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| 特別史跡・平城宮跡全景。赤丸は第一次大極殿復元現場 (*) |
伝統の古代建築技術と現代建築技術を融合させた復元大極殿
第一次大極殿の復元工事を一般公開する目的で建てられた施設が素屋根の前面に立っている。その建物の一階では、復元工事の工程をビデオで紹介し、二階では各工程ごとの現場写真を展示している。したがって、素屋根の中を見学しなくても、直接この一般公開施設を訪れれば、復元工事の概略はほぼ知ることができる。
資料館には平城宮の模型が置かれていた。その前でボランティアガイドの説明を受けた。模型から判断して、第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置している。大極殿の周囲は築地回廊で囲まれ、南に朝堂院とつながる「閤門(こうもん)」があった。唐長安城の大明宮含元殿の影響を受けて、大極殿の前に広い前庭が築かれ、大極殿は前庭から1段高い位置に建てられていたという。中国の道教では大極殿は天皇大帝の居所をいうとのことだ。
身舎天井と庇天井の間を斜めに塞いでいる壁のような部分がある。建築用語で支輪(しりん)という。この身舎支輪には絵が描かれている。本来どのような図柄だったかは記録になく不明である。遠目でよく見えないが、日本画家の上村淳之(うえむらあつし)氏が考案した蓮の絵が描かれているという。
大極殿の身舎天井の下には、高御座(たかみくら)が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われてきた。神亀元年(724)2月4日、元正天皇の譲位を受けて、24歳の若き皇太子・首(おびと)皇子が大極殿の高御座に登極して天皇に即位し、天下に大赦を行なった。聖武天皇の誕生である。この日、従二位の長屋王に正二位を授け、左大臣に任命したと『続日本紀』は伝えている。 案内者の説明によれば、復元大極殿の木工事で使用された用材はほとんどがヒノキで、吉野や尾鷲、四国、熊本、埼玉など国内で調達したとのことだ(部分的に強度の関係でケヤキを用いた部材がある)。樹齢300年から400年のヒノキを集めるのに苦労したそうだ。伐採されたヒノキは8角材に成形されて、別棟の乾燥室に搬入された。そこで時間をかけて水分を抜き去った後、伝統的な古代建築技術を継承するために、手斧(ちょうな)で16角、さらに32角に削られ、最後に槍鉋(やりかんな)で円柱に仕上げられたとのことだ。
恭仁京遷都の際に、大極殿の建物部材は基礎石から屋根瓦までそっくり恭仁宮に遷された。そのため、発掘調査では礎石のかけらが見つかった程度で、出土品は極度に少なかった。しかし、恭仁宮の大極殿跡には礎石が残っていたため、それと同じ凝灰岩の竜山石が基壇や礎石に使用されている。さらに、四隅の礎石は恭仁宮大極殿にならって花崗岩を用いている。 基壇の高さは約3.6mもあり、基壇に取り付けられた階段がずいぶん高く感じられる。それに、見学のために配布された資料では、大極殿の正面に取り付けられた石の階段が一つだけである。以前に遺構館で見た大極殿の復元模型では、正面に3つの階段が置かれていた。その違いをたずねると、一般に宮殿の建物には3つの階段が設けられている例が多いため、大極殿でも3つ設けられていると想定した。しかし、実際に発掘調査してみると、大極殿正面には幅の広い階段が1つしかなかったことが判明したとのことだ。 唐招提寺金堂の解体修理などとは違って、復元する大極殿は新築の木造建造物である。そのため、現在の建築基準法の対象となる。だが、復原原案のままでは今日における建築構造上の安全性を満たすことはできない。そこで、大極殿の実施設計では、地震による揺れを最小限に軽減させるための免震装置が導入された。さらに、自動火災報知器や屋外消火栓、避雷設備の設置も義務づけられているという。
会議室では、免震装置として使われたリニアスライダー、積層ゴムおよび粘性体ダンパーの模型が紹介された。実際の工事では、基壇の内部を空洞として、これらの免震装置を組み合わせて挿入し、建物を地盤から切り離している。案内された床下では、基壇の下部を支えるコンクリート柱の上に、これらの免震装置が組み込まれていた。床下はまさに伝統技術と現代技術の融合を象徴するような空間だった。
