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2007/10/31
加茂岩倉遺跡出土の銅鐸は、メードイン唐古か!?
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| 唐古・鍵考古学ミュージアム |
■田原本町の青垣生涯学習センター内には、平成16年11月にオープンした唐古・鍵考古学ミュージアムがある。田原本の考古資料、特に日本を代表する弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡の出土品の展示を目的として設立された博物館である。
■ミュージアムは、周囲を田園に囲まれた大和盆地のほぼ中央に位置している。ヤマトタケルは、”大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 大和しうるはし ”と詠んだとされているが、ミュージアムの駐車場に立てば、青い垣根のように連なる山々に囲まれた大和は本当に美しいことを実感させられる。
■その唐古・鍵考古学ミュージアムで平成19年度の秋季企画展「ヤマト王権はいかにして始まったか〜弥生の王都 唐古・鍵〜」が開催されている。弥生時代が終わって古墳時代が始まると、唐古・鍵遺跡から東南約6キロの地点に纒向遺跡が出現する。纒向遺跡は後のヤマト王権の誕生の地とされていることから、唐古・鍵遺跡との関わりに以前から興味を抱いていた。そのため、秋晴れの晴天に恵まれた本日、秋季企画展の見学に出かけてきた。
銅鐸の失敗作の破片を分析して判明した青銅の成分比
■この企画展に興味を抱いた理由はもう一つある。田原本町の教育委員会は去る10月18日、興味深い記者発表をした。唐古・鍵遺跡から出土した銅鐸片の成分分析を奈良文化財研究所に依頼していたところ、その分析結果が明らかになった。銅鐸は銅とスズ(すず)と鉛の合金でできた青銅製品だが、分析した銅鐸片の成分比は銅92.75%、スズが2.28%、鉛が3.35%だったことが判明した。スズの量が従来の銅鐸の成分分析に比べて極端に少ない。
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| 分析成分に使われた銅鐸片 |
■唐古・鍵遺跡はまことに不思議な遺跡である。遺跡の東南部に存在した集落から銅鐸の鋳型などが集中して出土し、弥生時代の銅鐸製造の中枢施設がここにあったと見られている。しかも、製造方法に進化が見られ、当初は石製の鋳型を使っていたが、やがて土製の鋳型を用いるようになった。鋳造時のガス抜きを容易にする工夫が考案されたためとされている。
■そのくせ、現在までのところ唐古・鍵遺跡からは、銅鐸の完成品が1個も出土していない。出土したのは、鋳造に失敗した銅鐸の破片だけである。今回の成分分析に用いられたのも、平成12年(2000)の発掘調査で東南部の工房跡から出土した銅鐸片である。この縦7cm、横6cm、厚さ7〜9mを測る銅鐸片は、弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ)鋳造された銅鐸のものと推測されている。しかし、厚さが通常の銅鐸より倍以上も厚い。銅がうまく溶けなかったため鋳造の際にうまく回りきらなかった部分のようだ。
■出土した銅鐸は、破片と言えども文化財である。文化財を傷つけるわけにはいかない。そこで従来の銅鐸の分析では、形の変化や大きさに着目した非破壊での研究が中心だった。。成分を分析するとしても、本体を破壊しないよう蛍光エックス線を照射する方法が主流だった。しかし、この方法では表面についたサビや汚れで誤差がでるという難点があった。
■だが、今回の分析では、銅鐸片の表面を傷つけないよう裏面の一部を三角形に薄く切り取り、最新の分析機器で金属組織の観察や材料などを調べた。こうした分析調査は、実は画期的なことである。援用された最新技術は、高周波誘導結合プラズマ(ICP)法だった。
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| 特別展示された分析資料 |
分析した切断片の拡大写真 |
