保存整備基本計画の一環として40年ぶりに調査された奥の山古墳
奥の山古墳は、墳丘長70m、後円部径43m、高さ6.8m、前方部幅7.4m、高さ7.4mの前方後円墳で、周濠を含めた大きさは96mに達するが、古墳群にある8基の前方後円墳の中では2番目に小さい。昭和43年(1968)年にこの古墳の部分調査が行われ、その結果、出土した円筒埴輪から築造年代は6世紀中頃と推定された。さらに、他の7基の前方後円墳のような二重の長方形周濠をもたない代わりに、一重の盾型周濠が巡らしている構造であると想定された。 県立さきたま史跡の博物館(旧さきたま資料館を改称)は、上記の「埼玉古墳群保存整備基本計画」の一貫として、奥の山古墳の周濠の正確な形を確認するため、40年ぶりに発掘調査を行った。すると、現在の周濠の外側に幅5〜7mの中堤が見つかり、さらにその外側に幅5m、深さ1m以下の外濠跡が存在することが判明した。すなわち、他の前方後円墳と同様に二重の周濠を巡らした古墳だったのである。
本日の午前10時半と午後1時半から現地説明会が行われると聞いて、埼玉古墳群を訪れた。この古墳群は今までに数回訪れている。平成15年の秋に訪れたときは、古墳群の中のそれぞれの古墳についてレポートするためだっだ(埼玉古墳群参照)。最後に訪れたのは2年前の平成17年11月5日である。さきたま資料館で「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」というミニ企画展示を見学するためだった。
古墳時代中期の5世紀代は、朝鮮半島からの先進技術がもたらされて、最先端の鉄製甲冑や金銅製のきらびやかな馬具や武具が国内で製作されるようになった時代である。ミニ企画展示では、埼玉古墳群の稲荷山古墳と将軍山古墳から出土した甲冑や馬具を中心に、埼玉県下出土の代表的な資料を展示して、この時代の国際性や生産技術の高さを示していた。
JR行田駅から出る市内循環バスを利用すれば、バス停「埼玉古墳群前」で下車して、徒歩5分で到着できるとのことだ。ただし、1日に5便しか運行していないので、今まで利用したことはない。 行田市は関東平野の真ん中に位置する町である。東西南北いずれを見渡しても、近くに山影は見あたらない。まことに平らな台地の上に民家が建ち並んでいる。週末とあって朝の県道は交通量がそれほど多くない。晴れ渡った空の下を一直線に南東の方角に歩いていくと、さきたま古墳公園の駐車場の前に出た。その角に、「めざせ世界遺産!」の大きな看板が立っていた。 駐車場の前の信号を渡ると、ケヤキの並木が県立さきたま史跡の博物館に向かって続いている。博物館の玄関前が現地説明会の受付となっていた。まだ10時半の見学開始には間があったが、見学者がかなりたむろしていた。
午前10時半きっかりに、主催者側の短い挨拶があった。その後、見学者が4班に分けられ、それぞれの解説員に連れられて発掘現場に向かった。現場は博物館からそれほど遠くない場所にあった。
この古墳の発掘調査は、これまでに昭和43年(1968)に一度だけ行われている。しかし、調査期間が短くわずかな部分だけしか調査できなかったため、まだ分からないことが多い。その一つが、他の前方後円墳は埼玉古墳群に特徴的な長方形の二重の周濠を巡らしているのに、この古墳だけは一重の盾形周濠しか巡らしていない点だった。そこで、正確な周濠の形を確認するために今回の調査のメスが入れられた。
