|
2007/11/09
八尾の秋の風物詩とされる常光寺の大イチョウ
知人の一風変わった依頼を受けて八尾を訪れる
■今週の初めのことだ。珍しく卓上の電話機が鳴った。受話器を取ると、いつもアッシー役を買ってくれているA君からの呼出しである。開口一番、彼はこう聞いてきた。
「八尾の常光寺を知っているか?」
「じょうこうじ?」
「そう、近鉄八尾駅近くの、臨済宗南禅寺派の寺だ。山号を初日山という。本尊に地蔵菩薩を
祀っているので、地元では"八尾地蔵堂"という名で知られているらしい」
「いいや、何も知らないが、その八尾地蔵堂がどうした?」
「ここしばらくちょっと忙しいので、君に頼みたいことがある」
そう言って、彼はなんとも奇妙な依頼をして来た。常光寺の境内にある大イチョウがどれくらい色づいているか見てきて欲しいというのだ。
 |
| 近鉄八尾駅 |
 |
| ペントモール2番街 |
 |
| 本町筋商店街「ファミリーロード」 |
■話を聞いていくと、新聞のコラムで常光寺の境内にある樹齢600年のイチョウのことを最近読んだそうだ。それ以来、このイチョウが気になって仕方がないらしい。住職の話だと、八尾の秋の風物詩とされているイチョウの木で、11月も末ごろには葉が黄金色に染まり、ものすごくきれいに色づくらしい。
■今年は夏が猛暑だったので紅葉が全国的に遅れている。近くの民家の庭のイチョウも、まだ緑葉が色づいていない。それを言うと、
「それでも構わない、現在の状態が知りたい」
一度言い出したら意外と頑固なのが彼の性格だ。それを承知しているから、2つ返事で彼の依頼を引き受け、写真を撮って送ってやることにした。
■実をいうと、八尾で探訪してみたい場所が他にあり、時間ができたらそこを訪れる予定でいた。常光寺はついでに立ち寄ればすむことである。
■本日の午前11時過ぎ、近鉄八尾駅の改札を出た。常光寺までのルートはすでに地図で確認してある。近鉄八尾駅の西口から距離にしておよそ450m、徒歩7分ほどの所に位置している。道筋も簡単である。
■駅の西口を出て交差点を渡ると、線路下にペントモール2番街のアーケードが続いている。アーケードを次の交差点まで歩き、左折してガードをくぐると、天井に「ファミリーロード」の看板をかかげた別のアーケード街がある。本町筋商店街である。この付近は常光寺の門前市として発展したところだ。常光寺の参道は、商店街の中程で天井部が切れた所の右手にある。
 |
| 河内街道の標識 |
■近鉄電車のガードを抜けると、ファミリーロードに入る手前に「河内街道」の標識が立っている。この付近にかって河内街道の旧道が通っていたことを示す標識である。。
■河内街道とは、現在のJR八尾駅の東から北上して常光寺の門前を通り、萱振(かやふり)・若江を経て枚方(ひらかた)で京街道と合流する道だった。東高野街道とともに、河内平野を縦断する数少ない街道の一つとされてきた。天正9年(1581)、イエズス会の巡察師ヴァリニャーニは、信長に謁見するために堺から河内街道を通って上洛した。
■享和元年(1801)に出版された『河内名所図絵』には、常光寺の門前市が紹介されているという。その門前市を受け継ぐ本町筋商店街を歩いていくと、中程で、アーケードの天井が切れる。右手を見ると、「八尾地蔵尊 常光寺」の看板を掲げた狭い路地があり、その奥に常光寺の山門が建っている。
 |
 |
| 常光寺の参道 |
常光寺の山門 |
河内音頭の発祥の地、常光寺
■初日山常光寺は、現在は臨済宗南禅寺派の寺であるが、寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基(ぎょうき、668-749)が創建した寺と伝えられ、当初は「新堂寺」と称していた。弘仁年間(810-824)に、参議の小野篁(おののたかむら、802〜852)が地蔵菩薩を本尊として奉納した。そのことから、毎年、地蔵盆に念仏踊りが開催されるようになった。
■ちなみに、小野篁は聖徳太子の時代に遣隋使を勤めた小野妹子(おののいもこ)の子孫である。自分自身も承和の遣唐使で副使に任ぜられた。しかし正使の藤原常嗣(ふじわらのつねつぐ)とのいさかいから、病気と称して乗船を拒否し、さらに朝廷を批判する詩を作した。そのため、嵯峨上皇の逆鱗に触れて隠岐に流された。
