2007/11/14
吉野町南国栖(みなみくず)に鎮座する大蔵神社(おおくらじんじゃ)浄見原神社(きよみはらじんじゃ)


関連マップ
吉野郡吉野町南国栖付近の関連地図

ようやく色づいてきた吉野川沿いに山肌

■またしても知人のA君から吉野行きの誘いがかかった。奈良県の名水百選に指定されている「不動水」をまた汲みに行きたいという。彼とは9月の初めに吉野郡川上村にある不動窟鍾乳洞に出かけた。そのとき取水してきた「不動水」で炊いたご飯が美味しく、またその水で湧かしたコーヒーの味は格別だったそうだ。

奈良県の名水「不動水」の取水場
奈良県の名水「不動水」の取水場
■そろそろ吉野も紅葉の季節を迎える頃である。彼が運転する車の車窓から紅葉した山の景色を眺めながらドライブに付き合うのも悪くない。電話口で「OK」と返事すると、午前10時に彼の車がアパートの前に来てクラクションを鳴らした。

■橿原のアパートから川上村の不洞窟までは、車を使えばそれほど遠い距離ではない。寄り道しなければ1時間半ほどで行ける。おまけに国道169号線を利用すれば、一本道で行くことができる。カーナビの世話になる必要もない。宮滝遺跡の先にある五社トンネルを抜ければ川上村である。国道169号線は吉野川の流れを眼下に見下ろす山腹に築かれており、車窓から眺める対岸の景観は抜群によい。

吉野川に架かる橋の上から見た対岸の山 不洞窟の対岸に聳える屏風岩
吉野川に架かる橋の上から見た対岸の山 不洞窟の対岸に聳える屏風岩

■ただ、残念なことに対岸の山は杉や檜が植林されていて雑木林が少ない。したがって紅葉した山肌は散発的にしか現れない。それでもA君は何カ所かで車を止めて、色づいた山をカメラで撮影した。

不洞窟の上にある喫茶店
不洞窟の上にある喫茶店
葛(くず)
葛(くず)
■不洞窟の上に喫茶店があり、不動水の取水口はその駐車場の傍にある。取水が終わって、喫茶店のテーブルでコーヒーをすすりながら一息入れていると、A君が同意を促すように切り出した。
「帰り道に寄っていきたい場所があるんだが・・・」
何処だ、と聞くと、クズだ、と答えた。
「クズ? あの吉野葛(よしのくず)のクズか?」
と、思わずトンチンカンな質問をして、彼を笑わせた。

■吉野と言えば、連鎖反応のように吉野葛の名が浮かぶほど、吉野葛は葛粉の代名詞になっている。葛は河原や野原で他の木などにからみついて繁茂しているマメ科のツル性植物だ。吉野の大峰山で修行する山伏たちが、自給自足の糧として葛の根を掘り、その葛根を精製して澱粉を得ていた。諸国から来た修験者や参拝者らが精製された澱粉を吉野の葛として各地に持ち帰ったため有名になったという。

■A君は笑いながら説明してくれた。彼が口にしたクズは、国栖、国樔または国巣と書く地名で吉野郡にある。古代では吉野川の上流に住む住民を国樔と称した。葛や藤のように、蔓(つる)を伸ばす食物が繁茂する土地に居住していたことから、国樔の呼称が生じたとされている。あながち吉野葛と関係がないこともない。かっての国樔村は昭和31年(1956)5月に吉野町に編入された。


南国栖の集落を遠望
南国栖の集落を遠望。背後の山は衣笠山

■国樔または国巣の名は、『日本書紀』および『古事記』の神武東征譚の中に出てくる。東征中に吉野の山中で、天皇は岩を押し分けて出てきた人物に出会った。その男の体には尻尾があった。「お前は何者か」と天皇が問うと、「手前は岩押分(いわおしわく)の子です」と答えたという。『日本書紀』はこれが吉野の国樔の先祖であると注記している。

■『日本書紀』の応神天皇19年の条にも、国樔人の話が出てくる。その年の10月、天皇が吉野宮に行幸したとき、国樔人が訪れ、醴酒(こざけ、一夜酒)献じて、「橿(かし)の生(ふ)に〜」という歌を献じた。そして、歌い終わると、彼らは口を叩いて笑ったという。『日本書紀』の編纂者は、国樔人が土地の産物を献じる際、今もこの歌を歌い、歌い終わって口を叩いて笑うことを、上古からの風習のようだとコメントしている。

