刻んだ碑が建っている。青州が着ている羽織の紋章が面白い。外科医術で血管や輸卵管などを結びくくる結紮(けっさつ)という組紐の輪が描かれている。華岡家の家紋は五三の桐だったが、青州はこの家紋を弟に譲り、新しく組紐の輪を家紋にしたとのことだ。

華岡青州の像と活物窮理の碑
華岡青州の像と活物窮理の碑

州の銅像の前に立って左手を見ると、曼陀羅華など通仙散の材料となった薬草が植えられている。そしてその先のイチジクと柿の果樹園の間に、白い塀で囲った「春林軒」の建物群が見えた。だが、その建物は青州が生まれ育った貧乏医者の家ではない。妹背家の娘・加恵(かえ)が青州の母・於継(おつぎ)の美貌と人となりに憧れて、夫となる青州の顔も知らず嫁いできた華岡家のたたずまいではない。当時の華岡家の家は20坪足らずの貧乏家屋だった。

春林軒の建物遠望
春林軒の建物遠望

春林軒の間取りと見学通路
春林軒の間取りと見学通路
洲が文化元年(1804)、世界初の全身麻酔下の乳癌摘出手術に成功すると、彼の名声が日本全国に轟きわたるようになった。その結果、多くの難病患者や青洲の医術を学びたい医学生が平山を訪れるようになり、青州は診療所と医学校、そして自らの住居を兼ねて大きな家に建て直した。その時期ははっきりとは分かっていないが、文化年間(1804年〜1816年)の中頃か末頃であったろうと言われている。

洲は、木の香も新しい屋敷を「春林軒」と名付けた。「楽水堂」とも呼んでいたと言われている。春林軒は大正時代まで平山に存続していた。しかし大正12年(1923)に持ち主が変わり主屋は粉河町に移築されされた、平成9年(1997)になって春林軒を再建することになり、主屋は保存状態もよかったので元の平山の地に戻された。 現在の春林軒は、主屋と蔵は青洲が活躍した当時の建物だが、その他は調査資料に基づいて復元されたものである。

華岡家発祥の地の碑 春林軒の主屋
華岡家発祥の地の碑 春林軒の主屋

年編まれた華岡青州の年譜では、加恵と結婚した年月がはっきりしていない。「華岡青州の妻」では、天明2年の秋、加恵は華岡家に嫁いできたという設定になっている。於継は待ちかねたように花嫁の手を取って迎え入れ、座敷までその手を引いて床の間の前に座らせた。だが、加恵の横の花婿の座に座るべき青州の姿はなかった。花婿のいない婚礼だった。花婿の座には「本草網目」という書物が置かれていた。当時の漢方医学の聖書である。

綿布を織って青州の学費を稼ぐ加恵
綿布を織って青州の学費を稼ぐ加恵
恵を待っていたのは、生家とは比べようもないほど厳しい貧乏医師の一家の生活だった。京都に遊学中の青州の学費を捻出するために、家の中を切り詰めるだけ切り詰めた日々が続いた。だが、加恵は後悔しなかった。夫である青州の顔も知らないが、自分を嫁として迎えてくれた聡明で美貌の姑と一緒に暮らせるだけで、加恵は幸せだった。彼女は於継によく仕え、於継もなにくれと嫁を気遣かった。腹を痛めたわけでもないのに、二人は親よ娘よと呼び合う仲になっていた。その睦まじさは人もうらやむほどだった。

明5年(1785)2月、京都での3年におよぶ遊学を終えて、青州が郷里平山に帰ってきた。父の直道も母の於継も、立派になって帰ってきた長男を諸手をあげて歓迎した。そして、帰郷した日の夜、青州は医学に賭ける己の夢を熱く語り、日本の華佗(*)になることが自分の目標だと豪語した。そうした息子を前にして、両親はこの上なく頼もしく感じた。だが、その日を境に、望まれた嫁と望んだ姑とのきれいごとの間柄は終わった。青州をめぐって嫁と姑の陰惨な心の戦いが始まったのである。
(*)華佗(かだ、?−208年):中国の後漢から三国時代の薬学・鍼灸に非凡な才能を持つ伝説的な名医。魏の武帝の侍医に請われたが断り、殺されたという。

吉佐和子は、青州が戻ってきて新婚初夜を迎えたはずなのに、於継が二人が床を共にすることを認めなかったことを、陰惨な嫁姑戦争の発端としている。息子を独り占めしようとする姑に、加恵は思いがけず激しい憎悪を感じた。それは夫の母親に対する嫉妬と言い換えてよい。青州以外に眼中にない於継は、それ以後もことさら良い姑に見えるように振る舞うが、加恵はそうした振る舞いの背後に、嫁に対する無意識な敵意を感じ取って、針のように心を尖らせていった。