■小野篁の文才は「天下無双」と伝えられている。その才能を惜しんで、結局、1年2ヶ月という短期間で罪を許され政界に復帰した。彼が地蔵菩薩を彫ったのは、隠岐に配流されていた時だったと伝えられている。夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたなど、とかく逸話や伝説が多い人物である。
 |
| 常光寺の本堂 |
 |
本堂前に並べられた、ネパールから 寄贈されたマニ車 |
■栄枯盛衰は世の習い。古刹常光寺も例外ではない。南北朝時代、北朝方の地頭・土屋宗道が常光寺の近くにあった八尾城に立て籠もったため、南朝方に攻められ城と一緒に寺も焼き払われてしまった。寺の再建に手を貸したのは地元出身の又五郎大夫藤原盛継という人物だった。藤原盛継は商人の出だったが、地蔵菩薩に深く帰依し、その功徳によって疫病から救われた。そのため、盛継は至徳2年(1385)に復興に着手し、翌年常光寺地蔵堂を興した。その際、従来の新堂寺は本堂の南に移建されたという。
■再建にあたっては、室町幕府の第三代将軍・足利義満が大いに尽力したという。本堂再建のため義満がは造営用の木材を寄進したとされている。塔が完成した年には、義満自らが常光寺に参詣して造営料米を寄進し、「初日山」「常光寺」の扁額を揮毫している。縁起によれば、応永2年(1395)に楼門、同4年に鐘が造立され、境内の周囲には堀溝が巡らされ再建は完了した。だが、せっかく再建された堂宇も、永正7年(1510)には大地震のため、ことごとく倒壊してしまった。そのため、翌年から大勧請を行なって再度復興しなければならなかった。
■慶長20年(1615)の大阪夏の陣では、金地院崇伝の抱え寺として保護されたが、当寺付近も戦場となり、徳川方の藤堂高虎(とうどう たかとら)が豊臣方と激しい戦いを繰り広げた。戦いに勝利した高虎は常光寺の本堂の北にある住職の居間(方丈)の縁側に敵方の首級を並べて「首実験」をしたという。その縁板は後に方丈の西廊下の天井として貼り替えられた。 おびただしい血痕がついていたため、今も「常光寺の血天井」として残されている。
 |
| 山門に掲げられた扁額 |
 |
| 河内最古之音頭発祥地の碑 |
■山門を通って境内に一歩足を踏み入れると、幼い幼稚園児たちの甲高い声が飛び交っていた。遠足を兼ねて遊びにきたのであろう。楽しそうに昼食の準備をしている。
■振り返ると、山門の脇に"塩ジイ"こと元文部大臣・塩川正十郎氏の揮毫で「河内最古之音頭発祥地」と書かれた新しい碑が建っていた。八尾は「河内音頭」発祥の地とされているが、特に常光寺で伝えられている 「流し節正調河内音頭」 はその原型とされ、平成8年(1996)には「日本の音風景100選」に選ばれている。
■上記のように、室町幕府の第三代将軍・足利義満は常光寺再建に尽力し、本堂造営のための木材を寄進した。その材木を京から淀川、大和川を経て運搬した際、指揮者が音頭をとり、運搬者は掛け声をかけた、これが流し調の「木遣り音頭」となったのが「流し節正調河内音頭(八尾の流し)」の原初だとされている。しかし、他にも色々な説があり、実際のところは、よく解っていないようだ。
 |
| 地蔵盆会の夜の盆踊り |
■毎年8月23日、24日の両日、常光寺では地蔵盆会が催され、夜には盛大な盆踊りが行われる。この八尾地蔵の盆踊りをもとに伝わる音頭が、中河内地域の河内音頭で、ゆったりとした流し調で俊徳丸やお染久松などの物語を詠みつづけて行く形式からきているものが多い(流し節正調河内音頭は流し節正調河内音頭 からダウンロードして聞くことができる)。
■常光寺では、毎年4月に大般若会がおごそかに執り行われる。本尊地蔵菩薩の宝前で多数の僧衆の集会によって大般若経の転読が行われ、その後お練りの供養がある。
