橿原日記 平成19年10月29日

橿原市石川町界隈の旧跡を巡る


橿原市石川町界隈
橿原市石川町界隈
■京都教育大学の和田萃(わだあつむ)名誉教授は現在、『大和時空散歩』というコラムを毎週水曜日の産経新聞に連載しておられる。教授は2003年に岩波書店から『飛鳥 −歴史と風土を歩く』という新書を上梓された。文献史学者としてのその懇切丁寧な記述を一読して以来、すっかり教授のファンになってしまった。最近は同教授が出席されるシンポジウムや講演会によく参加している。もちろん『大和時空散歩』も欠かさず目を通している。

■『大和時空散歩』の最近の記事で、厩坂寺跡(うまさかでらあと)の伝承地が橿原市の石川町にあることを教えられた。橿原に来て大抵の旧蹟や遺跡は訪れたつもりだが、厩坂寺跡がどこにあったか今まで知らずに過ごしてきた。伝承地は「丈六」交差点に近いとのことだ。

■「丈六」交差点は明日香に行く時よく通るが、その近くに伝承地があるとは意外だった。早速コラムに添付された地図をたよりに、愛用のチャリンコで厩坂寺跡伝承地を実見しに出かけてきた。ついでに、石川町界隈の旧蹟も久しぶりで巡ってみた。



周囲のアパートやマンションに囲まれた厩坂寺(うまさかでら)伝承地

■「丈六」という地名は珍しい。仏像の大きさを表すのによく「丈六の仏像」と表現されることから、仏教関連の施設が付近にあっただろうとは、容易に想像できた。その仏教関連施設はどうやら厩坂寺で、丈六の仏像を安置した所だったようだ。

近鉄「橿原神宮前」駅の東改札口
近鉄「橿原神宮前」駅の東改札口
■「丈六」交差点で、近鉄「橿原神宮前」駅から東に向かう阿倍山田道と南北に走る国道169号線が交わる。和田教授によれば、国道169号線が橿原市の小房町から丈六交差点を経て見瀬町に到る部分は、古代の「下ツ道」を踏襲しているそうだ。しかし、現在の阿倍山田道は鎌倉時代以降に築かれた道で、古代の阿倍山田道は現在の道路より80mほど南を東西に走っていたとのことだ。

■厩坂(うまさか)という地名は、現在の橿原市大軽町付近の古い地名である。その由来について、『日本書紀』の応神天皇15年8月の記事に、「百済の王が阿直伎(あちき)という者を使者として牡馬と牝馬それぞれ1頭を献上してきた。そこで、これら2頭の馬を軽の坂上の厩(うまや)で飼育させ、阿直伎に管理させた」とある。そのため、付近の坂を厩坂と呼ぶようになったという。

「丈六」交差点: 橿原神宮前」阿倍山田道を東に望む 「丈六」交差点:国道169号線の見瀬方面を望む
「丈六」交差点: 阿倍山田道を東に望む 「丈六」交差点:国道169号線の見瀬方面を望む


■その厩坂にあった厩坂寺とは、大化改新の功臣・中臣鎌足(なかとみのかまたり)に関わる寺である。669年、鎌足が病に倒れたとき、妻の鏡王女(かがみのおおきみ)は、夫の病気平癒を願って、鎌足発願の釈迦丈六像を本尊として京都山科の私邸に「山階寺」を建てたとされている。

■その後、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇が大和の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都を開くと、山科寺は飛鳥に移された。その場所が大和国高市郡厩坂だったため、厩坂寺と呼ばれた。710年に都が藤原京から平城京に遷ると、鎌足の子の不比等(ふひと)は平城京左京に厩坂寺を移し、名も興福寺と改めた。つまり、厩坂寺は藤原氏の氏寺だった興福寺の前身なのだ。

■平城遷都によって、藤原京やその近辺にあった薬師寺や大官大寺、飛鳥寺などの大寺院が新都に移されたことはよく知られている。これらの著名な寺の旧所在地も礎石や塔跡などの発掘によって確認されている。だが、栄耀栄華を誇った藤原氏の旧氏寺の所在地は、何故か現在まで確認されていない。


