橿原日記 平成19年9月16日

万葉の大和路を歩く会 「聖武天皇の四都めぐり」に参加

平城宮の朱雀門
平城宮跡に復元された朱雀門


348回の「万葉の大和路を歩く会」は聖武天皇の4つの都(平城宮、恭仁宮、紫香楽宮、難波宮)を巡るバスツアーとして企画された。この4つの都は、天平12年(740)に九州で勃発した藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱を契機に、聖武天皇がその後5年間渡り歩いた都城である。時の天皇をそこまで追い詰めたものは果たして何であったか。それを考えてみるのも面白い。そう思ってバスツアーに参加を申し込んだ。

講師役の山内英正教諭
講師役の山内英正教諭
平12年8月29日、広嗣は政治を批判し、僧正玄ム(げんぼう)と下道朝臣真備(しもつみちのあそん・まきび)の処分を求める上表を送り、挙兵した。広嗣挙兵のニュースは、はやくも翌月の3日には平城京にもたらされた。朝廷はたたちに大野東人(おおのの・あずまびと)を大将軍に、紀飯麻呂(きの・いいまろ)を副将軍に任じ、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7千人を動員する命令下した。だが、乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し都を出てしまった。天平12年(740)10月29日のことである。これが聖武天皇の宮遷りの始まりである。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に恐れたためだったとされている。

の安寧を求めて始まった聖武天皇の彷徨の旅 − まず聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波宮へ、さらには紫香楽宮へと遷都を繰り返すようになる。今回のバスツアーでは、こうした天皇の宮遷りの軌跡を追いながら、講師をつとめられる甲陽学院高等学校の山内英正教諭から、関係する万葉歌の話を聞くことになる。


【コース】 奈良駅前前→平城宮跡恭仁宮跡和束町・安積親王の墓紫香楽宮跡・甲賀寺跡難波宮跡 → 近鉄上本町駅



平城宮跡: 実際は聖武天皇によって5年間も放棄された王城の地

良の都・平城京 − 先行する藤原京から平城京への遷都の詔は和銅元年(708)に出され、実際の遷都が行われたのは3年後の和銅3年(710)とされている。その当時は、内裏や大極殿、朝堂院などは整備されていたであろうが、寺院や皇族・貴族あるいは役人たちの邸宅などは藤原京からの移設または新設途上であっただろう。

平城宮跡
平城宮跡の所在地(奈良県奈良市佐紀町)
宝元年(701)に当時19歳の文武(もんむ)天皇宮子夫人(藤原不比等の娘)との間の第一皇子として誕生した首(おびと)皇子(後の聖武天皇)は、まさに時代の申し子のような皇子だった。慶雲4年(707)、文武天皇が25歳の若さで他界してしまう。首皇子はわずか7歳で父を失ったことになる。遺詔により文武天皇の母、即ち首皇子の祖母にあたる阿閇皇女(あへのひめみこ)が元明天皇として即位し、上記のように和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都が行われた。

まれながらに天皇になるべく運命づけられていた首皇子は、着々とその準備が外祖父・藤原不比等(ふじわらの・ふひと)とその一族によって進められていく。和銅7年(714)、彼が14歳になったとき、立太子式が行われ皇太子となる。しかし、霊亀元年(715)、元明天皇が健康上に理由で退位したとき、首皇子はまだ若すぎるとの理由で、皇位を継いだのは文武天皇の姉にあたる氷高内親王(即位して元正天皇)である。

くして父を失った首皇子は、考えようによっては不幸な人物だった。天皇になることを運命づけられながら、父の文武天皇から帝王学を学ぶことはなかった。平城宮の内裏では、藤原家に繋がる女性たちばかり囲まれてチヤホヤされ、わがまま一杯の日常生活を過ごしたにちがいない。そうした環境では、例えば天智天皇や天武天皇のような帝王としての剛毅な精神が養われようはずもない。

大極殿の模型
2010年完成を目指して建設中の
大極殿の復元模型
年の霊亀2年(716)、16歳を迎えた首皇子は藤原不比等の娘(母は橘宿禰三千代)の安宿媛(あすかひめ、後の光明皇后)と結婚する。その背後には、天皇家の外戚として長期藤原政権の安定を目指す不比等の深謀遠慮があった。首皇子が元正天皇より位を譲られて即位したのは、彼が24歳のとき、すなわち神亀元年(724)2月4日のことである。

