橿原日記 平成19年10月11日

「山陰の歴史探訪バスツアー」で訪れた妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)


民団体(NPO)OSAKAゆめネットが主催する「山陰の歴史探訪バスツアー」に参加を申し込んだ。10月11日(木)から1泊2日で、妻木晩田(むきばんだ)遺跡、上淀廃寺、淀江町歴史民俗資料館、出雲大社、古代出雲歴史博物館、そして今年ユネスコの世界遺産に登録された石見銀山を見学する歴史探訪のツアーである。随行講師には、関西外国語大学教授の佐古和枝女史が同行されるという。

佐古和枝教授
佐古和枝教授
古教授は、米子市出身の考古学者。1995年から1998年にかけて行われたゴルフ場計画に伴う発掘調査で、後に妻木晩田遺跡群と総称されることになる弥生時代最大規模の高地性集落が発見されたとき、「自然と遺跡と人間を考える会」を発足させ、遺跡の保存運動の先頭に立って活躍してこられた。現在は市民ボランティア団体「むきばんだ応援団」の副団長として妻木晩田遺跡の保存・活用に取り組くんでおられる。ご自分でもホームページ「みんなで考古学」を立ち上げて、その中で妻木晩田遺跡群を紹介しておられる。

古教授の講演を始めて拝聴したのは、2006年5月20日である。その日、日本遺跡学会と朝日新聞が主催するシンポジウム「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」が大阪で開かれた。講師として壇上に立った佐古教授は、”誰のために、何のために”と題して、遺跡の保存・活用のあり方を話され、高松塚古墳の解体の無謀さを切々と訴えられた。決して流ちょうではないが、聴衆一人一人の胸に深くしみこむ話し方は今でも記憶に新しい。

の佐古教授が、長年保存運動に関わってこられた「妻木晩田遺跡群」をはじめ、地元の鳥取・島根の史跡を案内いただけるのであれば、有意義な歴史探訪のツアーになるはずである。橿原在住の友人T.Y氏を誘ってツアーに参加することにした。


車窓から伯耆富士・大山を望む
車窓から伯耆富士・大山を望む。
西側から見ると富士山のように見える
合場所に指定されたのは、御堂筋と千日前通りの角にある近鉄難波ビルの前。集合時間は10月11日の午前8時。このバスツアーに参加するために、前日また橿原に戻ってきた。T.Y氏とは近鉄大阪線の大和八木駅のホームで待ち合わせ、余裕を見て30分前に集合場所に到着した。

加者35名と随行講師の佐古教授、それにゆめネット関係者を乗せたバスは定刻より10分早く集合場所を出発した。阪神高速環状線、中国道、米子道、山陰道と乗り継いで、淀江・大山(だいせん)インターで高速自動車道を下りた。

発するときは雲に覆われていた空が、米子道に入るころはすっかり晴れ渡った。伯耆富士で知られる大山(だいせん)と、その山麓に広がる大山高原の雄大な景色を、車窓から望むことができた。大山の頂きが少し雲に覆われていた。地元出身の佐古教授によれば、大山は普段雲に隠れている日が多く、本日は良く見えている方だとのことだ。

妻木晩田遺跡から望む美保湾が美しい
妻木晩田遺跡から望む美保湾が美しい

中の車中では、佐古教授が妻木晩田遺跡を見学する予備知識として、弥生時代とその時代の山陰地方について全般的な説明をされた。教授の話で興味深かったのは、妻木晩田遺跡と出雲大社の関係である。

木晩田遺跡は大山から延びる妻木山(むきやま)と晩田山(ばんだやま)にまたがる標高90mから120mの丘陵の上に築かれた高地性弥生集落である。その尾根に立つと、美保湾(日本海)を一望でき、弓ヶ浜が美しい。当時、この地域を支配した族長が国見をするのに最適な場所だったに違いない。

張仁誠氏が描いた出雲大社復元図
一級建築士でイラストレータの
張仁誠氏が描いた出雲大社復元図
方、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。 32丈は少しオーバーかもしれないが、平安時代には16丈(約48m)の神殿が建っていたとされている。なぜ想像を絶するような高い建物が建てられたかは未だに謎である。佐古教授は、ひょっとすると弥生・古墳時代の国見の風習に関係しているのかも・・・と、控えめながら推測を述べられた。あり得ない話ではないと、感心した。





妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)「弥生の国邑(こくゆう)」の復元を目指して史跡整備が進められている遺跡群

日本海を見下ろす丘に復元された高床住居
日本海を見下ろす丘に復元された高床住居

 見 学 メ モ

【所在地】 鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在
【遺構】  竪穴住居384、掘立柱建物502、貯蔵穴141、墳墓29
【アクセス】山陰自動車道「大山淀江」インターから車で5分


