2007/11/17
古代の奈良盆地における水陸交通網の謎を追う


パネルディスカッションで壇上に並んだ諸先生
パネルディスカッションで壇上に並んだ諸先生

橿原文化会館で開催されたパネルディスカッション「藤原京から平城京へ」

共催事業のポスター
共催事業のポスター
■2010年は、平城遷都1300周年となる節目の年だ。そのため、奈良県ではさまざまな記念事業が計画されている。その一環として、本日の午後1時から、奈良県橿原文化会館と近鉄文化サロンが「藤原京から平城京へ」と題するパネルディスカッションを共同で開催した。

■このパネルディスカッションには「道をたどる ひと・もの・こと」というサブタイトルが付いている。そのことから、道を通じて飛鳥時代に人や物がどのように交流し、情報や文化が伝わったかに焦点を絞った議論になるだろうと、期待して出かけてきた。

■パネルディスカッションに先立つ第1部の基調講演で、京都教育大学名誉教授の和田萃(わだあつむ)氏が演壇に立たれた。氏は「大和の古道」と題して日本史上最初の本格的古代都市・藤原京の時代、あるいはそれ以前の大和の古道について概括的な話をなされた。

基調講演される和田教授
基調講演される和田教授
■第2部のパネルディスカッションでは、滋賀県立大学の菅谷文則(すがやふみのり)教授の司会で、3名のパネリストが、古代の大和における道路事情についてさまざまな観点から話題を提供された。3名のパネリストとは、奈良学研究家の青山茂氏、エッセイストの中田紀子女史、そして和田萃教授である。

■青山氏は大正13年生まれの年配者だが、毎日新聞社時代に古美術・考古学担当記者を経験されている。その後帝塚山短期大学教授に転進され、一貫して大和の歴史と文化を紹介してこられた。一方、中田女史は峠と文化のかかわりをライフワークとして研究を続けておられるユニークなエッセイストである。

■様々なテーマが話題になったが、小生が次の2点に特に興味を持った。一つは大和川の亀の瀬峡谷の当時の交通事情であり、今ひとつは奈良盆地を南北に縦貫する上ツ道・中ツ道・下ツ道の敷設目的と敷設時期である。

 亀の瀬は古代でも大和川水運の難所だったが、どのようにこの難所を通り抜けたか

亀の瀬峡谷付近のマップ
亀の瀬峡谷付近のマップ
■大和川が大和竜田(北葛城郡王寺町・生駒郡三郷町)から生駒山地を横断して大阪平野へ抜けるまでの峡谷を亀の瀬という。特に、王寺町藤井の西のはずれから柏原市峠(とうげ)地区までの部分は、両側から山が迫り、川の中にも巨岩が多く、川は淵となり滝となって流れているため、大和川水上交通の難所とされている。亀の瀬の名は、川の中に散乱する巨岩が甲羅を干している亀を思わせることに由来する。

■亀の瀬は、宿命的な地すべり地帯だといわれてきた。北側の山麓で地滑りが起きると、崩れ落ちた土砂で大和川がせき止められたり、川底が浅くなって川が滝のように流れた。当然、川船による運行はできない。奈良時代、奈良から難波へ通ずる道の一つに竜田越えがあった。竜田越えは、現在の竜田大社前から峠八幡を通って、現在の大阪府柏原市の雁多尾畑(かりんどばた)へ出るルートをいう。特に、大和川の北岸を行くコースは「竜田越え南路」とも呼ばれ地すべり地帯として知られる亀の瀬を越える道だった。

■万葉集の巻6には、石上乙麻呂卿(いそのかみのおとまろ)が土佐国に配流される時に詠まれた長歌三首と短歌が載っている。その中に次の歌がある。
●父君に 我は愛子(まなこ)ぞ 母刀自に 我は愛子ぞ 参上(まいのぼ)る 八十氏人の 手向けする 恐(かしこ)の坂に 幣奉(ぬさまつ)り 我はぞ追へる 遠き土佐道を (6-1022)

亀の瀬
亀の瀬峡谷を遠望
■和田教授によれば、この歌の中の恐(かしこ)の坂は亀の瀬越といわれる峠の集落を通る道であり、その付近は昔から繰り返される地滑りで人々に畏(おそ)れられたという。『日本書紀』の壬申紀には、恐(かしこ)の坂は畏(かしこ)の坂と表記されている。「竜田越え南路」を利用して難波から奈良へ向かうには、青谷〜堅上(かたがみ)〜雁見尾畑(かりんどうばた)〜竜田山古道里山公園〜峠八幡神社(とうげはちまん)〜立野というルートもあったようだ。

