橿原日記 平成19年12月5日

旧岩崎邸の二階客間を飾る日本独自の金唐紙


蓮の葉が枯れた不忍池
蓮の葉が枯れた不忍池
■師走に入ったというのに小春日を思わす陽気が昨日・今日と続いている。年の瀬を迎えて忘年会という訳でもないが、昔勤めていた会社の仲間と久しぶりに会って昼食を共にすることになった。落ち合い場所は上野駅の公園出口。

■午前11時に4人が落ち合った。上野公園は日差しが暖かく風もない。そこで、、食事の前に不忍池(しのばずのいけ)の周りを散歩し、ついでに旧岩崎邸庭園を見学していこうということになった。上野公園を抜けて、不忍池の淵に降りると、平日の朝なのに、池の周りを散策する人の数が多い。そのほとんどは年配者である。

■彼等の中には、暖かい日差しの下で、ベンチに腰掛けて新聞を読んだり、枯れた蓮の葉の間を泳ぎまわる鴨をのんびりと眺めている姿が目立つ。他人の目から見れば、我々4人だって暇つぶしに肩を並べて池の周りを散歩している年寄りに写っているにちがいない。



日本近代建築の父が設計した本格的西洋木造邸宅の岩崎家本邸

■不忍池を半周すると、前方のビルの間から木々が生い茂った小高い丘が見えてくる。緩やかな坂を登っていくと、国の重要文化財に指定されている「旧岩崎邸庭園」の洋館の前に出る。洋館は現在、外装塗装工事中で外部から遮蔽されていて、残念ながらその見事な構築を見ることができない。下の写真は、迷惑をかけている代わりとして、見学者に無料で配布している絵はがきから転写したものである。

旧岩崎邸洋館の正面(*) 旧岩崎邸洋館の東側(*)
旧岩崎邸洋館の正面(*) 旧岩崎邸洋館の東側(*)

■旧岩崎邸庭園は、不忍池や浅草の街並みを望む丘の上に位置している。この場所は、江戸時代には越後高田藩榊原氏の江戸屋敷があり、明治初期には舞鶴藩牧野氏の屋敷だったところだ。その庭園からは東に房総半島、西に富士山を遠望できたという。その後、この土地が三菱財閥の初代当主・岩崎弥太郎(1835-1885)に渡り、弥太郎はここに岩崎家の本邸を建てた。

■1896年(明治29)、岩崎弥太郎の長男で三菱財閥の三代目当主・岩崎久弥(1865-1955)は、この場所に新たな岩崎家本邸を建設する。完成当時の岩崎邸は、15000坪の敷地に20棟以上の建物があったという。その際、庭園もゆるやかな広がりをもつ和洋折衷の「芝庭」に改造された。

旧岩崎邸洋館の庭園側(*) 洋館の大階段からホールを見下ろす
旧岩崎邸洋館の庭園側(*) 洋館の大階段からホールを見下ろす

■岩崎家本邸で特に注目すべきは、岩崎家の集まりや外国人・賓客を招いてのパーティ用に建てられた洋館である。木造2階建てで、建物面積は160余坪。1階は主に接客用の部屋が複数配され、二階は私的な部屋が設けられていた。屋根は天然スレート葺きで、玄関上部に角ドームの塔屋が作られ、庭園側には大規模な2層のベランダがあった。

ジョサイア・コンドル
ジョサイア・コンドル
■この洋館は、17世紀初頭の英国のジャコビアン洋式を基調とし、ルネッサンスやイスラム風のモチーフなど複数の様式を折衷したデザインで仕上げられている。設計者は、日本近代建築の父とされている英国人ジョサイア・コンドル(Josiah Conder, 1852-1920)。彼は明治10年(1877)に日本政府の招聘を受けて来日し、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の初代教授に就任した。そして、近代日本を代表する多くの建築家を育てるとともに、本人自身も、岩崎邸の他に鹿鳴館、上野博物館、ニコライ道など多くの洋風建築を設計している。