■A君が国栖に興味を抱いたのは、どうやら和田萃教授が産経新聞に連載している「大和時空散歩」に原因があるようだ。去る10月31日には吉野・国栖のことが掲載され、関西の年配者が「まずい、うまくない」ことを「モミナイ」というが、その語源をさかのぼると古代の国樔人の言葉に行き着くことが興味深く書かれていた。

■『日本書紀』には、カエルを煮て味が良いことを、国樔人は彼らの言葉で「モミ」と言っていると記されている。その否定語が、現在でも使われている「モミナイ」あるいはそれが訛った「モムナイ」である。また、『日本書紀』はまた、国樔人が住む所は、都の東南の山を隔てた吉野川の辺りであるが、周囲は峰が峻険で谷が深く道も険しいため、なかなか来朝することがなかった、とも記している。

吉野川
浄見原神社の脇を流れる吉野川の天皇淵

■A君はそうした国樔人が住んでいた場所に興味を抱いたようだ。インターネットで調べたら、衣笠山の中腹に吉野国栖の祖神を祀る大蔵神社があるという。その場所は明治以前は神宮寺だったところで、創設が室町中期を下らぬ小さな泉水庭の跡が社殿の近くにある。標高303mの高所にある小池や流れをもつ勝れた庭園跡で、県の名勝にも指定されている。どのような庭園か見てみたい、というのがA君の希望である。

衣笠山の南斜面に鎮座する大蔵神社(おおくらじんじゃ)

■戻りの道を、A君は快調に車を飛ばした。五社トンネルの近くまで戻ったところで、三叉路を右折して国道169号線から県道262号線(国栖大滝線)に入った。今まで2車線だった道路が急に狭くなり、道は吉野川沿いの人気のない寒村を縫って続いていた。

■いずれの集落も過疎でやがて廃村になるような部落ばかりである。何カ所かそうした場所を通りぬけて、やっと前方にまともな人家の塊が見えてきた。吉野町南国栖の深山という集落である。その先をしばらく行くと南国栖の中心となる集落があった。大字南国栖は吉野川と高見川の合流地のやや上流に位置し、村の中程に吉野川に架かる橋がある。

南国栖の深山付近 大蔵神社への登り道
南国栖の深山付近 大蔵神社への登り道

■橋の近くの民家から青年が出てきたので、彼に断ってその駐車場に車を置かしてもらい、大蔵神社への道を聞いた。彼は、すぐ近くの不動妙王の碑が立っている場所から山の斜面を登る道が神社に続いていると教えてくれた。その道は舗装された林道で、軽自動車なら十分に登攀できそうな坂道だった。

林道の途中にある常夜灯 ヒノキの植林が美しい
林道の途中にある常夜灯 ヒノキの植林が美しい

■午後の1時15分に林道を登り始めた。最初の100mほどは急坂だったが、そこを過ぎると坂は比較的緩やかだ。道の両側は間伐され手入れされたヒノキの植林である。神社への参道が周囲の植林を保全するための林道を兼ねていることが、よく分かった。

■ゆっくりした歩調で歩きながら、どこで仕入れたのか、A君は大蔵神社に関する知識を披瀝してくれた。神社は衣笠山の南斜面に鎮座している旧村社で、国栖地方一円の総鎮守として祀られてきた。いつ頃創祀されたかは、不明とのことだ。

■大蔵神社は、国栖の遠祖・石穂押分命、大倉比売命(大己貴神の子「下照姫」の別名)、それに鹿葦津比売命(かしつひめのみこと)の三柱を祭神として祀っている。『大和志』などでは、この神社を「延喜式」神名帳に記載された川上鹿塩(かわかみかしお)神社に比定しているようだ。だが、式内川上鹿塩神社は吉野郡吉野町樫尾に鎮座している。いずれにしても、吉野国栖の祖神を祀っていることから、東川村と南国栖村の氏神として尊崇されてきた。

■明治初年に「神仏分離令」が出されるまで、大蔵神社は神宮寺だった。つまり、現在の社殿の近くに別当寺が建っていて僧侶たちが宮司を兼ねていた時代が長く続いた。廃仏毀釈によって廃寺となったが、庭園や広い寺屋敷の跡が現在も神社の社殿に隣接して残っている。

累々と続く石垣の跡
累々と続く石垣の跡
見えてきた大蔵神社の境内
見えてきた大蔵神社の境内
■我々は北西側の山麓から登り始めたが、神社にアクセスする道はもう一本ある。奈良交通バスの「深山」バス停近くから山腹に分け入る山道である。こちらは距離も短いが、山の南側斜面をほぼ一直線に登る急坂である。そのため、林道が整備されてからはほとんど利用されておらず、雑草で覆われて危険とのことだ。