■筆者が亀の瀬峡谷に興味をもったのは、『日本書紀』に記載された外国使節の往来に関する記事による。推古天皇16年(608)6月、遣隋使節として隋に赴いた小野妹子は隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を伴って帰国した。このとき、難波津に到着した隋使たちは8月に海柘榴市(つばいち)から小墾田宮へ迎えられている。すなわち、一行は船で大和川をさかのぼり、三輪山の近くの港湾都市・海柘榴市で上陸している。

■このとき、一行はどのように亀の瀬の難所を越えたのであろうか。亀の瀬の手前で船を下りて「竜田越え南路」を通って大和に入り、ふたたび川船で大和川を遡航したと考えるのが一般的であろう。だが、雁見尾畑(かりんどうばた)を越えていく峠道は、筆者も徒歩で踏破した経験があるが、かなり厳しい坂道である。もっと簡便な方法があったのでないか、と考えていたときヒントになったのが、江戸時代に開拓された大和川水運の例である。

■大和川の水運は、慶長6年(1601)に小泉藩の領主だった片桐且元(かたぎりかつもと)が、年貢米を大坂に運搬するために亀ノ瀬の岩壁を開削して水運を開発したとされている。この水運では、王寺町の亀の瀬がターミナルだった。その亀の瀬を境に、上流と下流とで二つの水運区域をなしていた。亀の瀬から上流の大和川はあまり水深がなかったため、船底は平らで浅い魚梁船(やなぶね)が用いられた。魚梁船は長さ約15m、幅約1.5m、約1トンの荷物を積むことができた。ムシロ9枚を張って帆にしていたという。

剣先船(けんさきぶね)
■一方、亀の瀬から下流は、剣先船(けんさきぶね)が用いられた。剣先船は、江戸時代の大阪で用いられた川船の一つで、大和川や十三間川の荷物運搬船として活躍した。船の大きさは、長さ22m、幅2m、深さ0.5mほどで、船の先端部が剣のようにとがっているところから「剣先」という名前がつけられた。剣先船は大坂から亀の瀬まで積み荷を運んだ。だが、亀の瀬には銚子口という滝があったためにそれより上流に遡ることができない。そこで、剣先船を係留する浜で荷物を小揚げし魚梁船に積み替えて上流の大和まで運んだとされている。

■そうであれば、古代においても亀の瀬は大和川水運の中継地点であったはずで、上流から運ばれてきた荷物は亀の瀬の岸でいったん小揚げされ、荷物を扱う仲仕などによって下流に運ばれ、再び川船に積み替えられて難波へ運ばれたであろう。下流から運ばれてきた荷物も同じように、亀の瀬でいったん陸揚げされ、上流へ向かう川船に積み替えられたであろう。亀の瀬の滝と成って流れる急流はそれほど長くない。大和川の水運は荷物だけを運んだ訳ではない。人も情報も同じように運んだ。

亀の瀬峡谷の激流
亀の瀬峡谷の激流

■道路網がまだそれほど整備されていない古代では、河川を利用した水運が人や物、情報を運ぶ主要な手段だった。大和川やその支流には、古代の河港だったとされる地名が残っている。わが国最古の市である「三輪の海柘榴市」は、大和川上流の初瀬河畔に設けられた市であると同時に河港だった。推古天皇18年(610)10月、朝鮮半島から新羅・任那の使節が来朝したとき、彼らは大和の阿刀(あと)の館に逗留した。阿刀は現在の田原本町坂手付近とされ、大和川の支流である寺川の港がこの地にあったとされている。

 古代交通史の謎:いまだ解明されない大和三道の敷設目的と敷設時期

東四坊大路(中ツ道)
4年前の平成15年6月に発見された東四坊大路(中ツ道)の遺構

■本日のパネルディスカッションを聞きながら、平成15年(2003)の6月の出来事を思い起こしていた。その年、橿原市の教育委員会は市内出合町にある藤原京跡で、近くの店舗増築工事に伴う発掘調査を実施していた。そして、藤原京の条坊道路網の中でもひときわ重要な東四坊大路が見つかった、とマスコミに発表した。6月16日のことである。5日後の現地説明会に参加して、その巨大な道路遺構に唖然とさせられた。

現地説明会当時の光景
現地説明会当時の光景
■東四坊大路は「中ツ道」と通称される古代の幹線道路である。飛鳥時代に、奈良盆地を南北に縦断する3本の道路が築かれ、西より下ツ道、中ツ道、上ツ道と呼ばれていた。これを「大和三道」ともいう。中ツ道はその中の一本で、北はまっすぐ北上して平城京の東京極付近を通り山城の木津まで、南は天香具山の山麓を越えて飛鳥地域の中軸を通り吉野へ続いていた。

■発掘調査では、南北70メートルの長さの溝が4本見つかった。溝はそれぞれ、道路わきを流れる下水路と排水路を兼ねた側溝だった。この4本の側溝の存在は、当初は路面幅14・5mの道路が造られたが、藤原京建設の際に25m幅に拡張されたことを示している。