診療控え室 患者を診る青州
診療控え室 患者を診る青州

郷してからの青州は、曼荼羅華を主薬とする麻酔薬の開発の虜になり、乳ガンの手術の可能性を模索する毎日を送っていた。折から天明の大飢饉で華岡家の食生活が苦しいときに、加恵が妊娠した。於継は「嫁のあなたが食べると思えば心苦しいが、生まれてくるのは華岡の家のもんや」と十分に食事を取ることを進めた。そんな於継に、加恵は華岡家のよそ者としか扱われていないのを知り、ますます姑への敵意を燃やした。

業医のかたわら研究を重ねた結果、青州は曼陀羅華の花(チョウセンアサガオ)、草鳥頭(そううず・・・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した。犬と猫を使って動物実験を重ね、庭の柿の木の根本には多くの死骸が埋められたが、苦節15年、ようやく麻酔薬の完成までこぎつけた。しかし、その間に青州は妹の於勝(おかつ)を乳ガンで死なせている。

春林軒の炊事場 春林軒の居間
春林軒の炊事場 春林軒の居間

物実験を通してなんとか全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功したものの、それが人体に対しても同じように効果があるという保証はない。青州は人体実験を目前にして行き詰まった。そのとき母の於継と妻の加恵が自分の体を人体実験に使ってくれと同時に申し出る。人命に関わる人体実験でも、献身的な協力ぶりを示すため、二人は嫁と姑の意地で張り合った。「華岡青州の妻」では、15年におよぶ嫁と姑の仮面をかぶった確執が、人体実験を申し出た時点をヤマ場を迎えるように構成されている。青州を前にして互いに応酬しあう二人の息詰まるような会話は圧巻である。

体実験は結局二人に対して行うことになり、まず於継から始めることになった。その事実を知るものは青州と於継と加恵の三人だけで留められた。実験は1ヶ月から始められることになった。薬湯を飲まされた於継は、もんどり打って苦しみ意識が奪われる直前に、「青州は私だけの子供ですよね」と念を押した。息子は嫁のものではない、生んだ母親のものなのだという矜持が言わせた言葉だった。

昏々と眠り続ける加恵
昏々と眠り続ける加恵
回目の実験は半年後に行われた。今度は加恵が実験台になって薬湯を飲んだ。於継に飲ませたのとは比較にならないほど多量の曼陀羅華の花と実が入れられ、猛毒の草烏頭(そううず)、白正(びゃくし)、センキュウ、鬼馬草なども少量加えられた。本当の意味では第一回の実験だった。麻酔は効いた。加恵は三日二晩昏睡状態で眠り続けた。

の実験の後、加恵は一人娘を失った。実験では麻酔効果は確かめられたが、加恵は副作用で目を患い、ときどき痛みを感じた。加恵が受けた二回目の実験は、麻酔が効いている時間を短縮する目的だったが、一晩の催眠から覚めたとき、加恵は失明していた。

が見ても実の親と娘のようにむつみ合い、労り合っている仲のように振る舞いながら、言葉にも動作にも現れない敵意を燃やし続けた姑の於継が、薬草畑が霜で凍るような夜ポックリと亡くなった。完全に盲目となった加恵は、甚だしく年老いた於継の姿を見ることなかった。姑の臨終に侍した加恵は十幾年ぶりかで身ごもっているのを知った。於継は菖蒲池の前の華岡家の墓地に埋葬され、嫁と姑の表には出さない激しい心理戦は終わった。於継の法名は蓮浄院智貞信尼といった。

華岡青州
華岡青州
恵が生んだ跡継ぎの男子が2度目の誕生日を迎える頃、青州は紀州藩主に召されて謁見を受け、士分に列して帯刀を許された。彼はすでに紀州で並ぶもののない医者になっていた。

化2年(1805)10月13日のことである。大和の国の宇智郡五条で藍屋を営む利兵衛(りへい)と言う男が、60歳になる勘(かん)という母親を伴って青州をたずねてきた。母親が乳房の中に固い物ができたというので、近隣の医者に診断させたところ、乳ガンだとわかったが、治療の方法はないと匙を投げられた。商売柄、利兵衛の耳は諸国の噂が入っており、紀州に奇病を治す医者がいることを知ったという。母親もどうせ死ぬなら名医の手にかかって死にたいと、奇妙な熱意で手術を乞うた。

州は手術の準備を整えると老婆に通仙散を与え、油紙の上に寝かせた。薬効が老婆の上に現れたのを確かめると、弟子達を手伝わせて乳ガン摘出手術に取りかかった。手術の経過は、青州自身が書き記した「乳巌治験録」(にゅうがんちけんろく)に詳しい。この手術の成功で華岡青州の名は全国に知れ渡り、北は津軽、南は薩摩から若者達がひきも切らず青州の門を叩くようになった。多いときには一年に数十人の入門者があったという。

門下生に講義する青州 南長屋の門下生部屋
門下生に講義する青州 南長屋の門下生部屋

うした入門者を迎えて、青州は別棟を建て増ししたがとても収容しきれるものではなかった。そこで、近くの土地に大きな家と建てることにした。それまでの20坪足らずの小さく貧しい華岡の家は、こうして建坪220余坪の堂々たる構えの邸宅に生まれ変わった。青州は新しい家を「春林軒」と名付け、自ら筆をとって扁額を掲げた。