位して聖武天皇となった年の11月、太政官が「京師は帝王の居られる所であって万国朝する所、是壮麗なるにあらざれば何をもって徳を表さん、・・・京師の五位已上庶人に至る迄その営に堪える者をして瓦屋を造立せしめ、赤白に塗らしめたい」と奏上するものがあった。天皇はこの奏上を許し、平城京は紅白で塗られた瓦舎で飾られることになったという。登極した時点で、すでに聖武天皇は精神を病んでいたと考えざるを得ない。


●あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(巻3−328)

宰少貳(だざいしょうに)の小野老(おののおゆ)が詠んだ平城京讃歌である。だが、聖武天皇の治世は平穏な時代ではなかった。聖武天皇と言えば、大仏建立の事跡がとかく喧伝されがちだが、さまざまな天災や政情不安が彼の治世に起きている。例えば、即位した翌年には次々と起こる様々な天変地異に責任を感じて、聖武は3000人を出家せしめ、7日間の転経により災異を除かんとしている。不幸は我が身をも襲った。神亀4年(727)には安宿媛との間に晴れて第一皇子の基王(もといおう)を得た。その年のうちに皇太子としたが、翌神亀5年(728)9月にこの皇子を死亡させている。この月、流星が断散して宮中に落ちるという天変も起きている。

亀6年(729)になると、2月に長屋王(ながやおう)の変が勃発した。左大臣長屋王の謀反が密告され、長屋王は自刃して果てた。長屋王を権勢の座から追い落とすために藤原氏が仕組んだ明らかな誣告だった。天平5年(732)の夏は干ばつが続いた。天平6年(734)の4月には大地震があった。天平7年(735)の8月には、大宰府管内で疫瘡が流行し、翌年は不作で、畿内ではその年の田租を免除している。

聖武天皇像
聖武天皇像
平9年(737)になると疫瘡は全国に蔓延し、参議の藤原朝臣房前(ふささき、藤原不比等の次男)や藤原朝臣麻呂(まろ、藤原不比等の四男)、藤原朝臣宇合(うまかい、藤原不比等の三男)および左大臣の藤原朝臣武智麻呂(むちまろ、藤原不比等の長男)が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退した。代って政治を担ったのが橘諸兄であり、また唐から帰国した吉備真備玄ムが重用された。

うして次から次に起こる天災や政情不安は、中国の思想にかぶれた当時の人々には、天皇の不徳の致すところと理解されたにちがない。登極時点ですでに精神を病んでいた聖武自身、己の徳の無さを痛感し、国家の危機を救うために仏の助けに頼った。天平12年(740)の2月、河内国大県郡智識寺(知識寺)に行幸して盧舎那仏像を拝し、盧舎那仏造顕を発願したことはよく知られている。だが、その年の8月の終わりに藤原広嗣が兵を起こして反した(藤原広嗣の乱)。それがきっかけで聖武天皇の5年の長きにわたる流転の旅が始まる。


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特別史跡平城宮跡の範囲
城京は延喜3年(784)に長岡京に遷都するまで連続して王城の地であったわけではない。聖武天皇は天平12年(740)に恭仁京へ、天平16年(744)には難波京へ、そして天平17年(745)には近江の信楽宮に都を遷し、その年に平城京に還都している。

仁京に遷都するまで大極殿として使われた建物は、天平12年(740)に恭仁京に移築され、5年後に還都したとき別の目的の建物に変わっていた。そこで、新たにその東に別の大極殿を建築した。現在は、奈良時代前半に朱雀門の真北にあった大極殿を第一次大極殿、奈良時代後半に新たに建てた大極殿を第二次大極殿と、それぞれ区別して呼んでいる。



平城宮の第二次大極殿跡
平城宮の第二次大極殿跡

内英正教諭の最初の講義は、太陽を遮るものが何一つない第二次大極殿跡の基壇の上で行われた。奈良の都にちなんでいくつかの歌が紹介されたが、その中で次ぎの2首が筆者の気を引いた。

