橿原日記 平成19年11月13日

 聖徳太子の現し身と言われる夢殿の救世観音像

八角円堂で知られる夢殿 夢殿の本尊・救世観音
八角円堂で知られる夢殿 夢殿の本尊・救世観音

春と秋の2回、特別開扉される夢殿本尊

法隆寺の参道入口
法隆寺の参道入口
南大門前
南大門前
南大門
南大門
西院伽藍
西院伽藍
東大門
東大門
夢殿見学路
夢殿見学路
■中学生の時修学旅行で初めて法隆寺を訪れて以来、もう何回斑鳩((いかるが)の地に足を運んだだろうか。高校時代に亀井勝一郎の『聖徳太子』を愛読し、自分なりの太子像を脳裏に描いた。それは、当時の高額紙幣に印刷された太子像とはかなり違っていた。大阪の「上八」で大学時代を過ごしたこともあって、よく法隆寺を訪れた。サラリーマン時代は東京勤めだったが、それでも法隆寺の諸仏に逢いたくなって、時折奈良まで出かけてきた。

■橿原にアパートを借りるようになってからは、飛鳥川の堤防を自転車を駆って年に2〜3回は斑鳩まで出かけている。だから、法隆寺の著名な仏像彫刻はほとんどお目にかかっている。だが、何故か救世観音の名で知られる夢殿の観音菩薩立像は、今まで直に尊顔を拝したことがない。

■この仏像は非公開とされ、秘仏として扉を閉じた厨子に納められている。礼拝のための仏像を秘仏とすることは、東アジアの仏教圏の中でも特に日本に顕著な現象であり、少なくとも奈良時代以前には特定の仏像が秘仏だったとする記録はないとされている。だが、各種史料によれば、平安時代後期の12世紀には救世観音像はすで秘仏として扱われていたようだ。

■寺伝によれば、救世観音像は聖徳太子等身の像であり、長い白布で覆われて厨子の中に安置され、数百年間、誰もこの観音像を見た者がいなかったという。その観音像が数百年ぶりに姿を現したのは 明治17年(1884)8月のことである。そのときのエピソードは半ば伝説化して今に伝わっている。

■法隆寺側の記録によれば、明治17年8月16日、東京大学教師の米国人アーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)が、弟子の岡倉覚三(後の天心)と共に古器物調査のため法隆寺を訪れた。

■彼らの来山の最大の目的は、夢殿の厨子を開扉して、住職でさえ見ることができない内部の“絶対秘仏”を調査することにあった。法隆寺の僧侶たちは、「開扉すると地震が襲い、この世が滅ぶ」と開扉に抵抗したが、フェノロサは政府の許可証を掲げて「鍵を開けて下さい!」と迫ったという。押し問答を経てようやく夢殿に入ると、僧侶達は恐怖のあまり皆逃げてしまった。「長年使用されなかった厨子の鍵が、錠前の中でカチンと音を立てた時の感激は、何時までも忘れることが出来ない」とフェノロサは語っている。

■厨子の扉を開くと、木綿の布を包帯のように幾重にもキッチリと巻きつけた背丈の高い仏像が現れた。布の長さは450mもあり、これを解きほぐすのに大変だったという。何百年もの間に布にたまった厚いほこりが立ち上り、咄嗟の出来事で中に入っていたネズミやヘビがあわてて飛び出した。 巻き付けてある最後の覆いがハラリと落ちると、穏やかに微笑んだ救世観音の比類のない彫像が眼前に姿を現した。その美しさに、立ち会ったものは驚嘆し声を失ったという。

■救世観音は、謎多き仏像である。法隆寺の東院伽藍の本尊として1千年以上にわたって祀られてきたにも関わらず、古記には、この仏像が、いつ、誰によって造仏されたのかいっさい記述していない。ようやく天平宝字5年(761)になって法隆寺の史料に「上宮王(聖徳太子)等身観世音菩薩像」とあり、聖徳太子の等身像があることが明らかになった。だが、なぜ秘仏化されたのか、その経緯を示すものも残されていない。