「春林軒」の総合案内書の脇にある裏門をくぐると、左手に大屋根の主屋があり、右手に南長屋が建っている。主屋は、通用玄関から入って中を見学できる。通用玄関を入ると、土間にビデオが備えられていて、押しボタンを押すと華岡青州の生涯を要領よく説明してくれる。主屋の各部屋には、それぞれのハイライトシーンが人形で再現されている。見学者が部屋を訪れると、自動的に検知して音声ガイドが流れる。筆者が春林軒を訪れたとき、昼下がりのせいでもあっただろうが、他の見学者は一人もいなかった。じっくりと音声ガイドを聞きながら、乳ガン摘出手術成功まで20年にもおよぶ長い月日の青州の苦労に思いを馳せた。



菖蒲池のほとりにある華岡家の墓地と青州が広げた垣内池(かいといけ)

医聖華岡青州顕彰記念公園
那賀ライオンズクラブが造営した医聖・華岡青州顕彰記念公園

「青州の里」の駐車場とは道路を挟んで反対側の岡の上に、華岡家の墓所があると聞いて立ち寄ることにした。岡の麓にはは小さな石庭公園があった。那賀ライオンズクラブが設立30周年の記念事業として造った「医聖・華岡青州顕彰記念公園」である。異様な形をした茶色の石柱が並び、その奥に碑が建っている。

青州自身の直筆の漢詩
青州自身の直筆の漢詩
園の横に立てられた説明書きによると、この石庭公園は全体の敷地が外科手術器具のメスの形をしており、そのメスの形状の中に御影石を配して人体を構成しているという。一番奥の御影石は頭部を表し、青州自身の直筆の次の漢詩が刻まれている。

 竹屋粛然鳥雀喧 風光自適臥寒村 唯思起死回生術 何望軽装肥馬門

詩の意味するところは、"自分は自然に恵まれた田舎に住んでいるが、ひたすら思うことは瀕死の病人を回生させる医術の奥義を極めたいということだけだ。金を儲けて絹の着物を着たり、立派な馬に乗りたいとは思わない"、ということらしい。

の御影石の左右には、2個の小さな御影石が置かれている。献身的な人体実験台となった母の於継と妻の加恵の象徴だそうだ。その前に並ぶ茶色の石柱は胸部の肋骨を表していると同時に、数多くの門下生を象徴しているとのことだ。一番手前には腰を表す垣があり、中央に通仙散の主薬である曼陀羅華が植えられている。

園脇の石段を登ると、細い道が華岡家の墓所に続いている。墓地の入口に、大きな石の華岡青州の墓誌銘碑が建っている。門人達が青州の遺徳を追慕し、遺子の修平(号鷺州)と準平(号南洋)らと相談して、紀伊藩の儒者・仁井田好古(1770 - 1848)の撰書を得て建立した碑である。

華岡家の墓所 華岡青州の墓誌銘碑
華岡家の墓所 華岡青州の墓誌銘碑

岡家の墓所には、一族34柱が霊が静かに眠っている。最も古いのは、天明5年(1786)6月2日に64歳で没した青州の父・直道の墓である。青州の母・於継は寛政11年(1799)11月4日に64歳で没した。妻・加恵は文政12年(1819)12月8日に68歳で亡くなった。華岡青州は天保6年(1835)10月20日に76歳で没している。

「華岡青州の妻」に登場する3人の墓を探した。青州の墓は前から2列目の左端にあった。三重の台石の上に立ち、笠石を頂いた高さ六尺の墓は、34の墓の中でも一番大きく立派である。正面には法名「天聴院聖哲直幸居士」が刻まれている。その後ろの列の左から2番目に加恵の墓石が、さらにその後ろの列のやはり左から2番目に於継の墓石があった。いずれも小さい墓で、青州の墓に隠れるように立っていた。

華岡青州の墓 青州の墓の背後にある加恵と於継の墓
華岡青州の墓 青州の墓の背後にある加恵と於継の墓


青洲が私財を投じて農民のために築いた垣内池
青洲が私財を投じて農民のために築いた垣内池

岡青州が50歳の時、干魃と貧困に苦しむ農民のために、藩の許可を得て私財を投じて拡大した垣内池(かいといけ)が「青州の里」の近くにある。県道127号を「青州の里」方面に右折した三叉路から、さらに500mほど北に行った交差点の角に位置している。ついでに立ち寄ってみると、真っ青の冬空の下で、葛城山系の山並みを水面に映して池は静まりかえっていた。

道脇には青州の歌を刻んだ歌碑が立っている。
●水みたば 心をこめて 田うえせよ 池の昔を 思ひわすれず
と彫られているとのことだが、碑の面が摩滅しているせいか、それとも太陽光線のせいか良く読み取れなかった。


(*) 「紀州藩 名手宿本陣」の栞から転記


2007/12/22作成by pancho_de_ohsei return