妻木晩田遺跡付近のマップ
妻木晩田遺跡付近のマップ
伯耆古代の丘公園の入口
伯耆古代の丘公園の入口
前11時25分、山陰自動車道「大山・淀江」インターでバスが高速自動車道を下りた。難波からここまで約3時間半を要したことになる。インターを出て一般道路を右折すると、伯耆富士の名で知られる大山(だいせん)から北西に延びる丘陵が目の前に横たわっている。

く見ると、その尾根の先端あたりに復元された2棟の高床式倉庫が小さく見えた。それを目印に山の方へ5分ほど走ると、我が国最大級の弥生集落跡の国史跡「妻木晩田遺跡」に到着できる。だが、バスは途中で高等学校の前のT字路を右折した。バスが先ず向かった先は、すぐ近くにある「伯耆古代の丘公園」である。公園の入口近くに「白鳳の里どんぐり館」がある。そこで昼食をとる予定になっていた。

園の入口には、堂々とした楼閣(ろうかく)が聳え、その足元に、近くの古墳時代後期に築かれた坪根垣古墳(石馬谷古墳)から出土した石馬を真似た平成の石馬が置かれている。「白鳳の里どんぐり館」は楼閣近くの円形の建物で土産物店を兼ねている。本日の予定では、昼食の後に妻木晩田遺跡、淀江町歴史民俗」資料館、上淀廃寺の3カ所を順に見学することになっていた。いずれも、「伯耆古代の丘公園」からは近い。

大山の裾野に聳える孝霊山
大山の裾野に聳える孝霊山
食後、バスは丘陵に築かれたアクセス道路を一気に駆け上がり、尾根の平坦地に建つ展示室の前に到着した。妻木晩田遺跡は、大山から北西に延びて来た標高90から120mの丘陵の尾根や斜面に築かれている。丘陵の先端方向へ向かうと、眼下に雄大な日本海が広がり、振り返ると大山の裾野に孝霊山などの山々が聳えている。ちなみに、孝霊山は以前には「高麗山」とも書いたそうだ。

承によれば、伯耆の国に聳える大山と背比べをするために朝鮮半島の韓(から、高麗)の人々が背の高い山を運んで来たそうだ。しかし、勝負は大山が勝ち、韓の人たちは山を置き去りにして帰ってしまったので、山は仕方なくこの地に留まることになった。そこで、地元の人々はこの山を「から山」または「高麗山」と呼ぶことにしたという。かって、古代の倭国と半島の高句麗との通行は裏日本経由が主流だった。高句麗滅亡で、多くの戦争難民がこの地に流れ着いた遠い日の記憶がこうした伝承を生んだのかもしれない。


妻木晩田遺跡の展示室
妻木晩田遺跡の展示室
示室の前でバスを下りると、目の前に平坦に整地された多目的広場があった。芝が植えられた広大な空間を見て、妙な錯覚に捕らわれた。自分は遺跡の中にいるのではなく、ゴルフ場のフェアウエイに立っているのでは、と勘違いするほどだった。秋空は澄み渡ってどこまでも青く、日本海から吹き寄せる風が肌に心地良い。こんな場所でゴルフができたら最高だろうな、というのが偽りのない実感である。

は、我が国最大級の弥生集落跡の出現には、ゴルフ場の建設が関係している。この丘陵地帯を造成して、リゾート施設「大山スイス村」のゴルフ場を建設する計画が持ち上がった。デベロッパーは京阪電鉄である。そこで、大山町と淀江町の教育委員会は平成7年(1995)3月から10年(1998)3月までの3年をかけて発掘調査を実施した。

日本最大の弥生遺跡
日本最大の弥生遺跡
時はバブル経済が崩壊し、鳥取県が誘致した企業がことごとく撤退し、唯一残っていたのは京阪電鉄によるゴルフ場建設プロジェクトだけだった。そうしたこともあって、発掘調査に関する情報はいっさい公開されなかったそうだ。それでも、後1年で調査が終わる頃に、現在の洞ノ原地区で超小型の四隅突出型墳墓が密集して何基も出土した。考古学会の常識を覆すこの発見を教育委員会としても隠蔽するわけにもいかず、それまでの発掘調査の結果を報道するに到った。平成9年(1997)2月のことである。

の時点で、後に妻木晩田遺跡と総称されることになる遺跡群と佐古教授との関わりが生じた。遺跡にとって幸運だったことは、ゴルフ場造成を前提にした発掘調査だったため、コース予定地の数カ所で同時並行的に発掘が行われてきたことだ。いくつもの尾根にまたがって散在する遺跡は、当初はそれぞれ独立したものと見なされた。だが、竪穴住居や掘立柱建物が密集している地域があるかと思うと、墓が多い地域があり、尾根ごとに表情が違う。そこで佐古教授たちは、部分的に調査されている場所が実は弥生集落の一部であり、丘陵の尾根をまたいで巨大な高地性集落が存在したのでは、と考えるようになった。

