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| 平城宮跡に復元された朱雀門 |
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心の安寧を求めて始まった聖武天皇の彷徨の旅 − まず聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り恭仁京(山城国)に移った。その後も難波宮へ、さらには紫香楽宮へと遷都を繰り返すようになる。今回のバスツアーでは、こうした天皇の宮遷りの軌跡を追いながら、講師をつとめられる甲陽学院高等学校の山内英正教諭から、関係する万葉歌の話を聞くことになる。 【コース】 奈良駅前前→平城宮跡 → 恭仁宮跡 → 和束町・安積親王の墓 → 紫香楽宮跡・甲賀寺跡 → 難波宮跡 → 近鉄上本町駅
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平城宮跡: 実際は聖武天皇によって5年間も放棄された王城の地奈良の都・平城京 − 先行する藤原京から平城京への遷都の詔は和銅元年(708)に出され、実際の遷都が行われたのは3年後の和銅3年(710)とされている。その当時は、内裏や大極殿、朝堂院などは整備されていたであろうが、寺院や皇族・貴族あるいは役人たちの邸宅などは藤原京からの移設または新設途上であっただろう。
生まれながらに天皇になるべく運命づけられていた首皇子は、着々とその準備が外祖父・藤原不比等(ふじわらの・ふひと)とその一族によって進められていく。和銅7年(714)、彼が14歳になったとき、立太子式が行われ皇太子となる。しかし、霊亀元年(715)、元明天皇が健康上に理由で退位したとき、首皇子はまだ若すぎるとの理由で、皇位を継いだのは文武天皇の姉にあたる氷高内親王(即位して元正天皇)である。 幼くして父を失った首皇子は、考えようによっては不幸な人物だった。天皇になることを運命づけられながら、父の文武天皇から帝王学を学ぶことはなかった。平城宮の内裏では、藤原家に繋がる女性たちばかり囲まれてチヤホヤされ、わがまま一杯の日常生活を過ごしたにちがいない。そうした環境では、例えば天智天皇や天武天皇のような帝王としての剛毅な精神が養われようはずもない。
即位して聖武天皇となった年の11月、太政官が「京師は帝王の居られる所であって万国朝する所、是壮麗なるにあらざれば何をもって徳を表さん、・・・京師の五位已上庶人に至る迄その営に堪える者をして瓦屋を造立せしめ、赤白に塗らしめたい」と奏上するものがあった。天皇はこの奏上を許し、平城京は紅白で塗られた瓦舎で飾られることになったという。登極した時点で、すでに聖武天皇は精神を病んでいたと考えざるを得ない。 ●あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり(巻3−328) 大宰少貳(だざいしょうに)の小野老(おののおゆ)が詠んだ平城京讃歌である。だが、聖武天皇の治世は平穏な時代ではなかった。聖武天皇と言えば、大仏建立の事跡がとかく喧伝されがちだが、さまざまな天災や政情不安が彼の治世に起きている。例えば、即位した翌年には次々と起こる様々な天変地異に責任を感じて、聖武は3000人を出家せしめ、7日間の転経により災異を除かんとしている。不幸は我が身をも襲った。神亀4年(727)には安宿媛との間に晴れて第一皇子の基王(もといおう)を得た。その年のうちに皇太子としたが、翌神亀5年(728)9月にこの皇子を死亡させている。この月、流星が断散して宮中に落ちるという天変も起きている。 神亀6年(729)になると、2月に長屋王(ながやおう)の変が勃発した。左大臣長屋王の謀反が密告され、長屋王は自刃して果てた。長屋王を権勢の座から追い落とすために藤原氏が仕組んだ明らかな誣告だった。天平5年(732)の夏は干ばつが続いた。天平6年(734)の4月には大地震があった。天平7年(735)の8月には、大宰府管内で疫瘡が流行し、翌年は不作で、畿内ではその年の田租を免除している。
こうして次から次に起こる天災や政情不安は、中国の思想にかぶれた当時の人々には、天皇の不徳の致すところと理解されたにちがない。登極時点ですでに精神を病んでいた聖武自身、己の徳の無さを痛感し、国家の危機を救うために仏の助けに頼った。天平12年(740)の2月、河内国大県郡智識寺(知識寺)に行幸して盧舎那仏像を拝し、盧舎那仏造顕を発願したことはよく知られている。だが、その年の8月の終わりに藤原広嗣が兵を起こして反した(藤原広嗣の乱)。それがきっかけで聖武天皇の5年の長きにわたる流転の旅が始まる。