●あをによし 奈良の大路は 行き良けど この山道は 行き悪(あ)しかりけり(巻15-3728)
●今日もかも 都なりせば 見まく欲り 西の御厩の外に 立てらまし(巻15-3776)

の歌はいずれも、中臣朝臣宅守(やかもり)と聖武天皇に仕える女官・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との間で交わされた63首の贈答歌の中の一首である。最初の歌は、罪を得て越前へ配流の途中で詠んだものと思われ、「奈良の大路は歩きやすいけれど、この山道は歩きずらいものだ」との感慨を歌にしている。狭野茅上娘子が詠んだ、
●あしひきの 山道越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし(巻15-3723)
を承けて、贈った歌であろうか。

日もかも・・・の歌は、宅守が流刑地の味真野で詠んだ歌であろう。昔を思い出して、「都にいるのだったら、貴女を見たく思って、今日もまた西の御馬屋の外に立っているものを」と、妻に会いたい心境を歌にしている。宅守が流された福井県越前市余川町には、「越前の里・味真野苑」がある。そこには相聞歌63首のうち代表的な15首が歌碑となって周囲に配されている。



恭仁宮 天平12年12月15日に着手され、天平16年12月26日に造営を停止した都

恭仁宮大極殿跡
山城国分寺の金堂土壇の端に建つ「恭仁宮大極殿跡」碑


恭仁宮跡の所在地
恭仁宮跡の所在地(京都府木津川市加茂町)
アー参加者を乗せた3台のバスが平城宮跡を後にして、次ぎに向かった先は恭仁京(くにのみやこ)の跡、いや正確に言い方をすれば山城国分寺跡である。聖武天皇が木津川のほとりに遷都したとされる恭仁京は、造営途中で中止となり、その廃墟跡は山城国分寺に転用されたため、現在は山城国分寺跡となっている。

道24号線を北上したバスは、木津川に架かる泉大橋を渡ると、三叉路の交差点「上狛4」を右折して府道163号線に入った。木津川の右岸を走ることおよそ4.2キロでバスは府道に架かる恭仁歩道橋の手前で停車した。山城国分寺跡は、そこから左手の集落の中に入った恭仁小学校の背後に位置している。

城国分寺跡の所在地は、以前は京都府相楽郡加茂町例幣(れいへい)だったが、今年の3月、相楽郡山城町・木津町・加茂町の3町が合併して新しく木津川市が発足した。そのため、現在は京都府木津川市加茂町例幣に変わっている。

史跡山城国分寺跡」の碑
山城国分寺の塔跡に建つ「史跡山城国分寺跡」の碑


原広嗣挙兵の情報は、天平12年(740)9月の3日、はやくも平城京にもたらされた。上述のように、朝廷はただちに大野東人を大将軍に、紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将軍に任じ、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7000人を動員する命令下した。

秋の収穫が終わった例幣地区
秋の収穫が終わった例幣地区
が、乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると言い出し、その年の10月29日、都を出てしまった。遙か西の辺境の地で起きた反乱に、聖武天皇は極度に恐れおののいたためと説明されているが、今ひとつ納得できない。

武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り、年の瀬も押し迫った12月15日、山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)まで戻ってきた。泉川(現木津川)を渡れば、その先はすぐに平城京だ。だが、天皇の車駕は泉川の北岸で立ち止まり、川を渡ることはなかった。

ぜ、聖武は泉川を渡らなかったのか。広嗣は10月に捉えられ、すでに11月1日に肥前国唐津で処刑されていた。反乱軍との戦いの様子は、東国巡幸中の聖武のもとに逐一報告されていたはずだ。それにもかかわらず、平城京への還都を逡巡したのであれば、別の要因を想定しなければならない。

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恭仁小学校の裏に建つ旧恭仁宮跡の碑
者の勝手な憶測では、聖武が恐れはじめていたのは、平城京を支配する藤原一族の隠然た勢力ではなかったかと思う。確かに藤原家の四兄弟は天平9年(737)に天然痘で相次いで死亡したため、藤原氏の影響力は一時減退した。だが、その子弟たちの勢力には侮れないものがあった。その例証は、天平10年(738)に基王の姉だった阿部内親王を史上初の女性皇太子に仕立て上げた事実だ。