厩坂寺跡伝承地とされる土壇
厩坂寺跡伝承地とされる土壇

■だが、和田教授は「丈六」交差点を渡って東へ50mほど行った付近で北側(左手)を見たとき、住宅の間に見え隠れする土壇のようなものがある付近を、厩坂寺跡の有力な候補地とされた。平井病院の建物の裏側にあたり、しかも周囲にアパートやマンションが建ち並んで、阿倍山田道を普通に歩くと見過ごしてしまうような場所だが、クリの巨木が何本か生えており、一見しただけでは古墳の跡のようにも見える。

厩坂寺跡伝承地(南→北) 厩坂寺跡伝承地(東→西)
厩坂寺跡伝承地(南→北) 厩坂寺跡伝承地(東→西)

■この土壇のような土地は、畝傍中学の西側にあたる。この付近には「ウラン坊」という小字が存在し、7世紀後半に建立された寺院の跡があった。寺院跡はウラン坊遺跡と名付けられたが、未調査のまま壊滅してしまった。しかし、以前に付近から古瓦が出土したことがある。出土した瓦は天智または天武朝のものだったため、厩坂寺の跡ではないかと指摘されている。和田教授もこうした指摘に賛同されておられるようだ。教授の記憶では、30年ほど前は「ウラン坊」一帯は水田で、礎石が一個残っていたそうだ。

生い茂ったクリの木
生い茂ったクリの木
■アパートの駐車場の奥まで入りこんで、この土壇にアクセスする道はないか探したが見あたらない。周囲は田んぼと民家に囲まれて道らしいものは見あたらない。仕方なく刈り入れの終わった田んぼのイネ株を踏みながらなんとか土壇にたどり着いた。そこには、数本のクリの巨木が生い茂り、根本は雑草が刈り取られているだけだった。どこにも厩坂寺跡であることを示す標識も案内板も見あたらない。

■近くの道路で立ち話をしている地元の婦人たちに聞いてみた。クリの木が生い茂る場所は個人所有の土地だが、誰もそこに古代寺院が建っていたという話は聞いたことがないという。

■地図には、この場所が「厩坂宮跡」と表示されている。厩坂宮(うまさかのみや)とは、第34代舒明天皇が伊予温泉への行幸から戻った640年4月から10月までの半年間滞在した宮居である。 その年の10月に百済宮(くだらのみや)が完成し、そちらに遷っている。

■おそらく厩坂宮は百済宮が完成するまでの仮の宮居だったのだろう。わずか半年間の宮だったことを考えれば、それほど大がかりな宮殿が建立されていたとも思えない。30年後の壬申の乱の頃には建物はほとんど朽ちていたのかもしれない。そうであれば、その跡地に厩坂寺が移ってきた可能性は否定できない。



孝元天皇陵が突き出た石川池の中にある境界

剣池嶋上陵の周りの石川池の中程に建てられたコンクリート製の杭
孝元天皇陵とその周りの石川池の中程に建てられたコンクリート製の杭

■「丈六」交差点から阿倍山田道を東へ徒歩6分、約400mほど行った所に別の交差点があり、右手前方に大きな堤が見える。石川池の堤である。その石川池に黒々と影を落としているのが、第8代孝元天皇を埋葬したとされている剣池嶋上陵(つるぎのいけしまのうえのみささぎ)である。一見したところ、石川池は孝元天皇陵の周濠のようにも見える。

■だが、石川池は古墳の周濠ではない。人工的に作られた潅漑用の溜め池である。しかも、以前は「石川池」ではなく「剣池(つるぎのいけ)と呼ばれていた。剣池の名が史書に登場するのは古い。『日本書紀』には「応神天皇11年の冬10月、剣池(つるぎのいけ)、軽池(かるいけ)、鹿垣池(かのかきのいけ)、厩坂池(うまさかのいけ)を作る」とある。