■旧岩崎邸庭園に現存する建物は、コンドル設計の西洋木造建築の洋館の他に、やはりコンドルが設計した撞球室(ビリヤード室)と、書院造りを基調とした和館がある。和舘は岩崎家の日常生活の場で、念仏喜十の別名を持つ名棟梁の大河喜十郎の手による。その和舘には三部屋だけが現存しているが、床の間の壁絵、襖絵、板絵は近代日本画の育ての親といわれている橋本雅邦の筆と伝えられている。

和舘の内部 撞球室(ビリヤード室)
和舘の内部 撞球室(ビリヤード室)



当時の金唐革紙を忠実に復元した日本独自の金唐紙


■洋館の内部を見学していて、二階の客間で思わず息をのむほど美しい壁紙に出会った。薄く沈んだ青色の地に金色の花にも木の枝にも見える文様が実に艶やかに浮かび上がっている。一見しただけでは革製のように見えたが、実は金唐革紙(きんからかわし)といって、革に似せた和紙でできている擬革紙(ぎかくし)の一種だそうだ。

二階客室の復元された金唐紙
二階客室の復元された金唐紙
金唐革紙の製作工程
金唐革紙の製作工程
■ボランティア・ガイドの説明によると、ヨーロッパでは王侯・貴族の城館の壁や天井などに装飾革が使用された。この装飾革は革に金属箔を貼り、花・動物等の絵柄・文様をデザインし、プレスして彩色し、塗料・ワニスを塗って仕上げられてた。17世紀の後半にオランダの交易船がヨーロッパの装飾革をもたらしたが、我が国ではそれ金唐革(きんからかわ)と呼んだ。明治になって、金唐革を真似て、日本特産の和紙を使い浮凸文様を打ち出して油・漆・金属箔などで高度に装飾加工したもの作り上げ、それを「金唐革紙」と呼んだ。

■旧岩崎邸は、大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の東京大空襲の際、奇跡的に被害に遭わず生き延びた。だが、戦後GHQに接収され、洋館の部屋を飾った壁紙などは、その上にピンクのペンキが塗られてしまったそうだ。GHQから返還された後は昭和27年(1952)に国有財産とされ、昭和45年(1970)まで建物は最高裁判所の司法研修所などに使用されてきた。建築当初は美しい金唐革紙で壁を飾っていた部屋も、こうした歴史の波に揉まれてすっかり雰囲気が変わってしまった。

■旧岩崎邸は昭和36年(1961)に洋館と撞球室が、続いて昭和44年(1969)には和舘大広間と洋館東脇にある袖塀が、それそれ重要文化財に指定された。平成13年(2001)には、建物と庭園が一体として「旧岩崎邸庭園」と名づけられ、一般公開されるようになった。それを機に、二階客室の壁が当時の金唐革紙を忠実に復元したものに張り替えられた。

■現在、金唐革紙を作ることができるのは、上田 尚(うえだ たかし)氏だけだそうだ。第二次世界大戦後、金唐革紙は、高級美術打出壁紙として生まれ変り、国会議事堂など用いられたが、産業として成り立つほどの需要はなかった。そのため、一般にはその存在すらも知られることはなかった。失われようとしていた金唐革紙を「金唐紙」として現在に蘇らせたのは、上田氏である。上田氏は乏しい文献から学び、独力で研究した技法で作った紙を「金唐紙」と名づけられた。

■二階客室の隅に、金唐革紙の製作工程を示すパネルが置かれていた。HPの上田尚さんが継ぐ手法 金唐紙には、上田氏の製作工程が示されている。その内容を要約すると、次のようになる。

■先ず、手漉(てす)き和紙に錫箔(すずはく)を貼り、水分を与えたのち版木棒に巻き付けて、黒豚の毛で作ったブラシでひたすら叩く。すると、彫られた模様にしっかりと和紙が食い込み、くっきりと模様が写し取られる。模様を写しとった紙を陰干しし、二重の裏打ち紙を貼り、色漆で彩色する。その後、上からワニスを塗ると、まるで金箔を貼ったように、錫箔が黄金色に輝く。完成までにかかる時間は、60cm四方の金唐革紙で約2週間だそうだ。


(*) 絵はがきのコピー



2007/12/07作成by pancho_de_ohsei return