妻木晩田遺跡の各地区
伯耆古代の丘公園の
キャラクタ−古代くん
スの中で、佐古教授は自分の人生を「遺跡の死に水を取って歩いてきたようなものだ」と表現された。各地で発掘調査に携わってきた教授にとって、調査が終了した遺跡のほとんどは破壊されて道路や住宅地に変わっていくのを見るのは、忍びがたいほど悲しいことだったにちがいない。そのため、妻木晩田遺跡の発掘現場に最初に立った時、この遺跡だけはなんとしても残したいと思われたそうだ。

が、保存を実現する可能性はほとんどゼロに近い。第一、遺跡として保存するには規模が大きすぎた。それに、県が民間企業を拝み倒して誘致したゴルフ場建設予定地だ。保存運動を立ち上げたとしても、遺跡が残せるとはとても思えない。だからといって、「最初から駄目だろうと思って黙ってみていたら、考古学者として私の存在はなくなる。遺跡を残せなくても、保存運動が展開されたという事実は歴史に残るはずだから、できることはなんでもやろう」、そう決意されて佐古教授は保存運動の先頭に立たれたとのことだ。

言って、眉間にしわを寄せてエイエイと気勢をあげるような運動は自分の性に合わない。やるからには楽しくやりたい。そこで、遺跡でコンサートを開いたり、新年会の餅つきをやったり、子供達の展覧会をやったりと、思いつくことは何でもやられた。しかし、吉野ヶ里遺跡の場合と違って、県側が発掘調査の公表を渋ったためにマスコミに乗り損ねた遺跡の保存運動である。口コミで草の根的に支援の輪を広げるより仕方がなかった。

成11年(1999)4月9日、鳥取県の西尾知事が退任した。その席上、妻木晩田遺跡を全面保存することで覚書を交わしたという正式発表が行われた。二年間におよぶ佐古教授たちの地道な努力が実を結んだ日だった。その年の11月、東京ドームが約40個も入る152ヘクタールの広い面積のほぼ全域が国史跡に指定され、鳥取県によって保存・整備がはかられることになった。

在までに発掘された面積は、国史跡に指定された範囲のほぼ1割にあたる16ヘクタールにすぎない。それでも、今からおよそ2000年〜1700年前に栄えた国内最大級の高地性弥生集落遺跡では、およそ395棟の竪穴住居跡、502棟の掘立柱建物跡、さらに、四隅突出型墳丘墓含む墳丘墓24基、環壕なども見つかり、多数の土器や鉄器も出土している。発掘調査は毎年行われていて、昨年6月から今年1月にかけて実施された第19次発掘調査でも、次々と新しい知見が得られている。たとえば、妻木晩田遺跡で見つかった竪穴住居の数は423に増えたとのことだ。


木晩田遺跡という呼称は、上記の発掘調査によって出土した6遺跡(洞ノ原(どうのはら)地区、妻木山(むきやま)地区、妻木新山(むきにいやま)地区、仙谷(せんだに)地区、松尾頭(まつおがしら)地区、松尾城(まつおじょう)地区)と、別件で調査がおこなわれた小真石清水(こまいししみず)地区をあわせた7遺跡の総称である。小真石清水地区を除く各地域の特徴を概略すると、次のようになる。

妻木晩田遺跡の各地区
妻木晩田遺跡の各地区
洞ノ原地区 − 妻木晩田遺跡が注目を浴びるきっかけとなった遺跡で、西側丘陵には幅4〜5m、深さ約2m、直径65mもある環濠が、1世紀中頃に掘られた。しかし、2世紀には埋没していたことが分かっている。濠の内部には、9本柱の大型総柱建物跡(1辺6.5m)がみつかっていて、祭殿のような重要な建物だったと考えられている。

妻木山地区 − もっとも多くの竪穴住居と掘立柱建物が見つかっている。そのため、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える時期の中心的なムラの跡とされている。2世紀後半頃の竪穴住宅が70棟近く見つかっている。掘立柱建物は、ふつうは倉庫だと言われており、竪穴住居が数軒に掘立柱建物1棟くらいの割合で建てられている。しかし、妻木晩田では、竪穴住居より掘立柱建物の方が多い。したがって、倉庫だけでなく、作業場や集会場、夏の住まいなど、さまざまな使われ方をしたと推測されている。

妻木新山地区 − 大山町の平野にもっとも近い尾根に築かれた住居跡で、妻木山地区が最盛期を迎える前の1世紀後半から2世紀前半頃に栄えた地区と推定されている。

仙谷地区 − 妻木新山地区と同じ尾根の先端に位置し、洞ノ原の墳丘墓群の次の2世紀代に造られた墳丘群で、2基の四隅突出方墳丘墓を含む7基が見つかっている。洞ノ原地区に埋葬された王一族の次の世代、すなわち弥生後期中葉の王一族の墓地と推定されている。

