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| 青州の里の近くから葛城山を望む(撮影 2007/12/20) |
小説の主人公・加恵
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| 旧名手宿本陣の御成門 |
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| 旧名手宿本陣の主屋 |
旧名手宿本陣は、もともと在地の由緒ある地士(じざいむらい)として名手の大庄屋を代々世襲してきた名門・妹背(いもせ)家の屋敷である。ところが、大和街道に面していたので、紀伊藩主が参勤交代の折や鷹狩りのとき当家に宿泊するようになり、以後本陣と呼ばれるようになったという。そのため、昭和44年(1969)3月にはその旧宅が「旧名手本陣妹背家住宅」として国の重要文化財に指定され、昭和45年(1970)4月には同じ建物が「旧名手宿本陣」として国の史跡に指定されている。
御成門を入ると受付小屋があるが、見学は無料である。主屋の廊下に記帳簿が置いてあり、その横に積まれた見学の栞を一部いただいて、建物を見学することができる。ただし三和土(たたき)の土間や土かまどが置かれた台所以外は、座敷内に上がることができない。その代わり、雨戸がすべて開けられていて、すべての畳の間を外部から眺めることが可能だ。
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| 旧名手宿本陣平面図(*) |
4年後の享保3年(1718)になって、紀伊藩主徳川宗直(むねなお)を迎えるために主屋が新築され、さらに遅れて延享3年(1746)に座敷部が増築された。建物の東側にまわると、藩主が宿泊するための本陣として増築された御座の間と御次の間を縁側からのぞき込むことができる。
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| 玄関式台 |
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| 主屋の内部 |
建物のまわりを一周すれば誰でも気づくことだが、三和土(たたき)と台所を除いて、全ての部屋が廊下も含めて畳敷きである。板の間がない。これが大庄屋だった妹背家の住宅だった。「華岡青州の妻」の主人公の加恵は、庄屋の娘としてこの家で生まれ、そして天明2年の秋、数え年の22歳で華岡家に嫁ぐまでお嬢様としてなに不自由なくこの家で過ごした。
その加恵の人生を大きく変える縁談を持ち込んできたのは、華岡青州の母・於継(おつぎ)である。於継は市場村の東にある丁野町村の藍染紺屋を兼ねた松本という地主の娘だった。幼いときから才色の誉れが高かったが、適齢期にひどい皮膚病に冒され、松本家では金にあかして医者に診せた。しかし、ことごとく匙を投げられた。その話を聞いて松本家の門を叩いたのが、華岡直道(なおみち)という平山村の貧乏医者である。娘の皮膚病は必ず治してみせるが、その暁には彼女を自分に娶らせて欲しい、と彼は条件をつけた。
直道の治療の甲斐があって、於継の不治の病は全治し、その結果、彼女は貧乏医者の家に嫁入りし、青州(せいしゅう)、本名は震(ふるう)、通り名は雲平(うんぺい))を生んだ。「華岡青州の妻」は、加恵が8歳のときこの於継を初めて見た時の幼児体験から物語が始まっている。その時の於継の美しさがやがて加恵の運命を狂わせることになる。
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| 御次の間 |
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| 御座の間 |
於継がどの部屋で加恵の父に縁談を申し入れたのかは分からない。だが妹背家と華岡家では、家柄も身分も違う。加恵の父ははなから於継の申し入れを相手にしなかった。ところが、加恵にとっては、幼いとき於継を一目見たときからその美貌に惹かれ彼女は憧れの人だった。その人に是非とも嫁にと請われているのを知ると、華岡家へ嫁ぎたいと心底思うようになった。
父の反対でそれが叶わぬと知ると、加恵は食べ物がのどを通らずにわかに痩せていって、親たちを驚かせた。結局は、親たちが折れて、加恵は華岡家に嫁ぐことになり、夫となる青州が不在のまま仮祝言をあげることになる。妹背家では盛大な宴を張って娘を送りだした。加恵は綿帽子をかぶって見事な花嫁衣装で、この家の玄関から駕籠に乗り込んだ。
その時の妹背家の賑わいを想像しながら建物裏手にまわると、二棟の蔵があった。創建当初の主屋と同じ時期に築かれた米蔵と南倉である。主屋が本陣として利用されたとき、妹背家の人々は一時的に南倉の一階に移り住んだと言われている。
