今年の経供養で奉納された四曲の舞楽四天王寺の経供養は、日本にお経が伝来したことを記念して行われる法要で、如法写経会で書かれた写経と舞楽が奉納されると聞いていた。四天王寺で配布された「経供養」の式次第でも、「摂津名所図絵」の中の四天王寺法莚略記を引用して、経供養について次のように説明している。
そして、古来この法事は非公開であって、舞楽も衆人の目にふれなかったので、そのことから大阪の方言の「椽の下の舞」ということばがはじまった”と付け加えている。 ところで、この「椽(たるき)の下の舞」が「縁(えん)の下の舞」という別名でかなり流布しているようだ。「縁(えん)の下の舞」は、無駄骨折りとか、蔭でやっている人目に立たぬ善行を意味する表現で、上方で行われた「いろはたとえ」の中にあるとのことだ。そして、その語源は、四天王寺の経供養で法要の舞楽が衆人の眼につかないところで執り行われたことから、人目に付かない縁の下と結びついたらしい。 だが、「椽」と「縁」とは字体は似ているが意味は異なる。「椽」は屋根を支えるために棟から軒にわたす材木、すなわち垂木のことである。「縁」は布や飾りなどのわきに垂れたはしや、家の端に出たえんがわのように物のへりのことだ。経供養は太子殿の庭前で執り行われる行事であり、その場所は太子殿の縁の下ではなく、太子殿の屋根の下と見るべきであろう。 経供養では、式次第の節目ごとに4つの舞楽が奉納される。供養は装束に身を固めた楽人たちが隊列を組んで聖霊院の庭に入場する道行から始まる。その後に入道場−伽陀−集会乱声−鳳輦出御−献茶の儀と続いて、最初の舞楽「振鉾(えんぶ)」が奉納される。
次いで、両舎利登高座−諷誦文−願文と続き、二番目の舞楽「陪臚(ばいろ)」が舞われる。その後、唄匿−散華−大行道と供養が進んだ後、三番目の舞楽「延喜楽(えんぎらく)」が奉納される。さらに、讃−梵音−錫杖−両舎利降高座と続いて入調に入り、最後の舞楽「蘇莫者(そまくしゃ)」が奉納される。最後は鳳輦入御−還列と続いて、この経供養が終わる。 参考までに、経供養で演じられた4つの舞楽の概要を以下に示しておこう。なお、経供養の参列者(見学者)のためにテントが張られ椅子が用意されていたが、舞台の正面は経堂すなわち北側である。したがって、参列者は舞台の後ろの席で舞を見学することになり、ほとんど舞人の後姿しか見られないというもどかしさを感じた。 振鉾(えんぶ)「振鉾」と書いて”えんぶ”と読ませる舞は、襲(かさね)装束に鉾(ほこ)を持った舞人が左右から一人ずつ登場し、伴奏に合わせて鉾を上下左右に打ち振る。タイトルはどうやらその仕草から来ているようだ。最後は左右の舞人が同時に舞台に登って舞う。これを「合わせ鉾」という。このように、全部で三度舞うことを「振鉾三節(えんぶさんせつ)」という。
この振鉾は、天下平定を志した中国の武王(周王朝の創始者)が、商郊の牧野で天神地祇を祀り、その魂を鎮め事の成就を祈った故事に由来するという。そのため、道場の悪霊邪気を鎮める舞として、舞楽の冒頭に必ずこの舞が行われる。 陪臚(ばいろ)剣と楯鉾を持って四人の舞人が舞う陪臚は、天平年間に林邑(ヴェトナム)から伝わったとされている。舞は「破」と「急」の2部で構成されていて、剣と楯をもって切り結ぶ舞が「破」の部分である。一方、鉾を持ってこれを振りながら並んで退場する部分が、「急」の部分だそうだ。
延喜楽(えんぎらく)緑系統の平舞装束を着けて舞う延喜楽は、高麗系の舞を真似て我が国で制作された右方(うほう)の舞である。制作されたのは醍醐天皇の延喜8年(908)、作曲者は藤原忠房、舞の考案者は式部卿の敦実親王とされている。舞人は片肩袒で舞う慶賀の曲として知られている。
蘇莫者(そまくしゃ)この楽曲の由来にはいろんな説があるようだ。四天王寺では次の説をとっている。すなわち、聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬の黒駒に乗って往還されたが、大和川の亀の瀬で愛用の洞簫(どうしょう、中国古代の尺八)を馬上で吹奏したとき、一匹の老いた猿(実は信貴山の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。そこで太子は天王寺の楽人に命じてこの舞楽を作らせたという。
この舞の最初に、太子を表す服装に冠を戴いた横笛の奏者が舞台横に立って演奏する。その横笛は太子が愛用したと伝えられる四天王寺所蔵の「京不見御笛(きょうみずのおふえ)で、奏者はこの笛を借りて吹くのが慣例だそうだ。 ついでながら、蘇莫者は四天王寺独特の舞楽として、古くから天王寺楽所の楽家の秘舞として伝承されてきたとのことだ。 |