庇付き大型掘立柱建物の模型
松尾頭地区で見つかった
庇付き大型掘立柱建物の模型
松尾頭地区 − 尾根上にある大型の竪穴住居のうちの一つから、中国の後漢時代の鏡の破片(内行花文鏡)が出土した。斜面には、太い柱を使った大型建物が2棟あり、そのうちの一つは1辺約8mもあり、周囲に石列をめぐらせた廂(ひさし)付きの珍しい構造をしている。妻木晩田遺跡の中で最も立派な建物であり、ムラを支配した王一族の居住区と推定されている。

松尾城地区 ー この地区には、2世紀後半から3世紀の生活の跡が残っている。竪穴住居や建物跡が見つかっている。

れらの地区の内、公開されているのは洞ノ原地区と妻木山地区の一部だけである。

洞ノ原地区の東側丘陵がら西側丘陵を望む
洞ノ原地区の東側丘陵がら西側丘陵を望む


多目的広場の横を通って堂ノ原地区へ
多目的広場の横を通って堂ノ原地区へ
洞ノ原地区東側丘陵に築かれた<br>骨格復元竪穴住居
洞ノ原地区東側丘陵に築かれた
骨格復元竪穴住居(2世紀後半)
示室では、発掘された土器の他に、弥生時代を伝える数々の資料や模型が展示されていて、発掘当時のエピソードを交えながらの佐古教授の説明は、実に懇切丁寧だった。妻木晩田遺跡では、弥生時代の様々な形態の住居跡が出現している。展示された復元模型を見ていると、この遺跡が弥生式住宅の総合展示場だったのでは、と疑いたくなるほど多様である。もっともこの地に弥生集落が存続した300年という時間の経過を加味すれば、同時期に出現したとは言えないが・・・

示室のテレビで発掘調査の様子をビデオで見た後、一行は佐古教授に引率されて洞ノ原地区の見学に向かった。洞ノ原地区は、展示室から見て東側を南北に延びる丘陵の東側と西側に展開している。多目的広場の横を通って洞ノ原地区の東側丘陵エリアに入ると、右手に骨格を復元した竪穴住居があった。クリの柱を使い加工の仕方などを当時の技術のままに再現したもので、2世紀後半の住居の構造がよく分かる。



東側丘陵に築かれた<br>四隅突出型墳墓(復元)
東側丘陵に築かれた四隅突出型墳墓(復元)
墳墓エリアの中の超小型四隅突出型墳墓(復元)(復元)
墳墓エリアの中の超小型四隅突出型墳墓
の先にある住居エリアでは、土屋根を葺いた竪穴住居が建っていた。弥生時代のものとしては全国で初めての土屋根住居だそうだ。火事にあった住居を参考に復元したという。その横に、高床式倉庫として使用されたと思われる掘立柱建物が建っている。住居エリアを過ぎると、墳墓エリアが続いている。1世紀中頃に、この地区で最初に墳墓が造られ始めるが、それが四角い墳丘の角を奇妙に張り出した四隅突出型墳墓と呼ばれる墓である。

隅突出型墳墓は、出雲地方を中心として山陰で多く造られた弥生時代の墳丘墓だ。3年前に史跡公園「出雲弥生の森」として整備されたばかりの西谷墳墓群で、巨大な墳墓を何基も見ている。やがて、ヤマト勢力に押されて、古墳時代初頭には消滅してしまうこの墳墓で気になっていたのは、何のためにヒトデのように四隅に突起を延ばしているか、という点だった。

古教授は、そうした疑問に一つの回答を示された。墳墓上で何かの祭祀を行う時に墳墓に登る通路であるという。突起の石の並べ方でそれが分かったとのことだ。それでは、登り口は4カ所あったのかと質問すると、一つの突起だけだという。そうであれば、他の3つの突起は形を整えるための装飾的な意味しかもたないことになる。

型の墳丘墓の周りに小さくて可愛い墓がいくつも点在していた。それでもヒトデのように四隅を突出させている。これらの超小型四隅突出型墳丘墓の出現によって、妻木晩田遺跡の存在が世間に公表されるきっかけとなったことはよく知られている。これらの墳墓は、良く晴れた日には眼下に広がる淀江平野から隠岐まで見渡すことができる絶景の場所にある。死後は景観の良い場所で永久の眠りにつきたいとする願望は、古今東西を問わず人間の基本的な願望のようだ。