■現在の高速道路の一車線の幅は約3mだそうだ。中ツ道を現代の道路に例えれば、当初は5車線幅の高速道路で、後に8車線以上に拡幅されたことになる。現在の名神高速道路は、最大箇所でも6車線にすぎない。実際に縦位置から発掘跡を見下ろしてみた時、その道幅は圧倒されるような広さだった。大型のジェット機でも十分に離着陸できるのでは・・・と思った。

■中つ道と平行して奈良盆地を南北に造られた下ツ道は、藤原京内では西四坊大路と呼ばれていた。この道の路面幅は18mであることがすでに確かめられている。したがって、中ツ道の方が1.38倍も広かったことになる。もっとも、横大路の路面幅は広いところで35mもあったというから、これには及ばない。

奈良盆地の古代道路
奈良盆地の古代道路
■現在、奈良盆地を南北に縦貫する幹線道路は国道24号線と国道169号線の2本しかない。そのため、これらの道路は慢性的な渋滞を生んでいる。それなのに、今をさかのぼること1300年も昔の7世紀、この地に藤原京が置かれたころ、大和三道が奈良盆地を貫いていた。その道路幅は現在の国道より広く、しかも南北に一直線に続く直線道路だった。しかし、現在までのところ、これらの官道が何時、何のために築かれたのかよく分かっていない。


■我が国の古代の道路のイメージを聞かれれば、「山辺の道」のように、曲がりくねった幅の狭い自然発生的な道路を想像するかもしれない。だが、律令体制が整備された奈良時代に全国に張り巡らされた「駅路」は、自然発生的な道路ではなく、律令政府が設計し、その指揮のもとに敷設された官道である。駅路の特徴はまず、できる限り直線であり、そして道路幅は軍隊が隊列を組んで移動できるほど異常に広かった。宮都の近くでは24〜42m、全国的には当初は12m前後の幅だったようだ。

■「駅路」が整備される以前の飛鳥時代にも、奈良盆地には直線道路が築かれていた。正南北の方位を持つ下ツ道、中ツ道、上ツ道の大和三道であり、さらに正東西の方位を持つ「横大路」である。これらの道路のうち、下ツ道と横大路は奈良盆地における条里地割の基準線になったと考えられている。

奈良盆地の正方位計画道路以前の古道
奈良盆地の正方位計画道路以前の古道(*)
■だが、奈良盆地では、条里地割以前に斜めの方位を取る地割が施行されていたことが知られている。それを証明するものが、斜め方位の直線道路である。こうした斜向道路としては、筋違道(すじかいみち、太子道)や葛下(かどのしも)斜向道路、葛上(かどのかみ)斜向道路、巨勢(こせ)斜向道路、阿倍・山田道などがある。

■先日、奈良盆地の道路交通の変遷を扱った好著を図書館で見つけた。歴史学の中村太一氏が平成12年(2000)に出版された『日本の古代道路を探す』(平凡社新書045)である。その本の中で、中村氏は6・7世紀における奈良盆地の交通路体系の変遷を次の3段階に分けて考察されておられる。

●A期:海柘榴市衢(つばいちのちまた)を中心とする非直線道路の段階
●B期:主に飛鳥を中心とした、斜方位直線道路が施行された段階
●C期:正方位計画道路が施行された段階

A期の道路網概念図 B期の道路網概念図
A期の道路網概念図(*) B期の道路網概念図(*)

■西暦592年、推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)に遷都し、政治の中心が磐余(いわれ)から飛鳥に移った。しかしそれ以前は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の近くに発展した海柘榴市衢が奈良盆地の水陸交通の要衝だった。大和川の河港がその河岸に築かれ、奈良盆地の東の山麓を南北に縦貫する山辺の道、あるいは奈良盆地を東西に横切る横大路の前身と思われる道(プレ横大路)、あるいは厩坂(うまやさか)、桃花鳥坂(つきさか)を経て南西に延びる道が存在したことが分かっている。だが、中村氏は当時の道路はまだ非直線道路の段階(A期)だったという。

■飛鳥の地が政治の中心となると、大和の交通網は次第に飛鳥に中心を持つようになる。しかし、7世紀の初頭には、海柘榴市から飛鳥へ交通網の中心が移行する時期で、海柘榴市と飛鳥の2つに中心があった。推古16年(608)に帰国した遣隋使小野妹子は、一緒に来朝した隋使の裴世清を伴って大和川を遡り海柘榴市で上陸している。この時期、まだ外国使節を迎えるような道路はなかったためで、中村氏が言うB期というのはこの頃を指すのだろう。