■北の斜面から登ってきた林道は、山の尾根を越えて少し下り坂になった。風がなく、暖かい陽射しがヒノキの梢を通して降り注ぐ山道を歩くのは気持ちが良い。途中、左手の傾斜地から転げ落ちそうな巨岩の下に朽ちかけた古い墓が並んでいる箇所がいくつかあった。あるいは神宮寺だったころの関係者の墓かもしれない。

■やがて、左手の林の中に累々と積まれた石垣が見えてきた。雑草が生い茂り、何十年もすれば石垣があったことも忘れ去られると思われるが、現在はまだこの地に人間の営みがあったことを語る証拠となっている。

■やっと、林道の終点に神社の境内が見えてきた。時計を見ると、針が1時45分を指していた。およそ30分をかけて登ってきたことになる。健脚の参詣者なら20分もあれば到達できる距離である。

大蔵神社の社殿
大蔵神社の社殿

■神社の正面に立つと、赤い鳥居に続いて10段ほどの石段が拝殿に続き、その奥に本殿が覆い屋で覆われている。横に回ると、覆い屋の下の本殿を見ることができる。三軒に三軒の三軒社で、切妻造り檜皮葺きである。資料によると、本殿の各内陣には鎌倉時代の作と推定される神像が安置されていて、中央一間の座像は等身大の大きさだそうだ。

■本殿裏に「神武天皇遙拝所」と書かれた石碑が建っている。この遥拝所は、石穂押分命の子が神武天皇に供奉し、遥かに高見山を指してその付近の情勢を奏上したところ、と伝えられている。石碑を眺めていると、神前にいたA君から声がかかった。
「弘化4年て、いつ頃だ?」
見ると、鳥居の横の向かって右側の石灯籠に刻まれた字を読んでいる。東川(うかわ)若連中によって弘化4年(1847)に寄贈されたものである。向かって左側にある石灯籠は若干古く、天明6年(1786)に国栖郷から奉納されたものである。

覆い屋の下の本殿 本殿裏の「神武天皇遙拝所」を示す石柱
覆い屋の下の本殿 本殿裏の「神武天皇遙拝所」を示す石柱

神域北方の井戸
神域北方の井戸

■A君が見てみたいといっていた泉水庭の跡は、社殿の左に隣接していた。現在は、池の水も枯れ果てて落ち葉が散乱しているだけだ。しかし、日本庭園として珍しく海抜303mの高所に位置している。

■二つの小池を配し、その中に島を築き、カエデの老木やツツジの植え込みがあり、立石などをおいていたようだ。水は、神域北方の井戸から導管で引いていた。この池は、おそらく吉野川の対岸の高峯を借景として築かれていたにちがいない。池割や石組みの様式から、室町時代中期以前に作られたものと推定されている。近世に補修工事などが行われた形跡が全く認められず、吉野山中の古庭園遺跡として、県の名勝に指定されている。

県の名勝に指定されている古庭園遺跡
県の名勝に指定されている古庭園遺跡

浦島草の赤い実
浦島草の赤い実
■戻りの道すがら、ヒノキの植林の間伐されて美しい並びを愛でながら、二人は子供の頃の思い出を話し合った。二人とも北陸の寒村の出である。終戦直後の何もない時代、台風などの大風が吹いた後など、学校から戻ると、里山にでかけて落ちている杉の枯れ枝拾いをしたものだ。乾燥した杉の小枝はカマドやフロの焚き付けに最適だった。枯れ枝を束ねて持って帰ると、母親がなにがしかの小遣いをくれた。

■林道脇の崖の下に、赤い花が咲いているのをA君は目ざとく見つけた。花だと思ったが赤い実だった。草花の名前に結構詳しいA君も、さすがに何の実か分からなかった。デジカメに写真を撮って、後で調べてくれる、とのことだった。アパートに戻ると、夜になって彼からメールが入った。浦島草という有毒の草の実だそうだ。

見 学 メ モ
【所在地】 吉野郡吉野町大字南国栖小字深山
【アクセス】近鉄「上市」駅前より「湯盛温泉杉の湯」行き奈良交通バスで「南国樔」バス停まで。所要時間33分、運賃730円。(運転回数が少ないため、要事前チェック)。バス停から南へ徒歩数分で、神社に続く林道の登り口あり。

毎年旧正月14日の例祭に国栖奏(くずのそう)が奉納される浄見原神社(きよみはらじんじゃ)