洞ノ原地区西側丘陵への坂道
洞ノ原地区西側丘陵への坂道
西側丘陵に復元されている<br>草屋根竪穴住居(2世紀後半)
西側丘陵の途中に復元されている
草屋根竪穴住居(2世紀後半)
側丘陵の墳墓エリアの先は、下りの階段と坂道が洞ノ原地区の西側丘陵に続いている。この斜面から西に望む景観が実にすばらしい。弓ヶ浜が見事な弧を描いて日本海に延び、その先端が島根半島の山並みに連なっている。佐古教授の説明によると、弥生人がこの地にやってきた頃、麓の淀江平野は、湾が砂州によって外海から隔てられ湖沼化したラグーン、つまり潟湖(せきこ)だったそうだ。彼らはその周辺に住み着いて稲作を始めた。大山からの伏流水が豊富に湧き出るこの一帯は格好の水田耕作地だったのであろう。

グーンはまた、当時の人々にとって交易のための格好の良港だった。弥生時代、この地方の特産は各種の勾玉や管玉などの石製装飾品である。北九州から銅や鉄などを購入する対価としてそうした石製品が用いられただろう。さらに北陸で産する翡翠などの中継交易も行ったはずだ。そうして財力を蓄えたムラの首長は1世紀の中頃、背後の丘陵の先端に上記のような規模の環壕を築き、その内部に祭殿を建てた。

洞ノ原地区西側丘陵に復元<br>されている土屋根竪穴住居(2世紀後半)
西側丘陵に復元されている
土屋根竪穴住居(2世紀後半)
洞ノ原地区西側丘陵に復元<br>されている高床倉庫(2世紀後半)
洞ノ原地区西側丘陵に復元されている
高床倉庫(2世紀後半)
ラが最盛期を迎える2世紀になると、聖なる場所も生活の場に変わっていった。2世紀の初めには環壕がだんだん埋まりだし、遺跡が最も栄えた頃、環壕は半分以上埋まって、周りに住む人々のゴミ捨て場になってしまった。現在、環濠の内部には土屋根の竪穴住居が1棟と、高床倉庫が2棟復元されている。

ころで、妻木晩田遺跡は弥生時代の高地性集落である。しかも大規模な弥生集落である。一般には、弥生時代の中期から後期にかけての集落は、部族国家へ向かうムラやクニ同志の戦闘に備えて高地に築かれたと説明されている。魏志倭人伝でも、卑弥呼が登場する直前には「倭国大乱」で国中が戦争状態にあったような書き方をしている。弥生後期になると、山陰でもムラが山の上にあがる傾向があるが、築かれた集落の跡はいずれも小規模である。妻木晩田遺跡の集落ほど大規模でしかも長期にわたって存在した例は少なく、この特異性が発掘当時から注目された。

古教授は、高地性集落の発生を倭国大乱に結びつけた安易な説明に懐疑を示されている。妻木晩田遺跡では戦闘に関係した遺物などほとんど見つかっておらず、わずかに鉄鏃が4個出土しているにすぎない。したがって、軍事的性格の強い集落とする見解は必ずしも当たっていない。近畿でも弥生中期の大集落が洪水で埋まってしまったため、山の上にその一部が移動した例があるそうだ。淀江平野でも気候変動などが原因に平地に住むのが不安定になったのかもしれない、と推測されている。

竪穴住居露出展示場
竪穴住居露出展示場
発掘当時の状態で保存されている竪穴住居跡
発掘当時の状態で保存されている竪穴住居跡
世紀の古墳時代に入ると、住民たちはどこかへ移り住んだらしく、妻木晩田遺跡から住居がなくなり、変わって古墳が築かれるようになる。古墳時代に墓地に変わったため、遺跡全域はその後人々によって荒らされることなく、住居跡はそのまま森林の下に埋まっていった。つまり、弥生時代人の生活空間がそのままフリーズされ、20世紀末になって再び白日のもとに曝されることになった。考古学的見地から見て、この意味は大きい。

後に佐古教授は、ツアー参加者を妻木山地区に案内された。展示室から見て洞ノ原地区の反対側にあるこの地区には、白い覆屋(おおいや)が建てられている。中に入ると、2世紀後半から3世紀に造られた3棟の竪穴式住居跡が、発掘当時の状態で保存されていた。



淀江町歴史民俗資料館 九州以外では唯一の石馬や法隆寺と並ぶ最古の金堂壁画を展示する資料館

淀江町歴史民俗資料館
淀江町歴史民俗資料館

 見 学 メ モ

【所在地】 鳥取県米子市淀江町福岡979-1 TEL 0859-56-3316
【アクセス】JR米子駅より車で30分、JR淀江駅より徒歩20分


休耕田に植えられたコスモスの花々
休耕田に植えられたコスモスの花々
秋の取り入れも終わった水田
秋の取り入れも終わった水田
アー参加者を乗せたバスは、妻木晩田遺跡から再び「伯耆古代の丘公園」の駐車場に戻った。伯耆古代の丘公園は、向山古墳群を整備して平成7年(1995)4月に淀江町がオープンした公園で、公園の中には、前方後円墳の密集度で全国有数の規模を誇る5世紀〜6世紀の古墳が数多くある。