武天皇と光明皇后の間には、神亀4年(727)には第一皇子・基王(もといおう)が生まれ、生後32日目で皇太子に立てられたが、翌年には病気で夭逝(ようせい)している。藤原一族にとって次期天皇も藤原の血を引く者でなければならなかった。しかし、聖武天皇と光明皇后の間にはついに次の男子が生まれなかった。そこで、あろうことか女性の阿部内親王(後の孝謙天皇)が史上初の女性皇太子に冊立された。その背後には藤原一族の強い意志と、その意志を代弁する光明皇后の働きがあったと見なければならない。

「恭仁宮大極殿址」の碑
横転したままの「恭仁宮大極殿址」の碑
は、天平10年の時点で、聖武天皇には11歳を迎えた第二皇子がいた。聖武と県犬養広刀自(あがたのいぬかいのすくねひろとじ)との間に生まれた安積親王(あさかしんのう)である。皇太子の基皇子が亡くなった年に生まれた運命の申し子のような皇子であるが、藤原一族のようなバックを持たななかった。そのため、それから6年後に親王は悲しい結末を迎えることになる(後述)。

原四兄弟の死で一躍朝廷の中心的地位に出世し、聖武天皇を補佐して国政に当たった人物は右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ、684-757)だが、彼も藤原氏の勢力を恐れたようだ。そもそも。藤原広嗣の乱そのものの原因が、唐から帰国した吉備真備と玄ムを重用する橘諸兄の専横に対する糾弾だった。

たがって、右大臣・橘諸兄も藤原勢力に強い危機感を抱いたことだろう。諸兄は恭仁京跡とされる現在の「山城国分寺跡」史跡公園から北西約5キロという至近の距離に、井手別業を持っていた。藤原一族に支配される王城の地を捨てて己の勢力圏に都を遷したいという思惑は、彼にあったはずである。おそらく、東国巡幸から戻ってきた聖武天皇に諸兄は遷都を強く進言したにちがいない。

跡公園がある瓶原(みかのはら)地区の周囲は、現在ものどかな田園風景が周囲に広がっている。この付近には、甕原離宮(みかのはらのとつみや)という離宮が奈良時代の初めには築かれていた。元明天皇は銅6年(713)6月の行幸を皮切りに何度もこの離宮に行幸している。聖武天皇も天平8年(736)と天平11年(739)にここを訪れている。

こで、橘諸兄は恭仁京遷都を進言し、その準備はかなり以前から着々と進められていたと思われる。『続日本紀』は天平12年(740)12月6日、橘諸兄が山背恭仁相楽(さがらか)郡恭郷を視察に遷都の準備をし、その9日後の12月15日に、聖武天皇は東国巡幸から戻り恭仁郷に入り、甕原離宮の近くに新京の建設することを宣言した、と伝えている。翌天平13年(741)正月には、恭仁で朝賀の式が行われ、伊勢大神宮および諸社に恭仁京遷都を報告したという。

城宮の第一次大極殿は、天平12年頃に恭仁宮に移建されたとされている。その時期が聖武天皇が東国巡幸に出かけた時期と重なるのであれば、天皇の巡幸と大極殿移設はリンクしていたことになる。つまり、大極殿の移転工事の時期に合わせて、聖武天皇は東国巡幸に旅立っていったことになる。九州で勃発した争乱を恐れてのことではなかろう。『続日本紀』には、天平15年12月に「平城の大極殿併せて歩廊を壊して恭仁宮に遷し造ること四年にしてようやく終わりぬ」と記す。事実であれば、大極殿の移転は天平11年末、すなわち藤原広嗣の乱以前から計画実行されていたことになる。

山城国分寺塔址
山城国分寺塔址
の突然の遷都宣言に国民の多くは驚いたであろう。一部の専門家の間には、遷都ではなく、中国の唐王朝に見習って、この地に副都を建設しようとしたのではないかとする説がある。長安城に対する副都・洛陽城は確かに洛河のほとりにある。木津川を洛河に見立てたのであろうか。だが、遷都宣言がなされた翌年の天平13年(741)8月、平城の二つに市(いちを恭仁京に移せという命令がだされている。市を移すということは、都城に住む住民にとっては死活問題である。聖武天皇の意図したのは、副都建設ではなく、あくまで遷都だった。