恭仁京に遷都するまで大極殿として使われた建物は、天平12年(740)に恭仁京に移築され、5年後に還都したとき別の目的の建物に変わっていた。そこで、新たにその東に別の大極殿を建築した。現在は、奈良時代前半に朱雀門の真北にあった大極殿を第一次大極殿、奈良時代後半に新たに建てた大極殿を第二次大極殿と、それぞれ区別して呼んでいる。
山内英正教諭の最初の講義は、太陽を遮るものが何一つない第二次大極殿跡の基壇の上で行われた。奈良の都にちなんでいくつかの歌が紹介されたが、その中で次ぎの2首が筆者の気を引いた。
●あをによし 奈良の大路は 行き良けど この山道は 行き悪(あ)しかりけり(巻15-3728)
この歌はいずれも、中臣朝臣宅守(やかもり)と聖武天皇に仕える女官・狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ)との間で交わされた63首の贈答歌の中の一首である。最初の歌は、罪を得て越前へ配流の途中で詠んだものと思われ、「奈良の大路は歩きやすいけれど、この山道は歩きずらいものだ」との感慨を歌にしている。狭野茅上娘子が詠んだ、 今日もかも・・・の歌は、宅守が流刑地の味真野で詠んだ歌であろう。昔を思い出して、「都にいるのだったら、貴女を見たく思って、今日もまた西の御馬屋の外に立っているものを」と、妻に会いたい心境を歌にしている。宅守が流された福井県越前市余川町には、「越前の里・味真野苑」がある。そこには相聞歌63首のうち代表的な15首が歌碑となって周囲に配されている。 |
恭仁宮 天平12年12月15日に着手され、天平16年12月26日に造営を停止した都
国道24号線を北上したバスは、木津川に架かる泉大橋を渡ると、三叉路の交差点「上狛4」を右折して府道163号線に入った。木津川の右岸を走ることおよそ4.2キロでバスは府道に架かる恭仁歩道橋の手前で停車した。山城国分寺跡は、そこから左手の集落の中に入った恭仁小学校の背後に位置している。 山城国分寺跡の所在地は、以前は京都府相楽郡加茂町例幣(れいへい)だったが、今年の3月、相楽郡山城町・木津町・加茂町の3町が合併して新しく木津川市が発足した。そのため、現在は京都府木津川市加茂町例幣に変わっている。
藤原広嗣挙兵の情報は、天平12年(740)9月の3日、はやくも平城京にもたらされた。上述のように、朝廷はただちに大野東人を大将軍に、紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将軍に任じ、東海道、東山道、山陰道、山陽道、南海道の五道の軍1万7000人を動員する命令下した。
聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り、年の瀬も押し迫った12月15日、山背国相楽(さがらか)郡の恭仁(くに)まで戻ってきた。泉川(現木津川)を渡れば、その先はすぐに平城京だ。だが、天皇の車駕は泉川の北岸で立ち止まり、川を渡ることはなかった。 なぜ、聖武は泉川を渡らなかったのか。広嗣は10月に捉えられ、すでに11月1日に肥前国唐津で処刑されていた。反乱軍との戦いの様子は、東国巡幸中の聖武のもとに逐一報告されていたはずだ。それにもかかわらず、平城京への還都を逡巡したのであれば、別の要因を想定しなければならない。
聖武天皇と光明皇后の間には、神亀4年(727)には第一皇子・基王(もといおう)が生まれ、生後32日目で皇太子に立てられたが、翌年には病気で夭逝(ようせい)している。藤原一族にとって次期天皇も藤原の血を引く者でなければならなかった。しかし、聖武天皇と光明皇后の間にはついに次の男子が生まれなかった。そこで、あろうことか女性の阿部内親王(後の孝謙天皇)が史上初の女性皇太子に冊立された。その背後には藤原一族の強い意志と、その意志を代弁する光明皇后の働きがあったと見なければならない。