の他に、高床式建物と竪穴式住居、ほたて貝式古墳なども復元されており、さらに、古代ハス園では6月下旬から8月にかけて40種の古代ハスが開花して、園内は文字通り古代一色に染まる。

園の隣に築かれた「白鳳の里どんぐり館」を取り巻く周囲の淀江平野はすっかり秋である。刈り入れが終わった水田にはワラが日干しにされ、休耕田に植えられた色とりどりのコスモスが秋風の中で揺らめいている。

子市淀江町歴史民俗資料館は、そうしたのどかな田園風景を前にした上淀集落のはずれに建っている。白鳳の里どんぐり館とは道路を挟んで反対側にあたる。


江町歴史民俗資料館は、地元の民俗資料や地元の10を超える遺跡から出土した遺物を展示するために設立された資料館である。開館は昭和60年(1985)というから、すでに20年以上の歴史をもつ。伯耆古代の丘公園と上淀廃寺にほど近く、JR淀江駅から徒歩でも20分ほどでアクセスできる。

の民俗資料館の展示品の中で、考古学的に特に注意を引いたのは、昭和34年(1959)に国の重要文化財に指定された「石馬」、奈良時代の上淀廃寺跡からで出土した「仏教壁画」、そして井出挟(いでばさみ)3号古墳から出土した「形象埴輪」である。


重要文化財の「石馬」 天神垣神社
重要文化財の「石馬」 天神垣神社の鳥居の横に建てられた保存施設

墳を飾った石人・石馬と言えば、福岡県八女市にある岩戸山古墳が有名だ。筑紫君磐井(つくしのきみ いわい)が生前に造らせた前方後円墳とされ、己を権勢を誇示するため、埴輪とは別に多数の石人・石馬などの石製品で墳丘を飾っていた。こうした石製品で古墳を飾るのは北九州独自の文化である。

の石の装飾品が淀江町から出土した。この石馬は古墳時代後期に築かれた坪根垣古墳(石馬谷古墳)に、円筒埴輪や人物・盾・馬といった形象埴輪とともに墳丘に並べられていたと考えられている。坪根垣古墳は、丘陵の中腹に位置する全長61m程度の前方後円墳である。発掘調査で、墳丘は2段に築かれ葺石が敷かれていたことが分かっている。しかし、石室は発見されていないとのことだ。この石馬の出土によって、この地域が北九州文化圏と深いつながりがあった証左とされている。

馬の材質は角閃石安山岩で、体長は約150cm、高さは約90cmを測ります。前足を欠いているいるが、手綱や鞍などの馬具も細かく表現されている。資料館には、石馬の後ろに石人と思われる石が置かれている。

料館ができるまでは、石馬は古墳の裾の天神垣(あめのかみがき)神社に「石馬大明神」として祀られていた。最近、天神垣神社側から石馬を返還してほしいとの要望が出されているようだ。神社側は鳥居の横に保存用の施設まで建てて返還を待っている。


壁画に描かれた「神将」部分
壁画に描かれた「神将」部分(*)
淀集落東側の高台に古代寺院が建っていた。白鳳期(約1300年前)に建てられ、平安時代の中頃(約1000年前)に火災で焼失したと考えられる寺院だが、名前は伝わっていない。そのため「上淀廃寺」と呼ばれている。 平成3年(1991)に行われた発掘調査で、金堂跡から出土した壁土片から法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画が描かれていたことが判明し話題になった。

在までに出土した壁土片は約4,300点、そのうち約1,300点に壁画が描かれていた。壁画は自然の絵の具8〜12色を使って、仏や風景が描かれている。それぞれの断片から、金堂の壁には「変相図」と呼ばれる仏教の物語が描かれていたと考えられている。

土に混じって約1,900点の仏像の破片も見つかっている。粘土で造られた塑像の破片である。表面に金箔や彩色で華やかに色づけされ、金堂の内部に所狭しと配置されていたようだ。資料館ではこうした壁画や塑像の破片の一部を公開している。


井手挟3号墳出土の盾持人(たてもちびと)埴輪
井手挟3号墳出土の盾持人(たてもちびと)埴輪
料館ではその他に、壁際に並べられた3体の盾持人(たてもちびと)埴輪が人目を引いていた。井手挟(いでばさみ)3号墳からほとんど完形に近い形でで出土した埴輪である。西日本では出土例の少ない象形埴輪とされている。

手挟3号墳は、5世紀末に築造された全長29mの帆立貝式古墳である。平成4年(1992)に字田川地区の公民館を建てるため発掘調査を行なった際に発見された。すでに、盛土は削り取られ石室も残っていなかったが、周囲の溝から多量の埴輪が見つかった。円筒埴輪の他に、鹿・鶏・水鳥など動物や人物、家などの形象埴輪など種類が多い。盾持人埴輪はその中に混じって出土した。