ころで、旧恭仁京跡とされている場所は、正確な言い方をすれば、恭仁宮(くにのみや)と呼ぶべきであろう。天皇の住む内裏(だいり)や、政治など国家の儀式が行われる大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、役人たちが仕事を行う官衙(かんが)など、国の中でも最も重要な施設が配置されていた場所である。恭仁京と呼ぶのであれば、藤原京・平城京・難波京などと同じく、一般の人々の居住空間を備えた都城でなければならない。だが、恭仁京の造営は都としては完成しないまま天平16年(743)の末には中止され、聖武天皇は紫香楽宮に遷っていく。

平18年(745)9月になって、恭仁宮の大極殿が国分寺に施入された。現在史跡として保存されているのは、その後に建立された山城国国分寺の礎石によって確認された遺構である。恭仁宮のものとされるものは何も残っていない。


葉人は恭仁京についても多くの歌を残していて、山内教諭が準備されたレジメにも14首が記載されている。その中の次の歌は、大伴家持が恭仁京にあって、平城の邸宅にいる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を偲んで詠んだ歌との詞書きが付いている。坂上大嬢とは家持の従妹で、のちに家持の正妻になっている女性である。

● 一重山 隔(へな)れるものを 月夜良み 門に出で立ち 妹か待つらむ (万葉集巻4-765)
【大意】山一つ隔てていて行けるはずもないのに、 いい月夜なのであの人は門の外に立って、 わたしの訪れを心待ちにしていることであろうか。

大伴家持は、天平15年8月16日にも次のような一首を詠んでいる。いかにも時の権力に阿(おもね)たような歌で、あまり好きになれない。

● 今(いま)造(つく)る 久迩(くに)の都は 山川(やまかは)の さやけき見れば うべ知らすらし (万葉集巻6-1037)
【大意】今度造営されている恭仁の都は、山や川の景色が澄明・清冽である。それを見ると、ここに都をお作りになるのも、まことにもっともなことである。



和束町にある安積親王(あさかしんのう)の墓  17歳で逝去した不運の聖武天皇第二皇子を埋葬した墓

茶畑に囲まれた安積親王の墓
茶畑に囲まれた安積親王の墓


安積親王の墓
安積親王の墓がある和束町周辺
仁京跡から紫香楽宮跡に向かうには、京都府相楽(そうらく)郡の和束(わづか)町を縦貫する木津紫香楽線を通る。和束町は和束川に沿った人口5000人足らずの山間の町だが、宇治煎茶の主産地として知られている。車窓から見上げる山肌には、手入れの行き届いた茶畑があちこちに点在していて、いかにも茶の町らしい。

束町役場の手前にある交差点から左手を見ると、裾野を茶畑に囲まれた小さな丘が見える。そこが、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんのう、728 - 744)を埋葬した墓である。

積親王は、神亀5年(728年) 聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた皇子である。この年の9月13日には、生まれたばかりで立太子の式をすませた皇太子の基皇子がなくなった。そのため、安積親王は、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補であるはずだった。しかし、藤原一族は天平10年(738)1月、光明皇后を母に持つ阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)を史上初の女性皇太子に押し上げている。

平15年(743)の秋から冬にかけての頃、恭仁京にある藤原八束(ふじわらのやつか)の邸にて宴が開かれた。16歳になった安積親王もこの宴に出席している。八束は先年天然痘で死去した藤原北家の房前の第3子である。聖武天皇の寵臣で、後に藤原真楯(ふじわらのまたて)を名乗っている。この時の宴には、当時親王の内舎人(うどねり)であった大伴家持も出席し、次の歌を詠んだ。

● ひさかたの 雨はふりしく 思ふ子が やどに今宵は 明してゆかむ    (万葉集巻6-1040)
【大意】雨が降りしきっている。今夜は思う子の家(あなたの家)で夜を明かして行こう。