■ICPは英語のInductively Coupled Plasmaの頭文字をとったものであり、ICP法は発光分光分析法の一つとされている。分析試料にプラズマのエネルギーを外部から与えると、含有されている成分元素(原子)が励起される。その励起された原子が低いエネルギー準位に戻るとき発光線(スペクトル線)が放出する。ICPは光子の波長に相当するその時の発光線を測定する方法で、発光線の位置から成分元素の種類を判定し、その強度から各元素の含有量を求めことができる。こうして分析した成分の構成比は上記の通りだったという。
成分分析の結果が明らかにした2つの事実
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銅鐸博物館のエントランスに 置かれた日本最大の銅鐸 (高さ134.7p、複製) |
■銅鐸はもともと楽器だったものが、祭祀具に転じたとされている青銅製品である。銅とスズと鉛の合金で作られており、スズは銅鐸の硬度や光沢の調整に使われたとされている。弥生時代中期頃製造されていた銅鐸では、スズの比率は5%から20%程度であり、製造時点の色は黄金色や白銀に輝いていた。
■また、スズの成分比率が高いと、楽器としての音色もよい。そのため、鐘のように打ち鳴らす「聞く銅鐸」が主流だった。ところが、弥生時代後期になると、銅鐸は祭祀具として大型化していき、銅の比率が高くなって赤銅色になり、軟質で音色も鈍くなる。また、多彩な文様や図柄が鋳られて「見る銅鐸」に変わっていったとされている。
■奈文研が行なった銅鐸片の成分分析は、2つの意外な事実を明らかにした。弥生時代中期に製造された銅鐸のかけらにしては、スズの比率が2.83%と極めて低かった。逆に言えば、それだけ銅の比率が高く、現在の10円硬貨のように、赤銅色の色合いを帯びていた。
■このことは、時代が下るに従って銅鐸は楽器から祭祀具へ、あるいは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変遷したという従来の理解に疑問を呈することになった。唐古・鍵遺跡の銅鐸工房では、弥生中期の時点で銅鐸の形に応じてスズの比率を変え、色や音に変化を持たせていた可能性を指摘する声もある。
■今回の銅鐸成分分析は、もう一つの興味深い事実も明らかにした。奈文研が過去に測定した加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸のうち、釣り手(鈕、ちゅう)の外側に縁(ふち)が施された「外縁付鈕(がいえんつきちゅう)2式」と呼ばれる紀元前2〜1世紀の銅鐸9個とよく似た比率のスズやその他の成分を含んでいた、というのである。
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| 加茂岩倉遺跡の銅鐸出土状況 |
■加茂岩倉遺跡とは、平成8年10月に島根県加茂町(現・雲南市)の農道工事中に発見された遺跡である。丘陵斜面から39個を数える全国最多の銅鐸が出土したことで知られる。近くの荒神谷遺跡でも銅剣358本と共に銅鐸6個か出土しており、弥生時代の出雲は最大の銅鐸所有地域だったことが判明した。そのため、「出雲王国」の存在を指摘する説もある。
■奈良の唐古・鍵遺跡と島根の加茂岩倉遺跡は約300キロも離れている。にもかかわらず、両遺跡から出土した銅鐸の成分が類似しているという。そのことは、何を意味するのか。単なる偶然か、それとも弥生時代に両遺跡間ですでに交流があった証しなのか。気の早いマスコミは、10月19日付けの朝刊で、加茂岩倉遺跡の銅鐸は「メードイン唐古」の可能性があると報じている(産経新聞)。
■唐古・鍵遺跡は銅鐸の鋳造センターであり、ここで作られた銅鐸が各地にもたらされたと考えられるというのである。そう考えることで、全国を掌握したとされる邪馬台国が誕生する紀元3世紀よりはるか以前に、日本列島に広域交流ネットワークの存在を想定することができる。それはそれで、古代のロマンを一層掻きたててくれる。
