橿原日記 平成19年10月22日

四天王寺の経供養(別名、椽の下の舞)を見学する


四天王寺境内案内図(部分)
四天王寺境内案内図(部分)
太子伝殿前殿
太子殿前殿とその左奥の見学席
天王寺で毎年執り行われる舞楽法要は次の三つである。

聖霊会(しょうりょうえ)舞楽大法要
4月22日午後1時から、六時堂前石舞台で執り行われる舞楽法要。聖徳太子の命日(本来は旧暦2月22日)に太子の聖霊を慰めるために行なう。
篝(かかり)の舞楽
8月4日午後7時から、伽藍内の講堂前で篝火(かがりび)を燃やして、平安絵巻を再現する舞楽で、広く一般に公開されている。
経供養(きょうくよう)
10月22日午後1時から、太子殿(正式には「聖霊院(しょうりょういん)」という)西庭で執り行われる法要で、中国から我が国にお経が伝来したことを記念して行われる。如法写経会(にょほうしゃきょうえ) で書かれた写経と舞楽が奉納される。昔、この舞楽は非公開であったため「椽の下の舞」と呼ばれていた古来、この法事は非公開で舞楽も衆人の目にも触れずに密かに執り行われたため、別名を「椽の下の舞」という。

ずれの法要も、天王寺楽人の伝統を引き継いだ「雅亮会」(がりょうかい)の協力によって執り行われる古式ゆかしい舞楽を伴う。

れら3つの舞楽法要のうち、聖霊会舞楽大法は今年の4月22日に見学に出かけた。残念なことに法要が始まる直前から雨になり、法要は石舞台から六時堂に移されたため見学できなかった。篝の舞楽は昨年8月4日、夜空に煌々と月がさえ渡る下で堪能することができた。そして,今日である。「椽の下の舞」とはどのように執り行われるのか興味を抱きながら、いささか風邪気味の体をむち打って出かけてきた。



今年の経供養で奉納された四曲の舞楽

天王寺の経供養は、日本にお経が伝来したことを記念して行われる法要で、如法写経会で書かれた写経と舞楽が奉納されると聞いていた。四天王寺で配布された「経供養」の式次第でも、「摂津名所図絵」の中の四天王寺法莚略記を引用して、経供養について次のように説明している。

太子殿の西庭に設けられた舞台
太子殿の西庭に設けられた舞台
天王寺法莚略記には、「三月二日、未刻経堂経供養(中略) この日に震旦国(=中国)より経論わたりし日なれば毎年経供養あり。秋野坊経巻を守護して伶人楽を奏し、経堂、太子堂の行道あるなり。太子堂西の庭にて舞楽ある。これを俗に椽の下の舞という」とあり、もとは旧三月二日に行われたようだ。

して、古来この法事は非公開であって、舞楽も衆人の目にふれなかったので、そのことから大阪の方言の「椽の下の舞」ということばがはじまった”と付け加えている。

ころで、この「椽(たるき)の下の舞」が「縁(えん)の下の舞」という別名でかなり流布しているようだ。「縁(えん)の下の舞」は、無駄骨折りとか、蔭でやっている人目に立たぬ善行を意味する表現で、上方で行われた「いろはたとえ」の中にあるとのことだ。そして、その語源は、四天王寺の経供養で法要の舞楽が衆人の眼につかないところで執り行われたことから、人目に付かない縁の下と結びついたらしい。

が、「椽」と「縁」とは字体は似ているが意味は異なる。「椽」は屋根を支えるために棟から軒にわたす材木、すなわち垂木のことである。「縁」は布や飾りなどのわきに垂れたはしや、家の端に出たえんがわのように物のへりのことだ。経供養は太子殿の庭前で執り行われる行事であり、その場所は太子殿の縁の下ではなく、太子殿の屋根の下と見るべきであろう。


供養では、式次第の節目ごとに4つの舞楽が奉納される。供養は装束に身を固めた楽人たちが隊列を組んで聖霊院の庭に入場する道行から始まる。その後に入道場−伽陀−集会乱声−鳳輦出御−献茶の儀と続いて、最初の舞楽「振鉾(えんぶ)」が奉納される。

道行 入道場
道行 入道場

いで、両舎利登高座−諷誦文−願文と続き、二番目の舞楽「陪臚(ばいろ)」が舞われる。その後、唄匿−散華−大行道と供養が進んだ後、三番目の舞楽「延喜楽(えんぎらく)」が奉納される。さらに、讃−梵音−錫杖−両舎利降高座と続いて入調に入り、最後の舞楽「蘇莫者(そまくしゃ)」が奉納される。最後は鳳輦入御−還列と続いて、この経供養が終わる。

考までに、経供養で演じられた4つの舞楽の概要を以下に示しておこう。なお、経供養の参列者(見学者)のためにテントが張られ椅子が用意されていたが、舞台の正面は経堂すなわち北側である。したがって、参列者は舞台の後ろの席で舞を見学することになり、ほとんど舞人の後姿しか見られないというもどかしさを感じた。

 振鉾(えんぶ)

振鉾」と書いて”えんぶ”と読ませる舞は、襲(かさね)装束に鉾(ほこ)を持った舞人が左右から一人ずつ登場し、伴奏に合わせて鉾を上下左右に打ち振る。タイトルはどうやらその仕草から来ているようだ。最後は左右の舞人が同時に舞台に登って舞う。これを「合わせ鉾」という。このように、全部で三度舞うことを「振鉾三節(えんぶさんせつ)」という。

の振鉾は、天下平定を志した中国の武王(周王朝の創始者)が、商郊の牧野で天神地祇を祀り、その魂を鎮め事の成就を祈った故事に由来するという。そのため、道場の悪霊邪気を鎮める舞として、舞楽の冒頭に必ずこの舞が行われる。


 陪臚(ばいろ)

と楯鉾を持って四人の舞人が舞う陪臚は、天平年間に林邑(ヴェトナム)から伝わったとされている。舞は「破」と「急」の2部で構成されていて、剣と楯をもって切り結ぶ舞が「破」の部分である。一方、鉾を持ってこれを振りながら並んで退場する部分が、「急」の部分だそうだ。


 延喜楽(えんぎらく)

系統の平舞装束を着けて舞う延喜楽は、高麗系の舞を真似て我が国で制作された右方(うほう)の舞である。制作されたのは醍醐天皇の延喜8年(908)、作曲者は藤原忠房、舞の考案者は式部卿の敦実親王とされている。舞人は片肩袒で舞う慶賀の曲として知られている。


 蘇莫者(そまくしゃ)

の楽曲の由来にはいろんな説があるようだ。四天王寺では次の説をとっている。すなわち、聖徳太子は飛鳥と天王寺の間を愛馬の黒駒に乗って往還されたが、大和川の亀の瀬で愛用の洞簫(どうしょう、中国古代の尺八)を馬上で吹奏したとき、一匹の老いた猿(実は信貴山の山神)が現れて笛の音に合わせて舞った。そこで太子は天王寺の楽人に命じてこの舞楽を作らせたという。

の舞の最初に、太子を表す服装に冠を戴いた横笛の奏者が舞台横に立って演奏する。その横笛は太子が愛用したと伝えられる四天王寺所蔵の「京不見御笛(きょうみずのおふえ)で、奏者はこの笛を借りて吹くのが慣例だそうだ。

いでながら、蘇莫者は四天王寺独特の舞楽として、古くから天王寺楽所の楽家の秘舞として伝承されてきたとのことだ。



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2007/10/22作成 by pancho_de_ohsei