の宴から数ヶ月もたたない天平16年(744)の閏1月11日、聖武天皇に従って難波宮に行幸する際、安積親王は途中の桜井頓宮で脚の病気の症状が悪化し、恭仁京に引き返した。そして2日後の閏1月13日、親王は17歳の若さで死去してしまった。遺骸は恭仁京の東北にあたる和束山に埋葬された。万葉集には2月3日と3月24日に家持が詠んだ挽歌6首(3-0475〜3-0480)に掲載されている。

時、恭仁宮留守官は藤原仲麻呂(なかまろ)だった。そのため、安積親王は仲麻呂か、その妻である藤原宇比良古(うひらこ)によって、毒殺されたという説がある。藤原氏との血縁関係を持たない安積親王は、その存在が反・藤原氏勢力にとって希望でもあったことを思えば、否定できない説である。



紫香楽宮跡・甲賀寺跡 大正13年に指定された「紫香楽宮址」は実は甲賀寺跡だった

「紫香楽宮址」の碑が建つ甲賀寺跡
「紫香楽宮址」の碑が建つ甲賀寺跡


紫香楽宮跡周辺地図
紫香楽宮跡周辺地図
跡紫香楽宮跡は、”信楽焼”で知られる滋賀県甲賀郡信楽町の黄瀬(きのせ)という地域にある。信楽町の「陶芸の森」で昼食休憩を取った後、一行を乗せたバスは午後1時10分に紫香楽宮跡に向かって出発した。信楽高原鉄道に平行して走る国道307号線を北北東におよそ4キロも行くと、植林されてまだ日の浅いヒノキの林が広がるなだらかな丘の前につく。林の入口には、「紫香楽宮址」と書かれた碑が建っていた。

のあたりに多くの礎石があることは古くから知られており、何かの遺跡であることは江戸時代から注目されていた。大正12年(1923)に黒板勝美が行なった踏査報告を受けて、翌年には「紫香楽宮址」として史蹟に仮指定され、大正15年(1926)には本指定を受けた。当時は、寺野という地名が近くに残っていたにもかかわらず、宮址と誤認されてしまったわけである。


甲賀寺の復元図
甲賀寺の復元図
の遺跡がはじめて発掘調査されたのは昭和5年(1930)1月になってからである。滋賀県保勝会の調査員だった肥後和男が中心になって調査を行なった。その結果、遺跡の西側は金堂と講堂を中心とし、東側は塔を配した、いわゆる東大寺様式に似た伽藍配置の寺跡であることが判明した。つまり、紫香楽宮の跡ではなく、聖武天皇が天平15年(743)に大仏造立の詔(みことのり)を発して建設を始め、大仏の支柱となる体骨柱を建てたとされる甲賀寺の跡だったのである。

が、お役所仕事の怠慢さで、いまだに史跡名は訂正されていない。史跡の入口には、相変わらず「紫香楽宮址」と大書された碑が聳えている。


金堂址に建つ神社 塔址
金堂址に建つ神社 塔址
講堂址  僧坊址
講堂址 僧坊址

は、実際の紫香楽宮は何処に築かれたのだろうか。実は、紫香楽宮は、甲賀寺の跡とされる史跡紫香楽宮跡から2kmほど北の宮町地域の田園の下にその遺構が眠っていた。その地域では、昭和44年(1969)から水田ほ場整備工事が行われてきたが、工事中に巨大な掘立柱の根っこが3本見つかった。昭和50年(1975)にその一本を年輪年代法で測定したところ、天平15年(743)頃に伐採されたことが判明した。

宮町地域
奈良時代に紫香楽宮が造営された宮町地域

の後、昭和55年(1980)から3年がかりで付近の遺跡の分布が調査され、史跡紫香楽宮跡以外に8カ所で奈良時代から平安時代の遺物が見つかった。地域名を取って宮町遺跡と名付けられたこの地は、昭和58年(1983)から信楽町教育委員会によって本格的な発掘調査が開始され、平成15年(2003)までに31次にわたる調査が行われた。そして、建物跡や塀、溝をはじめ、土器類、木製類、種子類、木簡などが多数発見され、この地に紫香楽の宮が存在したことは、ほぼ確実となった。