記の他にも、この資料館には角田遺跡から出土した「絵画土器」や上淀地区の八朔祭で豊作を占うための綱引きに使用される「クチナワさん」、江戸末期、黒船襲来の非常事に兵隊が着るために作られた町の有形文化財「胴鎧(どうよろい)」など、淀江の歴史を物語る資料が展示されていいる。



上淀廃寺跡(かみよどはいじあと) 日本海を望む丘の上に営まれた古代寺院の跡

上淀廃寺跡の入口から北側を望む
上淀廃寺跡の入口から北側を望む

 見 学 メ モ

【所在地】 鳥取県米子市淀江町福岡
【アクセス】JR山陰本線淀江駅から徒歩20分、JR米子駅から車で約15分


江町歴史民俗資料館から徒歩で、黒い屋根瓦を葺いた民家が建ち並ぶ上淀集落を抜けて行くと、集落の東側の高台に出る。平成3年(1991)に実施された発掘調査で、この高台に古代寺院が建立され、しかも、金堂跡から出土した壁土片から法隆寺金堂壁画と並ぶ我が国最古の寺院壁画が描かれていたことが判明して話題になった。

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日本最古の彩色仏教壁画を
表紙にしている「上淀廃寺」の説明書
の寺院は、紀年銘(癸未年=682年)のある瓦などの遺物から、7世紀後半に建立され、11世紀前半に焼失したと考えられている。しかし、寺の山号も寺号もいっさい伝わっていない。そのため、土地の名前を取って「上淀廃寺跡」と呼ばれている。

江町歴史民俗資料館のところで述べたように、出土した壁土片は約4,300点、そのうち約1,300点に壁画が含まれていた。その壁画は自然の絵の具8〜12色を使って、仏や風景を描いたものと推測されている。その他にも壁土に混じって約1,900点の仏像の破片も見つかっている。これらの仏像は、表面を金箔や彩色で華やかに色づけされた塑像だった。

料館で見る壁土片や塑像片は、炎によって鮮やかな色彩は失われてしまった。しかし、それと引き替えに炎で焼き締まった壁や塑像は、1000年の歳月を経ても土に戻ることなく、当時の壁画や仏像の様子を現代に伝えている。

和にある法隆寺は670年に落雷で焼失し、7世紀末に現在の西院伽藍として再建されたとされている。その金堂には見事な仏像壁画が描かれていたが、惜しくも昭和24年(1949)に火災によって焼失してしまった。上淀廃寺の創建が682年とするなら、壁画が描かれた時期は法隆寺金堂よりも早い。当時の大和から見れば伯耆の国など文化の果つる辺境の地に思われたかもしれない。ところがどっこい、中央に劣らぬ見事な仏教文化がこの地に花開いていた。

上淀廃寺の伽藍配置
上淀廃寺の伽藍配置(*)
れを可能にしたのは、日本海から淀江平野に深く入り込んだ天然の良港・淀江潟だったに違いない。淀江潟は日本海航路の拠点として、弥生時代からこの地に豊かな富と文化をもたらしてきた。朝鮮半島からの文物は、なにも大和を経由しなくても、大和と同時並行的に直接半島からこの地にもたらせた可能性は無視できない。

成4年(1992)、上淀廃寺が再び世間の注目を浴びる発見があった。金堂の東側に南北3塔が並ぶという我が国では前例のない伽藍配置が、発掘調査で確認された。もっとも、北側の塔は計画だけで、実際には建っていなかったようだ(しかし、心柱を支える巨大な心礎は見つかっている)。現在までに金堂・塔・中門跡など寺院の中心的な建物の跡を確認している。だが、講堂跡は現在までに発見されていない。柱礎石の位置などから三重県夏見廃寺と同様、金堂の西前面にあったものと推定されている。

上淀廃寺の伽藍復元イメージ
上淀廃寺の伽藍復元イメージ(*)
成8年(1996)3月、上淀廃寺は、数少ない白鳳寺院の堂内荘厳を復元し得る遺跡と評価され、国の史跡に指定された。現在の指定面積は25,560平米である。その広大な敷地を目の前にしたとき、これが古代の寺院跡かと目を疑った。宅地分譲で丘の斜面を造成している現場に来てしまったような印象を受けた。米子市が国の史跡に指定された遺跡の環境整備(公園化)を進められている最中だったためだ。

事用車両の往来で白く乾いて埃っぽい道を登っていくと、左手の塔跡はすっかり盛土の下に隠れ、その先に瓦をほぼ正方形に積んだ基壇があった。本尊を安置した金堂跡だった。説明板によると、金堂の規模は南北12.4m、東西14.8mを測り、二重基壇の上に建っていたようだ。8世紀の半ばに大規模な改修が行われたようで、改修前は比較的小さい塑像を本尊として祀っていたが、回収後は高さ2.4mの座像に変わっている。この金堂の壁には、法隆寺金堂と並ぶ国内最古の仏教壁画が描かれていた。