仮設の階段を伝って二階まで上ると、そこは初重の屋根の高さに築かれた足場だった。すでに瓦の下になる流し板が張られ、軒先には瓦座が取り付けられている。瓦座に沿って軒平瓦が並べられ、屋根全体に瓦を固定する銅線が取り付けられている。 古い建物の屋根では流し板の上に土を置き、その上に瓦を並べていたが、ここでは加重を軽減する目的で土は置かないそうだ。また、実際に葺かれる瓦の大きさや重さは、発掘で出土した瓦より小さくて軽くなっている。しかし、軒丸瓦や軒平瓦の瓦頭の文様は出土した瓦と同じである。ちなみに、復元大極殿の屋根に葺く瓦の総数は10万枚だそうだ。 大極殿は二重の瓦屋根を持つため、外観は二階建ての建物のように見える。しかし、実際には二階はない。ただ豪壮さを表すために、こうした構造を採用しているにすぎない。初層の屋根の位置に築かれた足場からさらに階段を上ると、二重屋根の高さの足場があった。こちらの屋根の瓦葺きはかなり進んでいて、すでに丸瓦も縦方向に並べられていた。
よく見ると、尾垂木の先端にあたる木口(こぐち)には、すでに透かし彫りの金具が取り付けられている。二重屋根の上部は勾配がきつく、45度もあるそうだ。屋根の頂上にはすでに大棟が取り付けられている。大棟の両端に取り付けられる鴟尾(しび)は、現在制作中とのことだ。制作を依頼したのは東大阪にある会社で、名古屋城の金鯱を作ったのもその会社だそうだ。鴟尾のデザインは鳥を図案化したものだが、土製ではない。青銅の鋳物で形を成形し、アマルガム法で金メッキするそうだ。
土壁などを塗る左官工事は、瓦葺きが全て終わって建物全体の加重が定まった段階から開始することになる。その他にも扉の取り付けや自動火災報知設備、避雷設備、消火設備の工事など、まだまだ多くの工程が残っている。完成予定が2009年の年末と聞いた。残り2年間、復元大極殿を覆う素屋根は存在し続けることになる。そして、年が明けた2010年には、平城遷都1300年を祝う様々な行事が予定されている。
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聖武天皇の謎の彷徨がもたらした二つの大極殿
小野老朝臣(おののおゆのあそん)が大宰少弐として大宰府に着任した時、着任を祝う宴席で次の平城京讃歌と詠んだとされている。
神亀6年(729)8月5日、天下太平の願いを込めて「天平」と改元された。この事実が、当時の世相を反映していると思う。改元のきっかけは、その年の2月に起きた長屋王の変にあるとされている。聖武天皇の即位のとき左大臣に任命された皇族の筆頭が、藤原一門の陰謀によって自殺に追い込まれた陰惨な事件である。天平時代は、改元に託した聖武天皇の願いとは裏腹に、天下太平どころか、長屋王の変を発端として政争や疫病の流行、飢饉、地震といった天変地異で社会不安が渦巻いた時代である。 天平という時代は決して天下太平の時代ではなかった。そのことを如実に証明しているのが、平城京の中心に位置する平城宮の、そのまた中心だった大極殿が2つも存在した事実であろう。そして、2つの大極殿が築かれた背景は、時の天皇の”謎の彷徨”にあるとされている。彷徨のきっかけは、天平12年(740)9月に勃発した藤原広嗣の乱だった。大宰少弐に任じられて大宰府に赴任した藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は、その前の月に政治を批判し、吉備真備(きびのまきび)と玄ム(げんぼう)の処分を求めた。しかし、その上表が受けられないと知ると、九州の太宰府で挙兵した。