■衣笠山から下りてくると、A君は駐車場を借りたお礼を言いに持ち主の家に立ち寄った。その家の奥さんとしばらく立ち話をしていた様子だったが、そのうち嬉しそうな顔をして戻ってきた。新しい情報をゲットしたとでも言いたそうな顔つきである。案の定、彼はこう聞いた。
「こんな谷間の山村に”キヨミガハラ”があるって、知っていたかい?」
「”キヨミガハラ”って、あの天武天皇の飛鳥浄御原の宮の”キヨミガハラ”のことかい?」
「そう、その”キヨミガハラ”と同じ字を書く神社が、この少し先の吉野川の川縁にあるそうだ。ついでだから、是非参拝して帰りなさいと、家の奥さんに勧められた。近くだから、行ってみよう」

■だが、A君は間違っていた。正確には”キヨミガハラ”ではなくて”キヨミハラ”だ。表記も”浄御原”ではなくて”浄見原”である。応神天皇が吉野宮に行幸したとき、国栖奏(くずのそう)の舞でもてなしたという伝承を持つ神社が吉野川の清流沿いにあることは聞いていた。だが、それが浄見原神社だとは知らなかった。近くなら、是非参拝して行きたい。

■山間の集落では、冬の日暮れは早い。まだ午後の3時過ぎだったが、西に傾きかけた太陽が対岸の山の稜線にかかろうとしていた。二人は吉野川の右岸に出て、教えられた道筋を行くと、思わずはっとするほど美しい吉野川の淵に出た。大きく湾曲した天皇淵である。

吉野川の天皇淵 国栖奏伝習所
吉野川の天皇淵 国栖奏伝習所

■道の途中に国栖奏伝習所があった。伝習所の近くに、吉野町観光課が建てた国栖奏の説明板があった。そこには、次のような趣旨の説明がなされていた。

この時期、花と戯れる蝶
この時期、花と戯れる蝶
”・・・今から約1600年前の応神天皇の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人々が来て一夜酒をつくり、歌舞をみせたのが、今に伝わる国栖奏のはじまりとされている。
さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の後を継ぐ問題がこじれて戦乱が起こった。世に言う壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子はここ吉野で兵を挙げ、天智天皇の皇子・大友皇子と対立した。戦いは一ヶ月で終わり、大海人皇子が勝って天武天皇となった。
 

この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏した。これを見て皇子はとても喜ばれて、”国栖の翁よ”と呼ばれたので、この舞を「翁舞(おきなまい)」と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月14日に天武天皇を祭るこの浄見原神社で奉納され、奈良県の無形文化財に指定されている。”

■翁舞の起源伝承にケチをつけるつもりはさらさらないが、『日本書紀』巻28(壬申紀)の記述には、壬申の乱のとき大海人皇子の一行が国栖に立ち寄った形跡はない。672年6月24日に吉野の宮を出た一行は、吉野川を下流に向かい、その日のうちに津風呂川伝いに菟田(うだ)に出ている。

浄見原神社の拝殿に続く石段
浄見原神社の拝殿に続く石段

巨岩の下に鎮座する本殿
巨岩の中に鎮座する本殿

■天皇淵の岸を進むと、やがて正面に浄見原神社の拝殿に続く石段の前にでる。石段登って拝殿に立ち、上を見上げると、切り立った岸壁の割れ目をうがって本殿が置かれている。この神社は天武天皇を祭神として祀る旧村社である。

■上記のように、この神社では旧暦正月14日の例祭に国栖奏が奉納される。当日は神饌に腹赤の魚(うぐい)やアカガエルが生きたまま供えられ、舞翁2,笛翁4,鼓翁1,謡翁5の12人が国栖奏を奉納する。筆者は見たことがないが、右手に鈴、左手に榊を持った舞翁が、朗々とした歌翁の謡や「エンエー」というかけ声にあわせて古式ゆかしく舞うという。

■国栖奏は、宮中の七節会や重要な行事に奉奏されてきた。しかし寿永(1182 - 84)頃に奉奏が中止され、国栖人の参内も取りやめになった。そのため、大海人皇子に由緒深い天皇淵に天皇社を創祀して、国栖奏を奉納し始めたとされている。

見 学 メ モ
【所在地】 吉野郡吉野町大字南国栖小字和田山
【アクセス】近鉄「上市」駅前より「湯盛温泉杉の湯」行き奈良交通バスで「南国樔」バス停まで。所要時間33分、運賃730円。(運転回数が少ないため、要事前チェック)。バス停から南国樔隧道方面へ少し戻り吉野川の川岸方面へ下る。浄見原神社まではバス停から徒歩約5分


2007/11/18作成 by pancho_de_ohsei
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