2007/11/12
「秋風や 囲いもなしに 興福寺」(正岡子規)



 興福寺の秘仏特別公開

第59回正倉院展のチラシ
第59回正倉院展のチラシ
同上
同上
■今朝のテレビは、「関西地方に木枯らし一番が吹くかもしれない」との予報を伝えていた。ここ数日ポカポカ陽気が続いたせいで、ちょっと信じられないな−と思いながら、10時にアパートを出て奈良の興福寺に向かった。

■現在、興福寺では10月20日から11月25日の会期で「秘仏特別公開2007」と題して、毎朝の勤行が厳修されている本坊の大圓堂(だいえんどう)とその秘仏・聖観音菩薩立像を初めて公開している。さらに、国宝館でも八部衆を一堂に展示している。


■つい先頃、橿原市内の厩坂寺(うまさかでら)跡と伝えられる伝承地を訪れた(平成19年10月29日付け橿原日記参照)。厩坂寺の前身は、「大化改新」の功臣・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が病気に倒れたとき、妻の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願って、鎌足発願の釈迦丈六像を本尊として京都山科の私邸に建立した山階寺(やましなでら)とされている。

■672年、天武天皇は壬申の乱で勝利すると、都を大津京から大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に移した。それに伴って、山階寺も飛鳥に移され、その場所が大和国高市郡厩坂だったため、厩坂寺と呼ばれるようになったという。

■しかし、厩坂寺が存在した期間は短い。和銅3年(710)に都が藤原京から平城京に遷されると、鎌足の子の不比等(ふひと)は平城京左京に厩坂寺を移し、名も興福寺と改め、藤原氏の氏寺とした。それが、現在の興福寺の始まりであり、和銅3年が実質的な興福寺の創建年と見なされている。

興福寺の東金堂と五重塔
興福寺の東金堂と五重塔
■その後は、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められ、藤原氏の隆盛とともに興福寺は寺勢を拡大していった。奈良時代には南都4大寺の1つとして、平安時代には南都7大寺の1つとして栄えた。鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たらせるほど巨大な寺院勢力にのし上がった。

■興福寺は創建以来たびたび火災に見舞われている。有名なのは、平安末期の治承4年(1180)12月の平重衡(たいらのしげひら)の南都焼き討ちだ。このとき、東大寺とともに興福寺も堂塔伽藍を一宇残さず焼き尽され、経典・教本のことごとくが燃えてしまった。しかし、別当職の信円や解脱上人貞慶らの奔走で興福寺はまもなく再建された。

■戦国時代に入ると、興福寺の勢力は徐々に衰えていく。江戸時代の享保2年(1717)には、火災で北円堂、東金堂、食堂(じきどう)を除いてその他の伽藍を消失した。その後は徐徐に伽藍の復興が行われ、現在あるような建物が再建された。しかし、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、その時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。

■来る平成22年(2010)は興福寺創建1300年の節目の年にあたり、興福寺は天平伽藍の復興を目指して境内整備事業を推し進めている。その第一期整備計画として、仮堂として建てられた今までの中金堂を解体して、新らたに中金堂を再建し、それとあわせて中金堂の周囲を整備する事業を行っている。すでに中門跡や回廊跡の基壇の整備が行われ、2010年には中金堂が再建されるそうだ。

興福寺境内整備事業
天平伽藍の復興を目指して進められている興福寺境内整備事業


駅前広場の行基菩薩像
駅前広場の行基菩薩像
■筆者が奈良国立博物館や春日大社に行くとき通る道筋はいつも決まっている。近鉄奈良駅を出て行基菩薩の噴水がある広場から、東向中町のアーケード街に入る。そして、東向南町の手前で左に折れて、坂道を上り興福寺の北円堂の前に出る。後は、広大な奈良公園を散策しながら、東金堂と五重塔の間を抜けて博物館や春日大社に向かう。

■奈良公園を歩きながら、いつも感じてきた疑問があった。現在の奈良公園はかっての興福寺の境内である。普通のお寺は、築地塀で境内を囲っているが、興福寺にはそうした仕切がいっさい存在しない。俳人の正岡子規も、筆者と同じようにそうした景観に疑問を抱いたのか、それとも興味を抱いたのか、次の句を詠んでいる。
  秋風や 囲いもなしに 興福寺

■最近になって、その原因が我が国最大の仏教弾圧ともいうべき廃仏毀釈によることを知った。王政復古を成し遂げた明治新政府は、神道を国教化するために明治元年(1868)に「神仏分離令」を発布したことはよく知られている。その結果、知事によって寺院の統廃合が行われ、神仏習合の寺社は寺院か神社かの選択を余儀なくされた。この「神仏分離令」は全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は一番の打撃をこうむったとされている。