藤原四兄弟の死で一躍朝廷の中心的地位に出世し、聖武天皇を補佐して国政に当たった人物は右大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ、684-757)だが、彼も藤原氏の勢力を恐れたようだ。そもそも。藤原広嗣の乱そのものの原因が、唐から帰国した吉備真備と玄ムを重用する橘諸兄の専横に対する糾弾だった。 したがって、右大臣・橘諸兄も藤原勢力に強い危機感を抱いたことだろう。諸兄は恭仁京跡とされる現在の「山城国分寺跡」史跡公園から北西約5キロという至近の距離に、井手別業を持っていた。藤原一族に支配される王城の地を捨てて己の勢力圏に都を遷したいという思惑は、彼にあったはずである。おそらく、東国巡幸から戻ってきた聖武天皇に諸兄は遷都を強く進言したにちがいない。 史跡公園がある瓶原(みかのはら)地区の周囲は、現在ものどかな田園風景が周囲に広がっている。この付近には、甕原離宮(みかのはらのとつみや)という離宮が奈良時代の初めには築かれていた。元明天皇は銅6年(713)6月の行幸を皮切りに何度もこの離宮に行幸している。聖武天皇も天平8年(736)と天平11年(739)にここを訪れている。 そこで、橘諸兄は恭仁京遷都を進言し、その準備はかなり以前から着々と進められていたと思われる。『続日本紀』は天平12年(740)12月6日、橘諸兄が山背恭仁相楽(さがらか)郡恭郷を視察に遷都の準備をし、その9日後の12月15日に、聖武天皇は東国巡幸から戻り恭仁郷に入り、甕原離宮の近くに新京の建設することを宣言した、と伝えている。翌天平13年(741)正月には、恭仁で朝賀の式が行われ、伊勢大神宮および諸社に恭仁京遷都を報告したという。 平城宮の第一次大極殿は、天平12年頃に恭仁宮に移建されたとされている。その時期が聖武天皇が東国巡幸に出かけた時期と重なるのであれば、天皇の巡幸と大極殿移設はリンクしていたことになる。つまり、大極殿の移転工事の時期に合わせて、聖武天皇は東国巡幸に旅立っていったことになる。九州で勃発した争乱を恐れてのことではなかろう。『続日本紀』には、天平15年12月に「平城の大極殿併せて歩廊を壊して恭仁宮に遷し造ること四年にしてようやく終わりぬ」と記す。事実であれば、大極殿の移転は天平11年末、すなわち藤原広嗣の乱以前から計画実行されていたことになる。
ところで、旧恭仁京跡とされている場所は、正確な言い方をすれば、恭仁宮(くにのみや)と呼ぶべきであろう。天皇の住む内裏(だいり)や、政治など国家の儀式が行われる大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、役人たちが仕事を行う官衙(かんが)など、国の中でも最も重要な施設が配置されていた場所である。恭仁京と呼ぶのであれば、藤原京・平城京・難波京などと同じく、一般の人々の居住空間を備えた都城でなければならない。だが、恭仁京の造営は都としては完成しないまま天平16年(743)の末には中止され、聖武天皇は紫香楽宮に遷っていく。 天平18年(745)9月になって、恭仁宮の大極殿が国分寺に施入された。現在史跡として保存されているのは、その後に建立された山城国国分寺の礎石によって確認された遺構である。恭仁宮のものとされるものは何も残っていない。 万葉人は恭仁京についても多くの歌を残していて、山内教諭が準備されたレジメにも14首が記載されている。その中の次の歌は、大伴家持が恭仁京にあって、平城の邸宅にいる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)を偲んで詠んだ歌との詞書きが付いている。坂上大嬢とは家持の従妹で、のちに家持の正妻になっている女性である。
● 一重山 隔(へな)れるものを 月夜良み 門に出で立ち 妹か待つらむ (万葉集巻4-765) 大伴家持は、天平15年8月16日にも次のような一首を詠んでいる。いかにも時の権力に阿(おもね)たような歌で、あまり好きになれない。
● 今(いま)造(つく)る 久迩(くに)の都は 山川(やまかは)の さやけき見れば うべ知らすらし (万葉集巻6-1037) |
和束町にある安積親王の墓 17歳で逝去した不運の聖武天皇第二皇子を埋葬した墓
和束町役場の手前にある交差点から左手を見ると、裾野を茶畑に囲まれた小さな丘が見える。そこが、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんのう、728 - 744)を埋葬した墓である。 安積親王は、神亀5年(728年) 聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた皇子である。この年の9月13日には、生まれたばかりで立太子の式をすませた皇太子の基皇子がなくなった。そのため、安積親王は、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補であるはずだった。