明けて天平13年(741)閏3月、聖武天皇は平城京の兵器を甕原宮に運ばせ、8月には平城の東西二市を恭仁京へ移して、新都造営が着々と進められた。11月には、恭仁京を「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」と称させる詔勅を出している。平城宮の大極殿が解体され恭仁宮への移設も、おそらくこの年には開始されたであろう。 恭仁京造営の最中に、聖武天皇はたびたび紫香楽宮を訪れている。よほどこの地が気に入ったものと思われる。天平15年(743)10月には、紫香楽宮で有名な盧舎那仏造顕の詔を発している。そして、その年の暮れには、国家財政の逼迫を理由に、恭仁京の造営を中止して紫香楽宮の造営に注力するようになる。天平16年(744)の閏<(うるう)1月には、聖武天皇は何を思ったのか恭仁京から難波へ遷都し、恭仁京はわずか4年あまりで廃都になってしまう。
当時の平城京は、天平9年(737)に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなったとは言え、藤原一門の支配する都だった。反藤原氏勢力が台頭で、大宰少弐に左遷された藤原広嗣は藤原式家の宇合(うまかい)の長男である。彼は反藤原勢力の要である吉備真備と僧の玄ムを除くため天平12年(740)9月に九州で挙兵した。平城京の中には、当然のことながら彼に同調する一門の勢力が存在した。 聖武天皇が平城京を抜け出し行幸と称して慌てて東国への旅に出たのは、おそらく藤原一門の急襲を恐れてのことであろう。広嗣の乱が平定されても、平城京に戻ろうとしなかったのも、藤原一門の勢力をなおも恐れていたためであろう。生まれながらにして天皇になるべく運命づけられた聖武は、藤原一門の傀儡にすぎなかった。その後ろ盾となっている藤原氏の式家の当主の討伐を命じたのは、ほかならぬ天皇自身である。その反動を予期して恐怖したとしても不思議ではない。 大宝元年(701)に生を受けた首(おびと)皇子は、宮廷女官たちに囲まれてわがまま一杯に成長し、16歳で藤原不比等の娘・安宿媛(後の光明皇后)を夫人として押しつけられ、神亀元年(724)24歳の若さで、元正天皇より位を譲られて即位した。藤原一門によって敷かれたレールの上を歩かされて成長した彼には、天智天皇や天武天皇のような覇気も資質も持たなかったであろう。ただ、周囲の勢力に操られるだけの臆病な天皇だったにちがいない。その臆病さが謎の彷徨の直接の原因だったのでは・・・と筆者は考えている。 聖武天皇の謎の彷徨に関して、興味深い説をつい最近新聞紙上でお目にかかった。去る12月9日、奈良市の共済会館で奈良世界遺産市民ネットワークの第十一回総会が行われた。そのときの記念基調講演で、滋賀大学名誉教授の小笠原好彦氏は「聖武天皇は新羅を超える国家をつくるため中国・唐を模した三都制を実現しようとして難波京を手掛け、恭仁京に白羽の矢を立てた」と話されたという。 広大な領土を有する国が国内に複数の都を置く制度を複都制(ふくとせい)という。たとえば、中国では南北朝時代に、北周が長安を都とし東方の洛陽を陪都とする複都制をとった。隋もこれを引き継ぎ、唐の時代には開元11年(723)に長安・洛陽(東都)に北都として太原を加え三京になった。 奈良時代は唐の文化に心酔した時代である。だが、聖武天皇が点々と遷都したのは「唐の三都制」を目標にしたと言い切られると、ちょっと待ってと言いたくなる。隋・唐の時代のように広大な中国大陸を支配した王朝が、その統治機能を分散させるために陪都を置いたことは納得できる。だが、我が国の場合、平城京と難波宮、恭仁宮の距離など一日足らずで到着できる近さである。 三都制であれば、それぞれの都が都として機能する宮城など様々な施設を備えて併存していることを前提とする。だが、恭仁京への遷都宣言によって、平城宮にあった大極殿は、解体して恭仁宮に移築されている。大極殿だけではあるまい。その他の宮殿の施設や朝堂院などの主要建物も移設されたはずである。聖武天皇が意図したのは、平城京から恭仁京への文字通り”遷都”であって、両京の併存ではない。遷都後の平城京は”廃都”となるはずだった。藤原京から平城京への遷都で、藤原京が廃都となったように。 『続日本紀』は、天平16年(744)閏正月一日、聖武天皇が百官を朝堂に招して、恭仁・難波二京のうち何れを都とすべきかを問うた、と記している。百官の意見は半々に分かれたようだが、聖武が「唐の三都制」を目標としていたなら、この下問はおよそ愚問である。小笠原好彦教授はこの史書の記述に対して、どのような意見をお持ちなのだろうか。 |