奈良公園にたむろする鹿
奈良公園にたむろする鹿
■興福寺の多くの仏具、仏像が消滅し、子院はすべて廃止され、寺領は没収された。僧侶は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて奈良公園の一部になった。その結果、興福寺は廃寺同然となり、一時は五重塔は250円、三重塔は30円で売りに出される始末だった。

■明治13年(1880)になって、興福寺の僧侶や藤原氏の関係者が、明治政府に対して連名で興福寺再興願いを提出した。行き過ぎた廃仏政策が反省され、政府は翌年ようやく興福寺の再興を許可した。しかし、境内は奈良公園のままでおくことが条件とされ、興福寺は公園の中の寺として復興することになった。これが、寺院としての仕切のない興福寺が奈良公園の中に生まれた由縁である。

 本日が最終日だった平成19年秋の北円堂国宝特別開扉

興福寺の北円堂 北円堂の内陣
興福寺の北円堂 狭い内陣に多くの見学者

■東向南町の手前からいつものように坂道を上っていくと、左手に立つ北円堂の入口に人だかりがしている。入口の門に張られたポスターを見ると、北円堂は今年の10月20日から秋の国宝特別開扉を行ってきたが、本日その最終日にあたっている。秘仏特別公開の対象にはなっていなかったが、せっかく訪れた興福寺である。見学者に混じって内陣を拝観して行くことにした。

■養老4年(720)8月3日、右大臣藤原不比等(ふじわらのふひと)が病死した。享年62歳。「大化改新」の功臣・中臣鎌足の次男として生まれ、持統天皇の時代に世に出ると、律令政治の根幹を築き、藤原氏の礎を築いた大政治家の波乱に満ちた生涯だった。不比等の一周忌に際して、元明上皇と元正天皇の両女帝が、長屋王に命じて養老5年(721)に創建させたのが北円堂である。

北円堂の内陣
北円堂の内陣(*)
■北円堂は、平城京の事実上の推進者だった不比等の霊を慰めるために、平城京を一望に見渡すことができる場所に建てられた。興福寺に現存している建物の中では、北円堂が最も古い。だが、創建当時のものではない。鎌倉時代の初めの承元2年(1208年)頃の再建された建物で、法隆寺の夢殿と同じく、平面が八角形をしている。創建時の建物は、周囲に回廊を巡らせ、単に円堂と呼ばれていた。平安時代の初めに南のほうの新しく円堂が建てられたため、これと区別するために北円堂と呼ばれるようになった。

■北円堂の境内は色づいたイチョウなどの枯れ葉が散乱していた。時折吹き付ける強い風が、枯れ葉を巻き上げて、四面の扉が開かれた内陣の中を吹き抜けていく。内陣の中央に安置されているのは、運慶の晩年の作とされる国宝の弥勒如来座像である。その左右には、脇侍の法苑林(ほうえんりん)菩薩と大妙相(だいみょうほう)菩薩の座像が置かれている。この三尊を守るように、仏壇に四方に置かれているのが、四天王立像である。平安時代初期の木心乾漆造りで、やはり国宝の指定を受けている。

国宝の無著菩薩立像(部分) 国宝の世親菩薩立像(部分)
国宝の無著菩薩立像(部分)(*) 国宝の世親菩薩立像(部分)

■この北円堂の名を有名にしているのは、おそらく弥勒如来座像の左右に置かれた無著(むちゃく)・世親(せしん)像であろう。運慶の作で、我が国肖像彫刻の中で最高傑作とされている。もちろん国宝の指定を受けている。無著と世親は5世紀ころ北インドで活躍した兄弟僧で、法相教学を確立させた名僧として知られ、菩薩とあがめられている。写実に徹した運慶のノミが、厳しい修行を乗り越えた僧侶だけがもつ品格をみごとに描ききっている。

 諸仏が居並ぶ興福寺東金堂の内陣

興福寺の東金堂を遠望
興福寺の東金堂を遠望
■興福寺の境内には、五重塔の北に東金堂が建っている。創建は神亀3年(726)とされている。聖武天皇が伯母の元正太上天皇の病気平癒を祈願して作らせた薬師三尊を安置する堂として建立したという。治承4年(1180)の南都焼き討ちで、この金堂も本尊もろとみ焼失してしまった。建物はその後再建されたが、その金堂に安置する本尊がなかった。そこで、文治3年(1187)興福寺の僧兵たちは思い切った手段に出た。当時荒廃していた山田寺の講堂に安置されていた薬師三尊像に目をつけ、これを強奪してきて東金堂の本尊に据えた。有名な話である。