解説員の話では、中堤の幅は5mから7m、その外側に築かれた外濠(そとぼり)の幅は5m、深さ1m以下とのことだ。外濠の深さが1m以下ということは、水濠(みずぼり)ではなく空濠であった可能性が高い。現状の奥の山古墳の周囲には深い水濠が水をたたえている。だが、これは前回の調査をもとに墳形を整備したとき、濠を実際より深くしすぎた事が原因のようだ。 この古墳の発掘調査は、まだ始まったばかりである。来年も続けて調査することになっていて、今回の現地説明会はいわば中間報告のようなものだ。だが、すでに大きな成果を得た。他の前方後円墳と同様に、奥の山古墳も二重の周濠を巡らしていたことがわかった。それが、長方形をしているかどうかは、今後の調査を待たなければならないが、その可能性は大である。そうであれば、埼玉古墳群の中の前方後円墳は、長方形の二重周濠という特異な形に固執する一族の奥津城だったことになる。。
だが、発掘調査は新しい謎も生んだ。外濠の深さが墳丘の右側面の端のほうに行くに従って浅くなっている。発掘を担当した解説員は、ひょっとしたら付近に墳丘へ渡るブリッジのようなものが構築されていたかもしれないと推測する。しかし、ブリッジにしては幅が広すぎるとのことだ。 外濠にあたる土中からは中堤に飾ったとみられる多数の円筒埴輪(はにわ)も見つかっている。発掘が進めば、さらに多くの埴輪が出土するはずである。奥の山古墳は6世紀中頃に築造されたと推定されているが、6世紀半ばと言えば、中央の大和では仏教が伝来した欽明天皇の治世である。この古墳の被葬者も、稲荷山古墳の被葬者と同じように大和朝廷に出仕して、要人を守る警備隊長として仕えたであろうか。
今回の発掘調査で奥の山古墳も二重周濠を持つ前方後円墳であることが判明し、埼玉古墳群の謎の一つが解けた。これで、北武蔵を支配した有力氏族が5世紀後半から7世紀前半ごろにかけて連綿と築いてきた奥津城であることが確かになった。 だが、埼玉古墳群に関する別の謎がまだ残っている。二重周濠のある前方後円墳は全国的にも珍しく、天皇家かそのゆかりの豪族の墳墓に限られているという。それなのに、一地方豪族の奥津城にすぎない埼玉古墳群の前方後円墳すべてに二重の、しかも長方形の周濠が巡らされているのは何故か。また、いずれの前方後円墳も後円部をほぼ北に向けて築かれているのは何故か。管見にして、まだこれらの謎を解いた説を知らない。
(注)上毛三山のひとつに数えられる群馬の名山・榛名山(はるなさん)は、古墳時代に大きな噴火を2回起こしている。最初の噴火は5世紀末か6世紀初頭起きた榛名山二つ岳の渋川噴火で、火山灰(Hr-FA)が降り注いだ。2回目の噴火は6世紀中葉に起きた榛名山二つ岳の伊香保噴火で、軽石(Hr-FP)が降り注いだ。したがって、これらのHr-FAおよびHr-FPの有無が、関東地方では古墳築造時期の推定の一つの基準になっている。 最初に作られたのは稲荷山古墳である。従来は5世紀末の築造と考えられていたが、埴輪の特徴や榛名山噴火の火山灰Hr-FAとの関係から、少し時代が遡り5世紀の中程に近い5世紀後葉に作られた、と現在は推定されている。 次に造られたのが、稲荷山古墳より一回り大きい二子山古墳である。周濠の底に火山灰Hr-FAが堆積していたことから、5世紀末に榛名山が噴火した時にはすでに築造されていたと思われる。埼玉古墳群の中で100mを越える前方後円墳となれば、次に続くのは鉄砲山古墳だが、この古墳は埴輪の特徴から6世紀の後半の築造とされている。つまり、二子山古墳から鉄砲山古墳の間にはかなりの時間差がある。 そこで、一族の中で宗主権が別系統に一時移った可能性が想定されている。丸墓山古墳は、発掘調査によって真っ黒な生活面の旧地表が見つかっており、その中に火山灰Hr-FAが入っていた。そのため、火山灰Hr-FAの降下以降の6世紀の初頭に築造されたと思われる。この族長は前方後円墳を造ることが認められていなかったので、円墳にしたようだ。 その後、丸墓山の後継者を埋葬した古墳が6世紀の前半から中頃に築かれることになる。一回り小さい前方後円墳の愛宕山古墳(6世紀前半)、瓦塚古墳(6世紀前半〜中頃)、そして 奥の山古墳(6世紀中頃)である。奥の山古墳の後は宗主権が再び元の系図に戻って、6世紀の後半に鉄砲山古墳が築かれる。