孝元天皇陵の入口
孝元天皇陵の入口
■応神天皇が在位した実年代は確定されていないが、現在の歴史書では5世紀初頭前後の天皇とされている。鹿垣池の所在地は未詳だが、これら4つの池は現在の橿原市の大軽町から石川町付近にかけて、農業用水を確保するために掘削された人工の池だったようだ。そうした大規模な土木工事が可能になった背景には、朝鮮半島の戦乱を避けて列島に移り住んだ多くの渡来人が携えてきた技術があった。

■ところで、石川池に関して、以前から2つの疑問を持っていた。一つは孝元天皇陵の淵に沿うよう池の中程に並べられたコンクリート製の杭の存在である。今一つは「剣池」から「石川池」に呼称が変えられた理由である。和田教授の『大和時空散歩』はこれらの疑問を一気に解決してくれた。

■教授によれば、剣池と石川池は同一の池を指すが、厳密には異なるとのことだ。剣池の名の由来は、池の底に剣が埋まっていたことによる。飛鳥時代にはこの池に蓮が広がっていた。『日本書紀』は舒明天皇7年(635)の7月、一本の茎に二つの花を咲かせている蓮が剣池で見つかったと伝えている。

蓮の花
蓮の花
■皇極天皇3年(644)6月にも、剣池で一本の茎に二つの花を咲かせている蓮が見つかった。蘇我蝦夷(そがのえみし)は勝手に推量して、「これは蘇我氏が栄える前兆である」と言い、金泥でその絵を描いて飛鳥寺の丈六の仏に供えたという。

■明治になって、剣池嶋上陵が現在の場所に治定されたとき、その丘の周囲の剣池も周濠として宮内庁の管轄に置かれた。ところが、明治29年(1896)に農業用水を確保するために地元で水利組合が結成され、剣池を拡張することになった。拡張工事は明治33年(1900)に完成したが、その際宮内庁管轄の剣池との境界を示すために、コンクリート製の杭が打ち込まれた。それが、池の水が減少する冬場に水面に顔をだす杭である。

孝元天皇陵の遙拝所
孝元天皇陵の遙拝所
■新しく拡張された部分は地元の地名をとって石川池と呼ぶことにした。だが、現実には剣池と石川池を区分することは難しい。そのため、最近では地図でも剣池を含めて石川池と表示されるようになったとのことだ。


■孝元天皇陵の入口は石川池の南東角にある。宮内庁か管轄する陵墓は、大抵、陵の標識とその近くに鳥居が建って遙拝所となっているが、ここは違う。標識の前から神社の参道のような砂利道が丘の頂上に向かって続いている。石段を登り右手に折れると、そこに遙拝所がある。

■戦後の歴史教育では、皇統譜の初代・神武天皇とそれに続く八代の天皇は、記紀編纂時に我が国の紀元を古く見せるために架上された天皇、すなわち架空の天皇であると教えてきた。第8代とされる孝元天皇は欠史八代の天皇の一人であり、筆者世代には、実在しなかった天皇という意識が強い。

■徳川幕府は、勤王思想の高まりをかわす目的で、幕末の文久年間に天皇陵の大修復を行っている。その際、平安時代の10世紀の初めに作られた『延喜式』の記述に従って、天皇陵を治定した。『延喜式』は記紀の記載を正しいと受け継いだだけである。孝元天皇が実在の天皇でなかったのなら、彼を埋葬した墓など存在したはずはない。

■実際、この地に天皇陵など存在しなかった。存在したのは中山塚1〜3号墳と呼ばれる円墳が2基と前方後円墳が1基あっただけである。だが、徳川幕府はこれらの古墳を抱き合わせて孝元天皇陵として修理した。ずいぶんと無茶なことをしたものだが、宮内庁は現在も孝元天皇陵として管理している。



石川精舎の跡に建つとされている本明寺(ほんみょうじ)

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石川精舎の跡に建つ浄土宗本明寺(ほんみょうじ)
裏側から見た本明寺
裏側から見た本明寺
■石川池の東南に建つ畝傍東小学校の前の畑のなかに、浄土宗の「法明寺」と呼ばれる寺がある。寺と言っても草堂が一つ建つだけの寺であるが、正面の柱に小さな説明板が打ち付けてある。今では変色してほとんど読めないが、その板には次のように書かれていた。