宮町の公民館
宮町の公民館。
紫香楽宮の大極殿はこのあたりにあった。
平年間は、災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依するようになった。天平12年(740)2月、聖武天皇は河内国大県郡智識寺(知識寺)に行幸し、盧舎那仏像を拝して、盧舎那仏の造顕を発願する動機となったことが知られる。翌年の天平13年(741)は恭仁京の造営が精力的に進められた年であるが、その年の2月14日、聖武天皇は有名な国分寺・国分尼寺建立の詔を発している。

平14年(742)2月、恭仁京から近江国の甲賀郡に通じる道路が完成した。この道路を経て、8月末から9月始めまでの1週間、聖武天皇は「紫香楽村」に行幸し、離宮の紫香楽宮を当地に造るべく「造離宮司」を任命した。天皇はよほど紫香楽に心惹かれたのか、その後もたびたびこの地に行幸している。天平15年(743)10月15日、紫香楽に4回目の行幸を行なうと、天皇は「大仏造顕の詔」を出した。その月の19日には、大仏を造るためために、寺地(甲賀寺)を開いている。

紫香楽宮の復元イメージ
紫香楽宮の復元イメージ
かし、恭仁京の造営にプラスして、紫香楽宮と甲賀寺の造営が重なり、大仏の鋳造まで予定されるとなれば、さすがの律令国家の財政もその巨大な出費には耐えられなくなった。天平15年(743)の末には、恭仁京の造営を停止し、紫香楽宮の造営に全力を集中するようになった。

平16年(744)になると、実に奇妙なことが起こった。その年の閏(うるう)1月、聖武天皇は恭仁京から難波宮に移り、2月には恭仁京にあった高御座(天皇の玉座)や内印(天皇の印)、外印(太政官の印)など、難波京が都として必要なものが次々と運びこまれた。しかし2月24日には、聖武天皇は紫香楽宮に行幸し、難波宮を皇都と定めている。11月13日、紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱が建てられ、天皇自ら縄を引いた.

の年の11月17日には元正太上天皇が難波宮から紫香楽宮へ移り、紫香楽宮を正式の宮とする条件が整った。そこで、翌天平17年(745)元旦に、紫香楽宮を「新京」と呼び、宮の門に大楯と槍が立てられ、紫香楽宮が皇都であることが天下に公示された。だが、紫香楽宮はまだ完成していない。

ころが、天平17年(745)の4月になると、紫香楽宮や甲賀寺の周辺の山で不審な火事が次々と起こった。紫香楽遷都に不満を持つものたちの放火だった。さらに、地震も発生して、人心が動揺した。そこで、政府は官人や僧侶たちにどこを都とすべきかを問うたところ、皆は平城京と答えたという。5月、聖武天皇はついに決心してまず恭仁京に移り、ついで平城宮に戻った。藤原広嗣の乱を契機に平城京を後にしてから、実に4年半ぶりの帰還だった。

葉集は、延暦2年(783)頃に大伴家持の手によって完成されたと言われている。山内教諭作成のレジメには、紫香楽宮に関係した万葉歌は記載されていない。聖武天皇は何回も紫香楽へ行幸しており、その都度多くの人々が扈従(こしょう)したはずだが、彼らにとっても歌に読み込むほど魅力ある土地ではなかったということか。



難波宮跡 聖武天皇の時代、わずか一年足らずの都だった後期難波宮

後期難波宮の大極殿跡
後期難波宮の大極殿跡

楽からは県道16号線で草津に出て、名神高速道路を利用して大阪に出た。予報通り天気は下り坂で、バスのフロントガラスにときどき雨粒が飛来した。大阪城公園の駐車場に到着したときは、すでに午後4時に近かった。

阪の発展の歴史をさかのぼれば、おそらく難波の堀江(現在の大川)の掘削に行き着くのだろう。『日本書紀』によれば、仁徳天皇の11年に「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた」と記されている。ただし、実際に掘削されたのは5世紀の前半頃と考えられている。

復元された高床倉庫
復元された高床倉庫
の難波の堀江の掘削によって、上町台地の北端は重要な海上交通の拠点となり、難波津が開かれた。朝鮮半島との交易物資や西日本各地からの中央に納められる物資を貯蔵する大がかりな倉庫群が、その後背地に築かれた。大阪歴史博物館の前には、茅葺きの巨大な高床倉庫が一棟復元されている。法円坂遺跡で見つかった5世紀の高床倉庫群のうちの一つだそうだ。