■だが、北九州でもいくつかの銅鐸の鋳型が発見されている。昭和55年(1980)には佐賀県鳥栖(とす)市の安永田遺跡から、翌々年には福岡市赤穂ノ浦遺跡から、石製の銅鐸の鋳型が発見された。平成3年(1991)には、魏志倭人伝が伝える「奴国」の青銅器工房跡とされる福岡県春日市須玖(すぐ)・坂本遺跡から銅鏡の鋳型や銅鐸の鋳型が出土している。この工房は2世紀半ばごろのものと推察されている。
■同様に、平成3年から4年にかけて発掘された佐賀県鳥栖(とす)市本行(ほんぎょう)遺跡でも2世紀半ばのものと思われる銅鐸の鋳型の破片5点が出土している。しかもその中の1点の文様は、島根県の斐川町荒神谷遺跡でまとまって出土した銅鐸の文様と共通するという。弥生時代の国内最大の環濠集落跡で知られる吉野ヶ里遺跡からも、平成10年11月に銅鐸が出土している。
■昭和59年(1984)7月に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本という大量の銅剣がまとまって出土し、世間を驚かせた。翌年には、同じIS記から銅鐸6個、銅鉾16本が見つかっている。これらの青銅器は2世紀半ばのものである。つまり、近畿地方で銅鐸が広まる直前の時代のものである。
■これら一連の発掘によって、従来の弥生時代を「銅剣・銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」に区分する学説は成り立たなくなった。銅鐸の製造・供給地点は畿内に特定することはできなくなったためである。それどころか、銅鐸はまず北九州で作られはじめ、出雲に伝わり大型で優美なものに改良されたのち、近畿地方に入ったとする説すら唱えられるようになってきた。
■その説に従えば、北九州では銅鐸を用いた祭は普及せず銅鐸の製造は廃れたが、その製造方法が北九州から出雲へ、さらに出雲から近畿地方に伝わって、近畿地方では銅鐸を用いた祭祀が大流行したことになる。荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の発見は、北九州から出雲を経て近畿地方へ伝わった銅鐸の流れを明らかにしたものだ。産経新聞の見出しとは逆に、加茂岩倉遺跡の銅鐸は「メードイン唐古」ではなく、近畿地方で流行することになる銅鐸の源流だったのかもしれない。
■奈文研が実施した成分分析は、非常に重要な基礎的なデータを提供したと言える。しかし、これだけで当時の生産や流通の実態まで想定するのは、いささか時期尚早である。さらに多くの試料を集めて同じ分析を行い、地域間の異同を明らかにすることが先決であろう。
■ところで、銅鐸の説明をしていただいたガイドさんから、基本的な疑問を投げかけられた。原料の銅を、当時の弥生人はどのように手に入れていたと思うか聞かれた。鉄については、魏志倭人伝などから、朝鮮半島南部で採掘された鉄を交易で入手していたと推定できるが、国内での産銅については何も知らなかった。
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| 和同開珎 |
■日本で銅が使われはじめたのは紀元前300年頃(弥生時代)からと言われている。当時は北九州を中心に銅剣・銅鉾・銅鏡など青銅器文明が栄え、その後、東日本に向けて広まっていったが、原料となる銅は、当初はやはり鉄と同様に朝鮮半島との交易で入手していたのだろう。だが、小規模な自然銅の鉱脈は世界各地に分布している。弥生時代に露天掘りなどで銅を採掘したことはなかったのだろうか。
■文献上で確認できる銅の産出記事は、文武2年(698)まで待たなければならない。この年、因幡国(鳥取県)から銅鉱を朝廷に献じたと伝えられている。また慶雲5年(708)に、武蔵国秩父郡から和銅の献上があったという記述である。いわゆる秩父銅の発見である。この銅を用いて貨幣(和同開珎)がつくられ、年号も和銅と改められたことは有名である。
■古墳時代に築造された各地の古墳からは、多くの銅鏡が発掘されている。その量の多さは、当時すでに国内で銅が産出していたことを予想させている。古墳時代に先行する弥生時代に、銅の国産がすでに始まっていたのではなかろうか。
2007/11/01作成 by pancho_de_ohsei
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