■"石川精舎。今本明寺と称す。敏達天皇十三年(584)、蘇我の馬子、百済より貢するところの仏像を請い受け、己が石川の宅に於いてこれを安置す。仏法の初まりは茲より作れりという。"

■どうやらこの寺には、仏教伝来の頃に蘇我馬子が建立した石川精舎の跡を襲うた場所で法灯を受け継いでいるという自負があるようだ。付近の発掘調査では、飛鳥時代の大規模な整地とその上部に掘られた石組の暗渠溝及び溝一条、掘立柱建物一棟、池状遺溝が見つかっている。さらに、隣接地の調査では、大量の瓦を含んだ整地土、焼土坑・鋳型・フイゴの送風口など鋳造関連遺溝などが見つかっている。

■だが、石川精舎の堂塔の所在はまだ不明のままで、この地域の地下に眠っていると思われている。法明寺近辺からは古瓦が出土していないことから、 石川精舎の所在を他の場所に求める説もある。しかし、当時の蘇我馬子の働きを見ると、石川精舎はやはりこの付近に存在したような気がする。



第15代応神天皇が宮居を営んだ橿原市大軽町

応神天皇軽嶋豊明宮址の碑が建つ春日神社
応神天皇軽嶋豊明宮址の碑が建つ春日神社

■河内王朝論者によれば、第15代応神天皇は河内王朝の創始者とされている。確かに、河内の古市墳群にある誉田御廟山古墳(伝応神陵)や和泉の百舌鳥古墳群にある大仙陵古墳(伝仁徳陵)など巨大な前方後円墳が、大阪平野に現存している。記紀には、15代応神は難波の大隅宮に、16代仁徳は難波の高津宮に、18代反正は丹比(大阪府羽曳野)柴垣に、それぞれ都を置いたと伝えている。その意味では、河内王朝時代に大阪平野に強大な政治権力の拠点があったことは十分納得できる。

■しかし、応神天皇が都を置いたのは、難波の大隅宮だけではない。記紀は現在の橿原市大軽町にも軽嶋豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)を置いたことを伝えている。さらに、『古事記』は「品陀和気命、軽嶋の明宮に坐しまして、天の下を治らしめしき」と記す。『日本書紀』も「応神41年春2月、天皇明宮に崩りましぬ」と記す。こうした記述を見る限り、なぜ河内王朝論が成り立つのか不思議だ。

本明寺の境内から春日神社を望む 応神天皇軽嶋豊明宮址の碑
本明寺の境内から春日神社を望む 応神天皇軽嶋豊明宮址の碑

■応神天皇の軽嶋豊明宮址とされる場所が、本明寺の背後から望むことができる。谷を挟んで西側の丘陵に鎮守の森が見える。大軽町の春日神社である。『大和志』以来、この春日神社付近に軽嶋豊明宮があったとされ、神社の片隅に「軽嶋豊明宮址の碑」が建っている。

宮址の碑の横にある万葉歌碑
宮址の碑の横にある万葉歌碑
■その碑の横に万葉歌碑が置かれている。刻まれているいるのは、 作者不詳の次の歌である。揮毫(きごう)は奈良女子大学名誉教授・小清水卓二教授である。
●天(あま)飛ぶや 軽(かる)の社(やしろ)の 斎槻(いはひつき) 幾世まであらむ 隠妻(こもりづま)そも(巻11−2656)
【大意】軽の社の槻(=ケヤキ)のように、いつまで人目を憚(はばか)っている妻なのであろうか。

■春日神社から集落の中の坂道を少し南に下ると、目の前に広い空間が広がる。そこに長々と横たわるのは、全長310mの前方後円墳の巨大な姿だ。奈良県では最大、全国でも第6位にランクされる見瀬丸山古墳である。墳丘の大部分が五條野町に位置しているために、最近では「五条野丸山古墳」という呼び名が一般化してきている。不思議なことに、古墳時代後期に築造されたこの大古墳の被葬者がまだ特定されていない。

見瀬丸山古墳
見瀬丸山古墳



2007/10/29作成by pancho_de_ohsei return