■現在は、秘仏・救世観音像の厨子が春と秋の2回開扉されている。春は4月11日〜5月18日、秋は10月22日〜11月22日である。したがってこの時期に法隆寺を訪れれば、誰でも厨子の中に安置された救世観音像を拝観することができる。だが、妙な巡り合わせで、筆者はこの時期に法隆寺を訪れたことがなく、したがって己の目で尊像を拝観したことがない。

■今朝、たまたま別件で法隆寺のHPにアクセスしたら、秘仏の国宝救世観音像が特別開扉中であることを知った。窓越しに空を見ると、今日も天気がよい。昨日は奈良の興福寺で秘仏を拝観したが、事のついでである。本日は午後から法隆寺に出向いて、長年の夢である救世観音像を拝観することにした。



なんとなく不気味さを感じさせる救世観音像の風貌

法隆寺の秋(*) 正岡子規の歌碑
法隆寺の秋(*) 正岡子規の歌碑

■法隆寺は西院伽藍と東院伽藍の2つのブロックからなる。西院伽藍の中門前から道を東に取り、東大門を出て広い石畳の道を進むと、東院伽藍の四脚門の前に出る。門をくぐって境内にはいると、回廊に囲まれた国宝・夢殿の美しい姿が目に飛び込んでくる。夢殿は東院伽藍の中心的な建物で、天平11年(739)に行信(ぎょうしん)僧都が聖徳太子の冥福を祈るために建立した八角円堂である。「夢殿」の名は、この付近に聖徳太子が瞑想にふけった居室があったことに因んだ名前とされている。

■東院伽藍の地下には、聖徳太子の斑鳩(いかるが)の宮の遺構が眠っている。『日本書紀』によれば、聖徳太子は推古天皇9年(601)2月に斑鳩の宮の造営に着手し、4年半後の推古天皇13年(605)10月に宮が完成すると、20年間も住み慣れた上宮(かみつみや)を離れて一族ともども斑鳩の宮に移った。そのため、当時は斑鳩の宮は上宮王院と呼ばれた。

内陣をのぞき込む参拝者
内陣をのぞき込む参拝者
屋上の露盤と宝珠
屋上の露盤と宝珠
■聖徳太子は、推古30年(622)2月22日に49才で逝去するまで17年間をこの宮で過ごした。彼の死後、斑鳩の宮は長男の山背大兄(やましろのおおえ)皇子に伝領された。それから21年後、宮は上宮王家滅亡の舞台となる。

■皇極天皇2年(643)11月、蘇我入鹿(そがのいるか)は、巨勢徳太(こせのとこだ)と土師娑婆(はじのさば)に命じて斑鳩の宮を急襲させた。山背大兄王らは数十人の側近者と防戦したが、勝算のないのを悟ると、馬の骨を寝殿に投げ込み生駒山中に逃れた。巨勢徳太は宮に焼き払い、灰の中から骨を見つける山背大兄は死んだ思い、囲いを解いて退去した

■皇子たちは5日ほど生駒山中に隠れていたが、山から出て斑鳩寺に入ると、そこで自決して果てた。『上宮聖徳法王帝説』によれば、このとき山背大兄王と子女および同母弟とその子女合わせて15人が亡くなったという。

■それからおよそ100年後の天平11年(739)、かっての上宮王院(斑鳩の宮)の地を訪れた行信僧都は、そのあまりに荒れ果てた様に涙を流し、皇太子の阿倍内親王(後の孝謙天皇)に奏上して、上宮王院を復興を図った。それが東院である。しかし、八角円堂は故人をしのぶ廟堂である。ということは、行信が意図したのは、単なる斑鳩の宮の再現ではなく、聖徳太子の御霊屋(おたまや)の建設だった。夢殿の屋上に掲げられた露盤と宝殊は、この建物が太子の廟であることを明確に示している。