瓦積み基壇の金堂跡 経蔵または鐘楼建物跡の休憩施設
瓦積み基壇の金堂跡 経蔵または鐘楼建物跡の休憩施設



向山古墳群(むこうやまふんぐん) 前方後円墳の密集度で全国有数の規模を誇る古墳群

伯耆古代の丘公園内の遊歩道を古墳に向かう参加者たち
伯耆古代の丘公園内の遊歩道を岩屋古墳に向かう参加者たち

 見 学 メ モ

【所在地】 鳥取県米子市淀江町福岡
【アクセス】JR山陰本線淀江駅から徒歩20分、JR米子駅から車で約15分


伯耆古代の丘公園のマップ
伯耆古代の丘公園のマップ
公園の入口
公園の入口
淀廃寺を見学した後、今晩の宿泊地である玉造温泉に向けて出発する時間までには、まだ間があった。
「それでは、予定には入っていませんが、岩屋古墳は一見の価値がありますので、見ていきましょう」
と、講師役の佐古教授は案内したくって仕方がない様子だった。教授によれば、おらが国の自慢の古墳だそうだ。

屋古墳は、伯耆古代の丘公園の中にある向山古墳群の中の前方後円墳である。というより、伯耆古代の丘公園は向山古墳群を中心に整備された観光スポットである。大規模な観光開発を行わず、向山古墳群を活かしたシンプルな施設として作られているため、誰でも気軽に訪れることができる。

山古墳群は、古墳時代後期では伯耆国最大規模の首長墓群である。「向山」と通称されている長さ約380m、幅80〜70m、高さ約20mの丘陵上に築かれており、現在までに5世紀後半から6世紀後半にかけて作られた前方後円墳9基、円墳5基、方墳2基、不明1基の計17基が確認されている。したがって、前方後円墳の密集度では全国有数の規模を誇っている。

岩屋古墳の案内板
岩屋古墳の案内板
の中で、岩屋古墳は6世紀後葉に築造された全長52m、高さ6mの前方後円墳で、後円部には15m四方の張り出しが付いている。すでに昭和7年(1932)7月に、岩屋古墳が国の史跡に史跡に指定されているほど、注目度の高い古墳だった。その理由は、全長9mを測る複室構造の横穴式石室にある。整備な石棺式石室構造を採用しており、壁も天井も全て一枚の巨大な切石が使われている。

園の入口の階段を登って丘陵の頂きに出ると、遙か彼方に聳える弥生村の高床建物が見えた。ここから道を左に取れば、丘陵の先端に金銅製冠や三累環頭太刀を出土した長者ヶ平古墳古墳(ちょうじゃがなるこふん、向山5号墳)がある。これらの出土品は現在、東京大学の資料館に保管されている。道を右に取れば、右手に向山4号墳、7号墳、3号墳、2号墳、8号墳を順に見ながら、岩屋古墳に向かう。道の両側にはコスモスが咲き、柿やクリが実を付け、こぶしの木も実を結んでいる。

石棺式石室の内部見学のために列をなすツアー参加者たち
石棺式石室の内部見学のために列をなすツアー参加者たち

屋古墳は向山1号墳とも呼ばれていて、石室の内部が見学できる。石棺式石室とは、石棺を巨大化し、側壁も奥壁も天井もすべて一枚岩で組み立て、その中に被葬者を安置した石棺を置くようにしたものである。入口も一枚岩を刳り抜いて造られている。順番を待って、中に入ってみると意外と広々とした空間がそこにあり、切石がしっかり組み立てられているのが分かる。

一枚岩を刳り抜いた見事な入口 側壁も奥壁も天井もすべて一枚岩
一枚岩を刳り抜いた見事な入口 側壁も奥壁も天井もすべて一枚岩

古教授の説明によれば、切石の一枚岩を組み立てた石棺式石室の出現は、畿内では7世紀中頃まで待たなければならないが、ここではすでに6世紀後葉には採用されている。考古学の先生を案内してこの古墳を見せたとき、「大和にあったら間違いなく天皇陵と評価されただろう」と話されたとのことだ。そのことが地元出身の佐古教授にはどうやらご自慢のようだ。

屋古墳は、2段築造で葺石を有していた。江戸時代の中頃にはすでに前方部が削られ、石室が開かれた。そのとき、箱式石棺が発見され、礫敷の上に2体を埋葬し、鉄刀1点が副葬されていたと伝えられている。周溝からは、土器や円筒埴輪の他に、人物、馬、水鳥など多くの形象埴輪も出土している。


(*)「上淀廃寺」図録よりコピー
2007/10/14作成 by pancho_de_ohsei return