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| 寛永20年(1643)に建てられた南倉 | 寛永11年(1634)に建てられた米蔵 |
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| 本陣裏手にある郡役所跡 |
妹背家の裏手には、延享3年(1746)に建てられた郡役所の跡がある。江戸時代、この地方は伊都郡代官の管理下にあり、伊都奉行同心がこの郡役所に駐在して、税を徴収したり裁判を行った所とされている。近寄って見たが、雑草が生い茂るばかりで、遺構らしきものは何も見えなかった。受付で確認すると、建物跡を整備する計画はあるが、なかなか進まないとのことだ。
春林軒:青州が建てた住居兼診療所兼医学校食と医と健康のテーマパーク「青州の里」(所在:紀の川市西野山473)は、「名手」駅から徒歩20分、旧名手宿本陣からでも徒歩15分くらいの所に築かれている。北に聳える葛城山(海抜865.7m)に向かって一直線に延びる県道127号線(中尾・名手市場線)が、そのアクセスルートである。
「青州の里」はその三叉路を右に入ってすぐの所にある。県立高等看護学院の前を通り過ぎると、その横に紀州弁で「ようおこしなして! 青州の里」と書かれた駐車場のゲートが聳えている。駐車場の奥へ進むと、ひときわ目を引くコンクリートの建物がある。先頃亡くなった建築家・黒川起章氏が曼陀羅華(まんだらげ、チョウセンアサガオ)の花をモチーフに設計したフラワーヒルミュージアムである。 フラワーヒルミュージアムの中には、ふるさと物産ショップやパン工房、バイキングレストランが並び、その奥に展示室がある。華岡青州が生前使用していた手術器具、愛用の眼鏡、克明に記録した治療に関する資料や標本、それに当時の多くの名士との交流書簡などが展示されている。ここを訪れて青州の遺品に接することで、彼の業績の偉大さが分かる。
華岡青州は宝暦10年(1760)10月23日、旧那賀町平山の華岡直道の長男として生まれた。天明2年(1782)、23歳のとき京都に遊学し、吉益南涯(よしますなんがい、1750-1813)に師事して古医方を学び、さらにその後、大和見立(やまとけんりゆう、1750〜1827)にオランダ外科を学んで、天明5年(1785)2月、郷里平山に帰ってきた。以後、家業を継いで多忙な診療の傍ら、麻酔薬の開発に没頭した。彼が曼陀羅を主材とする麻酔薬「通仙散」(つうせんさん)を開発し、世界で初めて全身麻酔による乳ガン摘出に成功するのは、まだ20年も先のことである。
フラワーヒルミュージアの先に、華岡青州の正座姿の像と彼の書である「活物窮理」を刻んだ碑が建っている。青州が着ている羽織の紋章が面白い。外科医術で血管や輸卵管などを結びくくる結紮(けっさつ)という組紐の輪が描かれている。華岡家の家紋は五三の桐だったが、青州はこの家紋を弟に譲り、新しく組紐の輪を家紋にしたとのことだ。
青州の銅像の前に立って左手を見ると、曼陀羅華など通仙散の材料となった薬草が植えられている。そしてその先のイチジクと柿の果樹園の間に、白い塀で囲った「春林軒」の建物群が見えた。だが、その建物は青州が生まれ育った貧乏医者の家ではない。妹背家の娘・加恵(かえ)が青州の母・於継(おつぎ)の美貌と人となりに憧れて、夫となる青州の顔も知らず嫁いできた華岡家のたたずまいではない。当時の華岡家の家は20坪足らずの貧乏家屋だった。
青洲は、木の香も新しい屋敷を「春林軒」と名付けた。「楽水堂」とも呼んでいたと言われている。春林軒は大正時代まで平山に存続していた。しかし大正12年(1923)に持ち主が変わり主屋は粉河町に移築されされた、平成9年(1997)になって春林軒を再建することになり、主屋は保存状態もよかったので元の平山の地に戻された。 現在の春林軒は、主屋と蔵は青洲が活躍した当時の建物だが、その他は調査資料に基づいて復元されたものである。
後年編まれた華岡青州の年譜では、加恵と結婚した年月がはっきりしていない。「華岡青州の妻」では、天明2年の秋、加恵は華岡家に嫁いできたという設定になっている。於継は待ちかねたように花嫁の手を取って迎え入れ、座敷までその手を引いて床の間の前に座らせた。だが、加恵の横の花婿の座に座るべき青州の姿はなかった。花婿のいない婚礼だった。花婿の座には「本草網目」という書物が置かれていた。当時の漢方医学の聖書である。