薬師如来仏頭
薬師如来仏頭
■その後、応永18年(1411)の雷火で東金堂は五重塔とともに再びに焼け落ちた。現在の建物は応永22年(1415)に、天平時代の規模と形式に準じて再建された室町時代の建築である。応永18年の雷火による火災で、本尊の胴体が失われ、頭部だけ残った。昭和12年(1937)になって、東金堂の修理中にこの仏頭が須弥座の下から発見され、当時大きく新聞などで報道された。現在、この仏頭は薬師如来仏頭として、国宝館に展示されている。





■室町時代までは、東金堂と五重塔は回廊で囲まれていたとのことだ。東金堂は聖武天皇、五重塔は光明皇后によって創建されたこととして、夫婦和合の聖域として興福寺の中では特別な位置を占めていたという。東金堂の内陣は今回の特別公開の対象にはなっていないが、今まで拝観したことがない。ついでなので、諸仏の尊顔を拝することにした。

東金堂の内陣 本尊の薬師如来座像
東金堂の内陣(*) 本尊の薬師如来座像(*)

■内陣には、黄金に輝く本尊の薬師如来座像を中央に、その座右に脇侍の日光・月光菩薩の立像が配されている。薬師如来もその脇侍も重要文化財の指定を受けているが、薬師三尊として同時期に制作されたものではない。上述のように、山田寺から強奪してきた本尊は応永18年(1411)の火事で焼失し、現在の本尊は室町時代の応永22年(1415)に鋳造されたものである。ところが、日光・月光菩薩立像の制作時期は白鳳時代で、文治3年(1187)に本尊とともに山田寺から移されたと推測されている。

■その他に、鎌倉時代初期の作品とされる文殊菩薩座像や維摩居士座像、十二神将立像、さらには平安時代初期の四天王立像も安置されている。いずれも国宝である。だが、何故だかこれらの仏像の前に三段の長い祭壇が置かれ、諸仏の下側が見えないのが残念だ。

 またしても相まみえた天平文化の至宝・阿修羅立像

■東金堂の北に位置する国宝館は、昭和34年(1959)に建立された比較的新しい建物である。かってこの場所には興福寺の旧食堂や細殿が建っていたが、興福寺の宝物を収蔵し、一般に公開する目的でこの国宝館が建立された。興福寺に伝わる国宝や重要文化財の優品がここで展示公開されている。

八部衆像の一つ阿修羅像
八部衆像の一つ阿修羅像(*)
■筆者も今までに10回以上は国宝館を訪れているが、天平文化を代表すると評価が高い国宝・八部衆像の一つ阿修羅像の前にくると、いつも足が釘付けにされて動けなくなる。三面六臂(ぴ)の阿修羅像は裸の上半身に条帛(じょうはく)と天衣(てんね)をかけて、胸飾りや臂釧や腕臂を付け、下半身に裳(も)をまとっている。

■八部衆とは、仏教が流布する以前のインド古来の異教の神だったが、釈迦に帰依して護法神となったものである。蛇を頭に巻くもの、鳥頭や象頭をかぶったものなど、いずれも異様な形をしている。法華経、金光明最勝王経などにその名が言及されているが、興福寺では沙羯羅(さから)、鳩槃茶(くばんだ)、乾闥婆(けんだだつば)、阿修羅(あしゅら)、迦楼羅(かるら)、緊那羅(きんなら)、畢婆迦羅(ひばから)、五部浄(ごぶじょう)を八部衆と呼んでいる。

■阿修羅も、もとはインド古来の異教の神で,怒りや争い,戦いなどが好きな鬼神だったが、釈迦に帰依して八部衆の一人になったとされている。仏典には「阿修羅、身は三面六臂にして青黒色、忿怒裸形相」とあるが、興福寺の阿修羅像はそうした仏典のイメージからほど遠い。

阿修羅像
阿修羅像(ぶぶん)(*)
■天平6年(734)に制作されたとされるこの像は、カニのような6本の腕も体躯も異常に細く、とても護法神には見えない。現代流に言えば、さしずめ拒食症を患っている少年のようだ。3つの顔も鬼神の憤怒の形相ではなく、いずれも眉根を少し寄せて何事かに思い悩んでいる少年のようだ。

■特に、両手を合掌印に結び、一点を見据えて何かを必死で祈っているような正面の顔が良い。何よりも端正である。すこし横に回らないとよく見えないが、左顔も憂いを含んでいて端正である。右顔は小さく唇を噛んで何かを睨み付けているような顔相をしている。