しかし、藤原一族は天平10年(738)1月、光明皇后を母に持つ阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)を史上初の女性皇太子に押し上げている。 天平15年(743)の秋から冬にかけての頃、恭仁京にある藤原八束(ふじわらのやつか)の邸にて宴が開かれた。16歳になった安積親王もこの宴に出席している。八束は先年天然痘で死去した藤原北家の房前の第3子である。聖武天皇の寵臣で、後に藤原真楯(ふじわらのまたて)を名乗っている。この時の宴には、当時親王の内舎人(うどねり)であった大伴家持も出席し、次の歌を詠んだ。
● ひさかたの 雨はふりしく 思ふ子が やどに今宵は 明してゆかむ (万葉集巻6-1040) その宴から数ヶ月もたたない天平16年(744)の閏1月11日、聖武天皇に従って難波宮に行幸する際、安積親王は途中の桜井頓宮で脚の病気の症状が悪化し、恭仁京に引き返した。そして2日後の閏1月13日、親王は17歳の若さで死去してしまった。遺骸は恭仁京の東北にあたる和束山に埋葬された。万葉集には2月3日と3月24日に家持が詠んだ挽歌6首(3-0475〜3-0480)に掲載されている。 当時、恭仁宮留守官は藤原仲麻呂(なかまろ)だった。そのため、安積親王は仲麻呂か、その妻である藤原宇比良古(うひらこ)によって、毒殺されたという説がある。藤原氏との血縁関係を持たない安積親王は、その存在が反・藤原氏勢力にとって希望でもあったことを思えば、否定できない説である。 |
紫香楽宮跡・甲賀寺跡 大正13年に指定された「紫香楽宮址」は実は甲賀寺跡だった
このあたりに多くの礎石があることは古くから知られており、何かの遺跡であることは江戸時代から注目されていた。大正12年(1923)に黒板勝美が行なった踏査報告を受けて、翌年には「紫香楽宮址」として史蹟に仮指定され、大正15年(1926)には本指定を受けた。当時は、寺野という地名が近くに残っていたにもかかわらず、宮址と誤認されてしまったわけである。
だが、お役所仕事の怠慢さで、いまだに史跡名は訂正されていない。史跡の入口には、相変わらず「紫香楽宮址」と大書された碑が聳えている。
では、実際の紫香楽宮は何処に築かれたのだろうか。実は、紫香楽宮は、甲賀寺の跡とされる史跡紫香楽宮跡から2kmほど北の宮町地域の田園の下にその遺構が眠っていた。その地域では、昭和44年(1969)から水田ほ場整備工事が行われてきたが、工事中に巨大な掘立柱の根っこが3本見つかった。昭和50年(1975)にその一本を年輪年代法で測定したところ、天平15年(743)頃に伐採されたことが判明した。
その後、昭和55年(1980)から3年がかりで付近の遺跡の分布が調査され、史跡紫香楽宮跡以外に8カ所で奈良時代から平安時代の遺物が見つかった。地域名を取って宮町遺跡と名付けられたこの地は、昭和58年(1983)から信楽町教育委員会によって本格的な発掘調査が開始され、平成15年(2003)までに31次にわたる調査が行われた。そして、建物跡や塀、溝をはじめ、土器類、木製類、種子類、木簡などが多数発見され、この地に紫香楽の宮が存在したことは、ほぼ確実となった。
天平14年(742)2月、恭仁京から近江国の甲賀郡に通じる道路が完成した。この道路を経て、8月末から9月始めまでの1週間、聖武天皇は「紫香楽村」に行幸し、離宮の紫香楽宮を当地に造るべく「造離宮司」を任命した。天皇はよほど紫香楽に心惹かれたのか、その後もたびたびこの地に行幸している。天平15年(743)10月15日、紫香楽に4回目の行幸を行なうと、天皇は「大仏造顕の詔」を出した。その月の19日には、大仏を造るためために、寺地(甲賀寺)を開いている。
天平16年(744)になると、実に奇妙なことが起こった。その年の閏(うるう)1月、聖武天皇は恭仁京から難波宮に移り、2月には恭仁京にあった高御座(天皇の玉座)や内印(天皇の印)、外印(太政官の印)など、難波京が都として必要なものが次々と運びこまれた。しかし2月24日には、聖武天皇は紫香楽宮に行幸し、難波宮を皇都と定めている。11月13日、紫香楽の甲賀寺に大仏像の体骨柱が建てられ、天皇自ら縄を引いた. その年の11月17日には元正太上天皇が難波宮から紫香楽宮へ移り、紫香楽宮を正式の宮とする条件が整った。そこで、翌天平17年(745)元旦に、紫香楽宮を「新京」と呼び、宮の門に大楯と槍が立てられ、紫香楽宮が皇都であることが天下に公示された。