■そのとき、行信が夢殿の本尊として安置したのが、救世観音像である。しかし、本尊として新しく彫像したのではなく、行信僧都が聖徳太子ゆかりの寺院から譲り受けて安置したとされている。そのため、観音像はフェノロサが東洋のモナリザと喩えたアルカイックスマイルを浮かべ、当時の止利様式の特徴を踏襲している。美術史家は7世紀も早い時期の彫像と推測し、それ故に太子の霊を祀るために制作された、あるいは太子自身であるとさえ言われている。

救世観音像(拡大)
救世観音像(拡大)
■救世観音像の写真は、法隆寺を特集したグラビア雑誌や写真集でよくお目にかかる。細身の体に両手で宝珠を持ち、顔つきが西院の釈迦三尊に似ているとされ、光背の大きな火焔はこの仏像に荘厳さを与えている。確かに、面長の頭部に杏仁様の目、特徴的な眉の線と額の格好、鼻筋の通った鼻梁、それに仰月形の口唇部で笑みを浮かべる口元など、その表情は止利様式の特徴を受け継いでいる。

■この仏像の高さは178.8cm。樟の木の一木造りである。下地は漆を塗り、金箔を押している。長期間にわたって白布を巻かれていたため保存もよく、いまなお金色燦然と当初の漆箔が輝いている。だが、大写しの救世観音像を写真を見たとき、なにか不気味さを感じた。鼻梁や口の周りの金箔が剥がれて黒ずんでいる表情を見ると、アフリカの黒人が笑っているような印象をうけて気味が悪い。己が描いてきた聖徳太子の風貌とはほど遠い。

■午後3時、夢殿の境内は大勢の学生達で埋まっていた。地方から修学旅行で法隆寺見学に来た複数の学校からの高校生である。小旗を持ってそれぞれの学級を案内してきたガイドが、一通り夢殿の歴史を説明した後、
「せっかくの機会ですから、本尊の救世観音をしっかり見ていってください」
と金切り声を張り上げながら、夢殿の石段へ導いていく。

拝観の順番を待つ学生達
拝観の順番を待つ学生達
救世観音像
デジカメでフラッシュを炊いて撮した救世観音像
■彼らの様子を見ていると、厨子の正面にあたる扉の前で立ち止まって金網越し中をのぞきこむ学生は少ない。ほとんどの学生は、中をのぞき込もうともせず、友達と雑談を交わしながら通りすぎて行く。どうやら、秘仏とされている国宝の仏像も、彼らにとっては無関心でしかないようだ。

■修学旅行の大群が過ぎ去るのを待って、正面の扉の前に立った。そして、学生達がほとんど関心を示さなかった理由が分かった。夢殿の内陣は暗く、さらに開扉された厨子の中はさらに暗く、せっかくの仏像も金網越しでは非常に見づらい。光背や宝冠はほとんど確認できず、前に置かれた香華で仏像の下部は隠れてしまっている。

■わざわざ法隆寺を訪れたのは、救世観音像の一種不気味な印象を与える風貌が、プロのカメラマンが撮影した映像だけのものかどうかを実物で確かめてみたかったためである。このような拝観の仕方では、何も確認できない。しかし、救世観音像の風貌に不気味さを感じたのは筆者一人ではないようだ。彫刻家で詩人でもあった高村光太郎も、「普通の仏とは違つて生物の感じがあり、何か化身のような気が漂っている」と記している。

■夢殿の中には、救世観音像の厨子の周囲に聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理した道詮律師の塑像(平安時代)などが安置されている。しかし、開け放された扉の金網越しからは、行信僧都像以外は確認できなかった。仏像を礼拝の対象としてではなく、拝観の対象として拝観料を取って参拝者に見学させるのであれば、寺院側はもう少し展示の仕方を工夫して貰いたいものだ。


(*)法隆寺のHPよりコピー

2007/11/16作成 by pancho_de_ohsei
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