■八部衆像は、天平6年(734)に創建された西金堂の本尊・釈迦如来座像の周囲に安置されていたそうだ。西金堂が享保2年(1717)に焼失したとき、奇跡に救出され、現在は国宝館に展示されている。普段は4躯しか展示されていないが、今回の特別公開では8躯が一列に硝子ケースの中に並べられている。

フェンスに張られた八部衆像のポスター
フェンスに張られた八部衆像のポスター

■その硝子ケースに額を押しつけるようにして、熱心に阿修羅立像を魅入っている少女がいた。この像の正面の顔のみずみずしい美しさと真摯なまなざしに、すっかりトリコになったようだ。あるいはこの少女も、これから思春期を迎えて阿修羅の像のような青年を求め続けることになるのでは、といささか心配になった。





今回初めて公開された本坊の「大圓堂」の秘仏・聖観音菩薩立像

大圓堂の入口
大圓堂の入口
■興福寺の境内には、東金堂の東側に本坊と呼ばれる築地塀に囲まれた一画がある。その本坊の北西隅に、明治39年(1906)に旧大乗院内から移築した大圓堂(だいえんどう)と呼ばれる持仏堂があり、木造の聖観音菩薩立像(鎌倉時代、重文)が安置されていて、毎朝の勤行が行われている。そのため、大圓堂は長い間非公開とされてきたが、本尊の聖観音菩薩立像とともに今回初公開されている。

■大圓堂の入口をくぐって東室北庭に足を踏み入れて驚いた。庭のいたるところに、褐色の土人形がお面を持って立っている。彫刻家で東京芸術大学大学院教授の藪内佐斗司(やぶうちさとし)氏の作品だそうだ。これらの土人形は興福童子で、藪内氏は今回の興福寺の特別公開に連動して「興福童子の秋祭り」と題する展覧会をこの庭で同時開催することにしたという。

「興福童子の秋祭り」のポスター
「興福童子の秋祭り」のポスター
■言われてみれば、「藪内佐斗司の世界in興福寺〜興福童子の秋祭り〜」というポスターをあちこちで見かけた。格好の被写体になる興福童子にデジカメを向けると、庭園内にいたアルバイトの警備員から「写真撮影は禁止されています」と声がかかった。何故?と聞き返すと、これらの人形は教授がこれから売り出す商品なのだそうだ。場違いな場所に場違いなものを並べて宣伝するとはずいぶん商魂たくましい大学教授がいたものだ、と半ばあきれた。

■木造の聖観音菩薩立像は大圓堂の奥に安置されていて、それを庭先から拝観することになる。だが、蓮華座に立ち、左手を曲げて未開敷蓮華(みかいふれんげ)を持ち、右手をまっすぐ垂れている立像は、高さが87センチである。

■アルバイトの女子学生の解説では、この仏像は頭上に華やかな宝冠と化仏をつけ、体には瓔珞(ようらく)を着け、腰をわずかに左にひねり、右足を踏み出している。しかし、庭先から見ることができる造形はそこまで詳しいことが分からない。造形だけを確認するのであれば、図録に写真を載せるだけでよい。

秘仏・聖観音菩薩立像
秘仏・聖観音菩薩立像(*)
■秘仏を公開することの意味は何なのだろうか、と少し考えてみた。そもそも仏像とは本来万人が礼拝できる対象として作られたものではなかったか。礼拝のための仏像を扉を閉じた厨子などに納め秘仏とすることは、東アジアの仏教圏の中でも特に日本に顕著な現象のようだ。少なくとも奈良時代以前には特定の仏像が秘仏であるとする記録は知られていない。

■個人的な念持仏ならいざ知らず、少なくとも寺院の本尊であれば、誰にでもアクセスできて然るべきものだったはずだ。特定の僧侶だけしか礼拝できない、あるいは寺の専有物として一般大衆のアクセスを認めないのであれば、そのこと自体が釈迦の願いを根本から踏みにじっていると言われてもしかたがない。

■仏像を秘仏として扱うことは、要するに仏教寺院という閉鎖された特殊空間が生み出した悪弊であろう。それとも、一般大衆から秘匿することで、あたかも霊験あらたかな存在のように見せかけたいのだろうか。秘仏化された仏像を特別公開することは、単なる拝観料稼ぎの一手段にすぎないように思われる。少なくとも筆者は、仏像とは信者が語り合えるほどの距離で黙って対峙し、さまざまな心の迷いを聞いて貰える存在だと思っている。


(*)図録『興福寺』から転写


2007/11/13作成 by pancho_de_ohsei
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