だが、紫香楽宮はまだ完成していない。 ところが、天平17年(745)の4月になると、紫香楽宮や甲賀寺の周辺の山で不審な火事が次々と起こった。紫香楽遷都に不満を持つものたちの放火だった。さらに、地震も発生して、人心が動揺した。そこで、政府は官人や僧侶たちにどこを都とすべきかを問うたところ、皆は平城京と答えたという。5月、聖武天皇はついに決心してまず恭仁京に移り、ついで平城宮に戻った。藤原広嗣の乱を契機に平城京を後にしてから、実に4年半ぶりの帰還だった。 万葉集は、延暦2年(783)頃に大伴家持の手によって完成されたと言われている。山内教諭作成のレジメには、紫香楽宮に関係した万葉歌は記載されていない。聖武天皇は何回も紫香楽へ行幸しており、その都度多くの人々が扈従(こしょう)したはずだが、彼らにとっても歌に読み込むほど魅力ある土地ではなかったということか。 |
難波宮跡 聖武天皇の時代、わずか一年足らずの都だった後期難波宮
信楽からは県道16号線で草津に出て、名神高速道路を利用して大阪に出た。予報通り天気は下り坂で、バスのフロントガラスにときどき雨粒が飛来した。大阪城公園の駐車場に到着したときは、すでに午後4時に近かった。 大阪の発展の歴史をさかのぼれば、おそらく難波の堀江(現在の大川)の掘削に行き着くのだろう。『日本書紀』によれば、仁徳天皇の11年に「天皇は、洪水や高潮を防ぐため、難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた」と記されている。ただし、実際に掘削されたのは5世紀の前半頃と考えられている。
さらに、聖徳太子の時代には、倉庫群だけでなく、百済館、高句麗館、新羅館など朝鮮三国の外交使節も建ち並んでいたようだ。645年の乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を倒した中大兄皇子たちは、飛鳥を離れこの難波に都を遷した。孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)である。だが、宮殿が完成したのは652になってからである。その3年後の655年には、斉明天皇が再び都を飛鳥に戻し、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)で即位した。
しかし、1月10日には聖武天皇は難波宮に行幸し、翌月には恭仁宮の御高座を難波宮に移し、難波宮を皇都と定めている。このように難波遷都を実施したのもつかの間、翌年の1月1日には、まだ完成していない紫香楽宮への遷都を宣言している。 延暦3年(784)、桓武天皇は平城京から長岡京へ遷都した。その際、難波宮にあった大極殿などの建物は長岡京に移築されてしまった。その後、難波宮跡は長い歴史の流れの中に埋没し、所在地すら分からなくなってしまった。聖武天皇時代の難波宮の大極殿跡が発見されたのは、昭和36年(1951)になってからである。大阪府出身の考古学者・山根徳太郎氏の地道な発掘調査によるものだった。その後、それよりも古い難波長柄豊碕宮の宮殿址も見つかった。現在は、難波長柄豊碕宮を前期難波宮、聖武天皇時代の難波宮を後期難波宮と呼んでいる。
恭仁京にしろ、難波宮にしろ、あるいは紫香楽宮にしろ、いずれも新都造営である。多大な国費がつぎ込まれ、多数の人民が徴用されたことは容易に想像できる。加えて、大仏の建立が同時並行的に行われている。 「天平」などという一見穏やかな世相を思わす年号とは裏腹に、一部の特権貴族階級をのぞけは、天平時代は実に悲惨な時代だったにちがいない。疫病の流行や地震などの天災に、無謀な新都造営が加わって多くの命が失われた。我々は小野老(おののおゆ)の平城讃歌(あをによしならのみやこはさくはなの にほふがごとくいまさかりなり)をそのまま額面通りに受けとってはならない。 山内教諭作成のレジメには、難波宮に関係する万葉歌がいくつか引用されている。例えば、式部卿藤原宇合は次の歌を詠んでいる。
● 昔こそ、難波田舎(なにはゐなか)と 言はれけめ、今は都(みやこ)引き、都(みやこ)びにけり. (万葉集巻3-312) また、神亀2年(725)10月の長柄宮行幸の際、聖武天皇に扈従(こしょう)した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)が詠んだ長歌に対する反歌に次の一首がある。
● 荒野(あらの)らに 里はあれども 大君の 敷きます時は 都となりぬ (万葉集巻6-929) |