らに、聖徳太子の時代には、倉庫群だけでなく、百済館、高句麗館、新羅館など朝鮮三国の外交使節も建ち並んでいたようだ。645年の乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を倒した中大兄皇子たちは、飛鳥を離れこの難波に都を遷した。孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)である。だが、宮殿が完成したのは652になってからである。その3年後の655年には、斉明天皇が再び都を飛鳥に戻し、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)で即位した。

毎年難波宮跡で開催される四天王寺ワッソ
毎年難波宮跡で開催される四天王寺ワッソ
波長柄豊碕宮はその後も離宮として利用されたようだが、朱鳥元年(686)正月、宮は火災で焼失してしまった。神亀3年(726)、聖武天皇は藤原宇合を知造難波宮事に任命し、この地に礎石建ちで瓦葺き屋根の中国式宮殿の造営を命じた。どうやら、天皇はこの地に難波京を建設して、平城京の副都とすることを構想していたようだ。天平16年(744)閏1月1日、天皇は百官を招して、恭仁・難波二京のうちいずれを都とすべきかを問うている。恭仁京を推すものが圧倒的だったという。

かし、1月10日には聖武天皇は難波宮に行幸し、翌月には恭仁宮の御高座を難波宮に移し、難波宮を皇都と定めている。このように難波遷都を実施したのもつかの間、翌年の1月1日には、まだ完成していない紫香楽宮への遷都を宣言している。

暦3年(784)、桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都した。その際、難波宮にあった大極殿などの建物は長岡京に移築されてしまった。その後、難波宮跡は長い歴史の流れの中に埋没し、所在地すら分からなくなってしまった。聖武天皇時代の難波宮の大極殿跡が発見されたのは、昭和36年(1951)になってからである。大阪府出身の考古学者・山根徳太郎氏の地道な発掘調査によるものだった。その後、それよりも古い難波長柄豊碕宮の宮殿址も見つかった。現在は、難波長柄豊碕宮を前期難波宮、聖武天皇時代の難波宮を後期難波宮と呼んでいる。


最後の講義が行われた大極殿跡
最後の講義が行われた大極殿跡
にも雨が落ちてきそうな曇り空の下で、山内教諭の最後の講義は大極殿跡の壇上で行われた。難波宮造営のいきさつを聞きながら、聖武天皇の宮遷りに翻弄された国民の塗炭の苦しみを想像してみた。わずか5年の間に、平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京と都を変えている。

仁京にしろ、難波宮にしろ、あるいは紫香楽宮にしろ、いずれも新都造営である。多大な国費がつぎ込まれ、多数の人民が徴用されたことは容易に想像できる。加えて、大仏の建立が同時並行的に行われている。

天平」などという一見穏やかな世相を思わす年号とは裏腹に、一部の特権貴族階級をのぞけは、天平時代は実に悲惨な時代だったにちがいない。疫病の流行や地震などの天災に、無謀な新都造営が加わって多くの命が失われた。我々は小野老(おののおゆ)の平城讃歌(あをによしならのみやこはさくはなの にほふがごとくいまさかりなり)をそのまま額面通りに受けとってはならない。

内教諭作成のレジメには、難波宮に関係する万葉歌がいくつか引用されている。例えば、式部卿藤原宇合は次の歌を詠んでいる。

● 昔こそ、難波田舎(なにはゐなか)と 言はれけめ、今は都(みやこ)引き、都(みやこ)びにけり.  (万葉集巻3-312)
【大意】昔は、「難波は田舎」なんて言われたけれど、今は(難波の)都の造営をしているので、すっかり都会風になりましたよ。

また、神亀2年(725)10月の長柄宮行幸の際、聖武天皇に扈従(こしょう)した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が詠んだ長歌に対する反歌に次の一首がある。

● 荒野(あらの)らに 里はあれども 大君の 敷きます時は 都となりぬ       (万葉集巻6-929)
【大意】この里は荒野だけれど、天皇がおいでになると、立派な都となったことだ。



  2007/09/22作成 by pancho_de_ohsei
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