■中村氏は、斜向道路の敷設をこの時期に想定しておられる。直線道路の筋違道(すじかいみち、太子道)や葛下(かどのしも)斜向道路、葛上(かどのかみ)斜向道路などが飛鳥に向かって延びている点を考慮すれば、氏の推測も首肯できる。だが、斜向道路網の成立時期については諸説がある。たとえば秋山日出男氏は5世紀から6世紀頃に求めておられる。

C期の道路網概念図(*)
C期の道路網概念図(*)
■7世紀初頭の交通史のトピックスは、推古21年(613)に難波と飛鳥京を結ぶ我が国最古の官道が開通したことだろう。『日本書紀』はその年の11月の条に、「難波より京に至る大道(だいどう)を置く」と記述している。その前提として先ず横大路を完成させ、大道は横大路をフルに利用してその西の端から竹内峠を越えて西進し、現在の堺市金岡あたりから北進して難波に至ったという。

■この大道の開通は、前記の隋使節の来朝を契機に官道として整備したものと解釈されている。隋の煬帝は大運河の開削で知られるが、大運河に沿って幅100歩(約150m)の御道が築かれていた。隋の都・大興城の城内はもちろん城外にも一直線に延びる幅広い官道が築かれていた。小野妹子を大使とする遣隋使たちは、こうした整備された交通網を目の当たりにして、中央集権国家の成立には道路網の整備が必要であると痛感し、帰国すると外国使節を受け入れるにふさわしい官道の敷設を進言したにちがいない、と筆者は推測している。

■その後、正方位計画道路として大和三道が奈良盆地を南北に縦貫する形で敷設された。この時期を中村氏はC期としておられる。『日本書紀』には、白雉4年(653)6月に百済・新羅の貢調使の入朝に関して「処々の大道を修治した」と記しているが、これは上記の大道の修理を指すのであろう。それ以外には、官道敷設に関する記述はいっさいない。

■ただし、『日本書紀』に記す西暦672年の壬申に乱では、奈良盆地での戦闘記事にすでにこの三道の名が見えている。そのため天武朝以前には完成していたことが分かっている。だが、いつ頃、何の目的で敷設されたかは不明としか言いようがない。

■南北に一直線に敷設された大和三道は、ほぼ4里(1里=531m、4里で約2.1km)の等間隔をなしている。また、藤原京は横大路・中ツ道・下ツ道を、平城京は下つ道をそれぞれ基準線として設計されていることが分かっている。奈良盆地の条里地割のほとんどは、下ツ道と横大路を基準に造成されたとされている。

■パネルディスカッションでは、この大和三道の目的と敷設時期が話題になった。一つの可能性として、斉明天皇の時代に巨大な建築物や山をも取り込んで石造の巨大施設が作られており、その材料の運搬のための道路だったのでは、と推測された。着眼点としては面白いが、斉明天皇の在位期間は655年1月から661年7月でたかだか6年半にすぎない。しかも、その時期は、韓半島で同盟国百済が滅亡し、その復興に多難な時だった。とても大和三道の敷設する余力があったとは思えない。

■また、斉明天皇は在位期間中に多武峰の頂上に両槻宮(なみつきのみや)を築いている。その工事のための石材を運ぶため、香具山の西から石上山まで運河を掘り、人民から「たわむれ心の溝」とそしられている。『日本書紀』はこうした事実を隠していない。もし彼女の治世に大和三道が敷設されたのであれば、人民は両槻宮建立以上の過酷の労働を強いられたはずであり、なんらかの記録があってしかるべきであろう。

■だが、この時代の唯一の史料である『日本書紀』は大和三道の成立時期について何も語ってくれない。古代交通史の最大の謎は、相変わらず謎のままである。

■大和三道および横大路の発掘例は、藤原京域では比較的多いが、京域以外での検出例はきわめて少ない。その中にあって、大和郡山市の稗田(ひえだ)遺跡で、路面幅16m、東側溝幅11m、西側溝幅3mの下ツ道が見つかっっている。また、幅約10m、深さ約2mの人工的な河川と橋が検出されていて、下ツ道に架かっていた橋と推定されている。同じ大和郡山市の八条町でも、下ツ道の西側側溝と考えられる溝が検出されている。

■藤原京域の下ツ道は、検出地点ごとに側溝の埋没時期が異なっているが、10世紀前半には側溝はほぼ埋没したようである。奈良盆地では、13世紀頃に河川の改修にともなう大規模な土地の改変が行われた。下ツ道の推定路線の一部は現在河川になっている。この土地改変によって、下つ道は道としての機能を半ば失ったようだ。


【参考文献】
・古代交通研究会編『日本古代道路事典』(八木書房)
・中村太一著『日本の古代道路を探す』(平凡社新書)(*)を付した図は同書からの転載
【参考】 古代の道



2007/11/25作成 by pancho_de_ohsei

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