将軍山古墳は明治時代に盗掘され、横穴式石室を持つ古墳であることが分かっている。出土した須恵器の年代から6世紀の後葉、おそらくは560−570年頃に古墳が営まれたと思われる。そして、最後に中の山古墳(7世紀前半)が築かれた。 つまり、解説員の話を要約すれば、埼玉古墳群は次の順序で築造され続けたことになる。 稲荷山古墳(5世紀後半) → 二子山古墳(5世紀末)(別系統 → 丸墓山古墳(6世紀初頭) → 愛宕山古墳(6世紀前半) → 瓦塚古墳(6世紀前半〜中頃) → 奥の山古墳(6世紀中頃)) → 鉄砲山古墳(6世紀後半) → 将軍山古墳(6世紀後半) → 中の山古墳(7世紀前半) ところで、この地で営々と古墳を築いてきた在地豪族とはどのような氏族だったのだろうか。実は、その氏族を推測させるような出来事が『日本書紀』の安閑天皇元年(534)の条に記されている。 その記述によれば、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が、継体天皇の時代に武蔵国造の地位をめぐって争っていた。しかし、長年決着しなかったので、小杵は密かに上毛野君小熊(かみつけののきみおくま)に助力を求め、挟み撃ちで使主を殺そうとした。劣勢を免れない使主は、命からがら逃げ出して大和政権に助けを求めた。そこで安閑天皇元年に大和政権は彼を助けて小杵を殺し、使主を武蔵国造にしてやったとのことだ。 考古学的には、4世紀後半から5世紀前半にかけて、南武蔵で100mを超す大型古墳が築かれているが、5世紀後半には、古墳の規模が急速に小さくなっている。同様のことが、上毛野でも起きている。一方、5世紀後葉になると、突如として北武蔵の行田市に大規模古墳が築造され始める。そこで、『日本書紀』の記載は年代が少し異なるが、笠原直使主を北武蔵の有力豪族、小杵を南武蔵の有力豪族とし、北武蔵による南武蔵勢力の制圧という実際にあった事件を反映したものと見る歴史学者もいる。 笠原直使主は現在の埼玉県鴻巣市笠原あたりにいた大豪族とされている。武蔵国造の地位に就いた後は、笠原一族がその地位を世襲したであろう。行田市を中心とする大古墳が1世紀以上にわたって彼の一族によって造営されたと想定することは可能であろう。
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帰路は、「さきたま緑道」に配置された彫刻のオブジェを観賞しながら
さきたま緑道は、安全と快適な緑の道として昭和58年(1983)に一部開通し、以後徐々に園長され平成元年(1989)の11月に全線が開通したと聞いていた。同じ歩くなら、距離は遠くなるが、この道をたどるもの悪くない。そう思って午後1時過ぎに、埼玉古墳群を後にした。 さきたま緑道には、別の楽しみもあった。平成元年に開催された「第4回国民文化祭さいたま'89」で製作された彫刻のオブジェが、緑道内に適当な間隔で置かれている。そのため、この緑道は、彫刻の小路とか彫刻プロムナードと呼ばれている。 午後になって薄雲が広がり、日差しがいくぶん弱まった。相変わらず風はないのに、緑道の並木から落葉樹の枯れ葉がヒラヒラと舞い落ちてくる。遊歩道にはそうした落ち葉が散乱し、踏みつけるたびにカサカサと乾いた音を立てる。それぞれのオブジェの前で立ち止まってデジカメで撮影していたので、JR「北鴻巣」駅に着くのに2時間近くかかってしまった。最後に、デキカメで写した彫刻のいくつかを以下に示しておこう。
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(*1)さきたま古墳群 世界遺産サポーターの会 情報掲示板より転載
(*2)平成19年9月 埼玉県・行田市 共同提案 「埼玉古墳群−古代東アジア古墳文化の終着点−」より転載
(*3)奥の山古墳発掘調査現地説明会資料より転載