■A君に色づきの様子を見てきて欲しいと頼まれた大イチョウは、本堂の前の境内ではなく、庫裏の庭に生えていた。八尾の秋の風物詩と新聞に紹介されたこのイチョウは、樹齢600年と推定されている。したがって、又五郎大夫藤原盛継によって再建された常光寺の歴史を、現代までずーっと見守り続けて来たことになる。だが、天空に向かって大きく枝を延ばしている木は、まだ緑葉のままだ。デジカメで巨木の幹を撮影しようと庫裏の庭に入っら飼い犬に吼えられ、住職の奥さんとおぼしき女性が顔を出した。
 |
 |
| 庫裏の庭に聳える大イチョウ |
ライトアップされる大イチョウ |
■彼女との立ち話では、今年は例年よりもかなり色づき始める時期が遅れているとのことだ。おそらく見頃は12月に入ってからと予想され、12月3日から12日まで、夜は10時までライトアップするという。彼女に言われて初めて、庫裏の門にライトアップの様子を示す写真が貼られているのに気づいた。
物部氏の祖神・宇摩志麻治命を祀ってきた八尾神社
■大阪平野の東部に位置する八尾市は、河内低地に形成された三角州地帯に立地している。宝永元年(1704)に大和川が現在の河道に付け替えられる以前は、大和川は北流して八尾の市域に入り、長瀬川・平野川・玉串川などに分流していた。これらの諸流のうち、大和川の本流は長瀬川だったと考えられ、川幅が200〜300mもある大河だったが、天井川だったので度々洪水を引き起こした。 そのことが、大和川付け替えの理由だった。
■古代、大和川の分流が流れる河内低地部は、大田園の穀倉地帯として多くの氏族が盤踞していた。そして、この地域の豊かな生産力を背景に台頭してきたのが、古代の雄族・物部氏だったとされている。6世紀頃、現在の八尾市西部の平地部では、物部氏の勢力が強かった。天理の石上神宮を奉斎していることからも分かる通り、物部氏は軍事氏族である。軍事を持って大和朝廷に仕えていた雄族である。
 |
| 八尾神社へ向かう路地 |
■河内を本拠地とする物部氏が、軍事氏族として機能するために必要な要諦は武器の調達が常時できることだったはずだ。そのため、弓や矢、馬具といった武器制作集団を配下に置き、近隣に配置して、支族に管理させてきた。その名残が鞍作や弓削といった地名として現在も残っている。
■ところで、「八尾」という地名の由来は何か。通説では、尾先が八枚に分かれた鶯の名所であった事から地名となったと言われている。だが、別の説もある。八尾は”矢尾”、”矢生”などとも書かれ、物部氏の一族で矢作りに従事した「矢作部(やはぎべ)」が居住していたことから”ヤオ”という地名が起こったというものである。
■筆者としては、後者の説を支持したい。現に、八尾市南本町6丁目には、矢作連(やはぎのむらじ)が祖神として経津主命(ふつぬしのみこと)を祀った「矢作神社」が鎮座している。
■地図で確認すると、「ファミリーロード」のアーケード街をはさんで、常光寺の反対側に八尾神社が表示されている。本日は矢作神社を探訪する目的で出てきたが、八尾神社と聞いてはそのまま見過ごすわけには行かない。アーケード街から狭い路地を入っていくと、すぐの所に八尾神社があった。
 |
 |
| 路地裏に鎮座する八尾神社 |
鳥居に掲げられた扁額 |
■八尾神社は、明治41年(1908)に現在の社名に改められる前は、栗栖(くるす)神社と称し、祭神は宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を祀っていた。この付近は、物部氏の一族である栗栖氏が盤踞していた土地で、祭神の宇摩志麻治命は、代々大連(おおむらじ)として活躍した古代の名門・物部氏の祖神である。
■栗栖氏も自分たちの士族の祖神として、宇摩志麻治命を祀っていたのであろう。今でこそ、商店街の路地裏で建物に囲まれて小さくなっているが、これでもれっきとした式内神社である。貞観4年(862)には、従五位下に叙せられている。
 |
 |
| 八尾神社の社殿 |
八尾神社の拝殿 |
矢作連(の祖神を祀った矢作神社
■矢作神社は、八尾市南本町6丁目10番地に鎮座している。八尾駅前のバスの系統図で調べると付近を通るバスの便は無いようだ。仕方なく駅前交番に飛び込んで神社までの道筋を教えて貰った。
「歩きなら20分はかかりますよ」