天明5年(1785)2月、京都での3年におよぶ遊学を終えて、青州が郷里平山に帰ってきた。父の直道も母の於継も、立派になって帰ってきた長男を諸手をあげて歓迎した。そして、帰郷した日の夜、青州は医学に賭ける己の夢を熱く語り、日本の華佗(*)になることが自分の目標だと豪語した。そうした息子を前にして、両親はこの上なく頼もしく感じた。だが、その日を境に、望まれた嫁と望んだ姑とのきれいごとの間柄は終わった。青州をめぐって嫁と姑の陰惨な心の戦いが始まったのである。 有吉佐和子は、青州が戻ってきて新婚初夜を迎えたはずなのに、於継が二人が床を共にすることを認めなかったことを、陰惨な嫁姑戦争の発端としている。息子を独り占めしようとする姑に、加恵は思いがけず激しい憎悪を感じた。それは夫の母親に対する嫉妬と言い換えてよい。青州以外に眼中にない於継は、それ以後もことさら良い姑に見えるように振る舞うが、加恵はそうした振る舞いの背後に、嫁に対する無意識な敵意を感じ取って、針のように心を尖らせていった。
帰郷してからの青州は、曼荼羅華を主薬とする麻酔薬の開発の虜になり、乳ガンの手術の可能性を模索する毎日を送っていた。折から天明の大飢饉で華岡家の食生活が苦しいときに、加恵が妊娠した。於継は「嫁のあなたが食べると思えば心苦しいが、生まれてくるのは華岡の家のもんや」と十分に食事を取ることを進めた。そんな於継に、加恵は華岡家のよそ者としか扱われていないのを知り、ますます姑への敵意を燃やした。 開業医のかたわら研究を重ねた結果、青州は曼陀羅華の花(チョウセンアサガオ)、草鳥頭(そううず・・・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した。犬と猫を使って動物実験を重ね、庭の柿の木の根本には多くの死骸が埋められたが、苦節15年、ようやく麻酔薬の完成までこぎつけた。しかし、その間に青州は妹の於勝(おかつ)を乳ガンで死なせている。
動物実験を通してなんとか全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功したものの、それが人体に対しても同じように効果があるという保証はない。青州は人体実験を目前にして行き詰まった。そのとき母の於継と妻の加恵が自分の体を人体実験に使ってくれと同時に申し出る。人命に関わる人体実験でも、献身的な協力ぶりを示すため、二人は嫁と姑の意地で張り合った。「華岡青州の妻」では、15年におよぶ嫁と姑の仮面をかぶった確執が、人体実験を申し出た時点をヤマ場を迎えるように構成されている。青州を前にして互いに応酬しあう二人の息詰まるような会話は圧巻である。 人体実験は結局二人に対して行うことになり、まず於継から始めることになった。その事実を知るものは青州と於継と加恵の三人だけで留められた。実験は1ヶ月から始められることになった。薬湯を飲まされた於継は、もんどり打って苦しみ意識が奪われる直前に、「青州は私だけの子供ですよね」と念を押した。息子は嫁のものではない、生んだ母親のものなのだという矜持が言わせた言葉だった。
この実験の後、加恵は一人娘を失った。実験では麻酔効果は確かめられたが、加恵は副作用で目を患い、ときどき痛みを感じた。加恵が受けた二回目の実験は、麻酔が効いている時間を短縮する目的だったが、一晩の催眠から覚めたとき、加恵は失明していた。 誰が見ても実の親と娘のようにむつみ合い、労り合っている仲のように振る舞いながら、言葉にも動作にも現れない敵意を燃やし続けた姑の於継が、薬草畑が霜で凍るような夜ポックリと亡くなった。完全に盲目となった加恵は、甚だしく年老いた於継の姿を見ることなかった。姑の臨終に侍した加恵は十幾年ぶりかで身ごもっているのを知った。於継は菖蒲池の前の華岡家の墓地に埋葬され、嫁と姑の表には出さない激しい心理戦は終わった。於継の法名は蓮浄院智貞信尼といった。
文化2年(1805)10月13日のことである。大和の国の宇智郡五条で藍屋を営む利兵衛(りへい)と言う男が、60歳になる勘(かん)という母親を伴って青州をたずねてきた。母親が乳房の中に固い物ができたというので、近隣の医者に診断させたところ、乳ガンだとわかったが、治療の方法はないと匙を投げられた。商売柄、利兵衛の耳は諸国の噂が入っており、紀州に奇病を治す医者がいることを知ったという。母親もどうせ死ぬなら名医の手にかかって死にたいと、奇妙な熱意で手術を乞うた。 青州は手術の準備を整えると老婆に通仙散を与え、油紙の上に寝かせた。薬効が老婆の上に現れたのを確かめると、弟子達を手伝わせて乳ガン摘出手術に取りかかった。手術の経過は、青州自身が書き記した「乳巌治験録」(にゅうがんちけんろく)に詳しい。この手術の成功で華岡青州の名は全国に知れ渡り、北は津軽、南は薩摩から若者達がひきも切らず青州の門を叩くようになった。多いときには一年に数十人の入門者があったという。