と、若いお巡りが親切にも教えてくれた。
 |
| 矢作神社の鳥居 |
■彼が教えてくれた道順はいたって単純明快だ。交番前から広い道を近鉄のガードをくぐって一直線に南へ進むと、府道5号線とのT字路交差点にぶつかる。そこを右折するとすぐの所に次の信号がある「南本町」交差点がある。この交差点で左折して、後はファミリーマートの前の一方通行の道をどこまでも歩いて行けば、神社に到達する、という。その通りに歩いたら、きっかり20分で住宅地の中にある矢作神社の前に出た。
■一方通行の道路に面した石の鳥居をくぐると、両脇に民家が並ぶが、参道脇に植えられた樹木がまだ若いせいか、参道がずいぶん広く、明るい。神域の入口に楠木と大きさを競うように一本の大イチョウが聳えていた。こちらも樹齢600年と推定される大樹で、その曲がりくねった蟠根(ばんこん)は数坪にも及ぶという。見上げると、ところどころに乳房状の垂下物がある。昔からこの部分の薄皮を剥いで煎じて飲むと、乳房の病がなおり、乳汁が豊かになるという言い伝えがあるそうだ。説明書きによれば、この大イチョウは八尾市文化会館大ホールの緞帳(どんちょう)の図柄に用いられている。
 |
 |
| 樹齢600年の大イチョウ |
大イチョウの乳房 |
 |
| 昭和63年に立て替えられた矢作神社の社殿 |
■境内には、ワラとカヤで造られた茅輪(ちのわ)が置いてある。それをくぐって、社殿に近づくと、建物は思いの外新しい。昭和63年(1988)に立て替えられたためだ。当地は、元は物部氏の傍系一族である矢作連(やはぎのむらじ)の屋敷跡であったとされている。神社は矢作連の氏神である経津主命(ふつぬしのみこと)を主祭神として祀る。その他に、住吉三神、品陀別気命、八重事代主の合祀している。
■経津主命は記紀神話の中では有名な神である。国譲り神話の中で、素戔鳴尊(すさのをのみこと)の子の大国主命(おおくにぬしのみこと)が治めていた葦原中国(あしはらなかつくに)を平定するために推薦されたのが、経津主命とされている。武甕槌命(たけみかづちのみこと)と共に出雲の国、稲佐の浜に天降り、大国主命と事代主命(ことしろぬしのみこと)と交渉して葦原中国の平定を成し遂げた。
 |
 |
| 弁慶の七つ石の一つ |
今では文字が判読不能の経碑 |
■この神社は延喜式神名帳に記されている式内社で、鳥居には「矢作神社」の扁額を掲げている。だが、鳥居の後ろにある2基の常夜灯にも「八幡宮」と刻まれているように、別宮八幡とも称されている。その理由は、11世紀に石清水八幡宮の掃部別宮(八尾掃部別宮)となり、江戸時代には石清水八幡宮の掃部奉仕をしてきたためである。
■境内には、何カ所かに「弁慶の七ツ石」と称される巨石が点在している。宮司さんの話では、おそらく昔の社殿に使われていた礎石かなにかだろう、とのことだ。社務所の近くには、経碑が建っている。今ではほとんど判読できなくなったが、慶長14年(1609)の銘が刻まれているそうだ。当時は神仏混淆の時代で、僧侶が写経した経巻をこの場所に埋め、目印に碑を置いたのだろう。なお、この神社には境内から出土したとされる「三角縁神獣鏡」が伝わっており、八尾市の指定文化財となっている。
■飛鳥時代、現在の八尾市一帯は物部氏の勢力圏下にあり、その武具を製造する集団が居たとされている。物部本宗家は西暦587年の蘇我−物部戦争で敗れて滅亡したが、物部氏の傍系氏族とされる弓削氏、来栖氏、矢作連などは引き続きこの一帯で勢力を維持したようだ。
■本日は訪れる時間がなかったが、八尾市には弓削神社がある。付近に勢力を保持していた弓削氏が氏神を祀った神社である。弓削氏から出た道鏡は、奈良時代の後半に実質的な最高権力者の地位まで登り詰めている。その道鏡は、当地に由義宮(ゆぎのみや)を築いた。しかし、彼の失脚とともに歴史に埋もれてしまい、その遺構は現在まで見つかっていない。八尾市八尾木北5丁目にある由義神社がその跡地ではないかと言われている。物部氏の趨勢を調べだしたら、八尾は奥が深いことを痛感させられる。また日を改めて訪れることになるだろう。
2007/11/10作成 by pancho_de_ohsei
|