こうした入門者を迎えて、青州は別棟を建て増ししたがとても収容しきれるものではなかった。そこで、近くの土地に大きな家と建てることにした。それまでの20坪足らずの小さく貧しい華岡の家は、こうして建坪220余坪の堂々たる構えの邸宅に生まれ変わった。青州は新しい家を「春林軒」と名付け、自ら筆をとって扁額を掲げた。 「春林軒」の総合案内書の脇にある裏門をくぐると、左手に大屋根の主屋があり、右手に南長屋が建っている。主屋は、通用玄関から入って中を見学できる。通用玄関を入ると、土間にビデオが備えられていて、押しボタンを押すと華岡青州の生涯を要領よく説明してくれる。主屋の各部屋には、それぞれのハイライトシーンが人形で再現されている。見学者が部屋を訪れると、自動的に検知して音声ガイドが流れる。筆者が春林軒を訪れたとき、昼下がりのせいでもあっただろうが、他の見学者は一人もいなかった。じっくりと音声ガイドを聞きながら、乳ガン摘出手術成功まで20年にもおよぶ長い月日の青州の苦労に思いを馳せた。 |
菖蒲池のほとりにある華岡家の墓地と青州が広げた垣内池
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| 那賀ライオンズクラブが造営した医聖・華岡青州顕彰記念公園 |
「青州の里」の駐車場とは道路を挟んで反対側の岡の上に、華岡家の墓所があると聞いて立ち寄ることにした。岡の麓にはは小さな石庭公園があった。那賀ライオンズクラブが設立30周年の記念事業として造った「医聖・華岡青州顕彰記念公園」である。異様な形をした茶色の石柱が並び、その奥に碑が建っている。
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| 青州自身の直筆の漢詩 |
竹屋粛然鳥雀喧 風光自適臥寒村 唯思起死回生術 何望軽装肥馬門
詩の意味するところは、"自分は自然に恵まれた田舎に住んでいるが、ひたすら思うことは瀕死の病人を回生させる医術の奥義を極めたいということだけだ。金を儲けて絹の着物を着たり、立派な馬に乗りたいとは思わない"、ということらしい。
この御影石の左右には、2個の小さな御影石が置かれている。献身的な人体実験台となった母の於継と妻の加恵の象徴だそうだ。その前に並ぶ茶色の石柱は胸部の肋骨を表していると同時に、数多くの門下生を象徴しているとのことだ。一番手前には腰を表す垣があり、中央に通仙散の主薬である曼陀羅華が植えられている。
公園脇の石段を登ると、細い道が華岡家の墓所に続いている。墓地の入口に、大きな石の華岡青州の墓誌銘碑が建っている。門人達が青州の遺徳を追慕し、遺子の修平(号鷺州)と準平(号南洋)らと相談して、紀伊藩の儒者・仁井田好古(1770 - 1848)の撰書を得て建立した碑である。
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| 華岡家の墓所 | 華岡青州の墓誌銘碑 |
華岡家の墓所には、一族34柱が霊が静かに眠っている。最も古いのは、天明5年(1786)6月2日に64歳で没した青州の父・直道の墓である。青州の母・於継は寛政11年(1799)11月4日に64歳で没した。妻・加恵は文政12年(1819)12月8日に68歳で亡くなった。華岡青州は天保6年(1835)10月20日に76歳で没している。
「華岡青州の妻」に登場する3人の墓を探した。青州の墓は前から2列目の左端にあった。三重の台石の上に立ち、笠石を頂いた高さ六尺の墓は、34の墓の中でも一番大きく立派である。正面には法名「天聴院聖哲直幸居士」が刻まれている。その後ろの列の左から2番目に加恵の墓石が、さらにその後ろの列のやはり左から2番目に於継の墓石があった。いずれも小さい墓で、青州の墓に隠れるように立っていた。
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| 華岡青州の墓 | 青州の墓の背後にある加恵と於継の墓 |
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| 青洲が私財を投じて農民のために築いた垣内池 |
華岡青州が50歳の時、干魃と貧困に苦しむ農民のために、藩の許可を得て私財を投じて拡大した垣内池(かいといけ)が「青州の里」の近くにある。県道127号を「青州の里」方面に右折した三叉路から、さらに500mほど北に行った交差点の角に位置している。ついでに立ち寄ってみると、真っ青の冬空の下で、葛城山系の山並みを水面に映して池は静まりかえっていた。
県道脇には青州の歌を刻んだ歌碑が立っている。
●水みたば 心をこめて 田うえせよ 池の昔を 思ひわすれず
と彫られているとのことだが、碑の面が摩滅しているせいか、それとも太陽光線のせいか良く読み取れなかった。
(*) 「紀州藩 名手宿本陣」の栞から転記